第102話 東方の客人
「……それで、なぜあの黒雲は結界を通り抜けたのですかな?」
二人の近衛騎士団の手練れが黙って部屋の中を警戒している王族専用の観覧室で、国王グリフィズ・ラント・レナードは目の前の椅子に座っている古族の族長ロットスに穏やかにそう尋ねた。
しかし、言葉遣いは丁寧で口調は穏やかであっても、そこに寛容の響きはあまり感じられない。
それはつまり、古族の誇るはずの絶対障壁が、謎の黒雲によってすんなりとすり抜けられてしまったためであり、観客の安全を守るべく導入したはずのものが思いの外ザルだったのではないかという不安を拭えないためだ。
特級の戦いにおいても幾度か崩壊の危機に瀕していたし、さらに言うなら一度など完全に壊れてしまっているのだから、これ以上、闘技大会を続けても大丈夫なのかどうか、ということを確認するために国王はあの黒雲が現れて直後、古族の責任者であるロットスを呼びつけたのだ。
ただ、そうは言っても、断固とした非難を国王がロットスに向けないのにもそれなりに理由がある。
ロットスは国王の言葉に口を開き、それについて語った。
「……まずは、まことに面目ないことでございまして……正直、我々の方でも今回の大会には頭を抱えております。国王陛下もご存じのことでございましょうが、この大会に絶対障壁を採用するにあたり、幾度かの試験運用を王城で行いましたが、その際、我らが絶対障壁はびくともしませんでした……宮廷魔術師長のオルガ殿の魔術ですら、耐えきったことは、陛下もその目で確かめられたことと思います」
ロットスの言葉はまさにその通りで、国内において最強、と言われる魔術師であるオルガの魔術でもってしても絶対障壁を破壊することは出来なかった。
低出力状態であれば、罅を入れることが出来ていたし、二度、三度と魔術を重ねれば破壊することも可能であったと思われるが、高出力状態となった絶対障壁はそんなオルガですらもどうにも出来なかったのだ。
それなのに、今回はルルとグランの戦いによって崩壊しているし、さらにそれに加えてあの黒雲である。
頭が痛いのはロットスのみならず、国王もだった。
だからだろう。
国王の口から、少しだけ皮肉めいた言葉が出たのは。
「……それは、オルガの実力が特級冒険者たちよりも遙か劣るとおっしゃりたいのですかな?」
しかしロットスも国王の心労と心配というものを理解していた。
もともと、古族は長命であり、国王は人族としては十分に成熟した壮年男性であるとは言え、ロットスから見れば未だ子供に等しい。
ロットスは年齢から来る落ち着きでもって、国王のその皮肉をさらりと受け流し、答える。
「まさかまさか……そんなことは。あのとき、オルガ殿は一人で魔術をお使いになられましたからな。全く話が異なります」
「とおっしゃいますと、どういうことですかな?」
国王の疑問に、ロットスは答える。
「……あのとき、絶対障壁が破壊されたのは、あくまで偶然だと申し上げております。あの試合において、ルル選手と、グラン選手は二人で、しかもおそらくお互いにそのとき出せる最高の力を振り絞ってぶつけあった結果、絶対障壁の破壊という偉業を成し遂げました。魔力……というのはおもしろいものでございまして、時に波長が合った魔力がぶつかり合ったとき、膨大なエネルギーが発生することがあるのです。ルル選手とグラン選手が絶対障壁を破壊できたのは、その偶然を引き寄せたために過ぎず、もう一度同じことを起こすことはおそらく不可能でしょうな……」
それが言い訳なのか、それとも本当にそう理解して言っているのかを国王には判別できなかったが、一応、納得できないわけではないため、絶対結界の一度の崩壊についての追及はやめることにする。
そもそも、絶対障壁が仮になにかしら欠陥があるとして、レナード王国の結界技術はそれよりも遙かに低いのである。
なにか必要以上に問いつめて、引き上げると言われたらそれはそれで困るのだ。
しかし、まだ気になることはある。
あの黒雲だ。
それはロットスも同じだったようで、聞かれると首を傾げて話し始める。
「あの黒雲につきましては……本当に申し訳ないとしか申し上げることが出来ず……いろいろ理由は考えられるのですが、確実なことはなにも。ただ、あの黒雲を作り出して操っていた存在は、相当な手練れとしか言いようがないでしょうな。人間業ではない、と申しましょうか……」
そんな風に話すロットスの様子は本当に困惑しているようで、嘘をついているようには見えない。
