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第1話 プロローグ

 正義の前に、悪は滅びる。


 いつの時代だって、そうだ。

 正しい理を体現した者によって、邪悪を身に宿す者はその尽くが消し炭に変えられる。

 光が世を照らし、闇は散らされて、世界は輝きで満ち、そして永遠の祝福が地上に与えられる。


 自分の場合もそうなのだろう。

 悪は滅びなければならないから、物語はそうして終わらなければならないから、そのために、自分が滅びるのだ。

 そういう宿命を、そういう運命を、自分は背負っている。


 現実に、いま、目の前には、まさに正しさを体現する者が立っていた。


 薄暗い魔王城の大広間を眩しく照らす、光り輝く聖剣を掲げ、聖女、大魔導師、剣聖を引き連れて堂々と構えるその存在。


 人類の希望をその矮小な身に背負い、そして希望を現実のものへと変えるべく絶え間ない努力を重ねた存在。


 彼の者の名を"勇者"と言った。


 出来ることなら、来ないことを願っていた。

 永遠に、誰もここにはない方がいいと、そう思っていた。

 けれど、そんな望みは簡単に裏切られるものだ。


「よく来たな、勇者よ!」


 諦めを感じながらも、それを表に出さないように、出しうる限りの大声を上げて、出迎える。

 人類の希望を背負ってやってきた、その四人を。

 誰よりも力と勇気を持つ、その存在を。


 一人一人の顔を、ゆっくりと睥睨した。

 どの顔にも、焦りと、恐怖が感じられる。

 ただ、それも仕方のないことだろう。

 彼らは今、魔に属するもの全てを支配する者の前に、その身一つを晒して立っているのだから。


 街一つ、国一つ、簡単に滅ぼすことの出来るほどの強大な力をその身に蓄えた者の前に、立っているのだから。


 むしろ、そうであるにも関わらず、その顔に未だに諦めが宿っていないことを賞賛したいような気分になる。


 何人もの人間が、無謀にも戦いを挑み、向かってきた。


 幾百の人間が、魔王の力の前に滅びていった。


 それなのに、諦めずに向かってくるその勇気を称えたいと、そう思ったのだ。


 勇者は、言う。


「お前が、魔王か」


「そうだ。我こそが、この城の主にして、偉大なる魔の支配者、魔王だ」


 自分で自分を偉大、などと言っていることに思わず失笑しそうになるが、これも形式美と言う奴だろう。

 目の前で勇ましくその瞳の力を強くした勇者にはっきりと名乗った。


 それで、彼らの目の前に立つ者が誰か、はっきりしたからだろう。

 勇者、そしてその仲間たちの武器を握る手に自然と力が入る。


「そうか、ならば……決着をつけよう。ここに来て、これ以上、話すこともない……」


 言うまでもないことだが、勇者の目的は、魔王を滅ぼすことであった。

 魔王の目的もまた、勇者を滅ぼすことであった。


 それが、世界の理だ。

 たとえそのことについて疑問を感じる者がいるのだとしても、そしてそれが魔王本人に他ならないのだとしても、意味など無いという事を魔王は深く理解していた。


 全ては臨界を越えてしまっている。

 話し合いでどうにか出来る段階はとうの昔に過ぎ去ってしまった。


