第3話
翌日から捜索を開始した。午前中で各々のプライベートな用事を済ませ、昼食後、街へ赴き夕食の時間まで地図を片手に訪ね歩く。
1日目は何の手掛かりも掴めなかったが、まだ明日があるという気持ちが強かった。だが、2日、3日と有力な情報が得られないまま日数が経過していくと、焦りと疲れと苛立ちが見え隠れしてきた。
玲たちの住む街は、そう大きくはない。それでも、駅の周辺には、高層、中層のビルが建ち並び、大型デパートやアーケードのある商店街がある。銀行や生命保険会社などの金融機関の支店も多く、人の流れは決して緩やかではない。
コンビニやファストフード店、ゲームセンターやレンタルショップなど若い層をターゲットとした区画もある。
東京のど真ん中のような殺伐とした喧噪感や騒擾感は薄いものの、最近ではどこも近づけたいのか似たような街になっているような気がする。
商店街におしゃれな化粧タイルを敷き詰めたり、常人には理解しがたい抽象的なモニュメントを設置したりする。その横で古くからの老舗の店先をそのままにしているところもあったりするものだから、ジグソーパズルで違うピースを無理矢理詰め込んだみたいになっていた。しかしながら、その違和感に気づく人間はいないのかもしれない。
遠くの親戚より近くの他人とはいうものの、最近では、隣人に関心も興味もない。ときおり話をすることがあっても目も合わせない。
少年を見掛けたことがあると答えたものは皆無といってよかった。聞き込み先で尋ねた人は、総じて、視線を合わしてはくれなかった。これでは人の顔など覚えていようはずもない。
人を捜すのがこれほど難しいとは思いもしなかった彼らである。
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3月31日、捜索4日目で進展があった。
街の中は一通り当たってしまい途方に暮れていたとき、彼方が住宅街の方を回ってみようといいだしたのである。住宅街には公園があるから、そこで遊んでいる子供たちに何か聞けるかもしれない。それに、幼児がいる家庭の母親や、老人は、決まった時間に散歩に出ていたりすることもある。
案の定、公園には、小学生や幼児とその母親がたむろっていた。しかし、残念なことに、誰も玲の王子様については知らないと首を振られてしまった。
いよいよお手上げかと思ったときである。ふと、彼方の第6感に働きかけるものがあった。
「どうした、彼方」
一点を凝視する彼方を不審に思い、克臣が声を掛ける。
「あれ……」
彼方が指差す方向に、真也と貴英も首を巡らせた。色とりどりの花がバケツに差し込まれ、植木鉢が所狭しと並べられている。どこから見ても花屋、である。
「花屋がどうかしたのか」
「違うよ、貴英。その隣だよ。駄菓子屋っぽくない?」
古い家をそのまま店にしたような控えめな木造建築だ。隣の花屋の洗練された店先とは雲泥の差があるが、懐かしい佇まいではある。克臣と貴英が同時に、あっ、と声を上げた。
「行こう!」
店内には、初老の男性が店番をしていた。人を捜しているというと、快く話を聞いてくれた。似顔絵を見ると、あっさり知っていると答え、つい最近も顔を出していた、というではないか。
男性の話によると、少年は、2、3年前から見掛けるようになり、よく菓子を買いに来ては、店先で話し相手になってくれるという。ただ、普段は見掛けないが、夏休みや冬休み、ゴールデンウィークなどの長い休みにならないとやってこないので、この辺りに住んでいるのではないはずだとつけ加えた。
今度来たら連絡をくれないかと頼むと、承諾してくれた。お礼のつもりで、買い物をして帰ろうとしたとき、呼び止められた。
「この前きたときな。隣の花屋で白百合をたくさん買っていった子がおってな。それが、また、えらく可愛らしい子で、坊主、ぽおっとなって見てたと思ったら、その子についていってしまってな。あれからどうなったか、ちょっと気になっとるんだよ」
その日の夕食の席は、面白がって買い込んだ駄菓子が散乱していた。
「すると、そのおじいさんの話を整理して考えると、その小学生はこの街の住人ではなく、この街に親戚がいる、ということなんですね」
別行動を取っていた3人に駄菓子屋の主人の話を聞かせると、みんな、顔を綻ばせた。