この場で嘘をつく意味もないことを考えれば、それは真実を語っていると見るべきなのだろう。
しかし、そうだとすれば、それは手の打ちようがないということに他ならない。
今後どうすべきかを考えなければならないが……。
そう思って、国王は言う。
「となると、闘技大会は中止せざるを得ないのでしょうかな……」
無念そうにそう言った国王に、しかしロットスは首を振って答えた。
「いえ……あの黒雲を防げなかった儂がこんなことを申し上げるのもどうかとは思うのですが、その必要はないと……」
「……それはまた、なぜ?」
国王の質問に、ロットスは少し考えてから、ゆっくりと自分に言い聞かせるかのような口調で話し始める。
「……先ほども申し上げましたが、あの黒雲を作り出した存在は、相当な手練れ。いえ……おそらくですが、災害級の者であろう、と儂は考えております」
災害級、それは一部の、国家の存在すらも揺るがしかねない魔物が分類される格付けであり、転じてそれ一体で国一つを滅ぼすことも場合によっては可能とされる存在を指す言葉であった。
歴史上も、そのように呼ばれる者は少なく、またほとんどが理性的な存在であるために現実に脅威となることはそれほど多くはなかったが、とにかく現れた場合にはもうどうにもならないとまで言われる何かである。
ロットスは、あの黒雲を生み出した存在が、それに該当する、と言っているのだ。
正直国王としては、自分たちの不手際を糊塗するための言い訳ではないか、と一瞬思わなかったわけでもないのだが、ロットスが続けて語ることを聞き及ぶに至って、ロットスの危惧は正しいのかもしれないと考えが変わる。
「あの黒雲が、ただ結界をすり抜けただけだったなら、正直なところ古族の手練れであれば決して不可能ではないことなのです。絶対障壁の仕組み、構成を知るものなら、どうやればあの壁を抜けるかも探求することは出来ますからな……。しかし、解析の結果、あの黒雲はそれだけではなく、相当な遠隔地から制御されている高度な遠隔魔術であることが分かりました。それに、現在、闘技場で戦っているあの二人の若者……ヤコウとキキョウの服装を見る限り、あの二人は東方の出身のようですし、聞こえてきた会話によれば、あの魔術はその東方の地より形成されたものらしいことも推測できます。そんなことが可能なものは……正直、手練れの魔術師の多い古族の中にもおりませんし、またこの大陸を探してもいるかどうか……」
通常、遠隔魔術の可能な距離は、数十から数百メートル程度だと言われ、術者と魔術の距離が離れていくにつれ、制御は難しくなっていくと聞く。
そのことを考えれば、数百、数千、場合によっては数万キロ離れた地点から魔術を形成することがどれだけ化け物じみたことなのかがよく分かる。
それをあの黒雲を分析して理解したからこそ、ロットスはあれを使用している者は災害級である、と言っているのだと国王にはやっと理解できた。
だから国王は言った。
「……つまり、またあのような事態が起こることはないから闘技大会を中止する必要はないと?」
その言葉にロットスは頷き、
「有り体に申し上げれば、そうなります。いつどこに落ちるか分からない雷を恐れて平原を歩くのを止めることに意味がないように、あのような特殊な存在が介入してくることを考えて闘技大会を中止する必要もないと思うのです。もし、それを理由に闘技大会を中止するというのなら、これから先、永遠に闘技大会を開催することも出来なくなってしまいますしな……幸い、あの黒雲を作り出した存在はこれ以上、大会に介入する様子も見られませぬ。であれば、このまま続けてもいいのではないかと愚考しますが……」
国王はロットスの言葉の内容をよく考え、そして確かに一理あると認める。
あの黒雲が仮に周囲の被害を考えずに観客たちに攻撃を加えるようなことがあれば中止も仕方がないということになるだろうが、今のところそのような様子は見られないのは事実だ。
それに、滅多にいないような災害級の何かだというのなら、ここで闘技大会を中止するかどうかに関わらず、王都そのものに被害を及ぼすことも出来るはずで、そう考えると闘技大会を中止したからと言って何か事態が好転すると言うことにもならないだろう。
すでに、あの黒雲の王都への進入を許しているのだから、どうしようもない。
それに、今戦っているキキョウとヤコウの知り合いが発動させているものらしいのだから、闘技大会を続けていた方がまだいいのかもしれないとも思う。
