第14話:朝凪のフェリーと、新しい人生の出発進行
まぶたを叩く、暴力的なまでの白光に意識を引き戻された。
網膜の裏側で火花が散り、意識の混濁がゆっくりと、しかし確実に晴れていく。まず感じたのは、頬に触れる砂のざらついた質感だった。瀬戸内の柔らかな陽光を吸い込んだ砂粒が、ちりちりと熱を帯びて肌を焼いている。耳元では、寄せては返す波の音が、低く穏やかなメトロノームとなって鼓膜を揺らしていた。
僕は、重い鉛の塊のような体をゆっくりと起こし、薄目を開けた。
視界いっぱいに広がったのは、吸い込まれるような瀬戸内海の紺青。それが水平線の彼方から差し込む朝日の眩光によって、一面の黄金色に染め上げられている。
「……生きて、いる」
掠れた声で呟き、自分の掌を目の前にかざした。
昨日まで、指先は「あちら側」の景色が透けて見えるほど希薄になり、輪郭さえも霧のように揺らいでいた。けれど今、そこにあるのは、日の光を反射して赤みを帯びた、生々しいまでの肉の厚みを持った僕の手だ。爪の間に詰まった砂、皮脂の匂い、脈打つ血管の拍動。そのすべてが、僕がこの世界に踏みとどまったことを証明していた。
ぐう、と腹の底から情けない音が鳴り響いた。
同時に、喉の奥が焼けつくような強烈な渇きを訴え始める。砂を噛んだような口の中の不快感も、石のように重く気だるい四肢の節々の痛みも、今の僕にとっては愛おしいギフトだった。これまでは「不快なノイズ」として拒絶し続けてきた生身の感覚。それが今は、何よりも確かな「生存の証」として僕の魂を現世へと繋ぎ止めている。
砂浜に手をつき、よろめきながらも立ち上がる。
背後を振り返れば、昨夜の決戦の舞台となった弥山の山影が、深い緑を湛えて沈黙を守っていた。あの峻厳な頂で、弘法大師ゆかりの霊火を掲げ、広島の街を侵食しようとしていた「渇きの群体」の悲痛な叫びを、僕はすべて受け止めた。山から流れた「鉄」の業。それが川を下り、都市の悲劇となって堆積したものを、潮の満ち引きという母なる大海の循環へと解き放ったのだ。
鼻を突くのは、あの忌まわしい死の腐臭や、怨念が焦げたような瘴気の匂いではない。
すべてを洗い流し、無へと還す清涼な潮の香り。
そして、かすかに自分の制服から漂う、古い枕木の防腐剤――クレオソートの油臭さ。
失踪した祖父・天城総一郎の影を追い、一週間にわたって中国路を駆け抜けた葬送の旅が、今、終わりを告げようとしていた。
僕は朝日を背負い、まだ人影のまばらな宮島の表参道へと歩き出す。
鹿たちが、不思議そうな顔をして僕の傍らを通り過ぎていった。彼らの澄んだ瞳には、今の僕はどのように映っているのだろうか。迷い子ではなく、一人の「生者」として認識されているのだろうか。閉まったままの土産物屋の軒先、冷えた石畳を踏みしめて、僕は桟橋へと向かう。
一歩、足を出すたびに、石畳に落ちた自分の「影」が、より濃く、より鮮明になっていくのがわかった。
それはもう、祖父から借り受けた寿命によって無理やり繋ぎ止められた脆弱な影ではない。僕自身の足で、僕自身の意志で、この世界を歩く決意の刻印だった。
「……待たせたな、ニコレ」
視線の先、フェリー乗り場のスロープ。
潮風に煽られて、見覚えのある、不釣り合いに大きな車掌帽子がふわりと揺れていた。
宮島口行きのフェリー乗り場には、潮風に混じって、現世の喧騒がかすかに届き始めていた。
まだ午前七時を回ったばかりだというのに、島を離れる清掃員や、早朝の参拝を終えた数人の観光客が、眠たげな顔をして改札の前に並んでいる。その列から少し離れた、赤い手摺の横。ブカブカの制服のスカートから二股に分かれた尻尾を覗かせ、ニコレがぼんやりと海を眺めていた。
僕の足音に気づくと、彼女は肩をすくめて振り返り、相変わらずの生意気な笑みを浮かべた。しかし、その耳は驚きを隠しきれずにぴくぴくと震えている。
「おっそい。あんたが砂浜でヨダレ垂らして寝てる間に、フェリーが二本も出ちゃったじゃない。あたし、マタタビを待つ猫みたいな顔して待ってたんだから」
「悪い。……よく寝た気がするよ。今までにないくらい」
「ふん、まあいいわ。あんたの顔、だいぶマシになったじゃない。昨日の夜は、そのまま塩辛にでもなって消えてなくなるんじゃないかってヒヤヒヤしたんだから」
ニコレは僕の顔をじっと覗き込むと、安心したように小さく鼻を鳴らした。