「多分、そういうことなんじゃないかな。長い休みになるたび、知り合いを尋ねるっていうのも、まあ、なくはないけど、ちょっと無理があるかなあって。父親の単身赴任先に遊びに来たとも考えられるけどね」
「じゃあ、今度、その子がおじいさんのところに来たら連絡してもらえるんだよねッ。やったね、玲ちゃん!」
「もしも、この春休みがダメでも、すぐにゴールデンウィークがきますしね。少し楽しみが先送りになる可能性はあるにしても、無意味に捜しまわるよりはるかに建設的です」
玲は、半分諦めなければいけないかと思っていたところへの朗報に、うまく言葉が出なくて頷くばかりである。嬉しさのあまり、目元も潤みかけていた。
「とにかく連絡待ちだよね……って、ちょっと、かっちゃん、うるさい!」
克臣は、駄菓子屋で菓子以外にも昔ながらの玩具を買い込んでいて、食堂に集まっている他の寮生と騒いでいるのだ。さきほどなど、飛ばした竹トンボが貴英の飲みかけのコーヒーカップの中に入ってしまい、散々美雪に注意されたのだが聞きやしない。今は、ベーゴマで対戦をやっているようだ。
「あれは、聞こえていませんよ」
司も呆れている。
「ところで、誰あてに連絡が入るんです?」
「真也の携帯だよ」
「……真ちゃんの?」
美雪が貴英にちらりと視線を向けた。貴英もその視線を視線で受け止める。
「何、ミユキちゃん。真ちゃんに連絡入るとダメなの?」
「あ、えーと、そうじゃなくて……。ごめんね、気にしないで、ね」
首を傾げる玲に、深く考え込ませないよう、美雪は無理矢理話のベクトルを捻じ曲げた。
「それよりも! 玲ちゃん、おめでとう!」
「え? 何が?」
「もお、おとぼけさんッ。相手の子も玲ちゃんのこと好きみたいじゃない!」
「で、でも、直接聞いたわけじゃないし、まだ分かんないよ……」
耳まで真っ赤になって反論するが、まんざらでもない様子だ。司も彼方も知らず知らずのうちに微笑んでしまう。
盛り上がっている3人に気づかれないよう、美雪は貴英の袖をツンツンと引いた。心得て頷くと、貴英は立ち上がった。
「じゃあ、俺はそろそろ戻るよ」
「あ、僕も帰るー。連絡あったら教えてね」
「うん。ありがと、ミユキちゃん」
「司くん、彼方くん、お疲れー」
「お休みなさい」
「また明日ね」
振り返るとすでに貴英の姿はなく、美雪は慌てて食堂を飛び出した。貴英の姿を捕えられず、きょろきょろとしていると、ふいに後ろから抱き締められた。
「何でそんな子供みたいなことするの」
言葉とは裏腹に瞳は笑っている。
「子供だからな」
「ずいぶん大きな子供だね」
クスクス笑って、後ろから回された腕に自分のそれを絡める。
「貴英くん。真ちゃんのことだけど」
「ああ。ナンバーはちゃんと真也のものだったよ。嘘は教えていなかった」
「そう。じゃあ、連絡があったことを、真ちゃんが玲ちゃんに伝えるか、だね」
懐疑の目で友人を見るのは辛いが、ここから先は、もう当人同士の問題だろう。
「美雪」
「ん?」
「もうふたりのことはいいだろう? な?」
「……ばーか」
真也は、ひとりで図書館裏の池の前に立ってぼんやりとしていた。手には携帯電話を持っている。
食堂前の中庭とは違い、この裏庭は学園敷地内の一番奥まったところにあり、柵のすぐ向こうの雑木林の枝が大きく屋根のように生い茂っているため、昼間でも気味が悪いくらい暗く、滅多に人もこない。夜になるとなおさらだ。
真也は携帯電話を持った手を振り上げ、そのままの姿勢で静止した。池に投げ込みたかったのだが、思い直してジーンズのポケットに無造作に突っ込んだ。餌以外のものなど放り込まれても嬉しくない鯉は、ほっとしたに違いない。
溜息をついて夜空を仰ぐ。風に煽られてザワザワとさざめく葉擦れの音に耳を澄ますように瞳を閉じる。
3年だ。玲を見つめて3年が経っていた。
顔はめちゃくちゃ可愛いのに、暗いヤツ。それが真也の玲に対する最初の印象だった。
中等部に上がって、それまで同室だったものが転校していき、替わりに玲が入室してきた。話しかけても生返事しかせず、食事も取らずに呆けたようになっていることが度々あった。授業だけはよく聞いているようで、成績だけはかなり上位に位置していたが、それ以外になると危なっかしくて見ていられなかった。
