第三話 冷たい水の音
田辺さんは、そんな私に苛立ちを隠さず、黙ったままリエさんの机を拭いた。
その動作は丁寧だったが、どこか強ばっていた。
そして無言でバケツの水で雑巾を洗った後、雑巾を干しに行ってしまった。
その背中が教室の出口を過ぎるまで、私はただ立ち尽くしていた。
何かを言おうと口を開きかけたが、結局、声は出なかった。
一人残された私は、そのバケツの水を使う気になれなかった。
バケツの中には、濁った水がゆらゆらと揺れていた。
私はどうしたらいいのか分からず、重たいバケツを抱えて水を捨てに行った。
足元の靴音が、やけに響く。
廊下の奥では、別のクラスの笑い声が遠くに聞こえていた。
それが、どこか遠い世界の音のように感じられた。
蛇口から流れる冷たい水で、静かに雑巾をすすぐ。
水がバケツの縁に当たって跳ねる音が、心臓の鼓動と混ざり合うようだった。
まるで、何かを責められているような気がした。
水面に浮かぶ泡が、少しずつ消えていく。
その泡のひとつひとつが、言葉にならなかった思いのようだった。
胸の奥がざわざわして、鼻の奥がツンとした。
気を抜いたら涙がこぼれそうだった。
でも、泣くのだけは嫌だった。
――ここでは泣かない。
そう自分に言い聞かせた。
けれど、洗った雑巾を干す手は震えていた。
誰かがそれを見ていたら、どう思うだろう。
そんなことまで気にしてしまう自分が、情けなく思えた。
その日からしばらくの間、田辺さんは私に対してよそよそしかった。
何度か誤解を解こうと思ったが、結局、言葉にはできなかった。
言い訳にしかならない――そう思った。
◇
当時も今も、あの日の選択が正しかったのかは分からない。
ただ、あの冷たい水の感触だけは、今でもはっきりと覚えている。
流れる水の音の中に、あの日の私の沈黙が、まだ残っている気がする。




