第111話 乱舞する精霊
精霊のぶつかり合いが始まった。
氷と水の精霊たちが、空中を駆ける優美な精霊たちを追いかけては水を踊らせ、吹雪を吹かせて翻弄する。
また反対に空の支配者を象るイリスの呼び出した精霊たちは、ルルの氷と水の精たちめがけて炎を放ち、雷を流して対抗し、お互い一歩たりとも譲らない様相を呈した。
その様はまさに嵐が吹き荒れているかのような激しさであり、観客たちは絶対障壁が自分たちを守ってくれていることに心の底から感謝する。
もし絶対障壁の内側に一歩でも入り込めば、おそらくは影も形もなく一瞬で消滅されられることが火を見るよりも明らかだからだ。
そして、それでも、少しばかりの不安を観客たちは拭えない。
絶対障壁は、一体自分たちを最後まで守ってくれるのだろうか。
この大会が始まる前までは、古族の絶対障壁と言えば、歴史上、誰も打ち破ることが叶わなかったと言われる真実、絶対の壁であったはずだ。
なのに、現実はどうだろう。
ウヴェズドの息吹に一瞬とは言え罅を入れられ、またルルとグランの戦いにおいては崩壊を余儀なくされている。
そんなものが、果たしてこの想像を絶する戦いを超えて自分たちを守りきってくれると信じることが出来るのだろうかと。
しかし、その疑問に答えられる者はこの場にいない。
古族の技術は門外不出。
古族でなければ分からないし、また一度、結界が崩壊した後、古族たちが闘技場内を歩き回るところ目撃した者はないのである。
かろうじて、ロットス長老が歩いているところを見た者はいるのだが、結界崩壊前には何度か目にしたはずの闘技大会を楽しげに見物する古族の技術者たちらしき者は誰も見ていないのだ。
まさか、自分たちの技術では闘技大会を安全に行いきることが出来ないと逃げ出したか、と一瞬考えたくならないでもないその事実だが、実際には絶対障壁は張られているし、そうである以上、逃げ出したなどと言うことがあるはずがないことは分かっている。
では一体なぜ、と観客たちは首を傾げている。
実際のところは、絶対障壁発生装置に様々な問題が発生したため、闘技大会見物を優雅に行う余裕を完全に失い、ほんの数時間の仮眠をとれるかとれないかのところで、ぶっ続けで装置の調整と修理を全員で行い続けているだけのことなのだが、そんな悪夢のような労働環境に古族がさらされているとはさすがの観客たちも考えない。
古族といえば、その容姿の美しいことは他の種族と比べるべくもなく、常に落ち着いて賢くある様は森の賢者であるとまで称される、高貴さが形を取っているような種族なのだ。
まさかそんな者たちが、汚れと油にまみれて手を傷だらけにしながら不眠不休に近い形で労働し続けているとは、考えられるはずがない。
真実を知るロットス、それに国王とその周辺だけが、彼らのその奮戦に心の中で称賛を送り、そしてこの試合の中でも結界が壊れないことを彼らのためにも祈っていたのだった。
しかし、そんな祈りもむなしく、ルルとイリスの魔術は、精霊たちは絶対障壁の内側を縦横無尽に駆けめぐり、さらに紫電と赤炎を迸らせて大きな負担をかけている様が見て取れる。
絶対障壁の外側を蛇のように這う紫色の雷は、結界の内部に押さえ切れぬほど大きな魔力が充満しているときに見られる現象である。
たった二人の者が、個人の力でそれほどの魔力を発することなど想定していないため、古族たちにもこれを放置した場合にどんなことが起こるのかは想定できない。
そんな現象だ。
しかし、そんなことなど気にも止めないルルとイリスは、さらに激しく精霊たちを踊らせ、絶対障壁を磨耗させていく。
「……そろそろ疲れてきたんじゃないか?」
ルルが挑発するようにイリスにそう言うと、彼女は少し笑って、
「まだ、まだですわ!」
と言って精霊の勢いをさらに増させる。
イリスの精霊たちが放つ力は大きくなっていき、ルルの精霊たちを押し始める。
ルルはそれを確認すると、精霊たちのせめぎ合いを無視して地面を蹴り、イリスに向かって走り出した。
その手にはいつの間にか腰から抜いた片手剣が握られていて、魔力を込められて強化されていることが分かる。