階段を踏み外したり、ボールを頭で受けてみたりはまだ可愛い方で、車が突っ込んできても避けないし、いかにもなお兄さん方にナンパされて連れて行かれそうになったこともあるしで、真也は、一時自殺志願者なのかと頭を悩ませた。
よくよく観察してみると、玲は何に対しても興味がないのだということが分かってきた。教師にも、クラスメイトにも、学校行事にも。そして、自分自身にさえも関心がなさそうだった。
とんでもないやつが同室になったと思ったが、あまりの酷さについ手を焼いてしまった。面倒臭い反面、自分が末っ子でかまわれっぱなしで他人の世話を焼くという経験がなかったこともあり、兄貴面できるのがちょっと嬉しかったりもしたのだ。
そんなある日、職員室で授業で行う実験準備について化学教諭から説明を受けていたときのことである。担任と学年主任の話が漏れ聞こえてきたのだ。
話は、玲の生活面の心配であった。授業態度は模範的だが、生活態度に問題ありだというのだ。だが、同室の真也がよく気をつけてくれているようだから、もう少し彼に任せてもいいのではないかという話に落ち着いたとき、さすがに照れ臭かった。教師たちは、そこに真也がいることには気づいていなかったようで、さらに話を続けた。
「我々の年齢でも母親に死なれるのは辛いですからねえ」
「まだまだ甘えたい頃だろうからなあ」
結局、真也は実験準備の説明を2度聞く羽目になり、人の話を聞いていなかったご褒美に実験準備室の清掃を命じられた。しかし、手に入れたカードは大きかった。
あの気の抜けたやる気のなさ、何にも興味を示さないあの態度、失われた他人への関心、暗い表情は母の死が原因だったのだ。
それからいろいろ聞きこんで、玲の母の病状と当時の玲の様子を調べ上げた。幸いというべきか、玲の母は、真也の両親が経営する病院で息を引き取っていた。
真也の家は総合病院であるため、元気になって退院していく者もあれば、逆にベッドから棺桶に直行する者もいる。身内の死を目の当たりにして茫然自失に陥ってる遺族を見ることもある。今の玲とよく似ていた。
事故などで急に傍からいなくなられることも当然辛い。しかし、長年の看病の末となると、看病している家族も気が張りつめていることに気づかず、突然糸を切られるものだから、その糸を手繰り寄せる術を思い出せない場合がある。
糸が切れた操り人形のように、心がくたりと眠ってしまったまま起き上がれなくなる。誰かが糸を結び直してくれれば、あるいは、自分で修繕できれば、それでいい。人生経験の浅い玲がそれを知っているかが問題だった。
うっとうしい梅雨に差し掛かろうかという頃、真也は、相変わらずベッドに腰掛けて虚ろな目をしている玲にいった。
「おまえ、母さんが死んだんだってな」
目の焦点がゆっくりと合って、玲は、辛そうな表情で真也に顔を向けた。父親でさえ、母親の死に関して語ることは避けているのに、どうして単に同室であるというだけで何の関係もない真也がこんなことをいい出すのが不思議だった。
真也は、玲の前にしゃがみ込み、彼の身体を挟み込むようにベッドの縁に手をついた。玲を真っ直ぐに見据える。
「ちゃんと泣いたのか?」
「……泣……く?」
「母さんが死んだとき、涙は出たのかって聞いてるんだ」
「……お父さんが……泣いちゃダメだって……。男の子なんだから強く……って」
真也は舌打ちした。玲をこんなにしたのは母親だけでなく父親も一枚噛んでいたとは。
「あのな。母さんが死んで泣いちゃいけないなんて決まり、どこにもないんだよ。男だって悲しけりゃ泣いていいんだ。そうやって耐えることが強いわけじゃないんだ」
目の前のきれいな瞳が微かに揺れた。
「泣けよ。泣いていいんだよ。涙には浄化作用があるんだ。母さんが死んで、もう二度と会えないんだってことちゃんと認識して自分の中で昇華しないと、おまえ、このまま潰れるぞ。それでもいいのか?」
腕を掴んで乱暴に身体を揺する。無抵抗の玲。
「泣けって。もう何やったって還ってこないんだよ! 今のおまえの腑抜けた姿見て、母さんが安心できると思ってるのか?」
人形に命が吹き込まれるかのごとく、徐々に表情が出てくる。真也は腕を掴む手に力を込めた。
