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私を冷遇していた夫が記憶喪失になりました

作者: 烏川トオ



「レーゼ……」


 白いヒナギクへと伸ばしたレーゼの手に、長い指先がぶつかった。視線を上げれば、夫のアリウスが同じ花を摘もうとしていた。アリウスは照れたように笑うと、伸ばしていた手を今度はレーゼの頬に添える。


 しっとりと温かい体温に酔いしれながらレーゼは瞳を閉じ、その手に頬を擦りよせる。アリウスが慈しむように目を細め、もう一度レーゼの名を呼ぶと、触れるような口づけを落した。


 この声が、唇が、かつてレーゼを『娼婦から生まれ落ちたドブネズミ』と、ののしったなど今となっては悪い夢のようだ。泣きたくなるような幸福感と過去の痛みに、レーゼは小さく唇を噛んだ。




「……さあ、早くお花を集めましょう」


 高ぶる感情を押し隠すように顔を伏せ、レーゼは立ち上がった。


「日が高くなるとしおれやすくなりますわ。それに午前中のうちにお墓に行くのでしょう?」


「そうだね、午後は二人でゆっくりしたいし」


 アリウスは同意しつつも、レーゼの髪を()く手を止めない。


「アリウス」


「ごめん」


 困ったように夫の名を呼ぶと苦笑された。


「わかっているよ。さっさと兄さんの墓参りを済ませようか」


 そう告げる声音は、レーゼに向けられる優しいものとは真逆で、課せられた仕事について語るようだった。亡くなってまだ二年、それもアリウスにとって唯一の兄の墓前に赴くというのに、そこに何の思い入れも感じられない。


 アリウスが情に薄いというわけではない。彼には死んだ兄の記憶が――それどころか二年より以前の記憶がないのだ。アリウスは二年前、兄ランヴァルトと共に湖上で事故に遭い、記憶を失っていた。








 レーゼがグレンダー伯爵アリウスに嫁いだのが五年前。レーゼの父とアリウスの母が従兄妹同士であり、その縁で決まった結婚だった。子供の頃はよく互いの家を行き来し、無邪気に遊ぶ仲だった。だが、あるきっかけを境に互いの交流は一度途切れた。


 グレンダー伯爵一家が山中を馬車で移動中、事故に巻き込まれたのだ。伯爵夫妻は死亡、アリウスの兄であるランヴァルトは大怪我を負い、命は繋いだが両眼の視力を失った。奇跡的にアリウスに大きな怪我はなかったが、この不幸な事故は少年だった彼の心に深い傷をつけた。


 さらに間を置かず、視力を失った兄に代わり、アリウスが伯爵家の跡継ぎへ据えられた。家族の不幸を(いた)む間もなく、家督や財産の相続について、意見を押し付けて来る周囲にも嫌気がさしてしまったのだろう。アリウスはすっかり心を閉ざし、レーゼとの交流も減ってしまった。




 やがてお互いが十八歳になったとき、当初の約束通りレーゼはグレンダー伯爵家に嫁いだ。結婚式のあと、改めて二人きりになった寝室でアリウスは言った。


『娼婦から生まれ落ちた卑しいドブネズミが。恥ずかしげもなく我が家に潜り込んだのは財産目当てか?』と。


 アリウスの言う通り、確かにレーゼは父である男爵と、娼婦であった母の間に生まれた私生児だ。幼い頃はその出自のせいで散々な扱いを受けたが、そんな自分を慰めてくれたのが、少年時代のアリウスだった。よりにもよってその彼に、ひどい言葉をぶつけられたことが信じられなかった。


 茫然としているレーゼに、アリウス冷ややかな視線を向けたあと、足音を鳴らしながら寝室から出て行き、それきり戻ってこなかった。


 その後レーゼの住居はアリウスの命令で、伯爵邸の敷地内にある離邸に移された。アリウスや義兄にあたるランヴァルトの住まいとは別だ。それは『お前を伯爵家の人間とは認めない』という宣言に他ならなかった。




