第114話 影のお仕事
レナード王国に存在する城塞都市フィナル、その北方に屹立する峻険な山々の名称をログスエラ山脈と言った。
強大な魔物が跋扈するその場所には、山脈よりそれほどの距離がないフィナルの者もおいそれとは近づくことはしないのだが、現在、その山に向かって歩く一人の少年がいた。
全身黒づくめの格好をしたその少年は、慣れた足取りで山の中を進んでいく。
非常に健脚なのか、その息づかいは全く乱れておらず、周囲にうごめく魔物の気配にも全くおびえが見えないその様子は見ようによっては無謀にしか見えなかった。
しかし、多少、腕に覚えのある者からすれば、彼のその態度はうちに宿る実力に裏打ちされた正しい自信であることを察知することだろう。
その身のこなしには一つとして隙が無く、たとえ暗殺者が彼を殺すべく狙いを定めても、容易に切り込める隙を見つけることは出来ないに違いない。
それもそのはずで、少年はアルカ聖国において諜報や暗殺など裏の仕事を司る組織の一員であり、その中でも十分に仕事に習熟したベテランの一人であるからだ。
その性質上、どんな存在からもその気配を隠すことも出来、またたとえ正面から戦ったとしてもそんじょそこらの戦士に負けたりするようなことも事実としてあり得ないことを少年はよく知っている。
たとえログスエラ山脈の強大な魔物たちが相手だとしても、気配を気取られなければ問題がないし、また仮にそのうちの何体かに気づかれようとも十分に倒しきることが出来る自信が少年にはあった。
そんな彼がなぜ、こんなところにいるかと言えば、それは仕事に他ならない。
もちろん、こんな地域にどこかの国の要人などいるはずがない以上、彼の最も得意とする暗殺の仕事ではないのは明らかだ。
では何のためにわざわざこんなところに来ているのか。
ログスエラ山脈は、多くの強大な魔物たちが跋扈する危険地帯であるが、それと同時に珍しい植物や生き物の宝庫であり、したがって非常に有用な素材が大量に存在している場所である。
そのため、冒険者たちがたまに分け入っては、必要なそれを採取することは少なくはなく、場合によっては不治と言われるような病を治す秘薬の材料を得たり、また特殊な魔法具の素材となるものを得ようと山脈を歩き回ることはなくはない。
ということは、少年の目的はそれなのか。
何かしらの素材を手に入れるため、この場所に分け入っているのか。
実際、そう考えて見てみれば、少年は歩きながら周囲の植物や木々に目をやり、めぼしいものを見つけると摘んだり、短剣で削るなどして、腰に下げた袋の中に突っ込んだりしているのが見て取れる。
やはり、その目的は素材採取か。
そう思ってしまう行動だが、結論するのはまだ早かった。
確かに少年は素材を集めているようだが、何か目的のものを探して集めているというよりかは、たまたま有用なものが目に入ったのでついでに採取している、という感じに近いようだからだ。
基本的に少年の足は鈍ることなく、山脈の奥の方へとまっすぐに向かっており、その足を止めることはないようである。
山脈も、上に登れば登るほど植物や動物の数は少なくなっていき、一部特殊なものを除いては採取も難しくなってくることを考えると、少年の目的は素材集めではないのかも知れない。
もしかしたら、山脈の山頂近くに存在する特殊な素材を集めに向かっているのかも知れないが、その目の光を見ればおそらくは違うだろうと誰もが考えることだろう。
黒いフードの隙間から覗く少年の瞳は、宝物のような高額な素材を欲している者の欲の込められたものというよりかは、強敵に臨む挑戦者のような凛々しいまなざしであり、また任務に準じる死兵のような強烈なものを感じさせる。
一歩一歩進むに連れ、その光は強くなっていき、少年はその口の端を持ち上げて楽しそうに笑みを浮かべた。
そう、少年は楽しいのだ。
そのことを少年自身も自覚したのか、独り言を述べて進んでいく。
「……聖女様。もうそろそろ着きそうです……」
