第113話 聖女の暗躍
爆音が響く中、聖女は闘技場の通路を歩く。
人の気配はない。
観客たちは皆、ルルとイリスの戦いに夢中になっているからだろう。
「……確か、こちらでしたね」
そんなことをつぶやきながら、聖女は【関係者以外立入禁止】と表示された標識を一瞥して通り過ぎていく。
本来であればこれを越えて進めば警報がなるように魔術がかかっているはずのその場所であったが、なぜか聖女が進んでいっても何の反応も示さずに静まりかえっていた。
歩き続ける聖女の後ろに静かに近づく陰がある。
音も立てず、気配も希薄なそれは、ルルが見ればその格好に見覚えがあると、なんとしても捕まえると言って即座に魔術を向けることだろう。
その陰は、黒服を身にまとっていて、明らかにルルたちを手こずらせ、結局逃げおおせたあの集団の中の一人に間違いなかった。
個性が希薄なその少年はリュトンではないようで、しかも王都で暗躍して冒険者たちを連れ去った誰かが戻ってきたというわけではなく、そちらには参加せずに聖女の周辺で情報収集をしていた者だった。
「……しばらく進まれると、翡翠色の扉が見えます。そちらに古族たちと絶対障壁発生装置があると思われます」
その声に聖女は振り向きもせずに無表情に頷くと、ふと質問をした。
「セキュリティの方はどうなっているのでしょう。罠の類は確認しましたの?」
黒服の少年はその言葉にうなづき、自らの見てきたもの、察知したものを聖女に正確に告げる。
「いくつかございましたが、あらかた解除しております。残っているものは私の技能ではどうにも出来なかった古族独自のものでしたが……聖女様でしたら、おそらくは抜くことは容易いかと」
この会話を聞いている者がここにいれば、黒服少年の告げたその台詞の内容はお世辞であって、正しくはないだろうと評価したかも知れない。
それだけ、黒服少年の技量はずば抜けた者のように見えるし、聖女にそのような罠を抜ける力などとてもではないが、なさそうに思えるからだ。
けれど、黒服少年はこの言葉を紛れもなく本心から述べていた。
そのことを聖女もよく理解しており、黒服少年がどうしてそのように言ったのかを把握した静かに頷き、言った。
「……わかりました。では、貴方には人払いと監視をお願いいたしますわ。……気をつけてね」
最後に加えられた一言に黒服少年は少し頬を赤くしてから走り去る。
聖女は、そうやってその場を後にした少年の後ろ姿を眺め、そのまま少年の言っていた翡翠色の扉、というのを目指して歩き出した。
そうして、やっとたどり着いたその場所には確かに少年の言うとおり、翡翠色をした両開きの扉が鎮座していて、扉の遙か上部には聖女を見下ろすように巨大なあぎとを開いた竜のレリーフが彫られており迫力があった。
「中々に見事なものですわね……」
そう言いながら、聖女が扉に手を伸ばすと、ふと魔力の鳴動を感じた。
空気の中を波のように伝わってくるそれは、明らかに何らかの魔術の起動を告げるもので、何が起こったのかと聖女は周囲を見渡して観察する。
しかし何も起こった様子はなく、聖女が首を傾げていると、ふと頭に暖かな風を感じて上を見た。
するとそこには、
「……ぐる、ぐる……」
うなり声をあげて聖女を見下ろしながらうごめく竜の首があった。
こんなところにそんなものがいるはずがなく、これこそが今しがた感じた魔術の正体なのだろうと聖女はすぐに理解する。
そして改めて自分の頭の上辺りを観察してみれば、竜の首の付け根は聖女の目の前の扉に接着しており、先ほどみたレリーフが合った場所から延びているようだった。
「扉自体が、罠だった訳ですか……」
一般的に見れば、かなり危険と言わざるを得ない状態にありながらも、聖女は全くおびえずに冷静にそんな台詞を呟く。
何も武具など帯びていない彼女に、どうしてそんな余裕が生まれているのか全く理解できないが、しかし、どうやら彼女にはこんな自体を避ける手段があるのかもしれなかった。
「どうしたらいいのでしょうね……どうしたらいいと思いますか?」
