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おるたな

作者: 寺田 久爾彦
掲載日:2023/09/24

    1


 深夜の駅前に、ほとんど人はいなかった。

 ちらほらと並んだ店もみなシャッターが閉まっている。先ほどまで優斗たちが飲んでいたチェーンの居酒屋の看板だけが煌々と輝いていた。ここは山に囲まれた田舎だ。電車もバスもとっくに終っているというのに、まだ営業している。

 優斗は同僚の大西と迎えの車を待っていた。二人は同じ小学校で教員として働いている。今日は一学期最後の日、職場の飲み会のあと、二人で居酒屋をはしごした。

 ロータリーに一台の車が走って来た。どこにでも走っている国産の黒い軽自動車だが、優斗は一目見てそれが香織の運転する車だとわかった。運転に特徴がある。というか、めちゃくちゃノロい。

「あ、あの車です」

 アクセルを緩め、ブレーキを踏み、さらにゆっくりと走って、車が二人の目の前で停まった。

「ごめん。大西さんも一緒に乗せてって」

 助手席のドアを開け、優斗は運転席に座る香織に言った。

「いやあ、奥さん、すみません。タクシーで帰ろうと思ったんですけど、タクシーなくて。藤井さんに無理矢理頼んじゃいました」

 いつも駅前に数台停まっているタクシーも今日は出払ってしまっていた。助手席に優斗が乗り、後部座席に大西が乗り込んで、車はゆっくりと走り出した。

 車内には、ひと昔前に流行ったロックバンドの曲が流れていた。

「ランドガーデンじゃないですか」大西が驚いた顔をして言った。

「大西さん、よく知ってるね。世代じゃないでしょう」

「歳の離れた兄貴が好きじゃったんで。そういえば、こないだ高松でライブありましたね。兄貴行ってましたよ」

「え、フェストハレのライブかな? 僕と妻も行きましたよ。それじゃあ、大西さんのお兄さんとどこかですれ違ってたかも」

「奥さん、僕なんかより全然若いのにランドガーデン好きなんて、渋いなあ」

「まわりの影響で自然と」香織が小さな声で言った。

「ちょうどランドが復活した頃に出会ったよね、俺たち」と優斗が言った。

「てことは、、、奥さんはまだ中学生とかだったんじゃないですか?」

 大西が笑いながら冗談めかして言ったので、優斗と香織も一緒になって笑った。

「大西さんだって、毎日十代の女子たちとわちゃわちゃやってるじゃない」

「わちゃ、わちゃて」

 大西は困った顔をしながら、次々に物が失くなるという自分のクラスで起こった珍事件のあらましを語った。

「ほんで、女子たちが僕に教室に防犯カメラつけまいって言うてくるんですよ。そなんの無理やないですか。したら、先生の自腹で買えとか言うてきて、もう最悪ですよ」

 優斗と香織はその話を笑いながら聞いた。

 しばらく走ると、

「あ、そこで大丈夫です」

 ぽつんと光るコンビニを指差して大西が言った。

 やたらと広い駐車場に車が停まると、大西はありがとうございましたと言って降りていった。

「ごめん。なんか流れで乗せてくことになっちゃって」

 二人きりになった車内で優斗が言った。

「ううん。なんていうか。役に立てて嬉しいです。せっかく車も運転できるようになったし」

 香織はそう言って笑った。

「にぎやかな人ですね」

「さっきはああやって笑って話してたけど、大西さんのクラス、最近大変なんだよ。愚痴やらなんやら聞いてた」

「だからこんなに遅くなったんですね。お風呂入って、メイク落としてたからちょっと焦った。変じゃなかったですか」

「暗いからわかんないよ」

 対向車のライトに照らされて、暗がりから香織の顔が浮かび上がって見えた。普段はメイクで大人っぽく見せているが、メイクをしていない彼女は本当に子供みたいに見えた。

「海外旅行にでも行こうか」

 誰にも気兼ねなく好きな格好をして歩ける。

「海外かあ」香織が感慨深げに言った。「ていうか、優斗さんが若作りしてくれれば問題ないですよ」

 ハンドルから片手を離し、香織は助手席に座る優斗のお腹をぽんぽんと触った。

 三十を過ぎてから、急にお腹まわりがぽっこりとし出した。晩酌のビールと、週末定番のうどん屋めぐりのせいだ。糖質のとり過ぎだ。

「週末遍路でもしようかな」と優斗が言った。

 空海が修行した八十八箇所の霊場を歩いてまわる四国のお遍路、せっかく四国にいるのだからいつかはしてみたいと思っていた。

 健康祈願や近親者の供養、自分探しなど人によって目的は様々で、最近は週末だけお遍路するという人も増えているそうだ。

「そういえば、殺人未遂の容疑者がお遍路さんとして十数年逃亡してたって話がありますね」と香織が言った。

「なんだその笑えない話は」

 優斗は困った顔をして香織を見つめた。


    2


 ビール瓶を片手に、五年二組担任のが隣に座った。一年間お疲れ様でしたと言って、空になっていた優斗のグラスにビールを注いだ。優斗は非常勤講師という立場で、五年二組で図画工作を教えていた。