彼女の瞳には、かつての現金主義的で冷ややかなギラつきではなく、どこか穏やかな、慈愛に満ちた澄んだ色が宿っている。泥人形に戻る恐怖に怯えていた招き猫の付喪神であった彼女もまた、この旅の終わりに、境界の番人としての永劫の命へと昇華されたのだ。
「ニコレ。……これを持っていてくれ」
僕は腰のベルトから、ずっしりと重い真鍮製の道具を取り出した。
菅谷たたらで打たれた玉鋼が混ざっているという、祖父の形見。《魔断の改札鋏》だ。幾多の怪異を切り裂き、神客たちの因果を断ち切ってきたその刃が、朝日の下で鈍く銀色に輝いている。
「え……? それ、あんたのじいちゃんの……唯一の形見でしょ。あたしなんかが持ってていいの?」
「僕にはもう、必要ないんだ。僕はこれから、あちら側の車掌じゃなくて、こっち側の人間として生きていかなくちゃいけないから。それは、境界に残る君の権利だ」
僕は彼女の小さな、しかし温かい掌に、冷たく重厚な鉄の感触を押し付けるようにして手渡した。
「影」を取り戻した今の僕は、もう素手で日常の品々に触れても、残留思念に呑み込まれることはない。呪縛は解かれたのだ。けれど、これからも異界と現世のあわいで迷い子を導き、神客を見送り続ける彼女には、この場所を統べる「正当な権限」が必要だ。
「これは、君が持っているべきだ。……向こう側の車掌として。僕の代わりに」
ニコレは改札鋏を両手で恭しく受け取り、その刃を愛おしそうに見つめた。やがて彼女は顔を上げ、離れがたい惜別の念を必死に隠すようにして、いつもの調子で言い放った。
「……わかったわよ。あんたがどうしてもって言うなら、預かっておいてあげる。あたしがいないと、あのボロ列車もすぐに幽霊だらけになって廃車になっちゃうしね。感謝しなさいよ?」
「頼むよ。……おでんうどんの代金だと思えば、安いだろ?」
「あ、あれは別料金よ! そもそも、あんたが就職して初任給もらったら、一番高い牛すじをご馳走してもらう約束なんだから! 忘れなさんなよ!」
ニコレはそう言って、僕に背を向けた。その小さな肩が、一瞬だけ、微かに震えたような気がした。潮風が彼女の声をさらっていく。
「さよなら、駆。……もう二度と、あたしの列車に『客』として乗ってきちゃダメよ。そんなことがあったら、あたしがその鋏で首をチョンパしてやるんだから」
「ああ。……元気でな、ニコレ」
連絡船の汽笛が、朝の海に長く、低く響き渡った。
それが、僕たちの境界線を引き直す、別れの合図だった。
宮島を離れるフェリーのデッキは、観光客の話し声やエンジンの腹に響くような重低音で満たされていた。
海面を滑るように進む船体に合わせて、朱塗りの大鳥居が次第に遠ざかっていく。昨夜、あの大鳥居の真下で、広島デルタの地下に眠る鉄の記憶と対峙した出来事が、まるで遠い神話の中の出来事のように思えた。
けれど、僕の右手に残る確かな実在の感触。
そして、鼻腔をくすぐる潮風の中のクレオソートの香りが、すべては夢ではないことを静かに告げている。僕はフェリーのデッキに手をつき、潮を被って白く粉を吹いた鉄の手摺の冷たさを確かめた。
かつての僕は、この広島という街を、単なる歴史の教科書に載っている悲劇の場所としてしか捉えていなかった。しかし、この旅を通じて知ったのだ。上流の鉄穴流し(かんなながし)によって削り取られた土砂が、このデルタ(三角州)を形作り、鉄への欲望が兵器を産み、その鉄の記憶が劫火を呼び寄せた。歴史は地層のように重なり、今も私たちの足元で脈動している。
やがて船は、対岸の宮島口へと接岸した。
タラップを降りると、そこには見慣れた、しかし一週間前とは決定的に異なる景色が広がっていた。
国道二号線を走る車の乾いた走行音。通勤急ぐサラリーマンの規律正しい足音。土産物屋の威勢の良い客引きの声。それらはかつての僕にとって、ただの耳障りなノイズ、あるいは社会から疎外された僕を嘲笑う不快な音でしかなかった。
けれど今は、誰もがこの瞬間を、それぞれの痛みを抱えながらも懸命に生きていることの証明のように聞こえる。
僕は潮の香りを背負い、JR宮島口駅へと歩を進めた。
近代的な駅舎の入り口に立つと、自動改札機の「ピッ、ピッ」という規則正しい電子音がリズムを刻んでいた。それは、効率化と合理性の象徴。祖父が生きた、あの「タタン、タタン」という不規則なジョイント音の時代とは違う、現代の音だ。
ポケットを探ると、指先に硬いプラスチックの感触が触れた。