のほほんとした様子で微笑みを浮かべ、聖女はぎろりと黄色い瞳を向ける魔術竜にそんな風に話しかけた。
当然のことだが、竜にその言葉を聞く度量など存在するはずがない。
言葉を向けられると同時に、いや、それよりも早く首を長くのばして聖女に向かって巨大な牙のギザギザと生えたその大きな口を開いて向かってきたのだった。
このまま避けなければ、聖女は次の瞬間には肉塊になることが目に見えている情景であった。
けれど聖女は避けようとせずに、微笑みをいささかも崩さずにその場に立っている。
そして竜のアギトが聖女の柔らかいだろうその体を噛みちぎろうと閉じた瞬間、それは起こった。
ばさり。
と、風を叩くような音が聞こえるとともに、閉じた竜の口の隙間から暖かで優しい白い光が漏れだしているのが見える。
そして、その光は徐々に強まっていき、魔術竜のあらゆる部分から刺すように吹き出してきているのだ。
光は優しげでいながら、恐ろしい威力を発揮する。
光の漏れている部分から、魔術竜の首は崩壊していき、そしてぼろぼろと地面に落ちて消滅していくのである。
まるで攻撃的に見えないからこそ、恐ろしいものだった。
魔術竜も何が起こっているのか理解できていないようすで、懸命に自分の存在を維持しようと聖女を食いちぎるべく口を動かすが、竜の首の崩壊を止めることは出来ないようだ。
しばらく経った後、そこに残っていたのは傷一つない聖女と、そしてレリーフがなくなり、無地になってしまった翡翠色の両開きの扉だけだ。
扉と壁が厚いため、ここで行われたことは向こう側には聞こえていないようで、古族が飛び出してくるようなことはないようである。
扉のすぐ向こうにも古族の気配は感じないことから、あけても問題ないことを確認して、聖女は扉を開いたのだった。
◇◆◇◆◇
扉の先には階段があり、地下へと続いていた。
そしてそれは闘技場ステージのちょうど真下にあたるような場所であるようで、どうやらそこから絶対障壁を張っているらしいと言うことが分かる。
古族たちもそうだが、大会運営の誰に尋ねても古族が結界をどこで張っているのかは口にはせず、ただ"闘技場の裏"としか言わないものだから、一体どこに絶対障壁発生装置が設置してあるのかを探るだけでもしばらく時間がかかってしまった。
つまり裏とは地下のことを指す隠語だったわけだが、それくらい気を使うのも当然のことだし仕方がないとも言える。
古族にとって、絶対障壁は外には出せぬ機密であり、今回は歴史上初めてとなる例外なのだ。
何が何でも人の目に触れさせずにおき、そして終わったらさっさと持ち帰るのが最も賢い隠匿方法なのだからそうるのは当たり前だ。
ただ、問題はどれだけ隠そうとしても、人の出入りを完全に隠すことは難しく、実際、数日の観察で古族たちが特定の場所によく出没していることも黒服少年たちの情報で分かったために、結果としてこの辺りに絶対障壁発生装置があることが判明した。
あとは、徐々に場所を狭めて探索していくだけの作業だった。
いくつかの隠匿魔術がかかっていたため、多少苦戦したのは事実だが、得られる結果と比べればその程度の苦労、何ほどのことでもない。
聖女はこれから得られるものの価値に微笑み、それから廊下をこつりこつりと歩いていく。
廊下はそれほど長くなく、いくつかの扉があって、そのどれかに古族が詰めていることは明らかだった。
感覚を広げて感知してみれば、どこにいるのかもよく分かる。
本来古族が張っていただろう隠匿魔術も、そのほとんどが黒服少年たちによりはずされていて無用の長物となり果てている今、聖女にとって古族たちの気配を探ることはさして難しい相談ではなかった。
しかも、その感知に引っかかったものたちの気配や動きに集中してみれば、その疲労困憊ぶりは聖女をしてもかわいそうになってくるほどで、辺りに注意を払える余裕など残っていないようだった。