 レーゼを離邸に押し込められたきり、アリウスは面会に訪れることすらしなかった。結婚してから二年間、夫の顔を見たのは数えるほどしかない。それも外出する彼の姿を、離邸の窓からこっそりと盗み見る程度だ。レーゼは伯爵夫人として夫と外へ同行することも許されず、『病弱』という理由で家に押し込められていた。


 アリウスの心変わりの理由もわからぬまま、失意の日々を暮らすレーゼだったが、幸いにも妻として扱われないことをのぞけば、生活に不自由はなかった。限られた使用人たちの世話を受け、室内で読書や刺繍(ししゅう)をたしなみ、ときおり離邸の周辺を散歩する日々は婚前とさほど変わらなかった。心寂しさを除けば、ある意味平穏な生活だったろう。

 



 そんな日々がしばらく続いた頃のことだった。


『昨日、旦那様がランヴァルト様と小舟に乗り、レノンの町に向かわれたままお戻りになりません。おそらく途中で事故に遭われたのかと……』


 普段はあまり馴染みのない本邸の家令が、レーゼのもとに不安そうな様子で報告してきた。


 グレンダー伯爵邸は広大なカナリス湖の(ほとり)にあり、町まで出るには山道を行くよりも、湖上を舟で向かう方が早い。湖の周辺に暮らす人々にとって、手漕ぎ舟は生活にはかかせないものであり、レーゼも子供の頃アリウスの漕ぐ舟に乗せてもらったことがある。


 その日の前の晩はひどい嵐に見舞われていた。子供の頃から舟の扱いに慣れているとはいえ、なぜそんな日に従者も船頭も付けず、二人で湖に漕ぎだしたのかは疑問だ。だがその時点で言っても、仕方のないことだった。




 伯爵家の使用人や近隣の村人総出で湖の捜索に当たったが、結局数日経ってもアリウスたちの手掛かりは見つからなかった。レーゼが最悪の事態を覚悟した頃、伯爵邸から遥か離れた湖畔の村で、身なりのいい一人の青年が行き倒れ介抱されているという話を、出入りの商人から聞かされた。


 レーゼは何か確信めいた予感に、『まだ旦那様とは限りません!』と止める人々を振り切って、自らその村へと向かった。


 馬車で一日かけてたどり着いたのは、湖畔のひなびた村だった。粗末な小屋で、それでも村人の厚意で丁寧な手当てを受け、清潔な寝台に寝かされていたのは、レーゼの予感通り夫であるアリウスだった。




 ひどい罵りを受けようと、冷遇されていようと、アリウスはレーゼにとって初めて優しくしてくれた男の子であり、そして今は大切な夫であった。――満身創痍(そうい)で瞳を閉ざしたアリウスを見た瞬間、レーゼは今更ながらそのことを思い出していた。


『アリウス……』


 寝台の傍らにひざまずき、すがるようにその頬を両手で包む。かすかに双眸(そうぼう)が開き、湖の深みを写したような瞳がのぞく。


『アリウス、わかりますか!? わたくしです!』


『……ここは』


『ここはジーネ村……グレンダー伯爵邸から北に三十ダナーほどの距離にある村です』


『グレンダー……?』


 ぼんやりとしていた瞳が焦点を結び始める。深藍色の瞳がレーゼを捉えようとしていた。


『君は……』


『レーゼです! あなたの――』


 妻です、と続けようとしたが、これまでの関係を思い出したレーゼは一瞬ためらった。その間のうちにアリウスが言った。


『君は……誰だ?』




 アリウスはレーゼのことはおろか、自分のことも、伯爵家のこともすっかり忘れていた。頭を強打したり、精神的な苦痛を受けると、記憶を喪失することがあると医師は言っていた。


 信心深い人々はこの出来事を、『《霧の悪魔》の仕業だ!』と騒ぎ立てた。《霧の悪魔》とは、この地域にある古くからの伝承だ。湖の霧の中に潜むという悪魔が見目麗しい兄弟を連れ去り、数日後に弟は記憶を失い家に帰って来たが、兄の方は二度と戻らなかったと伝わっている。


 ――結局、義兄のランヴァルトは遺体すら見つからなかったのだ。それが噂話に拍車をかけた。




 アリウスは多くの記憶を失ったが、幸いにも日常生活に関する部分に支障はなかった。自宅に戻れば思い出せることもあるだろうと、元の生活を送りながら療養することになった。