「俺は両親が揃ってる。だから、おまえの気持ちは分からない。でも、ひとりが辛いなら傍にいてやる。母さんの代わりはできないけど、傍にはいてやれる。俺は突然消えたりなんかしない。な、玲、って呼んでいいか? 俺のことも真也でいいからさ」
形のいいピンクの唇がぎゅっと噛み締められた瞬間、瞳に盛り上がった涙が頬を滑り落ちた。真也は、あとからあとから伝い落ちる雫を見て、ほっと息をついた。
「……真……ちゃん」
「真ちゃんって、そんなガキみたいに……。ま、いいか」
母親が幼い子供においでというように、真也は玲に両手を差し出した。玲の腰がベッドから浮いて、そのまま崩れるように真也の胸に身体を預けた。小さな身体をしっかりと抱き留めて、しゃくりを上げる背中を優しく撫でた。
玲の涙が止まるまで、真也はずっと離れなかった。その夜は、ひとつのベッドで身を寄せ合った眠った。
そんなことがあってから、玲は、少しずつではあったが変わっていった。笑顔を見せることが多くなり、話もするようになった。真也の友人も玲を受け入れて、その輪は広がっていった。
だが、やはり、ぎこちなさは残った。俺がカバーしてやらなければと、真也は、今まで以上に玲にかまった。玲がいい方に変わったのは、俺の存在が大きいんだ。俺が玲の心を開いたんだ。やがて、玲には自分がついていてやらなければいけないと思い込むようになり、熱い友情はせつない恋心と醜い独占欲に変わっていった。
自分に呼び掛ける唇に、自分に触れてくる指先に、心臓を跳ね上げながらも想いはまだ伝えていなかった。
まだ、早い。玲の内面はまだまだ子供だ。時間はまだある。そう思っていたのに、どこで間違えたのだろう。
冷たい風が、一際大きく枝を撓らせる。真也は、自分で自分の身体を抱き締めた。寒いと感じるのは、この夜の空気のせいだけではないだろう。池の鯉が跳ね上がる水音が、妙に寂しく耳の中に木霊した。
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桜華台学園は、その名のとおり、桜の木が学園を取り囲むように植えられている。今年は寒い日が多く、開花にはもうしばらくといったところか。
玲は、中庭のベンチに腰掛けて、桜の枝を見上げていた。真也の様子が変なので、何となく同じ部屋で一緒にいるのが辛かった。
「れーい」
呼び掛けられて振り向くと、彼方が缶コーヒーを2本持って笑っていた。1本を玲に差し出す。
「ありがと」
「何してたの?」
「別に、何も。ぼおっとしてただけ」
「幸せを噛み締めてるわけだ」
「やだ。そんなんじゃないって」
彼方は、倒れないように缶をベンチに置いて、膝を抱えた。
「これで、中等部3大アイドル全滅かあ」
「何、それ」
「だってさ。ミユキには貴英だろ。司にも誰かいるって噂だし。玲も片づいちゃうし」
くすくすと笑う玲に、笑いごとじゃないと不満げに呟く彼方。
「彼方くんは誰か好きな人いないの?」
うーん、と考え込んで、肩を竦める。
「友達として好きなら人ならたくさんいるけどなあ。あ、そうだ。忘れてた。明後日、みんなで水族館に行かないかってさ」
「克臣くんだね」
「男子高校生が集団で水族館ってのもどうかと思うけど」
「いいじゃない。きっと楽しいよ」
玲は、立ち上がって春の陽気を胸いっぱいに吸い込んだ。
「桜、早く咲かないかな」
「あと、2、3日で咲くよ、きっと」
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4月3日の朝食後、みんなは水族館へと出掛けていったが、真也は、とてもそんな気にはなれず、惰眠を貪っていた。ここのところ、眠りが浅い。午後になって遅い昼食を取り、部屋へ戻る途中、何げなく図書館に目を向けた。閉館のはずの図書館の窓のカーテンが一か所だけ開いていた。
誰かいるのだろうか。扉の上半分はガラスになっていて中の様子が見える。閉館と書いたプレートが内側からぶら下げられている。館内の電気は消えていた。しかし、本の返却日を記したプラスティックの日付板や、生徒の貸し出しカードが置かれたカウンターの奥にある司書室から灯りが漏れていた。
ノヴに手を掛けると、何の抵抗もなく扉は開いた。中に入ると、ひんやりとした空気が肌を撫でた。古い紙の匂い。
真也自身にあまり本を読むという習慣はなかったのだが、玲が図書委員をやっていたので、図書館にはよく来る方だった。