 三十代の仁川は比較的歳の近い同性の先輩で、何かと気を遣ってくれたのだが、正直少し苦手だった。我が強く、おせっかい、すべてを自分の思い通りにしようとするタイプの男だった。

「先生はうちのクラスだと誰がタイプでした?」いきなり仁川が言った。 

「え、女性としてってことですか」

 思わぬ問いかけに、優斗は少し驚いた。職場では真面目なやり取りばかりで、こうやってくだけた場で話すのは始めてだった。

「いいじゃない、もう最後だし」

 仁川の顔は赤らんでいる。すでに相当酔払っているようだった。

 いつもは飲み会に参加しない優斗だが、今日の飲み会は優斗の送別会も兼ねていたため、参加しないわけにはいかなかった。

「うーん、そうですねえ。平野さんとかですかね? 将来、絶対美人になるタイプだと思います」

 仕事柄この手の話題は御法度だ。火のないところに煙はたたないと言うが、昨今、教員の不祥事が多発しているため、湯気さえも許されない雰囲気があった。

 だが、ここで答えないのも場がシラケてしまう。優斗は空気を読みつつ、一番当たり障りのなさそうな答えを探した。

 平野まどかは三クラスある五年生の中でも一、二を争う美少女だ。すらりと背が高く、大人びた雰囲気があった。胸も膨らみ始めていて、見た目はすでに中学生に見えた。

 あー、わかるわかる、仁川はにやついた表情を見せた。

「仁川さんは誰がタイプなんですか」

 今度は逆に優斗が仁川に質問した。

「僕かあ。あいつらとは付き合い長いからなあ。でも、有坂とかかなあ、やっぱ」

「有坂さんも、確かに可愛いですね」と優斗は言った。

 有坂望は背が小さく、胸はほぼない。可愛くはあるが、幼さが残っていた。正直、優斗も有坂がお気に入りだったが、ここで有坂と答えるのは、暗に自分はロリコンだと言っているようなものだからやめたのだ。

「そう、可愛いのよ。純粋無垢。変にこましゃくれてないとこが良い」

 この人、ロリコンだなと優斗は思った。

「藤井さんも本当は有坂がお気に入りでしょ? 授業終わったあと、有坂と楽しそうに話してるのよく見かけたもん」仁川は小声になりながら言った。

 そんなとこを見られていたのか。

「ただ話してただけですよ」

 最初は優斗の方から話しかけた。消しゴムが変わってるねなどとどうでもいいことを言って。

 有坂はお喋りな性格だった。自分が好きなアイドルやアニメ、ユーチューバーの動画を優斗に教えてくれた。優斗はそれらを小まめにチェックして、次の授業や廊下ですれ違ったときに感想を伝えた。単純接触効果だろうか。最近は授業が終わると、有坂の方から教卓まで来るようになっていた。

「教師には二種類しかいない。純粋に子供が好きな奴と、不純な理由で子供が好きなやつ。藤井さんは後者じゃないかと思ってた。僕もそうだからわかっちゃうんだよね」

 仁川の目の奥が鈍く光った。 

「心の中で思ってるだけなら犯罪じゃないよね。ていうか、男はみんな若い女の子が好きじゃん? AVでも女子高生とか貧乳ってジャンルが人気でしょう。それがちょっと若いだけでロリコンだ、異常性愛だって。おかしいよね。そんなん誤差だよ、誤差。食べもので言ったら、激辛好きみたいなものなのに」

 この人は、心の声がだだ漏れだ。

 優斗は肯定も否定もしなかった。

「ところで、藤井さんは小野寺さんと付き合ってるんでしょう?」

 ええ、まあと優斗は言った。

 は同じ学校で働く教員だ。年齢は優斗と同じ。同級生ということもあり、自然と仲良くなった。二人が付き合っているということはあえて黙っていたが、狭い職場だからバレていない方が不思議だった。

「小野寺さんもロリ入ってるよね。背も、胸も小さいし。子供と一緒に歩いてたらときどき子供と間違えるもん。良いなあ、合法ロリ。来たばかりの頃は僕がいろいろ教えてあげたんだよ。でも最近は、、、」