 アリウスは生まれ育った家に帰ってきたというのに、まるで見知らぬ場所に連れて来られたようだった。迷子の幼子のようなアリウスの姿は、レーゼの心を揺さぶった。


『わたくしは何があってもあなたの味方です』


 レーゼは事あるごとにアリウスにそう言い聞かせた。献身的に世話をするうちに、いつしか彼もレーゼを信頼してくれるようになった。やがて『レーゼ』と名を呼ぶアリウスの声には、信頼だけでは説明のつかない情愛がにじむようになっていた。




 これまでのことについて教える過程で、レーゼは自分が私生児であることも明かした。


『そんなことが、君の人格や品性に傷をつけるはずないだろう』


 アリウスは少し怒ったようにそう言った。あの優しく正義感の強い少年が変わらずに成長していれば、きっとこう言ってくれただろうと思える言葉だった。――奇妙なことに、記憶を失ったアリウスこそが、レーゼにとっての真実になりつつあった。


 レーゼは様々なことをアリウスに教えたが、一方で結婚後の関係については嘘をついた。


 まるで元々関係が良好だったかのように、ありもしない夫婦の思い出を語り、愛を伝え続けた。そしてアリウスが伯爵としての社会に復帰する頃、自分たちは今度こそ本当の夫婦となっていた。








 レーゼは白いカーネーションを数本切ってから立ち上がった。


 庭園から白い花々を集めて、亡くなった義兄の墓前に供える花束を作るのだ。すでに片手に収まり切らなくなった花束を抱え振り向けば、アネモネだろうか、青い花を携えたアリウスが立っていた。


「待って、アリウス。それは綺麗だけど墓前には持って行けませんよ」


 この地方では死者の墓前に供えるのは、必ず白い花と決まっている。そういったことも忘れてしまったのだろうか……。だがアリウスは軽く首を振った。


「違うよ。これは――」


 アリウスは青いアネモネを一輪、レーゼの髪に差し入れた。


「君に渡したかったんだ」


 その瞬間、レーゼの脳裏にある光景が浮かぶ。




『いつか僕が君を迎えに行くから。青い花を持って――』


 子供の頃、アリウスはそう約束してくれた。白い花が死者に捧げる物なら、青い花は求婚の相手に捧げる物だ。


「アリウス……」


 記憶にあるはずはないのに。けれど確かに、アリウスはあの時の誓いを果たしてくれた。痛いほどの幸福感にレーゼは瞳を潤ませ、そっとアリウスの胸に体を寄せた。優しく抱きとめられ幸せを噛み締めながら、ふとアリウスの肩越しに視線を向ける。


 小高い丘の上にある庭園からは、朝霧にけぶる湖が見える。――愛するこの人の記憶を奪ったあの霧が、いっそ真実を永遠に飲み込んでくれればいいのに。そう願いながら、レーゼは静かに瞳を閉ざした。






 ※※※※※※※※※※

  





「兄君もきっと、旦那様と奥様のご訪問をお喜びになったことでしょう」


「……どうかな。死者の気持ちは、生者には理解しえないものかもしれないよ」


 午前中に妻と共に兄の墓を詣でたアリウスは、着替えの手伝いをする従者に淡々と言葉を返した。


 この従者は最近勤め始めたばかりだが、アリウスが二年より前の記憶失っていることは、よく聞き知っているはずだ。身内に対し、冷淡とも取れる台詞を特に留める様子はなかった。


「昼食の時間まで、しばらく一人にしてくれ」


 従者にそう告げて一人きりになると、アリウスは深々と溜息をついてソファーへ座り、両手で顔を覆った。




(青い花はさすがにやり過ぎただろうか……)


 すっかり幸せな生活に浸かり切って、浮かれていたとしか言いようがない。幸いレーゼが気に留める様子はなかったが、今後はうかつな真似には注意しなければと気を引き締める。


