第98話 戦女神
「……雷氷嵐!」
ユーミスがそう唱えると同時に、闘技場の中には雷鳴と拳大の氷、そして一切の視界がなくなるほどの強力な大嵐が吹き荒び、ユーミス以外の何もかもを破壊する絶望的な破壊の渦へと変化させた。
魔術の発動と同時に、強力な風と叩きつけられる恐ろしい速度の氷にイリスは一瞬にして浚われてユーミスの目の前から消える。
それは、ユーミスの魔術が確かにイリスに命中したということに他なら無い。
普通に考えれば、闘技場ステージを覆う結界内全てを塗りつぶすように発動させた魔術が当たらないはずがない。
しかし、イリスにはそんな回避不可能なはずの魔術を易々と避けるようなことすらも可能とさせるような底知れないところがあった。
何よりも、古代魔族の魔術的技術が現代のそれとは隔絶したところにあることは、この七年間でユーミスも学んできたことであり、それによってどうにかされてしまうかもしれないと不安だったのだ。
けれど実際はどうだ。
イリスはユーミスの魔術に為す術なく浚われ、そして目の前から消えた。
これは、もしかして自分が勝利したということではないかと心の中に浮かれた気持ちが湧き出て来るのを抑えられない。
しかし、心の中でも比較的冷静な部分が、その考えを明確に否定した。
それは間違いであり、油断である。
今すぐに防御を固め、次の一手を放つべく準備を始めるべきだと。
冷静に考えれば分かることであるが、イリスが、古代魔族がこのくらいの魔術でどうにかなると考えるべきではない。
確かに魔術は命中したのかもしれないが、それだけである。
その意識を奪えたわけでもなければ、致命傷を与えたところを確認したわけでもないのだ。
だから、今ユーミスがすべきは、すぐに結界を張ることだった。
イリスが今この瞬間に攻撃を加えてこないとも言えない以上、出来るだけ短い時間で結界を組み上げなければならず、けれどユーミスは焦りを感じながらもその仕事を成功させた。
そしてその次の瞬間に、自分の選択が決して間違いではなかったことを確認する。
どこからか、巨大な衝撃が結界に与えられ、みればそこにはユーミスが魔術で作り出した氷の固まりがぶつかっているのだ。
自らの魔術が自らを傷つけないようにコントロールしている以上、それが流れ弾であるということもあり得ず、つまりそれはイリスが直接ユーミスに向かって投げてきたということに他ならない。
そう思い当たると同時に、一つだけでなくいくつもの氷塊がユーミスの結界にぶつけられて、再度、ユーミスの結界に罅が入った。
このままではもう一度、イリスに近づかれ、首根っこを捕まれて終わるだろうと思われた。
しかし、同じことを何度も繰り返すわけにはいかない。
ユーミスもそれは理解していて、だから自らの体に膨大な魔力を注いで身体強化魔術をかけていた。
結界が割れると同時に、いや、割れると思われる直前にその場から離れるべく地面を蹴ったユーミスの判断は間違いなく正しかったと言える。
その直後、ユーミスが先ほどまで立っていたその場所は、イリスの拳によって叩きあげられたらしい粉塵の渦の中にあり、あの場所に未だにユーミスがいればおそらく今頃は地に伏していたか物言わぬ肉塊へと変わっていただろうから。
「……ほんとに手加減ないのねっ……!?」
自分で煽っておいてなんだが、少しくらいはイリスにも理性が残るだろうと考えていた。
それが甘い見通しだったことは一連の攻撃で明らかになっているが。
イリスのルルに対する想いというのはどれほど深いというのだろう。
ユーミスがただのちょっとした挑発、のつもりで言った台詞でここまでの怒りを見せるほどなのだから。
それとも、ただ若いだけだろうか?
