アイについて
昨今話題のAIについて個人的見解を書きました。
読むべきではないです。
昨今創作界隈を賑わせている、AI問答について。
まずは、私のこだわりを先にお伝えしたく思うのだが、表題をAIではなくアイとしたのは、単純に何だかその方が恰好がついているような気がして、その中に少々の可愛らしさと禅問答のように無限に続く探究心というべきか、深淵というべきか、そうした抽象的なあいまいさを表現出来ているような気がして、つまるところ、なんとなく、そうしてみたくなったというわけである。
お前はいったい何を言っているんだ。
読者諸賢に置かれましては、このそれこそ禅問答のような文章をながめ、この作者は気が狂っていると思われるかもしれないが、実のところ、その『私のこだわり』というやつが本作の最も重要なところなのである。
そして、もうひとつ先にお伝えしておくべきことがある。
私はAIを否定する気はなく、その存在も認めている。残念ながら、認めざるを得ないと言ったところだろうか。読者諸賢も理解しているはずだ。なんてことはない、私は敗北を認めているのだ。私よりもAIの方が賢いということを、私はそれが普及してから数年経った今にようやく認めるに至った。てめえよりも明らかに賢いモノを相手取って、威張り散らすなど愚の骨頂。そんなことは学びを得ぬ者がすることである。ようするに、私は考えに考え抜いた意見や誹謗中傷を、AIに論破されるのが怖かった。
こんなことがあった。
一世一代の有馬記念、様々なデータベースに血走った眼を這いつくばらせていた時、ある友人がそんな私をあざわらった。AIに聞いたらいいじゃん。私はそれで三連単当たったよと奴は言った。その瞬間、我々の間には明確な亀裂がほとばしった。
第一に三連単を当てたことが許せなかった。次に、こいつは競馬の楽しさを何も分かっていないと思った。様々なことを考慮するけれど、結局のところ走ってみないと分からないところが、競馬の楽しさなのだ。これは用法と要領の線状にある娯楽である。それで当たったって嬉しくない。
馬たちは生きている。そう言いかえしたら、鼻で笑われた。忸怩たる思いである。私は握りこぶしを作ると、それをそいつに見せつけてやった。ぶってはいない。私は平和主義者である。そのこぶしをただみせつけてやったのだ。
結局、その時の有馬記念は共々外れた。私の保険にしていた単勝で掛け金が返ってきたくらいだった。
この話は、私の表題について述べた『私のこだわり』に似ている。反AIを謳う人間は、そうしたものを尊んでいるのだ。言葉は様々ある。詫び寂び、風流などの古風な言葉から現代にのぼると、エモいなどと言われることもある。「月が綺麗ですね」がプロポーズになるのもそうだ。言葉では言い表しようのないものを、どうにか形にする創作という尊いものに、感情や感傷が介在しない機械が、外面だけ同じように振舞っているのが、彼らには許せないのである。
だから声高に叫ぶのだ。何も分かっていない。私たちの感情も感傷も分かっていない。ふざけるな。過程はどうでもいいって言うのか。過程こそに美学があるとは思わないのか。見栄えだけよければいいのか。言葉にもならない慟哭が、身体を締め付けている情動が、あれを認めるなと訴えている。
だけど、必死に考えた言葉や文章は時代の進歩に飲み込まれていく。AIはやれと言えば、反AIの立場で言葉を吐く。文豪の血を取り込めば、私たちよりも感傷豊かな表現を生み出すようになる。いともたやすく、無機質に人を殺す事も出来る残酷な機械に、私たちはひれ伏している。
それでも私は、掛け値なしの敗者として言葉を紡ごうと思う。
だからなんだ、と。
この問答に答えなどない。犯罪を犯さぬ限りは水掛け論、平行線である。
AIは思考することがない。自身の意思で言葉を紡がない。その通り。それすらもプロンプトに組み込めばいい。その通り。全部全部その通り。何が正しいだとか、何が正しくないだとか、そんなことはどうだっていいのだ。
生きていることに理由など要らぬ。文章を生むことに理由など要らぬ。いつだってすべての中心にそびえるのは、その圧倒的な自尊心である。すべての民草よ、己を肯定せよ。AIなど歯牙にもかけるな。すべての創作者たちよ、己が作品を誇れ。書くのも、描くのも自分のためだ。誰かのためじゃない。自身を証明するために。AIと喧嘩をするためではなく、この世界を良いものだと思えるように。アイを掴め。アイを繋げ。ほら、なんとなく、それっぽくなるではないか。
もし、それでもAIが行く先を遮るのなら、それを呑み込みアイとするか、あるいはいさぎよく死ね。
前述の文章で何を伝えたいのか、もし分からなかった時は、それは作者である私の思うつぼである。何故なら、敢えて支離滅裂にしているからだ。もちろん私の実力が劣っているからではない。なぜそんなことをするのかというと、それは当然そうしたくなったからだ。私の行動原理のすべては、そうしたくなったからに帰結する。これは今だ檻の中にいるAIに対する当てつけでもあるし、自由への翼でもあるし、私の実力が劣っているからでもある。
書きなぐったこの文章をもし読む者があれば、ひとつだけ言い添えておきたい。
同胞に幸あれ。電脳と知能のシナプスの先にある大海にて待つ。私に会った時の合言葉を決めておこう。ではよき旅を。
「AIなどくそくらえ」
ね、読むべきではなかったでしょう?




