第112話 微睡
「……おいしい……」
素朴な茶色の髪が揺れ、瞳が驚きを表現して見開かれる。
聖女付きの女性神官ノンノは、初めて口にしたその味に心の底から驚き、感動すら覚えていた。
彼女の手には白磁のカップとソーサーが把持され、口元に何度も運ばれている。
カップを染めるその色は深い赤で、縁に近くなるにつれて黄金に輝いている色彩は良い茶葉と、そして良い注ぎ手が両方存在していなければ、実現できないものであることを彼女は知っていた。
聖女付きになるにあたって、お茶のことはよく勉強し、練習も重ねたためだ。
茶葉の選別や、食器の目利きなどは聖神教本庁がその資金と知識の蓄積でもってよく教えてくれたので、ノンノのお茶に関する技術は聖女が彼女に言ったように、贔屓目なしに見てもかなり優れている。
少なくとも、国賓に出したとしても失礼のない程度に修めているのは事実で、だからこそ、ノンノは自分を超える味を易々と出してきた聖女に驚いたのである。
そう。
今、ノンノは、聖女に与えられた特別観戦室のなかで、聖女が手ずから容れてくれたお茶を飲みながら、彼女と一緒に観戦していた。
自分が容れると言っても、たまには私にもいれさせてほしいと彼女は言って、流石にそこまで言われてはノンノも断れないと仕方なく頷いたのだ。
結果として出てきたのは、それこそこれは天上の味かと思うようなすばらしいお茶だった。
もし彼女が聖女でなかったとしても、これだけで食べていくことも出来るだろうと思ってしまうくらいに。
やはり天は一人に二物も三物も与えることがあるのだなと感慨深く思った。
「どうですか、ノンノ。私のいれたお茶は。貴女のいれたものよりも数段落ちる味と思いますが……捨てたものではないでしょう?」
絹のような黄金の髪をしゃらりと流しながら首を傾げてそう尋ねる聖女はいつもと変わらず美しく、癒されるような微笑みを放ってノンノを気遣ってくれている。
この視線が向けられるだけで、男性であれば恋に落ちてもおかしくなく、実際、聖女を目にした男たちはそのほとんどが彼女を愛するようになってしまう。
さらに、女性であっても性別の壁を超えて、そういう目で聖女を見てしまうものまでいる始末で、罪な人とは彼女のようなことを言うのだなとノンノはたまに思う。
聖女が実際に、罪な人、などということは当然無く、そう言葉にするのは大変失礼なことなので口には出さないが、想像を絶するほど美しい人というのも大変なのだなとたまに思う。
ノンノは自らも恋に落ちないように心をしっかりと持ちながら、聖女を見つめて頷き、答える。
「とんでもないことです。私のいれたものよりも、ずっと、ずっと美味しくて……聖女様がこれほどお茶をいれるのがお上手だとは、思いもよりませんでした」
そんなノンノの答えに、聖女は嬉しそうに微笑んだ。
そして、その微笑みがノンノの予想とは異なり、あまりにも嬉しそうだったのでノンノは少し驚いた。
いつも微笑みを絶やさない聖女であるが、そのいつもとは性質の違う微笑みだと感じたからだ。
だから、ノンノはふと尋ねる。
「……なんだか、そんな風に聖女様が笑われるのをはじめて見ました」
すると聖女はその微笑みのまま首を傾げ、
「……今の私の表情は、一体どのように見えるのですか?」
と尋ねてきたので、ノンノは思ったことを告げる。
「そうですね……こう申し上げるのは失礼かも知れませんが、いつもよりもずっと嬉しそうで……孤児院の子供たちが森や街で宝物を見つけてきたときに浮かべる表情に、少し、似ています。……あ、あの、もちろん、聖女様と子供たちとでは身分が違いますので、似ていると言っても出自が、ということではありません……」
途中からノンノは、大変失礼なことを聖女に言ってしまったかもと考えて、謝り始めた。
こともあろうに、聖神教でも高位の地位に就かれている聖女に向かって、孤児院の子供たちと同じだ、と取れるような言葉を放つことは普通に考えれば許されないことだろう。
彼女はとても徳が高く、ノンノや孤児院の子供たちとは文字通り身分が違うのだ。
今ここにノンノがいれるのは、ただ聖女の気まぐれと優しさの賜物であって、自分が彼女と同じ位置にいるなどとは決して考えてはいけないのだ。
だから、ノンノは謝った。