 アリウスは嘘をついていた。記憶を失ってなどいなかった。


 事故の後、しばらく記憶が混濁していたのは事実だが、屋敷に帰って来た頃には頭はすっかり冴えていた。しかし健気に尽くしてくれるレーゼは、無邪気に自分を慕ってくれた少女の頃のようだった。


 このまま(だま)し通せれば、今度こそまっとうな夫婦になれるのでは――そう思いついてしまったのだ。兄は、あの自分を支配し続けていた暴君(ランヴァルト)はもういないのだから。

 








 ランヴァルトが変わったきっかけは、家族が事故に巻き込まれたことだった。アリウスが十歳のとき、両親と兄と共に一家四人が山道を移動中、土砂崩れに巻き込まれ、馬車ごと崖から転落したのだ。


 馬車から投げ出され、茂みに落ちたアリウスは軽症で済んだが、ランヴァルトは頭部を強く打ったことが原因で視力を失った。両親は馬車と共に谷底に落ち、遺体が発見されたのはずいぶん後のことだった。




 ランヴァルトは元々プライドが高く高圧的な性格ではあったものの、貴族の子弟としては逸脱したものではなかった。だが視力を失った後は、歩くことすらままならぬ身となったいら立ちからか、周囲に激しく当たり散らすようになっていた。


 さらにランヴァルトに追い打ちをかけたのは、当時伯爵だった祖父の命令で、視力を失った兄に代わり、弟が嫡子へと挿げ替えられたことだった。当然これにランヴァルトはひどく怒り狂った。




『お前は私から両親と目だけではなく、爵位まで奪ったんだ!!』


 ランヴァルトはそう言って、アリウスをことあるごとに罵ったが、反論はできなかった。


 あの日一家が外出した理由は、アリウスの我がままによるものだ。自ら育てた鉢植えが青い花を咲かせたので、その日は天気が悪かったのにも関わらず、アリウスは無理を言ってレーゼの元へ連れて行ってもらおうとしたのだ。


 自分の言動のせいで一家が事故に巻き込まれ、兄から多くのものを奪ったことは揺るぎない事実だった。




 ランヴァルトの怒りの矛先はレーゼにも向いた。アリウスが嫡子になると同時に、レーゼとの正式な婚約が結ばれていた。


『あのアバズレの娘は、嫡子の座を失った私を捨てお前に乗り換えたんだ!』


 レーゼは元々、母の従兄である男爵の娘にあたる。男爵は跡継ぎを強く望んでいて、女児しか産まない妻に見切りをつけ、愛人であった高級娼婦に男児を産ませようと考えていた。しかし思惑は外れ、生まれたのは女児のレーゼだった。レーゼの母は男爵の怒りが自分に向くのを恐れ、娘を置き去りにして逃げ去ったらしい。


 残されたレーゼは実父から疎まれた上、継母や腹違いの姉たちからもいびられ、物心つく頃には馬小屋でワラに塗れて寝起きしている有様だった。気の毒な娘の存在を知り、心を痛めたアリウスの両親は、男爵にレーゼの待遇の改善を求めた。そして将来は、レーゼをグレンダー家の花嫁に迎えることを約束した。


 おかげでレーゼは、継母らの手の届かぬ遠縁の家に預けられ、嫁ぐまで深窓の令嬢として不自由なく育てられた。


 


 レーゼが婚約者を乗り換えたという、ランヴァルトの主張はもちろん事実とは異なる。確かに両親はグレンダー家にレーゼを迎える約束はしたが、当初は兄弟どちらに嫁がせるかまでは取り決めていなかった。


 当然それまで使用人にも劣る扱いを受けていたレーゼに、相手を決める権利などあるはずもなかった。彼女に何一つ落ち度はない。


 だが現実として、アリウスは祖父が亡くなった十七の齢に伯爵の座を継ぎ、その翌年にレーゼを花嫁として迎えることになった。対照的に何もかも失った兄を慰める言葉など、アリウスの立場からかけられるはずはなかった。