 だから、これ以上、なにも語らずとも、次の瞬間に起こることは決まっていた。


 構えた聖剣をこちらに向ける勇者。

 大規模魔術を唱え出す大魔導師。

 邪気を払うべく聖句を唱えだした聖女。

 剣気を漲らせ、身体強化を始めた剣聖。


 四人ともが、迷うことなく魔王を殺しにかかっていた。

 人類の敵たる魔王を滅ぼさんと心の底から欲していた。

 人類の魔王に対する恨みは、もはや対話など不可能なほどに限界に達しているからだ。

 だから、勇者達の態度は至極当然のことだった。



 だが。


 それは、魔王にとっても同じ事だった。

 魔族にとっても同じ事だったのだ。


 終わりはわかりやすいものではないと言うことは分かっている。

 どこかで諦め、受け入れ、許し、そして手を取り合うことが必要なのだと言うことも。


 ただ、それでも心はままならない。

 憎しみに身を委ねて、力の限りに暴虐を尽くしてやりたいと言う欲求が絶え間なく魔王の心を惑わす。


 魔王は、憎しみにその瞳を濁らせた者が向かってくるたびに、思ったものだった。

 同胞を殺し尽くされ、生きる権利すら否定された魔族が、その犯人に報復をして、何が悪いというのだろうと。

 憎しみを憎しみで返すことが、一体どんな過ちだというのだろうと。


 理性では、その感覚が何も生み出さない、自己満足に近い感情だと言うことは分かっていた。

 けれど、何も生み出さないにしても、自己満足は出来る。

 心が晴れやかになる。

 そしてそれは魔王ただ一人ではなく、人類に攻撃を加えられた同胞全体の心について、同じ事が言えるのだ。

 だから、生み出しはしないが、これから魔族が先を進むために必要な土台ならしのようなものだと、そう言い聞かせて、戦いを続けたのだ。


 結果として、今ここに勇者がいる時点で、きっと間違っていたのだと、心から思うが、それでも、どうしようもないことはあるものだ。


 そもそも、始まりの責任は、人類にある。

 魔王は言い訳くさく、今この状況を生みだした原因について、思いを馳せる。


 かつて人類は、魔に生きるモノを、魔族を、この世界の害悪と定めた。


 所詮獣でしかない魔獣とは異なり、はっきりとした知性と理性、そして文化を持つ、魔族を、その存在すら認められない害悪と定めたのだ。


 そして、人類の好きなように殺し、魔族の領土を奪い、魔族の財産を奪っても許されると、そう宣った。


 それは魔族から見れば、泥棒の所行であり、強盗の論理でしかなかった。


 それなのに、人類はさも自らが正しいかのように、神の威光を盾に自らを権威付け、魔族を神敵と定めて、滅亡をたくらんだのだ。


 そんな人類と、魔族。

 一体そのどちらがより悪に近いというのだろう。


 勇者達を前にして、人と、魔族との歴史について、改めて考えてみる。

 そして、ふと、思った。


 結局、どちらも間違えたのだろうと。


 魔族も、人類も、その選択を致命的にまで間違えたのだろうと。


 だからこそ、お互いに高い知能を持つ人型の生命体であるという点は共通であるにも関わらず、歩み寄り、話し合うことすら出来ずにお互いに剣を向けあい、殺し合う羽目になった。