 あーこの人、栄美に気があるのか。

 そういえば、優斗が来る以前は仁川先生にお世話になったと栄美に聞いたことがあった。後輩指導とゆがんだ愛情、と優斗は思った。

 少し離れたところに栄美本人が座っていた。こちらの会話は聞こえていないようだ。教務主任の先生と真面目な顔で話し込んでいる。飲み席なのに、ご苦労なことだ。

「このあいだあったでしょう? 隣の西小の教員が子供に猥褻行為して捕まったやつ」と仁川が言った。

「あのあと教員の不祥事撲滅って言って、なんかペラペラの紙書かされたよね。誓約書? あんなんで人が変わると思う? わかってないよね。僕たちは病気なんだよ」

 そうか自分は病気なのか。優斗は妙に納得していた。

 一次会が終わると、みんな居酒屋の外で立ち話を始めた。 

「二次会はこちらでーす」

 幹事が大きな声で呼びかけている。 

 優斗は二次会には参加せずに帰ることにした。

 やはり、大人数の飲み会は苦手だった。少し離れたところで、仁川と栄美が話している姿が見えた。少し気になったが、声は掛けずに駅へと向かった。


    3


 電車に乗って最寄り駅に着くと、久しぶりに川沿いを歩いて帰ろうと思った。

 三月中旬、夜の河川敷は静かなものだった。まだ少し肌寒い。もう少し暖かくなると、川沿いの河津桜がいっせいに咲き、昼も夜も花見をする人たちで騒々しくなる。

 しばらく歩くと、優斗の家が見えた。

 共働きの両親が二十年前にローンを組んで購入した建売りの一軒家だ。よくある二階建ての、代り映えのない間取りで、二階の端の狭い部屋が自動的に優斗の部屋になった。

 小中高は家から通ったし、大学も十分通える距離だった。二十六歳になった今も、優斗はこの部屋で寝て起きて職場に通う生活をしている。いわゆる、子供部屋おじさんと呼ばれる存在だった。実家に住んでいれば困ることはないし、両親も家を出て行けとは言わなかった。

 優斗の家は東京と千葉のほぼ境目にあって、江戸川を挟んだ西側が東京、東側が千葉だった。川のすぐ東側にある優斗の家の住所は千葉県になる。

 大学時代、地方出身の友人からはほぼ東京生まれじゃんと羨ましそうに言われたが、優斗は自分のことを生粋の千葉県民と感じていた。別に東京が良いとか、偉いとか言いたい訳ではない。千葉にはディズニーランドだってある。しかし、ディズニーランドの頭には「東京」とついている。未だに納得がいかないが、つまりはそういうことだ。

 この川の向こう側で生まれていれば、自分は東京都民として人生を生きていただろう。たとえば、この川が北緯三十八度線だったら、生まれた瞬間に自分が韓国人になるのか、北朝鮮人になるのかが決まってしまうし、ベルリンの壁だったならば、西ドイツ人になるか、東ドイツ人になるかが決まってしまった。そんな風に考えると、物事の境目なんてひどく曖昧だし、運命なんてほとんど偶然で決まってしまうのだろう。

 部屋に入ると、優斗はおもむろにパソコンをつけた。

 Sいつも訪れているエロサイトを開く。今日は女子高生ものの動画で抜くことにする。

 画面の中で、セーラー服姿の女がテニスの素振りをさせられていた。

 たまたま童顔で、たまたま胸が小さい。動画が進むにつれ、服が一枚一枚脱がされていく。スカートをまくられ、安っぽい下着が見えた。ブラジャーが外され、ピンク色の乳首が見える。ここに映っている女性はおそらく十八歳を越えているだろう。実際には女子高生ではないとわかりつつも、優斗は自分のペニスをしごき、射精へと導いた。


    4


 送別会の翌日は土曜日で、優斗は栄美に話があると呼び出された。

 待ち合わせは栄美の家の近くにあるチェーンのカフェだった。優斗が時間ちょうどに店に着くと、栄美はすでに窓際の席に座っていた。店内は割り合い混んでいた。

 お待たせと言って優斗は席につくと、お冷を持ってきた店員にブレンドコーヒーを頼んだ。

「私たち別れた方がいいと思う」

 注文したドリンクが来るより前に栄美が言った。ああ、やっぱ別れ話か、と優斗は思った。

 思えば去年の秋、優斗が受験した教員採用試験の結果が不合格だった頃から、二人の関係はぎくしゃくし出していた。

 優斗が採用試験を受けるのは四回目だった。

 各自治体によって内容は異なるが、優斗が受けた千葉県の試験は筆記と面接の二種類だった。優斗は記憶力が良いので、筆記は少し勉強すればはまあまあの点数が取れた。

 しかし、どうにも面接というものが苦手だった。

 試験には個人面接と集団面接があった。口下手な優斗はどちらも苦手で上手くいかなかった。口が上手いやつが合格する嘘つき大会のような気がした。

 事前に質問されそうなことを考えて、答えを一言一句暗記して挑んだ方が上手くいくんじゃないか。

 惨敗に終わった一回目の試験のあと、一発合格した教育学部の友人にそう訊ねてみた。それじゃあ、お前、考えてない質問をされたら困るだろ。リラックスして正直に答えればいいんだとその友人は教えてくれた。