精霊の制御に集中しているイリスに直接攻撃を加えようと言う魂胆なのだろう。
ただ、イリスは古代魔族だ。
その反射神経は人族とは比べものにならず、当然、ルルが向かってきたことにもすぐに気づいて対応すべく体を動かす。
まず足を動かして容易に捕捉されないようにステージを縦横無尽に動き、また精霊たちを動かしてルルの進路を遮っていく。
それをルルはイリスが以前、ユーミスの戦いで見せた小型の結界を空中に作る技法を再現して、紙一重で避けながら少しずつ距離を詰めていった。
ルルの恐ろしいところは、そうやってイリスに向かって一直線に襲いかかろうとまっすぐに彼女を見つめて突っ込んできているにも関わらず、精霊たちの制御を一切誤らないという点にある。
イリスは精霊の制御に多くの意識を割いており、それがためにルルが接近戦を挑んできた場合に対応に苦慮するだろうと考えていた。
だからこその逃げの姿勢であり、距離をとりつつ、ルルの精霊を一つずつ潰していき、数の優位に立った時点で一挙に責め立てようと考えていたのだが、この様子では、それもかなり難しそうであった。
魔術の制御ではルルには勝てない、ということは始めから分かっていたことであるので、こうなることも精霊を出したときに何となく予測はしていたが、実際にそうなってみると悔しさが心の奥から湧き出てくる。
やはり、自分はまだまだだと、悟らざるを得ないからだ。
この状況において、イリスは全力に近いが、ルルは未だに余力を持っているということもその感情に拍車をかけた。
けれど、だからこそ冷静になろうとイリスは頭を切り替える。
ルルは全力を出していない。
しかしそれは、全力を出す気がない、というわけではなく、全力を出すことは絶対に出来ないからに過ぎないと言うことをイリスは理解していた。
昔ならともかく、現在のルルの体で出来る最大の攻撃方法は何かと聞かれたら、それは膨大な魔力に飽かせて放つ大規模魔術に他ならない。
身体能力は人族のものになっているルル。
しかしその魔力は、魔王時代と比べていささかも衰えていないことを、一緒に住んで常にその体内の魔力を最も近くで感じているイリスにははっきりと分かっていることだ。
だから、ルルがイリスに確実に勝とうとしたとき、最も単純なのは、周囲の被害を一切考えずに、大規模魔術を放つこと。
それだけのことで、イリスは一瞬で敗北してしまうことだろう。
けれど、ここには観客がいて、ルルのそんな魔術を受け止められるような強度を持たない、魔王からすれば貧弱としか言いようのない結界しかないのだ。
そんな状況でルルが大規模魔術など放つはずが無く、ということはイリスはそういう方法による敗北を考えなくても良いと言うことになる。
結界を壊すぎりぎりの魔術くらいは放つかもしれないが、それ以上のものは使っては来ないだろう。
そうであれば、少なくともイリスはたとえ直撃を受けても耐えきれる自信があった。
だから、イリスに勝つ可能性がないわけではないのだ。
そもそもルルの体は人族のものなのだから、肉体の強度には限界がある。
イリスが、本気でその拳をたたき込めば、魔力で強化されている状態であっても気絶まではもっていけるだろうということは実のところはっきりしている。
以前、ルルが実験と称して、自分の体の強度の限界というものを試したことがあったからだ。
ルルが魔力を注いで強化した肉体に、イリスがその拳をたたき込む、という物騒な実験である。
徐々にお互いに強度を高めていき、そして限界になったらルルがストップをかける、というものだ。
実際、その実験においてルルはかなり耐えた。
こんな人族があの時代にいれば、まず間違いなく英雄と呼ばれていただろうと言えるくらいに、身体強化されたルルの体は頑丈であり、イリスの魔力を込めた拳の攻撃にも傷一つつけずに耐えた。
けれど、それでも限界はあったらしい。
イリスが渾身の力を込めた一撃を、ルルは耐えきれずに気絶したことが、この七年間で何度かあったのだ。