 そうなるまで、自分たちの過ちについて省みることなく、ただひたすらに自らの歪んだ信念に従って行動し続けてしまったのだ。


 その終局が、勇者と魔王と言う、互いの持つ最強の切り札同士の戦いになるのは、ある意味で至極当然の話だったのかもしれない。


 この戦いの勝者が、今後の世界の覇権を握るのだろう。


 魔族が世界を支配するか、人類が世界に覇を唱えるか。


 それが、魔王と、勇者の戦いの結果にかかっている。


 愚かなことだ。

 くだらないことだ。


 たとえ、どちらの勝利で終わろうとも、おそらくお互いに、その内部でまた新たな争いを始めることだろう。

 そして同じように多くの生き物を殺し、そしていつか滅びるのだろう。


 本当に愚かなことだ。

 どこかで止まれなかったのか。

 どうにかできなかったのか。

 この最後の最後まで、その答えを見つけられなかったことを、魔王は悔やみながら、けれどだからといってここで勇者と手を取り合うことも、できない。


 そうだ。

 人類も、魔族も、もう引けないところまで来てしまったのだ。


 かくなる上は、戦いしかない。

 戦うことしか、出来ない。

 それで無理矢理に決着をつけることでしか、この争いを終えることはできない。

 だから……。


 そこまで考えて、魔王は、自らの体に魔力を巡らせて、勇者達に対峙し、構えた。


 どんな魔族よりも強い魔力と、どんな生き物よりも強力な身体能力の両方を持ち合わせる、理不尽の体現者たる魔王。


 その身に宿る強大な魔力は、軽く集約するだけで、城の壁を、床を、ひび割れさせ、勇者達に絶望的なまでの圧力プレッシャーを与えた。


 おそらく通常の人間であれば、ここにいるだけでその命を散らしているだろう。


 しかし、勇者たちは冷や汗をかきながらも、未だ立って構えている。


 彼らが生きていられるのは、長い旅路の中で鍛えた力と、人としては化け物と呼ぶに相応しい魔力をその身に蓄えているからだ。

 いくつもの試練を乗り越え、神や精霊の加護までその身に宿した彼らは、もはや人と言うより魔族の次元に近いところにまでその存在を昇華されている。


 そんな彼らが、もし魔王を倒したとして、故国に居場所があるのかどうかは疑問だ。

 人類は、あまりにも強大な力を持つ者をおそれる。

 だからこそ、彼らは魔族を恐れ、迫害するに至ったからだ。

 だから、魔王を倒すほどの力を持つ彼らが故国に凱旋したところで……。


 いや、余計な心配だろう。

 そんなことを考える前に、魔王は目の前の人物たちを倒し尽くすことを考えねばならないと気を引き締めた。

 その身から吹き出す魔力は徐々に巨大化し、勇者たちをただ魔力の放出だけで圧倒する。


 聖女の使用する神聖魔法は勇者たちを包み、魔王の力を減衰させることに成功している。


 けれど、それでも耐えられないものがあるのか、四人とも額に汗を流し、足を踏ん張りながらこちらに鋭い視線を向けている。


 ただ、戦えないわけではなく、大きな障害がでているわけでもないようだ。


 時間をかければ自分たちに勝ち目は薄いと見たのか、勇者たちは目配せしあい、小手調べもせずに必殺の一撃を魔王に与えようと、自らに宿る魔力を全開にして技を練り上げ始めた。


 それから、流れるような仕草で臨戦態勢に移った勇者達は、今まで魔王に挑んできた人間の精鋭達からは考えられないほどの速度で、命を削りかねない無理な魔力行使をし、全力の攻撃を放ってきたのだった。


 ◆◇◆◇◆


 魔王と勇者の戦いは、壮絶を極めた。

 けれど、どんなものにも終わりはやってくる。

 だから。


「……カ、ハッ……」


 魔王の胸元に、聖剣が刺さっていた。

 闇と魔を打ち払う聖なる光が、聖剣全体から発せられ、魔王の纏う闇の力を浄化していく。


 勇者の顔は、魔王からはよく見えなかった。

 銀に輝く全身鎧を身に纏った勇者は、その顔もまた、瞳しか覗かない鉄仮面に覆われているからだ。

 そこまでの完全防護で魔王に挑んできた者は今まで少なかったが、魔王が使いこなせる魔法は多岐にわたる。

 出来うる限りの防護を整えることは、むしろ魔王に勝つつもりであるならば、当然のことだった。


 とは言え、通常の鉄製の防具では、いかに頑丈であっても魔王の魔法や剣の一撃を防ぐことなど出来ない。

 しかし、傷だらけで、大きな凹みや罅、欠けが生じているとは言え、未だに原型を保っている勇者のその鎧は、鉄などではなく、聖銀ミスリル剛鉄オリハルコン神鉄ヒヒイロカネのような、特殊な素材で作られた逸品なのだろう。


 魔力を、闇を分解する力を持つ天敵とも言うべき剣で刺し貫かれ、遠のきそうな意識の中、勇者の背後で未だ油断せずに杖や剣を向けている勇者の仲間たち――聖女、大魔導師、剣聖――を見てみれば、彼女らもまた、勇者と同様に相当な魔力と聖気を発する品を身に纏っている。