だからこそ、このときを狙ってきた、とも言えるのだが、それにしても古族の中でもおそらくは精鋭を連れてきただろうに、ここまで疲れさせるとは絶対障壁発生装置とは管理のかなり難しい代物なのかも知れない。
アルカ聖国に持って帰っても、運用できない、などということにならなければいいが、と聖女は考え、ふと笑う。
未だ手に入れていないのに、それは捕らぬ狸の皮算用という奴であろうと。
しっかりと手に入れてから、そういうことは考えようと切り替えて、聖女は改めてこれからどうするかを思案した。
すると、扉の向こうに感じていたいくつもの古族の気配のうち、一つが動き出し、扉に手をかけたのを感じた。
聖女はどうすべきかと迷ったが、ここは逃げ出さずに近くの身を隠せる窪みに隠れて、気配を消して古族を観察しようと大胆にも考えた。
実行に移し、古族が扉を開けるのを待っていると、ぎぃぃ、と木造の扉がゆっくりと開いて、そこから若い古族這いだしてきた。
やはり、古族らしく、その造作は非常に整っていて、美しいことには間違いがないが、かわいそうなことにやはりかなり疲れているようで、その美しい顔には深く黒い隈が刻まれている。
寝不足、疲労困憊、そんな言葉が聖女の脳裏に走るが、そんなことを考えている場合ではない。
それよりも、聖女は古族がそんな状態にあることに喜びを覚えた。
なぜなら、そう言った限界にある者、判断力の鈍っている者には、精神系の魔術が効きやすい性質があるからだ。
本来、正常な者の精神を操ろうと魔術をかけても、既存の魔術ではほとんど効果はなく、操るなどということはほとんど出来ない。
しかし、精神力の低下した者は事情が異なる。
ことさらに衰弱した者には、そう言った魔術が非常に効きやすくなり、簡単な命令であれば指示を出すことも可能になる。
そしてさらに、そこに特殊な技術を活用すれば、ある程度複雑な指令もこなさせることが出来たりもする。
もちろん、そんな技術は裏家業の者しかふつうは持っていないもので、さらに言うなら一流どころの中でも、さらに限られたところにだけ一子相伝のような形で伝わっている特殊技術である場合がほとんどなのだが、聖女はなぜかそう言った技術について深い見識を持っていた。
聖女は服の間に手を突っ込むと、そこから何かを煎じて乾燥させたような粉末の包まれた薄紙を取り出し、そのまま近くにあった蝋燭の火で燃やして、こちらに歩いてこようとしている古族に向けて魔術でもって風で送ってやる。
「……ん?」
古族の若者は、一瞬何かに気がついたかのように首を傾げるが、しかしすぐに目をぼんやりとさせ、ふらふらと地面にへたり込んで座ってしまった。
立ち上がることが出来ないようで、しかも意識はかなりもうろうとしているようだ。
聖女はそれを確認して、窪みから体を出して古族の青年に近づく。
「……これは何本でしょうか?」
そう言って右手の人差し指を一本立ててへたりこむ古族に見せると、彼はろれつの回らない口で言った。
「ろっほん……? ご、ごほん……?」
その答えに満足したように聖女は微笑み、では、と口にして呪文を詠唱し始めた。
もしこのとき、絶対障壁発生装置の整備をしていた他の古族たちが万全の健康状態にあれば、すぐ近くで魔力が一瞬、不自然に集中したことに気づいたかも知れない。
けれど、そのとき誰もが限界に達していて、そのようなことに気づけるような余裕はどこにもなかったのだ。
詠唱が終わるとともに、聖女の指に紫色の光がゆらゆらと揺れて蝋燭の光のようにぼっ、と滴状の形になる。
それから、聖女がその炎を古族の若者の額に押しつけると、煙を立てて古族の肌にやけどのような跡をつけていく。
そして煙が収まると古族の額についていたはずのやけどの跡は跡形もなくなくなり、きれいな肌がそこにあるだけになった。
聖女はそんな古族の様子に満足すると微笑んで、その場を跡にして階段を登っていく。
しばらくして、その場所に気絶している古族が他の古族に発見され、たたき起こされるが、疲労が限界に達したために眠ってしまっただけだと理解され、そのまま彼は整備作業に戻った。