取り出したのは、祖父の改札鋏ではない。どこにでもある、一枚のICカードだ。
一週間前、尾道の路地裏で「奇妙な切符」を拾い、幽霊列車に乗り込んだあの時から、僕の時間は止まっていた。あちら側の世界では、真鍮の鋏で因果を切り裂き、想いを切符に刻むことが、天城の血を引く車掌の役目だった。
けれど、これからの僕が向き合うのは、この冷たい電子音の響く、残酷で、しかし美しい現実だ。
僕は吸い寄せられるように自動改札機へと歩み寄り、カードを読み取り部に翳した。
短い電子音と共に、銀色のゲートが軽やかに開く。
それはかつての僕にとって「冷たい効率化の象徴」であり、自分が社会という巨大なシステムに磨り潰されることへの恐怖の入り口だった。けれど今の僕には、その音が、多くの人々が互いに信頼し合い、前へと進もうとする、力強い「日常の肯定」に聞こえる。
就職活動の失敗。将来への出口のない不安。それらが魔法のように消えたわけではない。明日になれば、また不採用通知に唇を噛み、自分の無力さに打ちひしがれる夜が来るかもしれない。
けれど、黄泉の国を渡り、巨大な未練を背負い抜き、祖父を送り届けた今の僕には、もう逃げ出すという選択肢はなかった。祖父・総一郎が自らの寿命を削って繋ぎ止めてくれたこの「生」を、不器用でもいい、僕自身の足で使い切らなければならない。それが、僕が車掌として最後に下した、自分自身への「検札」の結果だった。
僕はホームへと続く階段を、一段ずつ、噛み締めるように登っていった。
視界の先には、山陽本線の赤いラインを纏った通勤電車が、朝の光を切り裂いて入線してくるのが見えた。
ホームに滑り込んできた黄色い電車は、朝の光を乱反射させて輝いていた。
プシュー、という乾いた排気音と共にドアが開く。
乗り込んだ車内は、通勤客や通学途中の学生たちでほどよく埋まっていた。誰もがスマートフォンを見つめ、あるいは眠たげに窓の外を見つめ、それぞれの日常へと、それぞれの戦場へと向かっている。一週間前まで、僕もその中の一人だった。いや、今もそうだ。
僕は、空いていた窓際の席に腰を下ろした。
モーターの唸り声が床下からダイレクトに伝わってくる。それは、旧国鉄色の気動車が奏でていた、あの内臓を震わせるような重低音とは違う、軽やかで均質な、現代の律動だ。
ふと足元を見ると、窓から差し込む朝日の下で、僕自身の「影」が濃く、はっきりと、地面にその存在を刻んでいた。
もう、指先が透けて背景に溶けることも、体温を奪うような死の虚無に襲われることもない。
僕は、自分の掌をじっと見つめた。
そこにあるのは、多くの命を救い、祖父の魂を目的地へと送り届け、そして自らの生きる権利を勝ち取った、血の通った、泥臭い手だ。
電車がゆっくりと加速し、宮島口の駅舎が次第に遠ざかっていく。
並走する保線用の砂利道に、一瞬だけ、幻が見えた気がした。
大きな車掌帽子を深く被り、二股の尻尾を誇らしげに揺らした猫耳の少女が、線路脇の草むらに立ってこちらを見ている。
彼女は相変わらず生意気そうな顔で、けれどどこか愛おしそうに、僕に向かって小さく右手を振っていた。
「……じゃあな、相棒。あとは頼んだぞ」
僕は小さく、唇だけでそう呟いた。
瞬きをした次の一瞬には、そこにはただの、潮風に揺れる枯れ草と、錆びついた境界の柵があるだけだった。
広島へと向かう列車の窓を、眩しいほどの朝の光が激しく叩いている。
僕が自分の手を見つめると、掌の皺には、微かに「クレオソートの油臭さ」と「清涼な潮の香り」が混じり合った、あの旅の残り香が刻まれていた。
それは、かつて鉄道員として生きた祖父の誇りと、すべてを浄化した海がくれた、新しい人生への誓いの匂い。
就職活動の不採用通知も、将来への不安も、何も解決したわけじゃない。
でも、もう迷わない。もう逃げない。
僕はポケットの中のICカードを強く握りしめた。
かつては冷たい鉄の塊にしか見えなかったこの社会が、今は、無数の人々がそれぞれの痛みを抱えながら、それぞれの「目的地」を目指して走り続ける、広大なレールの繋がりに見える。
「さて、行こうか」
僕は独り言をこぼし、しっかりと前を向いた。
電車は朝日を切り裂き、轟音を響かせながら、僕を乗せて新しい未来へと走り出す。
そのレールの先にあるのは、もう時刻表にはない異界ではない。
僕たちの、等身大の明日だ。
(第14話・完)
(第2シーズン・完)