 準備は、完璧だったという訳か。


 魔王は、そんなことを思い、ふっと笑いが漏れた。

 ここで自分が負けるのも、当然のことなのかもしれないと思ったからだ。

 なぜなら、正義は必ず勝つらしいのだから。


 勇者は、正義だ。

 そして魔王は、悪だ。


 それは遙か昔から伝えられてきた、真理。

 人類にとっては、それが真実。


 だから、自分が負けるのは正しかったのだと、遠のく意識の底で魔王は思った。


 そんな魔王の表情を見咎めたのか、勇者が怪訝な顔で言った。

 本来なら、ここに会話など生まれるはずなどなかったのに。

 死に向かう魔王と、それを成した勇者との間に、そんなものは必要ないからだ。

 けれど、運命は意外な方向へと転がることになる。

 後に思い返してみれば、この瞬間に、色々なものが変わったのかもしれない、と思う程度には。


「……なぜ、笑う。何か企んでいるのか?」


「いや……なにも。ただ」


「ただ?」


「友人の娘の誕生日が明日だったのでな。ここで滅びるのが残念な気がしただけだ……」


 正直に言うのも何か違うと思い、魔王は別の話をする。

 もちろん、嘘ではなかった。

 明日が、魔王の配下であり、友人でもある男の娘の誕生日であるというのは、事実だ。

 そして、今日勇者が来なければ、その祝いの席に、魔王が行っていただろうことも、また事実だった。


 ただ、その日はもう永遠に来ない。

 勇者の聖剣は、魔王の命を永遠に奪うべく、聖気を発し続けている。


 魔王が滅びたその日から、魔族はきっと迫害されるだろう。


 人の好きなようにされて、種族としての命脈は途絶えてしまうかもしれない。


 友人の娘もまた、幼いその命を散らすのだろう……。


 全てを考えて、魔王は涙をこぼした。


 勇者はそれを見て、驚いたようにその鉄仮面から覗く瞳を見開き、何かに気づいたかのように顔をしかめた。

 そして、魔王にとって永遠にも等しく感じられるくらいの時間、勇者は黙り、何かを考え始め、納得したように頷いて、喉から絞り出すように言ったのだ。


「嘘では……ないのだな」


 その声には、なぜか今まで感じられなかった、人間味、のようなものが魔王には感じられた。

 先ほどまで、あれほどまでに憎しみのこもった視線と殺気を向けてきた勇者の声に、温もりを感じたのだ。

 だから、魔王はふと気まぐれを起こした。

 最後の最後に、自分の捨てられなかった憎しみと絶望をすっかり捨てて、純粋に自分の知っていることを語ってみることにした。


「当然だ……勇者よ。……そうだな、これで最後だ……お前に真実を教えてやろう……今までお前と俺がしてきたことも、そしてこれからお前がすることも、ただの殺戮に過ぎないということをな。魔族も、人類も、その本質になにも変わることがないと言うことを、お前は理解できるか……?」


「なにを言っている……?」


 魔王を殺すことこそが正義だと教えられてきた勇者にとって、これは意味の理解できない話かもしれない。

 しかし、今、ここに来て勇者の目は、憎しみに汚れてはいなかった。

 本当の意味で、正しい者の目をしていた。

 真実を確かに見つめようとしている者の目をしていた。

 魔王は、そう感じた自分を信じ、真実の一端を語ることにしたのだ。


「……勇者よ。お前に教会は我ら魔族を悪の御使いなどと説明したかもしれんが、我を見れば分かるだろう。魔族の営みも、人の営みも、なにも変わらぬ……。信じられないのなら、これから先、お前の眼で確かめるがいい。お前は目にするだろう。教会の名の下に、全ての魔族を殺戮していくその行動に、疑問を覚えるだろう……そのときに、少しでも感じることがあるのなら……魔族の、いや、人類と、魔族の未来を……」