観客たちも、今ここで闘技大会を中止と言われても納得がいかないだろう。
そもそもあの黒雲を危険だと考えて闘技場内にいたくないと思った者は自分で逃げるだろう。
そう言った諸々のことを考えれば、ここで闘技大会を中止にする意味はないだろうと国王は結論した。
そして、ロットスに言う。
「なるほど、ロットス殿のお話は理解できました……確かに、ここで中止する必要はあまりなさそうでありますな。闘技大会は、続行する方向で対処しましょう……」
「さようですか……では、このまま絶対障壁を張り続けても?」
なんだかんだ言いながら、障壁を張る役目をおろされるのではないか、とロットスは考えていたらしく、少しほっとした様子で国王にそう尋ねた。
国王は、確かにそんなことも考えなかったではないが、前提として、古族の絶対障壁がレナード王国の障壁技術よりも遙かに優れているという事実があるのであるから、古族を降ろす、などということはあり得ない。
そもそもレナードの側から協力を頼んだのであり、それを納得も出来ない理由で突然降ろすという訳にもいかないだろう。
それに、他の理由もある。
国王は言う。
「もちろん、引き続きお願い申しあげたいと思っております。それに、先ほどのお話を聞くに、あの黒雲を作り出したのは東方の者。今闘技場で戦っておるのもまた、東方出身の者……正直なところ、なにが起こってもおかしくない、とも思っている部分はあったのです」
国王の言葉に古族のロットスは頷いて答えた。
「ふむ……東方ほど得体の知れない地域はないですからな……まず、普通の方法ではその地に行くことすら出来ぬと聞きます。儂も長く生きてはおりますが、未だ東方の地を踏んだことはない。海を越えた先にある三日月大陸、さらにそれを越えたところにあるぽっかりと開いた暗き断崖の先に、一体どうやってたどり着くのかも分からぬでは……」
東方から人や物がやってくることは、歴史上何度もあったと聞く。
実際、東方出身の人物に出会った者というのは少なくない数がおり、その実在に疑うべきところはない。
けれど、東方にいこうとしても、どうしてもたどり着くことの出来ない理由があり、それが断崖、もしくは大断裂と呼ばれることの多い、海に大きく開いた深い断崖である。
まっとうなところで言えば、浮遊魔術などを使用してどうにか越えようとしたという記録も枚挙に暇がないのだが、その誰もが、断裂の底へと落ちて二度と帰っては来なかった。
断裂の直前までは船などで行けるので、そこまでは船で行き、断裂手前から浮遊魔術で、というのがだいたいの挑戦の計画の骨子なのだが、伝えられている限り、すべて失敗しているのでその方法では渡ることは出来ないのだろう。
しかし、どのようにすれば断裂を渡りきれるのかは、少なくとも断裂の西にはいっさい伝わってはいない。
それなのに、東方の者たちはよく、西方へとやってくるのだ。
だから彼らは、東方の奇妙な客人たち、と呼ばれることも多い。
ただ、捕らえようとしてもおそろしく強かったり、特殊な魔術を修めていることが普通で、手痛いしっぺ返しを食らうことも歴史上明らかになっているため、彼らに手出しをしようと言う者は少数である。
彼らは特に西方の国に何かすることはない、ということも影響しているだろう。
今回のように、闘技大会に出たり、何か新たな技術などを思いついたように伝えに来たりすることがあるくらいで、それ以外のことはあまり分かってはいない。
そんな彼らが今、目の前にいる。
国王としては、是非にも話を聞きたい、というのが正直なところだった。
ただ、無理強いすると後が怖い。
そんな気持ちをにじませて、国王は言う。
「キキョウとヤコウ、あの二人にはどのような方法で東方の断崖を越えてきたのか、聞いてみたいものだと思いますが……まぁ、無理でしょうな」
国王の台詞に、ロットスも頷いて、
「彼らを捕らえた結果、滅びた国もあると聞きます。彼らには特になにもしない方がよいでしょうな……」
「残念だが、そうしましょうか……では、結界についてのお話はこんなところで終わりにしましょう……ところで、もしよろしければ、これから共に試合観戦をしていただけませんかな? 古族の長老ともなれば魔術にも相当お詳しいでしょう。 無知な私に是非、解説をお願いしたいのですが……?」
そんな風に一緒に観戦することを提案する国王に、ロットスは微笑んで頷き、窓際にもうけられた観戦席に国王とともに腰掛けた。