「誰だ?」
ふいに声を掛けられ、真也は、悪戯が見つかった子供のように身体を硬くした。司書室から見知った顔が覗いていて、緊張が解ける。
「万里先輩」
「やあ。飯塚か。久し振りだな。ひとりか?」
図書委員会長の大垣万里だ。終業式前の玲の当番以来だから、2週間以上会っていないか。
彼は、双子の片割れであるため、姓で呼ぶとふたりとも振り向いてしまうので、名前で呼ばれることが定着していた。
各学年にアイドル的存在の生徒は2~4人いるのだが、真也たちの一学年上では、この大垣万里と弟の大垣千里が人気を二分していた。
口数が少なく、クールなポーカーフェイス。シルバーフレームの眼鏡の奥の瞳は理知的で、人を寄せつけない冷やかさを持っている。だが、そのつれないところがいいのだと大人気だ。怪しいファンクラブのようなものが存在しているが、もちろん、本人の知るところではない。
かたや、弟は、兄とは正反対の性格で、明るい社交家タイプだ。来るものは拒まず、去る者は追わず、とさっぱりとしているが、なかなかの遊び人である。いつも楽しい話題で人を惹きつけていて、貞操観念はやや軽い。兄と違って食い散らかしている。
玲にくっついて図書館に来てはいるものの、実際、玲が委員の活動をしている間は暇を持て余していた。図書館なのだから本を読んで時間を潰せばいいのだろうが、何を読んでいいのやらさっぱり分からなかった。そんなとき、万里が声を掛けてくれ、面白そうな本を見繕ってくれたのだ。
活字を見ると眠ってしまうと思い込んでいた真也だが、万里の選んでくれた本は不思議と読みやすく、楽しめた。そんなことがあってから、万里と話をするようなったのだが、彼と話していると、敬慕と羨望と嫉妬と殺意の入り混じったなんとも不快な視線に射抜かれて怖いものがあった。
話し掛けるのをやめてくれないかな、と思った時期もあったが、彼は、自分を見つけると必ずといっていいほど声を掛けてきたし、思慮深い本の好きなこの先輩に対して好意を持っていたので、視線に関しては無視することにしていた。
「先輩こそひとりで何やってんですか?」
「新刊の補強をな。おいで、コーヒーくらいなら淹れられる」
万里を無口で無愛想だという者も多いが、部外者の自分にもこんなに優しいのに、一体どこを見てそんなことをいうのか、真也には不思議だった。その優しさが自分にだけ向けられていることに気づいていない真也である。
司書室の中には、司書用の机と資料用の本棚、小さな作業台が置かれていた。その上に、真新しい本が積み重ねられていた。狭いスペースではあるが、奥には水道もあるし、小さな冷蔵庫や食器棚も設置されている。
長い休みになると、司書も休暇を取るため、図書館は閉館になる。委員長である万里はスペアキーを持っているため、ときどき、こうして勝手に利用しているのだ。司書は、あまり仕事熱心といえる人物ではないので、実質的な管理は万里が行っているようなものだ。
「今日は、篠宮は一緒じゃないのか?」
ポットからコーヒーを注ぎながら尋ねる。
「……一緒の方がよかったですか」
「いや、俺としては君だけの方が……」
「え……?」
万里の言葉の意味が掴めず、聞き返す。
「何でもない。気にしないでくれ」
わざとらしく咳払いなどしながら、カップのひとつを真也に差し出す。自分のカップを作業台の上に置いて、万里は新刊の補強に戻る。
「俺、しばらくここにいてもいいですか?」
「かまわないよ。どうせ誰も来ない」
「何やってんですか、それ」
真也は、司書の机の下から椅子を引っ張り出して座ると、横から覗き込んだ。大きな透明のフィルムシートに、ボンドや鏝が並んでいる。そして、なぜか針山に待ち針。真也には何をどうするのか見当もつかない。
図書館の本は多数の人間が読む。悲しいことだが、書物を大切に扱う人ばかりが読むわけではない。時間の経過とともに傷んでいくのは避けられない。カバーなど破れてしまってみすぼらしいものだ。
新しい本を購入し本棚に並べる前に、カバーを数ミリ切り落としボンドで本体に貼りつけ、その上からブックカバーのようにフィルムシートを被せてしまう。こうしてしまえばカバーが外れることもなく、補強にもなるのだ。