 でも嘘はダメ。嘘にならない答えを答えろ、と。

 そのアドバイスを実践した優斗の個人面接はこんな感じだった。

『あなたはどうして教師になろうと思いましたか?』

 就職活動をするのが面倒だったからです。正直に答えれば不合格だ。流石に優斗にもこの回答がダメなことくらいはわかる。かと言って、仰々しい理由も駄目だ。嘘っぽくなってしまう。一番手軽なのは、憧れていた先生がいたからです、というテンプレートみたいな答えだが、優斗には憧れていた先生なんていない。嘘になってしまう。嘘にならない事実を答えよう、考えあぐねた結果、優斗はこう答えた。

「両親が教員をしているからです。私は小さい頃からその姿を見て育ちました」

 確かに両親は教師だったが、その話題を掘り下げることはできない。二人は家で、子供や学校の愚痴ばかり言っていたからだ。面接官に両親のどんなところに憧れたか具体的に答えてくださいと訊かれ、優斗はしどろもどろになってしまった。

『あなたは学校に来ない児童がいたらどうしますか?』

 別に来なくてもいいと思います。これは本音ではあるが、答えとして明らかに間違っている。それでは、何と答えるのが正解だろう。あきらかな事実を答えるしかない。

「子供には学校に行く義務はありません。親は子供に教育を受けさせる義務があります。ですので、親御さんが家でちゃんとした教育活動を行っていれば、学校に来る必要はないと思います」

 思っていた回答と違ったのだろう。面接官の顔が曇るのがわかった。

『子供がプールでうんちを漏らしました。あなたはどうしますか?』

 この時の面接官はなにやら確信に満ちた顔で聞いてきたが、優斗には質問の意図がわからなかった。 

 うんちを漏らした子供のメンタルケアについて答えればいいのか、衛生管理について答えればいいのか、はたまた漏らした子供以外の子供への対応を答えるべきなのか。 

 いや、これは教師になるための覚悟を聞いているのではないか。この質問は言い換えれば、あなたは汚いうんちでも処理できますか、教師は辛いですよという意味なのではないか。

「私は学生時代、コンビニでアルバイトをしていました。時々、信じられないくらい硬くて大きなうんちをする人がいるんです。詰まったトイレを掃除するのはいつも私の仕事でした。水が床に溢れ出て地獄のようになっていましたが、仕事だと思えば掃除できました」

 面接官が俯きながら首を横に振るのが見えた。

 集団面接はもっと絶望的だった。

 一つのテーマがあたえられ、その場にいる受験者だけで話し合いをしろという試験だ。

「私が司会をやります」としゃしゃり出てきた男がみんなに意見を聞いた。

 まず最初に、一人の女がそれは意見なのか?というような、どっちつかずな発言をすると、他の受験者たちは上手にそれに同調し始める。

 優斗はここにいる全員論破してやりたいという衝動に駆られた。だが、これは教師になるための試験だ。他人の意見を尊重する姿勢が必要なんじゃないか。そう思って堪えた。

 同調して発言すれば嘘になると思い、傍観していたら試験が終わっていた。

 

「優斗君が試験に受かったら、私の両親に紹介したいの」

 優斗が試験を受ける前から、栄美はしきりにそう言ってきた。なんで受かったらなんだと優斗は思っていたが、黙っていた。 

「次は絶対受かるから頑張ろう!」

 試験の結果が、不合格だとわかったとき、口では励ましてきた栄美だったが、不合格だった優斗本人よりも落ち込んでいるように見えた。

「昨日は、仁川先生とずいぶん親しく話してたじゃない」

 なんだか含みのある物言いだ。

「昨日、確信した。優斗君は教師にならない方が良いと思う。ていうか、なれないよ。試験の面接官って現役の教頭先生とか校長先生なんだよ。そういうのわかると思う」

「何がわかるの?」と優斗が言った。

「この人、問題起こしそうだなあって」

 栄美は優斗を蔑むような目で見て言った。

 昨日あのあと二次会で仁川から何を聞いたのだろうか。どうせ君の彼氏はどうしようもないロリコンとでも言われたんだろう。どちらにせよ、優斗は彼女のすべてを決めつけるような物言いにイラっとした。

「馬鹿じゃないの。問題なんか起こさないよ」

 優斗は吐き捨てるように言った。

「でも、優斗君は若い女の子が好きなんでしょう?それも、とっても」

 栄美はとってもという部分を強調して言った。

「仁川に何言われたか知らないけど、今まで問題起こさずやってきてるだろ」

「どうかしら。今はまだ、って可能性だってあるわ。人の本質って変わらないと思う。それに、胸が小さいから私と付き合ってたんじゃないの?」

 この女は仁川の言葉を信じきっているようだ。優斗は怒りを通りこして呆れてしまった。

「僕は普通に栄美と付き合って、普通にセックスだってしてただろう。本当のロリコンは子供にしか興奮しないはずだよ」

 いじわるにセックスという部分を強調して言ってやった。

 彼女は出会った頃からずっと真面目なお嬢様だった。周りに人がいる状況でわざと直接的な表現を使って、恥ずかしい思いをさせてやろうと思ったのだ。栄美の顔が真っ赤になった。

 ぴしゃ!