 恨みをつのらせたランヴァルトは、結婚式の前日にアリウスを呼び出して告げた。『このまま幸せになれると思ったか?』と、嘲笑(あざわら)うように。


『あの娼婦の娘を妻として扱うことは許さん。もし従わないなら、お前が両親を殺し私の地位を奪ったと世間に訴えてやる!』


『私はそんなことはしていません! 兄上だってわかっているでしょう! だいたい証拠もなく、どうやって訴えるというのです!?』


『だとしても、あの外聞を重んじる男爵はどう出るかな? 我が家の醜聞に巻き込まれることを恐れ、娘の結婚は無効だと訴えるかもしれんぞ』




 それはアリウスにとって聞き捨てならない言葉だった。ランヴァルトの言い分はあまりにも荒唐無稽(こうとうむけい)だが、貴族社会では根の葉もない醜聞が命取りになることもある。


 伯爵夫人でいられなくなったレーゼを、実家の男爵家がどう扱うかなど想像すらしたくなかった。悩んだ結果、アリウスは兄の言葉に従った。少なくとも自分の目が届くところにさえいれば、レーゼは衣食住に困ることも、安全を脅かされることもない。


 幼い頃から恋焦がれていたレーゼを、わざと侮辱し遠ざけるように振舞うことは、心が張り裂けるように苦しかった。だが実家に戻されれば、彼女はきっとまともに生きていけまい。他にどうしようもなかった。


 もちろんレーゼに裏で真実を伝えようとも考えた。だが視力を失ったせいか、あるいは元々の疑り深い性格のせいか、ランヴァルトは声音だけで他人の感情を察するのに長けていた。レーゼの安全を考えれば、危ない橋は渡れなかった。




 そんな生活に転機が訪れたのは、今から二年前のことだ。その日は朝から天候がすぐれなかった。嵐の予兆があるというのに、『今から町に行くから、お前も同行しろ』とランヴァルトに強引に誘い出されたのだ。


『おじい様が私に残した財産があったな!?』


『それは……私が銀行に行けば引き出すことはできますが』


 祖父はランヴァルトを嫡子から外したものの、その境遇は憐れんでいた。ランヴァルトのために遣うよう言い含められていた遺産があった。とはいえ形式的には家門の財産なので、銀行から動かせるのは当主であるアリウスだけだ。


『来い! いますぐ町に行くぞ!』


『急に何を……いったいどうされたのですか?』


『お前に黙って、私の言うとおりにすればいいんだ!』


 兄の乱暴な要求に呆気に取られつつ、アリウスは諦め混じりに溜息をついた。ランヴァルトの癇癪(かんしゃく)や理不尽な命令は今に始まったことではなかった。くだらない散財も兄を慰めになるのなら、と割り切っていた。


 窓の外を見ると木々が大きく揺れ、(なまり)色の雲が広がっていた。この地方では、初夏から秋にかけて嵐に見舞われることは珍しくない。空模様から予想するに、雨風がひどくなるのは夜半だろうか……。


『……かしこまりました」


 今晩は町に泊まることになるかもしれないと思いつつ、アリウスは机上の書類を片付けると、重い体を持ち上げるように立った。




『すぐに使用人に小舟の用意をさせましょう』


『だめだ!』


 ランヴァルトはなぜか焦ったように叫んだ。


『私とお前だけで行くんだ!』


 その言葉にさすがにアリウスは眉をひそめた。二人きりならば、当然アリウスが舟を漕ぐことになるだろう。舟遊びならともかく、移動手段として貴族自ら舟を漕ぐことはまずない。……自分を使用人のようにこき使い、(おとし)めるための嫌がらせなのだろうかと、沈痛な想いが胸をよぎった。


『……かしこまりました。私が舟を漕げばいいんですね』


 こうしてアリウスは兄の言葉に従い、自らオールを操り舟で湖へと漕ぎだした。そして予想に反し、湖上で急激に雨風が強くなり舟は転覆してしまった。


 その後の記憶はおぼろげで、気づけば見覚えのない小屋に一人で寝かされ、駆け付けたレーゼに介抱されていた。一方、ランヴァルトはついに遺体すら見つからなかった。




 カナリス湖にはときおり、悪魔が吐き出したと言われる乳白色の霧が立ち込める。その霧に飲まれた者は、悪魔に気に入られれば魂を奪われ、それ以外の者は記憶を奪われると伝わっていた。