けれど、聖女はそんなことなど気にもとめていない、という風に、いや、むしろ大変よろこばしいことを言ってもらった、というような顔をして言うのだ。
「……ノンノ。いたずらに自分や、孤児院の子たちを卑下するような言葉を使うべきではありませんよ。私は、彼らと似ている表情を浮かべていると言われて、むしろとても嬉しく思いました。無邪気で、素直で、優しい彼らに似ているなんて……年を取るに連れ、失われていくそれらの純粋さを、未だに私は持てていると言われているような気がして、幸せな気分になったくらいです。ですから、謝罪は撤回なさい」
それは非常に驚くべき台詞であり、また逆に、聖女がこう言った言葉を言うのは全くおかしくはないともノンノは思った。
彼女は優しく、素直で、平等で、かつ純粋な人なのだと改めて知ったノンノは、彼女の寛大な言葉に感謝を述べ、聖女の言うとおり、自らと子供たちを卑下することを止め、謝罪を撤回したのだった。
それから聖女は頷き、観戦室の外、闘技場ステージで行われている戦いに目を移した。
人が傷つく姿を見るのはそれほど好きではないと常々言っている聖女ではあるが、闘技大会は殺し合いというわけではないし、優勝という頂点を争って切磋琢磨し合っているものであるから嫌いではないらしい。
それなりに真剣に見ていて、聖女の意外な一面を見たような気がしてノンノは少し嬉しくなる。
自分しか知らない聖女、というのがだんだんと増えていくようなそんな気がして。
聖女はルルとイリスの戦いを見ながらノンノに言った。
「ノンノは、どちらが勝つと思いますか?」
「……やはり、ルル選手の方ではないでしょうか。今も押しているのはルル選手ですし……」
イリス選手は少しばかり分が悪そうなのは素人のノンノの目から見ても明らかで、このまま試合が進むならばやはりルル選手が勝利しそうなのは間違いない。
とは言え、闘技大会の様々な場面で勝敗を分けてきたのが必ずしも純粋な実力だけではなかったことから、イリス選手に何か隠し玉があるのならそれが覆る可能性も否定できなかった。
聖女はそんなノンノの言葉に頷き、言った。
「私もそう思います……しかし、出来ることならイリス選手の勝つ姿を見てみたいですわ」
その言葉を不思議に思ったノンノが首を傾げて理由を尋ねると聖女は答える。
「だって、女性が闘技大会で優勝するのはかなり珍しいことですから。やはり、戦い、というものは男性の方が強いものだという感覚がありますし……実際、名の通った使い手は男性が多いです。けれど、そこに女性の名前が増えていけば、女性も夢を持てるのではないか、と思うのです。様々なお仕事で、女性が出来ない、参入しにくいものが存在していますが……そういうものに、女性も入っていけるような社会が出来れば、きっとより、人々は幸せになるのではないかと……」
確かに、聖女の言うとおり、女性の社会進出というのはあまり進んでいない。
例外的に女性ばかりが高い地位を占める国家、というのもいくつかないではないが、世界的にはあらゆる分野において男性が世の中を支配していると言ってもいいような状況がある。
ノンノも神官をやっているが、神官もまた、男性の方が多く、8割方がそうである。
女性は子供を産むし、家庭に入ることそれ自体は悪くないのだが、かといって女性であるということだけが理由で出世できないとか、女には出来ない仕事だと頭ごなしに言われると悲しくなるものだ。
だからそういう世の中が変わってくれればいいなとは漠然と考えたこともあった。
聖女はそういうところも変えていこうとしているらしいことを知り、ノンノは驚き、そしてそういう理由でイリスを応援しているとは思わなかったので意外に思った。
「てっきり、ルル選手を応援されるものと思ってましたが」
そういったノンノに、聖女は微笑んで言う。
「あら、私はルル選手も応援していますわ……ただ、イリス選手が勝っても面白いのではないか、と思ったのです……」
つまり、どちらが勝っても聖女は楽しい、ということなのだろうか。
それは闘技大会の楽しみ方として正しいもので、そういう姿勢もあるのだなとノンノは思った。
賭けでもしていればどちらかに入れ込むこともあるだろうが、ノンノも聖女も賭事はしない。
教義で禁じられているというわけではないのだが、ノンノは浅ましい気分になってしまいそうな気がするので避けたのだ。