 栄美が席を立ち上がった瞬間、優斗の顔に冷たいものがぶちまけられた。コップ一杯分の水。ドラマなんかでよく見るやつだ。

 彼女が顔を真っ赤にしたのは恥ずかしいからではなく、怒っていたからだった。 

「じゃあ、次は胸の大きい年上のおばさんと付き合えば! さよなら」

 そう言って栄美はカフェを出て行った。最悪な気分だけが残った。


    5


 自分だけは特別だ。

 そんな勘違いから、世の中の人は不幸になる。昔流行ったナンバーワンじゃなくてオンリーワンでいいという曲が優斗は大嫌いだった。

 なぜなら、この世に存在するだいたいのものは代替が可能だからだ。

 ご飯がなければ、パンを食べればいい。パンがなければ、お菓子を食べればいい。マリーアントワネットか誰かが言っている。

 恋人だってそうだ。

 栄美はきっと優斗がいなくても、佐藤でも、加藤でも、仁川でも代替が可能だ。絶対にこの人じゃなきゃいけない、なんてことはない。逆もまたしかり。

 こんな考え方だってできる。栄美に出会う前に仲良くなった女性がいたら、優斗はその人と付き合っていただろう。栄美は出会わなかった誰かの代替だった。

 仕事だってそうだ。

 自分にしかできないこと。自分にしか作れないもの。すべて勘違いだ。

 優斗は自分がそういったものとは無縁だと思って生きている。 

 学生時代、優斗は軽音学サークルに所属していた。どこの大学にも必ずある、適当にバンドを組んで、好きなバンドの曲を真似して演奏するサークルだ。

 それまで優斗は自分はかなりの音楽好きだと思っていた。いつか音楽に関わる仕事をしたい。そんな風に考えた時期もあった。しかし、そのサークルに入って優斗は自分が井の中の蛙だということを思い知った。

 本当に同世代かと思うくらい音楽を聴いている人たちに出会った。

 単純に知識量がまったく違った。そういった人たちは数々のライブに足を運び、優斗が名前も聞いたことのない海外のインディーズバンドの話を楽しそうにしていた。

 オリジナル曲を作って演奏する人たちもいた。サークル外で、都内のライブハウスを借りてライブ活動をしていた。本当に音楽が好きでプロを目指すような人たちだ。単純に音楽に対する熱量が違った。アルバイトで稼いだお金をすべて高いチケットノルマや楽器代に使っていた。

 優斗も在学中はそんな彼らに負けじと努力していた。新譜を隈なくチェックしてみたり、作曲に挑戦してみたこともある。だが、その時点で何かが間違っていた。特別な人は、そもそも努力しようとなんて考えない。

 結局、優斗には何も特別なところなんてなく、手っ取り早くなれる教師の仕事をしていた。

 それを証拠に、あれほど夢中になっていた音楽も、仕事を始めてからはすっかり遠ざかってしまっていた。

 サークルの中には社会人になっても音楽を続けている人たちもいる。仕事のかたわら楽器を練習し、休日にライブハウスに出演しているようだ。優斗も何度かライブに誘われた。

「今度ライブやるから、よかったら観に来て」

 そんな文面を見る度に、優斗は自分はそこまで音楽が好きではなかったんだなあと感じた。 


    6

 

 三月いっぱいで移動となる優斗は、今まで働いていた職場にある自分の荷物を整理したり、移動先の小学校に挨拶に行ったりと、短い春休みを慌ただしく過ごした。

 新しく配属された学校は以前と同じ市内にある公立小学校だった。同じ市内の公立学校でも、地区によって通っている生徒の毛並みが違う。

 その学校は工業団地のある地区で、外国人労働者の子供が多いと聞いた。日本に出稼ぎに来たばかりの外国人の多くは日本語が喋れず、その子供もまた日本語が喋れない。なかには授業にならないほど荒れているクラスもあるようだ。

 面倒なのは嫌だなと優斗は思った。

 教師という仕事に対して、優斗は情熱のようなものはほとんど持ち合わせていない。

 たまたま両親が教師をしていたから大学受験の際に、教育学部を勧められた。調べてみると、どの大学もなぜか教育学部だけ偏差値が少し低かった。たいして大学で勉強したいこともなかった優斗は、そこそこの大学の教育学部を受験した。

 大学生活をだらだら過ごしていた優斗は、周囲の学生が企業説明会だ、OB訪問だと色めきたっているのを横目に、就活をするのも面倒だから先生でもやるかと思った。それで現在に至っている。

 気づけば四月になり、川沿いの桜は満開だった。そういえば、去年は栄美とライトアップされた夜桜を観に行ったなあと久しぶりに栄美を思い出した。職場も変わったことだし、もう会うことはないだろう。


 四月は担任教師の腕の見せ所だ。

 滞りなく授業を進めていくためには最初が肝心で、ここでつまずけば、一年という航海半ばで船は座礁してしまう。担任はクラスのルールを決めたり、あの手この手を使って子供の士気を高めなくてはならない。