 ランヴァルトは内面はともかく、容姿は端正で品のある貴族らしい顔立ちをしていた。麗しい兄弟にまつわる古い悲劇になぞらえ、《霧の悪魔》が美貌の貴公子を連れ去ったのだと、人々の間で噂されるようになった。結局ランヴァルトは行方不明になってから一年後、死亡したものとみなされた。








 アリウスが物思いにふけっていると、ドアを軽くノックする音が響いた。


「――昼食の用意が整いました。奥様はすでに食堂にいらっしゃいます」


「わかった。今行くよ」


 従者の呼びかけに、アリウスはゆっくりとソファーから立ち上がる。


 仕事のない休日に、ゆっくりと夫婦で昼食を取ることをレーゼは楽しみにしていた。そんな素朴なやり取りにすら、レーゼは至上の幸福の中にいるかのように微笑む。その光景を想像するだけで、アリウスも口元も自然にほころんだ。




 ランヴァルト亡き今、もはやアリウスが妻を冷遇する夫を演じる必要はなかった。自分はあの頃の記憶をすっかり失った振りで、レーゼと仲睦まじく暮らしている。


『私たちは毎朝湖畔を散歩して……そうそう、夏には舟遊びや釣りも教えていただきました』


 レーゼがありもしない幸せな結婚生活の記憶を語り始めたときは驚いたが、今となってはその噓すらも愛おしかった。


 彼女の語る日常は夫婦で庭の花を愛でたり、湖畔にお弁当を持ってでかけたりと、贅沢とはほど遠いあまりにも慎ましいものだった。同時にそんなささやかな理想すら、これまで叶えてあげられなかったことに胸が苦しくなった。


 永らえた命は、きっとレーゼを幸せにするためにあるのだろう。今後の人生は償いに使うとアリウスは決めていた。




 窓を見れば、昼間には珍しく、眼下に広がる湖面に霧が立ち込めていた。あの霧が兄の命と共に、彼の言葉に従いレーゼを蔑ろにし続けてきた無様で弱い自分を飲み込んでしまった。


「いっそ本当に記憶を奪ってくれたらいいのに……」


 真実を告白することも考えたが、あれほどひどい言葉を吐き捨てた男が心を入れ替えたなどと言っても、レーゼを余計不安にさせるだけだろう。だったら悪辣(あくらつ)な人格は、記憶と共に消えてしまったのだと思わせた方がいい。


 アリウスは真相を霧の中に潜めたまま、虚構の中で生きていくと決めていた。






 ※※※※※※※※※※






 それはレーゼがアリウスと結婚してから、三年ほどが経った頃の出来事だった。


 何かの用事で珍しく本邸を訪れていレーゼは、ふと通りかかった部屋からガタガタと慌ただしい物音を聞いた。ゲストルームとして使われているその部屋は、当然客人が滞在していないときは無人のはずだった。


(猫でも入り込んだのかしら……)


 そう思いつつも、レーゼはなぜかひどく嫌な予感を覚えていた。




 急に弾けるようにドアが開かれた。飛び出して来たのは、自分より少し年下と思われる若いメイドの娘だった。


「……あっ」


 人がいることに驚いたのか、娘はか細い声をもらした。見開かれたその瞳は涙で潤み、目元は赤く腫れあがっている。


 レーゼが唖然としながら視線を下げれば、本来なら襟元まで詰まったメイドのお仕着せは、ボタンがはじけ飛んだように開いていた。娘は露わになった白い肌を隠すように、ぐしゃぐしゃに丸めた白いエプロンを胸元に抱いている。