 意識が遠のく。

 自らの体を構成する物質全てが、空気中に漂う魔素エーテルへと変わっていくことが感じられる。


 勇者は、考え込むような顔をしていた。

 魔王の言葉を、自分の中でかみ砕いて、理解しようとしているような印象が感じられた。


 それを見て、魔王は少なくとも種は蒔けたと、満足に近い心境を得ることができた。


 意識が暗くなっていく。


 それから、耳にふっと声が聞こえた。


「分かった……貴方の言葉を、信じる。魔族のことは、疑念を持たずに、まっすぐな目で見てみることにするわ……」


 魔王はそこで初めて気づいた。

 確かに男性にしては少し高い声だとは思っていたが、そうではなかったらしいということを。

 なぜなら、勇者の発したのは、柔らかな女性の声だったからだ。


 勇者は、女だったのだ。


 魔王は、最後に知ることの出来たその真実に、驚きを感じながらも、いい冥土のみやげが出来たと、おもしろく思った。


 どんどん暗くなる視界の中、最後に目に入ったのは、勇者の仲間たちの顔だった。


 一瞬、霞む視界の中に、聖女の顔が目に入った。

 魔王を倒せて、さぞやすっきりしている顔をしているだろうと思ったが、意外にもその顔は歪んでいた。


 勇者を含めた他の三人はそんな顔をしていないのに、どうして。


 死ぬことに覚悟は出来ていたはずだったが、そのことだけが、心残りだったことを覚えている。


 ただ。


 あの勇者ならきっと、魔族の未来も、少しは考えてくれるのではないか。


 そんな楽観的な希望を胸に抱いて逝けたことは、きっと幸せなことだったのだと思う。


 そうして、その日をもって、魔王と呼ばれた世界最強の魔族は、その命を勇者により奪われ、世界から完全に消滅することとなった。


 めでたし、めでたし、というわけだ。


 ◆◇◆◇◆


 魂はあると言われていた。

 遙か時の向こう側で、世界の全てを創造したと言われる全能神は、あらゆる生き物に上下の差を設けず、平等なものとしてこの世界に産み落としたのだという。

 魔族に伝わる、神話だ。

 人類のものとはかなり異なる。


 ただ、だからこそ、魔族は種族による差別、と言う思想を持たなかった。

 人類が襲いかかってくるから、彼らに対する憎しみは、恨みはあったが、だからといってその種そのものを否定する、などという考え方はしなかったのだ。


 人類も、魔族も、魔獣も、亜人も。

 その特徴は異なるが、その魂は同じもので作られていて、死せば永遠に輪廻していくものと信じていた。


 だから、百代目魔王ルルスリア=ノルドは、目をさましたそのとき、目の前に存在するものにそれほど大きな驚きは感じなかった。


「……あらあら、目を覚ましたのね。おはよう、ルル」


 美しい、人族ヒューマンの女だった。

 夜のように艶やかな黒髪に、血のように赤い瞳。淡雪のごとく滑らかな白い肌、そしてまるで計算して作り出されたかのように見事な曲線を描く体型。

 美女揃い、と言われる魔族や古族エルフの女ですら、裸足で逃げ出すかもしれないほどの絶世の美女がそこには立っていた。


 差別思想のない魔族としては、人族ヒューマンであろうと、古族エルフであろうと、美しいものは美しいと評価するのは当然の話だ。

 だから、そこに人族ヒューマンの女がいるということは、特に驚きに値する事実ではなかったのだ。


 ただ、しかし、と魔王は思った。


 いくらなんでも、人族ヒューマンにしては、目の前の人物は大きすぎやしないか、と。


 なぜなのかは理解できなかったが、その人物は自分より遙かに大きいらしいことを、その手が魔王の手を握ったときに理解した。


 魔族の中でも比較的大柄である魔王の手は、それに見合ってかなりの大きさだった。

 もちろん、彼よりも巨大な者もいないではなかったが、目の前にいるような美しい女性が、彼よりも大きな手をしている、ということはほとんどなかった。


 種族からして違うとしか思えない。

 巨人族タイタンだろうか?