それは彼の最も信頼し、崇拝する者の名前であり、それ以外に尽くすべき相手を持たない彼の、自らを鼓舞する最も強い言葉であった。
歩みは徐々に力強いものになっていき、そして山脈の木々は徐々に閑散としていき、荒い山肌が増えていく。
少年の進む先に待っているもの、それはログスエラ山脈の麓に住む者みなが恐れる強大な魔物の統率者。
古代竜ヴァーニルと呼ばれる、旧き竜の一柱だった。
◇◆◇◆◇
ログスエラ山脈山頂周辺は、ほとんど木々がなく、少年の膝ほどの丈もない草が閑散と生えているもので寂しいものだった。
そんな光景を彩っているのは薄い茶色の荒野じみた山肌の上にぽつりぽつりと白を晒すいくつもの影。
骨だけになった、巨大な魔物たちの亡骸だった。
それを見ながら少年はつぶやく。
「……ヴァーニルの餌というわけだ」
見れば、人の背丈など簡単に越える白骨たちの中に、いくつか性能の良さそうな鎧や武器が落ちており、その近くに砕かれた小さな骨が転がっているのも見える。
おそらくは、人の骨であろうと大腿骨あたりと思しき骨が砕かれずに残っているのを見て少年は考える。
頭蓋骨は見えない。
ことごとくがその頭を踏みつぶされるか何かして砂へと変わってしまったか……。
自分も早晩こうなってしまうのだろうかといやな想像をしつつ、冬に入りかけの秋頃のような枯れた空気を漂わせる山頂で僅かにかいた冷や汗を蒸発させる。
しかしそれでも、少年はヴァーニルに会う必要があった。
それが、彼の聖女に与えられた使命であるからだ。
たとえそれによって命を失ったとしても、それは決して不幸せなことではなく、使命に命を賭けて挑み、その命を散らせたものはいずれ必ず蘇ることが出来ると彼の信じる宗教は教えている。
だから、恐ろしくはない。
この体の奥から湧き出るような感情は、もうすぐ、自分に与えられた使命を全うできることに対する期待であって、人が相対するには明らかに分を越えた生命体を前にするおびえなどではないと自分に言い聞かせる。
ざくり、ざくり、と山肌に足をめり込ませながら、そんなことを考えて勇ましい瞳で進んでいると、とうとう、それは来た。
急に自分の頭上に僅かに気配があることに気づき顔を見上げれば、そこには遙か高空から少年に向かって垂直に降りてくる巨大な皮膜を広げた爬虫類の姿が見えた。
おそろしい速度で、一体どれほど高いところから自分を狙っていたのかと考えると身が震える思いがする。
気配も小さく、もし自分でなければ直前にあれがやってくるまで気づくことも出来ずにその命を散らしていただろう。
しかし、少年は違った。
その存在を確認すると同時に、即座にその場所を離れて距離をとり、次の瞬間に来るだろう強大な衝撃に備えた。
実際、それが突っ込んできて落ちてきたその場所には、ほんの刹那の間に爆音とともに大きな砂埃があがって、離れた少年の方まで砕けた岩の破片や風が吹き荒れてぶつかってくる。
ただの体当たりでここまでの衝撃を生み出す全生命体の中でも最強の呼び声名高いそれを前にして、少年は驚きを隠すことが出来ずに珍しく目を見開く。
しかし、すぐに心を切り替えたのは、彼の培ってきた職業意識のなせる業だった。
砂煙が晴れずとも、そこから次の攻撃が来るだろうことを考えて少年は足を止めずに周囲を走り回る。
すると、少年がいた場所めがけて、追いかけるように幾筋もの青い炎が放たれるのだ。
あれは息吹と呼ばれる特殊な魔術の一種であり、受ければ一瞬で焼き尽くされると言われる恐ろしい攻撃であることを少年は知っている。
当然、当たる訳には行かず、少年は必死で逃げまどう。
死ぬわけには行かない。
未だ使命を果たしていない以上は。
そう思って。
結果として、そんな少年の決意は、砂煙が晴れるその瞬間まで傷一つつけずに逃げ切ることを可能にした。
砂煙が晴れた向こう側にいたのは、巨大な黒竜である。
古代竜と呼ばれ、恐れられる強大な存在がそこにはいた。
艶のある美しく頑丈そうな鱗に、どんなものでも砕きそうなギラリとした鋭く尖った歯と爪、優美な曲線を描く、広げればその身の丈より大きいかも知れない皮膜。