 その娘にレーゼは見覚えがあった。離邸の使用人に風邪が流行ったとき、手伝いに送られてきたメイドだ。名前は確か――リゼだ。


『わたくしたち名前が似ているわね』


 そんな会話を交わした覚えがあった。形ばかりの妻でしかないレーゼにも礼儀正しく、にこにことよく笑う朗らかな娘だった。


 あの時の面影もない無残な姿のリゼは、唇を震わせるとレーゼに背を向けて廊下を駆けていった。




 あまりの出来事にしばらく立ち尽くしていたレーゼは、ぎこちなく首を巡らせ、開け放たれたままだったゲストルームへと視線を向ける。


 そこではベッドの端に座った一人の男が、慌てる様子もなく裸体の上半身にシャツを着こんでいた。その傍らには、彼がいつも使っている杖が立てかけてあった。


「……ここで、何を」


 かすれた声を発するレーゼに、視線の合わぬ瞳を向けた男は何も答えず、ただ嘲笑(ちょうしょう)を吐き捨てた。








「――リゼから何があったのか聞きました」


 次の日、レーゼは人目に付かぬ湖の近くの林に、義兄ランヴァルトを呼び出していた。


「……別に昨日が初めてでもあるまいし、大袈裟さな小娘だ」


 髪に指をからませながら、どうでもよさそうに答えるランヴァルトの姿に、レーゼは眉を跳ね上げたが、心を押し殺して言葉を続ける。


「今朝リゼは湖から町へ渡りました。新聞屋に行くそうです。……あなたを告発するために」


「何ぃ?」


 これにはランヴァルトの顔色が変わった。


「お前がそそのかしたのか!?」


 レーゼはその問いかけに答えなかった。昨日のランヴァルトがそうしたように、無言のまま吐息で笑う。顔を真っ赤にしたランヴァルトが、ギリと音がしそうな勢いで歯噛みした。




「証拠などあるものか!」


「リゼに体にはたくさんのアザがありました。あきらかに大の男につかまれたものです」


「それを私がやったという証拠がどこにある!?」


「お義兄(にい)さまには太もも付け根に、星形の傷跡が二つ並んであるそうですね」


 その一言に、ランヴァルトの表情がこわばった。


「わたくしが新聞屋なら、あなたが『手際が悪い』と癇癪(かんしゃく)を起しクビにした、元従者あたりに接触して裏を取るでしょうね」


「……いくら必要だ」


「いったい何のお話でしょう?」


「あの小娘に適当な金を握らせて黙らせろ! お前はこの家の女主人だろう!? こんなことが世間に公表されれば、我が家の醜聞になるのだぞ!」


 都合のいい台詞にレーゼは笑い出したくなった。結婚したその日から今日まで、レーゼはアリウスから妻扱いされたことがない。目の前の男もまた、レーゼを義妹としてはもちろん、当主の夫人として尊重したことなどなかった。




「今更遅いですわ。リゼはとっくに新聞屋にたどり着いているでしょう」


「だったら新聞屋の方を黙らせればいい!」


「ご自分でどうぞ、お義兄(にい)さま。だたし、この家の財産を動かせるのは当主であるアリウスだけです。事態を丸く収めたいのであれば、彼に事情を話してはいかが? ……その無駄に高いプライドを押し殺し、弟に頭を下げることができるのならばですが」


 冷ややかに告げると、音高くレーゼの頬が鳴った。


 ゆっくりと視線を戻すと、荒く息をつくランヴァルトが杖を持つ手とは反対の拳を握っていた。視力を失っても女をいたぶることに支障はないのだなと、どうでもいいことを思う。


 きっと普通の貴婦人であれば、突然の暴力に泣き崩れるものなのだろう。この恥知らずの前で動揺しなくてすんだ点においては、生まれて初めて実家に感謝したくなった。頬を殴られる程度、かつて奴隷のような扱いを受けていたレーゼからすれば、どうということはない。




 まるで怯む様子のないレーゼに、ランヴァルトの秀麗な顔が歪む。


「娼婦から生まれ落ちた卑しいドブネズミめがっ……!」


「そう……それは()()()()()()だったのですね」


 ランヴァルトの台詞は、アリウスが結婚式の夜にレーゼに向けて放った言葉と同じだった。すべてを悟ったレーゼは、眼差しに力を込めてランヴァルトを見据える。


 伯爵一家に起きた不幸な事故を理由に、ランヴァルトが大人になった今もアリウスを責め立てていることは、使用人たちから聞いていた。アリウスのねだり事がきっかけであったとしても、その日馬車を出す判断をしたのは大人たちだ。アリウスが負い目を感じる必要などないのに、横暴な兄に逆らえないでいるのだ。