確かにそれもあるかもしれないが……。
ただ、イリスとルルの境遇を考えると理解できる気もする。
突然、自分のことを知っている者がどこにもいない場所、時代にとばされて、不安に思っていたら、自分のもっとも慕う者が現れたのだ。
そこに頼り、依存するのは至極自然な成り行きと言える。
そんな風に大切にしている人物を不当に奪おうとする者がいれば……。
「……消さざるを得ない、とか思っちゃうかもね……」
つぶやきながら、ユーミスはステージを破壊したときに上げた煙の中から高速で飛び出してきたイリスの攻撃をいなすべく、魔術を唱える。
「……盾!」
本来であればやはりある程度の詠唱の必要なその魔術を、ユーミスはわずか一語で完成させる。
それから、イリスの向けてきた拳に向けて、魔術により出現した円形の透明な盾をつきだした。
僅かに傾斜をつけているのは、直撃を受ければいかに身体強化をしているとはいえ、耐えきれる気がしないからである。
大量の魔力を消費した身体強化は思いの外、自分の動きをイリスの動きになんとかついていける程度までに至らせてくれているが、いかんせん燃費が酷く悪いことにユーミスは気づいていた。
おそらくは、このまま行けばスタミナ切れでユーミスは負けるだろう。
イリスの速度に適応するために、苦し紛れに近い形で魔力量に物を言わせて無理に強化している。
人族よりかはずっと魔力に耐性があるからか、体自体は十分に耐えられてはいるようだが、そもそも燃料である魔力自体がものすごい速度で消費されていく。
魔術の構成自体が今一なのかもしれないし、慣れていないことも影響しているのかもしれない。
そもそも、イリスは、というか古代魔族は持っている魔力も膨大だが、身体強化に魔力をつぎ込んでもおそらくは燃費までいいのだろうとユーミスは考えていた。
それが元々の高い身体能力に上乗せする形で身体強化をかけているからなのか、それとも他に理由があるのかは分からないが、今のユーミスと同等の身体能力にまで持っていって、あれほど魔力が減らないと言うのは明らかにおかしい。
正直言ってどうしてなのか今この場で教えてくれと叫びたいくらいだが、そうも行かない。
ただ、試合が終われば、そしてもしもイリスがその後にユーミスの発言を許してくれれば、いくらでも聞く機会はあるはずだ。
今は試合を終わらせることに集中して、それ以外はとりあえず横に置いておこうとユーミスは頭を切り替えた。
イリスの拳はそして、ユーミスの魔術盾に命中する。
ユーミスの誘導通り、と言いたいところだったが、イリスもユーミスの狙いくらいは理解していたようで、その拳をいなすべく僅かに作った傾斜に気づき、拳をたたき込む角度を変えて斜め下から抉り込むように上に向けて打ち込んできたのだ。
「……ッ!?」
ユーミスは息を飲むも、しかしこうなっては耐えきる以外にとれる手段はない。
避けようにも距離が近づきすぎているし、他の魔術を唱える時間もなさそうだった。
仕方なく受けた盾と、添えた腕に重い衝撃が走る。
体中に膨大な魔力を流しているというのに、これほどの力を感じると言うことにユーミスは驚きを禁じ得ない。
しかも、案の定、というべきか、ユーミスはその攻撃を耐えきることは出来なかった。
その衝撃で足を地につけておくことが出来なくなったユーミスは、その勢いのまま空中に放り出される。
当然、そうなるとその体は完全にがら空きと言ってもいい状態にあり、イリスから見れば的にしか見えなかっただろう。
イリスは地上からその手のひらをユーミスに向けて、魔力を収束させ始め、そしてほんの数秒で真っ赤な魔力弾を形成し、無慈悲にも頂点に達し、空中から落下しかけているユーミスに向けて放ったのだった。
「……展開!!」
しかし、意外なことにイリスの放ったその魔力弾はユーミスに命中することなく、ユーミスが存在していたその場所の背後にあった結界へとぶつかり、大きく揺らすに留まる。
せいぜいが、人の頭程度の大きさしかなかった魔力弾に込められた威力に観客たちは悲鳴を上げるも、結界は以前よりも強度が上がったのか、それともイリスの攻撃がそこまでではなかったのか、罅も入らずに耐えきった。