その全てが、その存在が少年を遙かに越える生命体であることを教えていた。
普通ならば絶望しか感じないこの状況である。
しかし少年は口元をつり上げて笑い、楽しそうに黒竜を見る。
そして、驚くべきことに、足を黒竜の方に向けてまっすぐに走り出したのだ。
それはもはや勇気と言うよりかは完全に暴勇としか呼ぶしかない行動であった。
少年は確かに技量が優れており、中々に見ない使い手であるのは間違いない。
しかしながらそれでも、古代竜相手に真っ向勝負を挑めるような馬鹿げた力は持ってはいないのは明らかである。
それなのに、それを実際に行動に移す少年に、古代竜もその瞳に疑念の色を宿した。
もしや、何らかの隠し玉を持っているのかも知れないと考えたのかも知れない。
竜は、年を経るごとに理性を獲得していき、そして数百年と言う時を越えた竜は人を越える知恵を得ると言われている。
実際に竜と会話した者は伝説の中に数人いるくらいで、ここ何百年とそんなことを可能にした者はいないのだが、人語を解する竜がいるということは事実だと言われている。
さらに場合によっては人の操るような形で魔術を使うことも可能だと言われているが、これは確認した者がいないので分からない。
古代竜に近づくことは、それだけで命を捨てるような行いであり、どれだけ腕に覚えがあってもそれを実行しようとする者はいないからだ。
しかしながら、今ここにその黒竜と少年との戦いを見ている者がいれば、少年を見つめる黒竜の瞳の中に明確な知性の輝きを見つけたことだろう。
それはよく思案しているようであり、また目の前の矮小な存在が何をするのか見てやろうという侮りの視線のようでもあったのだから。
現実には、残念ながら少年は黒竜の期待の応えることは出来なかったようだが。
黒竜に向かっていった少年は、黒竜の爪の一撃を避け、またその直後に放たれた青炎の息吹も魔術でもって生命を維持するぎりぎりのところで防ぐことが出来た。
体は焼け焦げてこれ以上一歩も進めなさそうに思えるような状態になってはいたが、驚くべきことに少年はそのときまだしっかりと走れるくらいには動いていた。
もしかしたら、魔力で無理矢理動かしていたのかも知れないが、そうだとしてもそれは恐ろしいほどの集中力だったと言えるだろう。
しかし、結局はそれが限界だった。
少年は、次の瞬間、迫ってきた黒竜のあぎとを避けることが出来ずに、その上半身を口の中にいれられ、そのまま腰のあたりから食いちぎられてしまったのである。
少年の下半身はそのまま数秒その場に立っていたが、ログスエラ山脈の山頂に強く突風が吹いて地面に押し倒された。
黒竜はその様子を見、自分の口の中で未だうごめく生きのいい餌の終わりを理解する。
どうやらこれ以上この生き物に打つ手はなさそうだ、と。
実際、少年は黒竜の口の中でもがいていたが、これ以上何か黒竜に攻撃することが可能だとは考えていなかった。
しかし意識がもうろうとしつつ、自分の死を直前に感じながら、彼は自分の使命が未だ果たされていないことを理解して努力する。
少年は自分の胸元から何かを取り出すと、そこに僅かな魔力を込めて黒竜の喉の奥へと自分の身を引きずって入っていく。
自ら餌になりに行くような格好だが、ここまで入ってしまえばもはやいずれ消化されるのは当然の成り行きである。
毒を食らわば皿まで。
竜に食われるなら喉の奥まで。
という訳でもないだろうが、とくに躊躇することはなかった。
竜の息吹によって熱が上がる場所は、ここに来る前に幾度と無くその体のつくりを勉強したので知っている。
少年は竜の喉の中でも、重要な器官が集まっていて、決して熱せられることがないと言われる部位に自分の手に持った手のひらの半分くらいの大きさの円形の物体をそこに張り付けて呪文を唱える。
すると、一瞬どくり、とその物体が鼓動すると同時に、竜の体に向かって血管をのばしていき、そして完全に同化した。
それを見て少年は、
「……任務、完了……」
そう言って絶命したのだった。