 と言っても、新しい学校でも優斗は担任は持たない。複数の学級に出入りする級外というポジションだった。

 三年生から六年生のうち、五つの学級で授業を受け持つことになった。一クラスが二十人と考えると、単純計算で百人以上の人間と新しく知り合うことになる。顔と名前を一通り覚えるだけでも大変な仕事だ。

 初めての学校だから、各教室の場所、どこに何があるかなども新しく覚えなければいけない。

 最初の一ヶ月は学校に馴れるのが仕事のようなものだった。


    7


 五月の連休の少し前、軽音サークルのライングループで、誰かが久しぶりに飲み会をしようと言い出した。

 卒業してから大学時代の友人とはほとんど会っていなかった優斗だが、久しぶりに会ってもいいかなと思って参加することにした。彼女にフラれて暇だということもあった。

 都内で働いている人が多かったので、場所は新宿になった。

 飲み会当日、新宿の雑居ビルの三階に入った居酒屋に、十数人の男女が集まった。

 久しぶりに会う友人たちは大学時代とほとんど変わっていなかった。まだみんな二十代半ばだから、当然といえば当然だ。大学時代、授業そっちのけで部室でだべっていた頃のことが思い出された。

 乾杯の合図のあと、順番に近況を報告し合った。みんな見た目はたいして変わっていないが、社畜で死にそうになっている人がいたり、すでに転職した人がいたり、実家にUターンした人がいたり、彼女と同棲しているという人がいた。

 優斗も何か面白いことを言わないとと思い、ちょっと前に彼女にフラれたという話をした。

 おおと歓声が上がった。みんな、その手の話題を待っていたようだ。良い感じに酔いも回ってきて、その場は異様な盛り上がりを見せた。

「優斗もマッチングアプリやってみろよ」

 学生時代ベースを弾いていた田中という男が大きな声で言った。田中はサークル内では三枚目ポジションだったが、社会人になってからアプリを使って彼女をつくり、その彼女と年内にも結婚するらしい。

「マッチングアプリって、出会い系だろ」と優斗が言った。

「お前、全然わかってねえな」

 そこからは田中の独壇場となった。

 田中が言うには、二つは似て非なるものらしい。ひと昔前に流行った「出会い系」はガラケー時代の異性と出会えるサービスで、誰でもすぐアカウントを作れるため、匿名性が高かった。誰が使っているかわからないので、悪質な業者やサクラが多かった。

 それに対して、マッチングアプリはスマホの普及により登場したサービスだ。実名での登録が必要とされるフェイスブックと連携が必要だったり、身分証の画像を送って本人確認する必要がある。そのため、透明性が高い。運営会社が厳しく審査をしているから、出会い系に比べて違法な業者やサクラは圧倒的に少ない。真剣に交際相手や結婚相手を探している人が使っている。

 田中はまるでアプリの会社の広報担当のように饒舌に語った。

 その日集まったメンバーは彼氏彼女がいない人が大半だったため、みんな興味津々といった具合で田中の話に耳を傾けていた。

「この中で、まだ音楽やってる人っている?」

「私やってるよ」と女の子が手を挙げた。

「佐藤君と中山さんも社会人サークルでバンドやってるよね」

「楽器とかバンドとかやってるって書くと結構イイねもらえるよ。俺はベース持ってる画像をプロフィール画像にしたら、いまの彼女とマッチングしたから」

 俺も久しぶりに楽器弾こうかなあと誰かが呟く声が聞こえた。

「意外と社会人になって、音楽続けてる人って少ないよね」

「今日来なかったメンバーでまだバンドやってるやつっている?」

「うーん。三宅さんも大学時代に組んでたバンドまだ続けてるんじゃないかな。こないだライブ誘われた」

「あと本郷な」と誰かが言った。

 場の空気が、少し変わった。

 優斗たちのサークルで唯一プロのバンドマンになった男、

それがだった。大学時代からサークル外でバンドを組んで、都内のライブハウスで精力的にライブをしていた。パートはギターボーカル。作詞作曲もこなしていた。ちょうど優斗が社会人になる頃、有名なインディーズレーベルからデビューを果たしていた。

 本来ならば称えられるべき存在なのだが、さんざんサークルの空気を悪くして辞めていったため、今日まで誰も本郷のことを話題に出さなかった。

 本郷は優斗がこのサークルに入って最初にできた友達でもあった。

 優斗の通っていた大学には軽音サークルがいくつもあった。特にこだわりのなかった優斗は校内を歩いていて最初に声をかけられたサークルに入った。あとでわかったことだが、優斗が入ったサークルはマニアック、もしくは玄人受けする音楽が好きな人が集まるサークルだった。