それからイリスは、その場から消え去ったユーミスに視線を向ける。
彼女にはユーミスが見えていなかった、というわけではなさそうである。
観客たちも彼女に遅れて、ユーミスの姿を闘技場内に発見した。
そして驚く。
そこにあったのは、闘技場ステージに立つユーミスではなく、空中に浮かんでイリスを見下ろしているユーミスの姿だったからだ。
「……飛行、魔術ですか……?」
試合が始まって、初めてイリスが口を開いた。
それは彼女の端的な驚きを示している。
なぜなら、現代の魔術にそれは存在しないはずだからだ。
厳密に言うなら、浮遊魔術自体は存在するのだが、それはあくまでも術者の体を浮かべ、非常に低速度で空中を運ぶのが精一杯でしかないものだ。
人が空を飛ぶには、魔導機械か、高度な魔法具の補助がどうしても必要で、人が単体で自由に空を飛び回ることは容易には可能とはされていなかった。
にもかかわらず、ユーミスは今、空を飛んでいる。
しかも、使用された魔術はイリスの魔力弾を命中直前に避けうる程度の機動性の確保されたものらしい。
それは、イリスやルルのみならず、観客たちをも驚かせる一種の発明の披露に他なら無かった。
もちろん、イリスもルルも、飛行魔術が使えない、というわけではないのだが、少なくともユーミスに教えたことはない。
それは複雑であるために、未だユーミスが学ぶ段階に至っていないというのもあるし、古代魔族用のものなので、魔力量の問題もあったからだ。
けれど、ユーミスはおそらくそのどちらをも改善する形でその魔術にたどり着いたのだろう。
それは、賞賛すべきことである。
ふと観察してみれば、ユーミスの背中には透明な薄緑色の羽のようなものが生えていて、足にも小型の羽らしきものがくっついている。
おそらくあれらが、彼女の飛行魔術の骨なのだろう。
確か、ユーミスは風の魔術を得意としていた。
そのことを考えれば、機動性の確保された飛行魔術にたどり着く可能性というのは低くはないだろう。
しかしそれをこの土壇場で使ってきたことに、イリスは驚き、そして少しばかりユーミスを侮っていたことを謝罪した。
「ユーミス……それは、自分で?」
なぜなのか、ユーミスはその言葉を聞いて目を見開く。
それから、
「……ええ、そうだけど……え、怒ってないの……?」
と聞いてきた。
そこでイリスは理解する。
ユーミスはどうやら、イリスが挑発の言葉で未だに切れていると思っているらしいと言うことに。
しかし実際は少しばかり異なっていた。
確かに言われた瞬間は頭に血が上ったのは確かだが、少しずつ熱も冷めて、今ではちょっといらっとしている程度である。
ルルに害をなすのであれば是非もないが、ユーミスがそういうタイプでないこともよくよく考えてみれば明らかなので、おそらくユーミスは自分に遠慮なく本気を出させるためにあんなことを言ったのだろうともたどり着いていた。
けれども、それで気が収まるかというと別の話である。
正直言って、未だに、まだ、少しは、いらついているのでそのいらつきはこの試合の中で発散しなければ気が済まないとイリスは考えていた。
だからこそ、本当に全く手加減しないでぼこぼこにしようという気持ちで冷静に戦ってきたのだが……。
そういうことをユーミスに告げると、ユーミスは頬をひきつらせて、
「……それも怖いわよ……冷静にぶち切れてるってことじゃないのよ……」
と言った。
イリスはそれを聞き、首を傾げて言った。
「でも、ユーミスは本気で私と戦いたいのでしょう? 正直なところを申し上げますと、普段通りの気分ですと、おそらくユーミス相手には少し手を抜いてしまうかもしれませんわ。ですから……ちょうどいいと思います」
「……やっぱり結局怒ってるんじゃないの!」
そう叫びながら、ユーミスは飛行魔術を巧みに行使してイリスに向かってきた。
その左腕にはいつの間にか形成したらしい透明な魔術盾が身につけられており、背中の薄緑色の羽で飛んでくるその姿はまるで戦女神のごとくのようであった。
武器を持たないのは、彼女の武器は魔術だからだ。
その右手からはこれからいくつもの魔術が自分に放たれるのだろうと確信しているイリスは返り討ちにすべくユーミスを見つめて、構えたのだった。