様々な条件下で行ったことだから、常に気絶するというわけではなく、弱っているときや傷ついているとき、魔力の通し方に問題があったり、イリスの打ち込みが非常にうまくいったときなど、様々な条件が一致したときにだけ、ルルは目算を誤って気絶した。
そのたびに、イリスは気絶したルルをお姫様だっこして家に連れ帰り、看病して、幸せな気分を味わったものだが、それは置いておき。
つまり、イリスにも十分、ルルを倒すことは可能なことははっきりとしているのだ。
そのためには色々な仕込みがうまくいかなければならないが、それでも不可能ではないと言うことは、イリスを勇気づける。
ルルとしては、イリスの力を見てやろうというくらいの気持ちでいるかもしれないが、イリスは本気で勝つつもりで挑んでいた。
わざわざルルには叶わないと分かり切っている魔術戦を展開しているのも、そのための布石に過ぎない。
もちろん、一番はこのまま魔術でも押し切って倒してしまうことだが、それはほぼ確実に不可能だと分かっていたので、あくまで出来れば、の話でしかなかった。
イリスはむしろルルが近づいてきて、接近戦を挑んでくるところまで考えていて、その予測は図に当たったらしい。
ルルが徐々に距離を詰めてくるのを目の端で捉えながら、イリスは接近戦を行うために自らの体に流している魔力を増加させ、その身体能力を限界まで使えるようにする。
「……さぁ、イリス。ここからだ。お前の得意分野に合わせてやったぞ?」
楽しそうに目の前に立ったルルに、イリスは冷や汗を流しながらも武者震いに震える。
魔王に挑む英雄の高揚が理解できるような気がした。
ルルはあくまでも楽しそうで、屈託のない微笑みを浮かべているからだ。
まさか、最後のあのときすらもこんな表情で戦っていたわけではないだろうが、きっと勇者と戦っていたときですら、そこに楽しさを見い出していたのだろうとイリスは考える。
魔王は、ルルは、そういう人なのだと、実際にこうやって真剣に戦ってみて初めて心から理解できた。
そしてふと疑問を覚える。
では、勇者は。
勇者はどうだったのだろうか、と。
戦えば、人は相手の気持ちが理解できるものだ。
細かな心の動きはともかく、その心根、芯となっている性格ははっきりと剣筋に、また拳に、魔術の構成に出てくるからだ。
ルルと、魔王ルルスリア=ノルドと戦って、その性格を勇者は知ったのだろうか。
だからこそ、ルルと会話をして、わざわざ教会と袂を分かつことになったのだろうか。
そうかもしれない。
そして、イリスは思った。
だとすれば、あれはやはり避けられない戦いだったのだろうと。
他人と分かり合うのは難しく、それはルルとイリスのように一緒に七年間も住んでいてもそうなのだ。
本質からして異なる多種族同士で、分かり合うのが困難なことも当然の話で、だからこそ、あの戦いは避けられなかった。
けれど戦う中で、お互いを知れた部分は、確かにあった。
その最たるものが、ルルと勇者で……。
だからこそ、今のこの時代の平和な空気につながっているのかも知れないと、ふとイリスは思ったのだった。
それから、イリスはルルに言う。
「その選択を、後悔されないことを願いますわ……お義兄さま、胸をお借りします」
その瞬間のイリスの加速を、ルルは目を見開いて見つめた。
少し油断しすぎた様だとすぐに頭を切り替えて剣をしかるべき場所に構える。
すると案の定、イリスの拳がその直前まで迫っていた。
がきり、と金属同士がぶつかり合うような音がルルの耳に聞こえてきたが、実際はルルの片手剣とイリスの拳のぶつかる音だ。
金属の剣に魔力を通したものと直接ぶつけて何のダメージも追わないその拳に、改めて古代魔族を敵に回した人族の絶望というものを理解する。
「理不尽ってのはこういうことを言うんだな……」
ぼそり、と呟いたルルに、イリスの反論が拳とともに飛んできた。
「お義兄様が最も言ってはいけない言葉ですわよ! それは!」
ルルのその台詞に、そうだったか、ととぼけるように首を傾げると、そのまま向かってくるイリスとの接近戦に集中し始めたのだった。