聖女がやらない理由はわからないが……。
そこまで考えて、ノンノは改めて紅茶を口に運ぶ。
そして、ふと瞼が重くなってきていることに気づいた。
昨夜は夜更かしした覚えなどないのだが、疲れがたまっていたのかも知れない。
このままでは眠ってしまうと危機感を覚えて、あわてて目を見開いて眠気に勝利すべく意思の力でもって抗戦した。
しかしそんなノンノの様子など、聖女には丸わかりだったのだろう。
瞼を重く、船をこいでいるノンノを見て聖女はふっと微笑むと、
「ノンノ。眠いなら眠っても良いのですよ? ……ほら」
そう言って、聖女は自分の膝を叩いてここに横になるようにと示した。
そんなことは恐れ多いを通り越して不敬以外のなにものでもないと瞬間的に思ったのだが、眠気は強くノンノに働きかけてその正常な判断力を奪っていく。
聖女の膝が徐々に近づいていき、ぽふり、と自分の頭が聖女の太股の上にゆっくりと乗っかったのを理解しながら、ノンノはそこからどこうとは全く思えなかった。
柔らかい感触に、心が癒されるふわりとした香りが、聖女の手がノンノの髪を優しく撫で……そして、ノンノの意識は完全に落ちたのだった。
◇◆◇◆◇
「やっと眠りましたか……」
膝の上で吐息を立てて眠るノンノを見ながら、聖女は張り付いたような微笑みを浮かべてそんな風に呟いた。
それから、聖女は観戦室の窓の外を見て、ステージ上の戦いを眺める。
絶大な魔力のぶつかり合いが、ここにいてもひしひし伝わってきて、すさまじいとしか言いようのない戦いである。
まさかこの国にこれほどの使い手が存在しているとは思いもよらなかった聖女であるが、しかし彼女にはそんなことはどうでもよかった。
聖女にとって重要なのは、ルルとイリスの戦いで巻き起こっている紫電と赤炎が及ぼす古族の絶対障壁への影響だった。
今、かつてないほどその結界は大きな負担がかかっているようで、この決勝以前には見られなかった現象をそこに確認することができる。
観客席とステージとの間にドーム状に形成されている絶対障壁、それは今までずっと微動だにせずそこに存在していた。
崩壊したときですら、その位置を動かしたことはなかった。
けれど今、絶対障壁はルルとイリスの魔力の発散に合わせて、膨張したり収縮したりを繰り返している。
それがなぜ起こっているのか理屈は判然としないが、原因は火を見るより明らかである。
ルルとイリスの力に耐えられずに、もしくはああしないと耐えることができないから、そのようになっているのだと。
このままいけば、絶対障壁の崩壊は目に見えて明らかであり、古族の誇る最高の技術がたった二人の戦士の力の前に敗れ去る瞬間はすぐそこにあった。
実のところ、聖女は、そのときを楽しみに待っていた。
あの結界を張る技術は、たとえルルとイリスに破られてもその価値はいささかも衰えないだろう。
聖女は古族のその技術が、今回この闘技大会に持ってくるにあたってかなり簡易なものにされていることを知っており、それがため、その強度に少しばかり不安があったという情報を得ていた。
それはもちろん、黒服の少年たち、それに聖神教本庁の情報網によるもので、確かな話であり、だからこそ、ここで古族の絶対障壁が崩壊したことについてあまり気にしてはいなかった。
大事なのは、その技術の基礎技術を手に入れることであり、その後にはいくらでも改良の余地がある。
簡易なものであっても、基幹技術がそこに含まれていることは間違いないのだから、絶対障壁の発生装置さえ手に入れば彼女の目的は達成できるのだ。
そして、そのための最大のチャンスが、この決勝なのだということを彼女は理解していた。
古族にかかっている負担が並大抵でないこともまた、聖女は知っていた。
そのために、かなり体に限界が来ているだろうことも。
今、彼らは結界を張ることに心血を注いでおり、そのセキュリティにはあまり気を払えていない。
だからこそ、聖女は今がそのときであると考え、ノンノの頭をゆっくりと自分の膝から部屋においてあったクッションの上に置き換えて、立ち上がった。
「……行ってきますわ、ノンノ。少しばかり眠っていてね」
ノンノを一瞥し、そう呟いてから聖女は観戦室を後にする。
部屋の中には何も知らないノンノの寝息だけが寂しく響いていた。