 それならありえないことではないが……。


 けれど、そこまで考えて魔王は心の中で首を振る。


 目の前の人物の種族が何なのか、魔王にははっきりとわかっていたからだ。

 言語それ自体や、言葉の訛りからして、その人物が、巨人族タイタンなどの巨大な体を誇る種族ではなく、人族ヒューマンと呼ばれるそれであることは初めから明らかだった。


 それなのに、どうしてこれほどまでに大きいのか。

 と首を傾げてふと閃く。


 いや、思考が逆なのかもしれない、と。


 向こうが大きいのではなく、自分が小さいのだ。

 天啓のように、そう閃く。


 そしてそう考えるならば、この状況がどういうものか、自ずとつかめてくるというものだ。


 先ほど、目の前の女性は、魔王のことを、ルル、と呼んだ。

 目の前の女性より、魔王の手は遙かに小さい。

 そして、今、自分は何か柔らかな布の上で仰向けになっていることが感じられる。


 これは……魔族に伝わっていた、あの現象なのではないか。

 魔王は瞬時にそう思った。


 つまり。


「目が覚めたところでルル。ご飯よ」


 女が身につけていた少しばかりゆったりとした服をはだけていく。

 それでご飯、とは一体どういうことかと思ったが、これが魔王の予想通りの事態であるならば、納得がいくと言うものだ。


 己の手をふっと見つめる。

 小さくて、ふっくらとしたそれは、以前のものとは似ても似つかない。


 まるで……そう、まるで、赤ん坊のような。


 そう思った瞬間、意識が柔らかに遠のいていくのを感じた。


 眠気とは異なり、意識の引き方がきわめて唐突で、しかも絶対に抗えそうもない。


 なぜだろうか、と思うと同時に、自らの体が勝手に動き出しているのを感じた。


 何かを求めるように、手を掲げる自分の体。

 それを見て、微笑みながら、その体を抱き上げる、目の前の女性。


 その甘いミルクのような匂いと、柔らかな雰囲気から久々に思い出したその存在。


 それは。


「うんうん、お腹が空いたのね……ルル。今、お母さんがご飯あげるからね」


 母。

 そうか。

 目の前のこの女性は、自分の母なのか。


 そう確信した瞬間、わずかに残っていた意識は完全に暗闇に飲まれた。


 本能が、理性を闇に沈めたのだと分かったのは、この後、そういうことを何度も繰り返したあとのことだった。


 ◆◇◆◇◆


 何日か時が過ぎ、魔王はいくつかの事実を理解した。


 まず、自分が人族ヒューマンとして生まれ変わったのではないか、ということ。


 自分の母、と思しき人物は、確かにそのように振る舞っていて、魔王――今はルル、という名前らしい――に対して深い愛情を注いでくれている。

 食事を与え、笑顔を向け、下の世話をして、幸せそうな表情をしてくれるその人の心が嘘なのだとは、とてもではないがルルには思えなかった。

 人の心も、魔族の心も、さして変わるところはない。

 それは魔王にとって、はっきりとした事実だった。


 そして、魂は輪廻する。

 人族ヒューマンも魔族も、そしてそれ以外の種族も、その魂に代わりなどない。

 生き物は皆、肉体が滅びたあとも、別の生命へと生まれ変わるのだ。

 同一種族に輪廻することもあれば、別の種族に輪廻することもある。

 行いが悪ければ、小さな動物や虫へと輪廻することもあるのだという。


 かつて魔王だったときから、そう言われていたから、この状況も特に不自然だとは思わない。


 きっと、自分はあのとき勇者に確かに殺され、そして魂は人族ヒューマンとして生まれ変わったのだろう。


 そう信じられる程度には、ルルは柔軟な頭をしていた。


 また、人族ヒューマンとは言ってもその立場は千差万別であることも、魔王だったころから知っていた事実だった。

 人族ヒューマンは魔族と異なり、同じ種族であるにも関わらず様々な国家を作り、別々の政治形態を採用している。

 王政や民主制、連邦制など、様々な国家形態があり、自らの家ないし家族が、どんな国のどのような立場に置かれているのか、というのは人族ヒューマンにとって人生を左右する重大な問題だと聞いていた。

 魔族は魔族として纏まっていたが、それ以外の人型種族はそうではなかったのだ。


 だから、ルルは、自分が人族ヒューマンである以上、自分の家がどのような身分なのか、それを知る必要があると考え、母や、それ以外の家の住人の会話をよく聞いて情報を集めることにした。


 そしてたどり着いた結論は、ルルの家はいわゆる王政をとっている国であるレナード王国、という国の下級貴族であるということ、父は王国に仕えている騎士であり、今は王宮に行っていて、家にいないということだった。