(この人がアリウスに命じていたんだわ……)


 あの優しかった少年のものとは思えない口汚い言葉を聞いたとき、レーゼはひどく混乱したが、それはある意味正しかった。恐らく自分たちを逆恨みしたランヴァルトの命令で、アリウスはレーゼをあんなことを言ったのだ。


 実家の継母らが、レーゼに体罰を加えたときと同じやり口だ。彼女たちもあえてレーゼを気に掛けてくれている使用人を選び、彼らに自分を打たせて笑っていた。自らの手を汚さず、愛情や信頼を当人の手で破壊させる、人の尊厳を奪う残酷な行為だ。


 アリウスが少年の頃と同じ優しい気質を失わず、裏でそんな行為を強いられていたとしたら、どれほどの苦痛だっただろう。悔しさに涙が浮かぶ。


(私がもっと早く気づいていれば……。彼がそんなことを言う人じゃないと、わかっていたはずなのに……)




 初めて動揺を見せたレーゼに、ランヴァルトはようやく満足したのか、暗い悦びに満ちた笑みを浮かべた。すれ違いざまに、レーゼへ肩をぶつけるように去っていく。


 おおかた今から町に出向き、リゼが見つからなければ、新聞屋に金を積んで話を握りつぶすつもりなのだろう。だが……。リゼがランヴァルトを告発するなど、まったくの作り話だ。リゼは町の新聞屋ではなく、近くの村の教会に身を隠している。


 あの剣幕なら、ランヴァルトはアリウスや新聞屋の前で、自らの醜態を暴露する羽目になるだろう。無様な姿は想像はできたが、それでもレーゼの気持ちは収まらなかった。


「いっそ帰って来なければいいのに……」


 ランヴァルトの背中をにらみながら、レーゼは呪うようにつぶやいた。その瞬間、湖の方から白い霧が激流のように流れ込んできた。空も木々も、水面も砂浜も、立ち去って行くランヴァルトの背も、周囲の音すらも、乳白色の霧に飲み込まれていく。


 まるで白い闇……――そう思ったのを最後に、レーゼの意識は途絶えていた。










「――奥様、奥様!!」

 

 ふと自分を呼ぶ声に顔を上げる。いつの間にか、眼前に見慣れた侍女の顔があった。屈みこんだ侍女はレーゼの肩をつかむように揺すぶっている。レーゼは自分が茂みの中で座り込んでいたことに、ようやく気づいた。


「わたくし……」


「お立ちになれますか? 貧血でお倒れになって、ぶつけられたのでしょうか……」


 お顔が……と、痛ましそうな表情を浮かべる彼女の視線につられ、左頬に触れると、ピリリとした痛みが走った。その頬にぽつりと、小さな水滴が当たる。頭上では木々の枝が大きく揺れ、湖は高く波打っていた。


「いやだ……嵐になるのかしら」




「奥様、実は先ほど本邸の者から報告がありまして」


 レーゼに手を貸し立ち上がらせながら、侍女がこわばった表情で言う。


「旦那様とランヴァルト様が舟で町に向かわれたそうです」


「こんな天気なのに?」


「ランヴァルト様がどうしてもと旦那様に詰め寄ったらしく……」


 侍女が気まずそうに小声で告げる。ランヴァルトがひどい癇癪(かんしゃく)持ちで、そんな兄にアリウスが逆らえないことは、屋敷の誰もが知っていることだ。


「そう……困った方ね」


「ところで奥様、どうしてこのような場所にいらっしゃったのですか? ずいぶん探したのですよ」


「それは……」


 レーゼはつと考える。やがて困惑しながら首を振った。


「わからない……今まで何をしていたのか、昨日からの記憶がまったくないの」






【終】



お読みいただきありがとうございます。もしよろしければ評価やブックマークをいただけるとうれしいです。


次は明るい軽めの話を……と思いつつ、先に仕上がったこちらを上げてしまいました。記憶喪失ネタで何本か行けそうなので、同じ土地、違う時代などでシリーズ化できたらなあと考えております。伝承とか因習とか、怖い話と不思議な話の中間くらいが大好物なので。







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