鏝は背表紙部分を張りつけるときに使用し、針はフィルムシートと本の間に入ってしまった空気を抜くのに必要だ。さほど難しい作業ではないのだが、気を抜くとカバーがずれたり、空気が入ったりするので気は遣う。
「やってみる?」
万里に本を差し出されて、真也は慌てて首を横に振った。
「無理ッ。絶対失敗するッ」
軽く笑い声を上げて、万里は、差し出した本を自分の元に戻しボンドを手に取った。真也は、器用に動く万里の指先を見つめている。そんな彼に、頬が緩みそうになるのを必死で堪えている万里である。
この後輩が気になりだしたのはいつ頃だろう。委員会に可愛い子が入ってきたと、みんなは玲に気を取られていたが、万里は保護者気取りで彼にくっついている真也の方に目がいっていた。
ある日、本を手に取っては顔を顰めて棚に戻すという動作を繰り返していた彼がおかしくて、ついお節介を焼いてしまった。
話してみると、元気で物怖じしないし、少し悪ぶってみせるところもあるが、根は素直だということが分かった。近くで見るとなかなか整った顔立ちをしており、女顔というわけではないのだが、何となく庇護欲を掻き立てられる。甘えるのも上手で、テスト前にやってくるのも可愛らしい。
あれこれとかまいたくて、知らず知らずのうちに目で追っていた。中等部と高等部では滅多に会う機会がなく、1週間に1度、玲が当番日の放課後だけの独りよがりの逢瀬が、気持ちを固めてしまった。いつの間にか、その日を待ち遠しく思っている自分がいた。一度転がり出してしまえば、あとは加速がつくだけだ。
「……先輩」
「なんだい」
「好きな子、いる?」
いきなりな質問に、危うくカバーを破り掛けた。
「……それは、まあ……」
「どんな子?」
「どんなって……」
とても冷静に作業できる状態ではなくなった万里は、手を止めた。この作業はやり直しがきかない。
「その子に、他に好きな子がいたらどうしますか? 諦めますか?」
「状況にもよるけどな。……奪って逃げようか」
「先……輩……?」
万里がいやに真剣な眼差しで自分を見ていたので、真也は、一瞬ドキッとした。ふたりの視線がぶつかり、しばらく見つめ合っていたが、先に逸らしたのは真也の方だった。何となくその場に居辛くなって、立ち上がりかけたとき、万里が話題を変えた。
「さっき食堂で聞いたんだが、人を捜してるって?」
雰囲気が和んでホッとした気持ち30%、あまり触れてほしくなかったという気持ち70%。しかし、尋ねられて答えないわけにもいかず、面白くなさそうに玲の王子様捜しの一件を説明した。
「飯塚。その小学生……」
「はい」
「多分、俺の従兄だと思う」
「……え?」
「早川亮介。3月25日ならうちに来ていた。親の転勤の関係で引っ越し準備があったから翌日には帰ったが……。明後日の入寮式には戻ってくる」
万里の声は耳に入ってくるのに、脳に届かない。今、万里は何といった?
「入……寮?」
真也は目を見開いて万里に詰め寄った。
「入寮ってどういうことですか!」
「親が東北に転勤するんで、亮介は寮に入ることになったんだよ」
「そ……んな……」
自分が駄菓子屋の店主からの連絡を握り潰せば時間を稼げると思っていた真也は、愕然とした。入寮なんかされたら、ふたりは間違いなく出会ってしまう。
「先輩。このこと誰にもいわないでください」
「だが、篠宮は亮介を捜しているんだろう? 教えてあげれば早いじゃないか」
「駄目だッ。絶対、いうな!」
真也は立ち上がると、司書室から飛び出した。
「飯塚!」
あとを追い、腕を掴み自分の方へ振り向かせる。強い力に真也が顔を顰める。
「俺がいわなくても千里の耳に入れば同じことなんだぞ。そうでなくとも編入してくるんだから」
「会わせるもんかッ!」
「飯塚……」
「何で先輩まで邪魔するんだよッ。何でみんなして俺の気持ち、無視するんだ!」
そうとう我慢していたのだろう。いつも優しい万里の前だから、気が緩んだのかもしれない。
「玲が好きなんだ……。ずっと……、ずっと好きだったんだ。何で、俺じゃないんだよ!」
ズキンと万里の胸が痛んだ。堰を切ったように頬に流れ落ちていく涙が、足許に染みを作っていく。万里は、抱き締めたい衝動に駆られながらも、肩を震わせて泣いている真也を見つめることしかできない己が情けなかった。
<続>