 それはルルにとってそれほど悪い情報ではなかった。

 極端に貧困、というわけではないことは、寝転がったままでも、音の反響や普段から家を歩き回っている人の人数などからなんとなく理解できる。それに、母の血色、それにたまに部屋に来てくれる使用人らしき人物が数人仕えていることなどからも予想していたが、現実にはっきりとわかると、それはそれで安心するものである。


 ただ、不思議だったのは、その王国の名称に全く聞き覚えがないこと、そして母や使用人がたまに使う魔法が、ルルの知っているものとは明らかに異なると言うことだった。


 レナード王国は、建国よりそれなりの歴史を重ねた国であるらしいことは、使用人や母のしているたまの雑談から推論できたのだが、それならば自分は知っているべきではないか、ルルはそう思ったのだ。

 なにせ、人類国家と血で血を洗う争いを繰り広げてきたのだ。

 どこにどのような国があるかはしっかり知識として覚えていた。


 けれど、記憶をいくら掘ってみても、レナード王国などという国の名は記憶になかった。

 これは奇妙なことである。

 もう少し成長して、ある程度自由に行動できるようになったら改めて調べなければならないと思った。


 魔法については、しっかり前世には存在していたから、その存在自体をどうこう言うつもりはない。

 けれど、その使い方が奇妙だった。

 まず、なぜか母も、使用人も、指輪や杖などの魔術媒体を使い、しかも長々とした詠唱をしてから魔法を使うのだ。

 彼女たちが使っているのは、低級の、たとえば火をつけるとか光を生み出すとかその程度のものでしかなく、そんなものは魔術媒体も詠唱も使わずにそれこそ頭に考えただけで使用できるものだ。

 なのに、彼女たちには出来ないらしい。これはきわめて不思議なことだった。

 それに、その詠唱もまた、おかしかった。

 たとえば小さな光の玉を作る魔法。

 それは魔術言語で詠唱されていたが、


『呼ぶ…光……燃える…くる』


 などと言った、かなりめちゃくちゃな文法と単語の組み合わせによって作り上げられていた。

 なぜ、こんなことになっているのか。

 これもまた、調べる必要があるとルルは思った。


 そして最後は、ルル自身のことだ。


 ルルは、自分が前世において、魔王だったという記憶を持っている。

 これは、生まれ変わったらしい、という前提を考えればおかしなことではないかもしれない。

 ただ、そもそも生まれ変わり、というものは普通、記憶の継承というものが起こるとは考えられてはいなかった。

 なぜなら、前世の記憶を覚えている、などと宣う人間など、ルルが魔王だったころも殆どおらず、またいたとしても、それは嘘だったり、狂人の戯れ言であるに過ぎなかったからだ。


 それなのに、現在、ルルはしっかり前世のことを覚えているし、思い出せている。

 記憶に欠けもないことも、赤ん坊として寝転がりながら思い出すいくつもの思い出を反芻することではっきりした。

 通常の忘却くらいはあるかもしれないが、記憶に不自然な欠落があったりはしない。

 勇者に刺されたそのときの事すら、はっきりと覚えているくらいだ。

 流石に死亡した瞬間については曖昧だが、それは眠りに落ちる瞬間のことをはっきりと認識できないのと同じレベルの話だろう。


 それにしても、前世の記憶をはっきり覚えているという事は、おかしなことと言うべきだった。

 しかし、これが間違いであるとか、記憶違いであるとか、そういうことはおそらくないであろうとも思った。

 そもそもルルは赤子である。

 誰にも教えられずにこのような知識や物語を作り上げた、ということはあり得ないと断言できるだろう。

 なのにどうしてこんなことを知っていて、覚えていて、そしてものを考えられるのかと言えば、それは前世から継承したからだ、と考えるべきだろう。

 だとすれば、そのことに何か深い意味はあるのだろうか。

 それとも何の意味もないのだろうか。


 その答えは、いくら考えてもわからない。

 ただ、もし何か意味があるのなら……。

 その意味を、いつか探し出したいと、ルルは何となく思ったのだった。


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