 高校時代からギターを弾いていた優斗はいちおう経験者として扱われた。大学から楽器を始めるという人も多いため、入部当初はちやほやされた。

「好きなバンドなに?」

 初めて会ったときに、本郷に訊かれた。

 本郷はひどく痩せていて、肩まで髪があった。高校生の頃から伸ばしていないとあんなに髪は伸びない。優斗は一目見て、こいつ変な奴だなと思った。無視したらそれはそれで面倒そうだ。とりあえず、優斗は、

「ビートルズ」と答えておいた。

 本郷は少し考えて、お前一周回ってるなと言った。

 このサークルに入るような人はみんな、マイナーな洋楽バンドの名前を挙げたがっていたから、ビートルズが好きなんて言ってるやつは珍しかったのだろう。

「一緒にバンドやろうぜ」と本郷が言った。

 本当のところ、優斗はビートルズが特別好きという訳ではなかった。ただ単によく聴いていたというだけだ。

 優斗の両親はだいぶ古い価値観を持った人たちで、基本的に家ではクラシックが流れていた。やかましい音楽は禁止だった。ロックバンドなんてもってのほか。

 優斗が中学・高校生の頃は、まだサブクス配信なんて便利なものはなかったから、CDを買わないと好きな音楽が聴けなかった。聴きたい音楽は無限にあったが、子供の少ないお小遣いで買えるCDなんてたかが知れていた。

 だけど何故か、ビートルズのCDだけは親が買ってくれた。ビートルズだけは聴いても良かった。理由は、ビートルズの曲は、英語の教科書に載ってるから、らしい。英語の勉強になると思っていたのだ。だけど、ローリング・ストーンズはダメだった。実際は、ビートルズの方が街の不良的な存在だったらしいが、そんなこと両親は知る由もない。

 そんな話を本郷にしたら、さらに気に入られ、強制的にバンドに加入させられた。

 このサークルでは、年に数回、大学の講義室を借りて無料のライブが行われた。自分たちで音響機材を運んでライブの準備をしたり、看板を持って歩いて呼び込みをしたり、すべて自己満足みたいな活動内容だった。

 新入生が入ってすぐのライブを、先輩たちは面白がって「処女ライブ」と呼んでいた。たいていの新入生はここで散々なライブをするのだ。

 しかし、優斗が入った本郷のバンドは先輩たちの演奏と大差ないクオリティ―のライブをした。本郷は小学生の頃から父親にギターを教えてもらっていたらしく、ギターも歌も相当なレベルだった。

 ライブが終ると、大学近くの居酒屋で打ち上げが開かれた。

「音楽は世界を変えるんだ」

 打ち上げの席で酔払った本郷が大きな声で言った。そういう恥ずかしいことを堂々と言うようなやつだった。世界なんて変えられるわけないじゃんと周りのみんなは思ったが、酔払いの戯言としてスルーされた。

 本郷はそのあとのライブでも、たびたび同じことを口にし、

次第に周囲から煙たがられるようになった。優斗もそのなかの一人で、本郷とは自然と距離ができてしまった。

 終いには、先輩のライブ中に、

「こんなの音楽じゃねえ」と乱入して追放処分となった。


    7


 その場でダウンロードしろと言う田中に、スマホが通信制限だと言って誤魔化した優斗だったが、家に帰って来てから急に気が変わった。

 学校で働いている優斗が職場で出会えるのは、当然ながら学校の先生たちだ。栄美と付き合ってわかったことだが、仕事以外のプライベートでも口うるさい先生に会うのは疲れた。

 マッチングアプリは、普通に生きてたら関わることのない人と出会うチャンスかもしれない。どうせ減るものもないのだ。面白い経験だと思って始めてみることにした。

 趣味で繋がろう。

 スマホにダウンロードしたアプリを開くと、そんなコピーが流れた。田中が教えてくれたアプリは、共通の趣味で素敵な異性と出会えるというのを売りにしていた。

 アプリ内で自分の趣味や興味のあることを入力すると、同じ趣味を持った人の写真がすらりと表示される。写真を選んでタッチすると、その人の詳しいプロフィールを見ることができた。その中から気に入った人がいたら「いいね」というハート型のボタンを押していき、相手も自分に「いいね」を押してくれたらマッチング成立だ。メッセージのやりとりができるようになる。「いいね」は一日に押せる回数が決まっているので、慎重に選ばなければいけない。

 優斗は興味のあることを「音楽」にした。プロフィールには自分がどんな音楽が好きかを詳しく書いた。普段は口下手な優斗も好きなもののことなら結構すらすらと書けた。他の人のプロフィールを見ても好きなことについて熱く語っている長文が目立つ。自然と、書いている人の人柄もわかった。いきなり何も知らない人とやり取りをするよりはだいぶ気が楽だ。


 アプリを始めたはいいものの、優斗はなかなかマッチングしなかった。たまにマッチングしてもメッセージのやりとりが盛り上がらず、会う前にやり取りが終ってしまうことが多かった。

 優斗は馬鹿正直にプロフィールを書いていた。自分が小学校で講師として働いていて、たいした年収がないことも記入していた。なかなか上手くいかないのは、やはり年収が低いのが原因なのだろうか。アプリを教えてくれた田中は年収や職業など、少し盛って書いた方がマッチングしやすいと言っていた。中には結婚しているのに独身のふりをして使っている人もいるらしい。優斗は嘘をつかずに会ってくれる人と会った方が良いと思っていた。あとから嘘がばれて困りたくなかった。

 

 アプリを使っているうちに、細かく条件設定をすることで、より自分の好みに合った人を表示できることがわかった。年齢や年収、住んでいる場所、職業など相手に求める条件を自由に設定することができた。年齢を「二十代半ば~三十代半ば」にすると、自分と同世代、もしくは少し年上の女性だけが表示されるようになった。

 優斗は先日、二十六歳になったばかりだ。三十歳を越えた女性は今まで恋愛対象として見ていなかったが、四捨五入すれば自分もアラサーになった。そう思えば、年上もなくはない気がした。とはいえ、年上も対象にしようと思ったのは自分をロリコン呼ばわりしてフッた栄美への当て付けでもあった。 

「ランドガーデン好きなんですね」

 少し前にマッチした香織という女性からメッセージが届いた。優斗がプロフィール写真で着ているバンドTシャツに反応してくれたようだ。

 田中いわく、プロフィール写真は超重要。自分の趣味や人柄が一目でわかるような写真を選ばなければいけない。それから、自撮りよりも誰かに撮ってもらった写真を使えとのことだった。自分で撮った写真ばかりアップしていると友達がいない人間と思われる。誰かに撮ってもらった写真を使うことで少なくとも写真を撮ってくれる友達がいるということがわかる、らしい。優斗は昨年の夏、サークルの友人たちとロックフェスに行ったときに撮ってもらった写真を選んだ。ランドガーデンというバンドのTシャツとタオルを身につけ、笑っている写真だった。

 ランドガーデンは日本のオルタナティブロックバンドだ。メジャーなバンドではないが、音楽通のあいだでは評価が高く、知る人ぞ知るバンドだった。人気があったのは結構昔で、残念ながら優斗がその存在を知った高校生のときにはすでに解散していた。ランドガーデンに反応してくるなんて、相当な音楽マニアか優斗よりずっと年上の女性だろうと思った。

 優斗の予想は当たっていて、香織のプロフィールは三十二歳となっていた。プロフィール写真には若くて可愛い女性がアップされているが、その写真がいつ撮られたものかはわからない。いざ会ってみたら写真とまったくの別人が来る可能性だってある。

 そんなことを考えながらも、優斗は香織とのメッセージのやり取りを楽しんだ。音楽好きと言っても、ロックからクラシックまでジャンルは多種多様で、自分と好みがばっちり合う人はまれだ。香織とは音楽の趣味が比較的近く、90年代のロック話などで盛り上がり、メッセージのやり取りだけでだいぶ仲良くなった。

 そうこうしているうちに、香織から「今度、飲みに行きませんか?」というメッセージが来た。


    8


「最近は全然CD買わなくなったし、CDショップにも行かないね」という話の流れから、デートの待ち合わせは渋谷のタワーレコードということになった。

 土曜日の夕方、待ち合わせ時間ちょうどに着いたが、香織はまだ着いていないようだった。優斗は店内をぶらぶら歩き、視聴機で気になるバンドの新譜を聴いたりした。

 最近はサブスクリプションが主流になって、CDなんて売れないだろうからミュージシャンは大変だろうなあと他人事のように思った。

 邦楽ロックのコーナーを巡っていると、ラムダキッチンの新しいアルバムが目に入った。本郷のバンドだ。

 待望の新譜!と手作り感あふれるダンボールのポップが置かれている。雑誌ページの切り抜きが貼られていて、メンバーの写真の中に久しぶりに見る本郷がいた。黒かった長い髪は切られ、短い金髪になっていた。なかなか雰囲気がある。

 スマホを見て時刻を確認すると、待ち合わせ時間をだいぶ過ぎていた。このまま誰も来ないかもしれない、と優斗は思った。

 視聴用のヘッドホンを付けて、ラムダキッチンの新しいアルバムを聴いていると、急に後ろから肩を叩かれた。

「藤井さん?」

 写真と全然違う人が来たらどうしようかと思っていたが、見た瞬間にこの人が香織だとわかった。

 もともとの写真でも若く見えたが、実際会ってみると写真よりも若く見えた。明るい、ほとんど金髪に近いショートカット。可愛くないと似合わない。オーバーサイズのフード付きパーカーにスキニージーンズというラフな格好だが、様になっていた。ファッションに疎い優斗はよくわからないが、きっとどこかのブランドのちゃんとしたものだ。

 優斗はヘッドホンを外して挨拶した。

「何聴いてたの?」と遅れて来た謝罪もなしに香織が言った。

「えっと、ラムダキッチンっていうバンドで」

「あ、名前は聞いたことある」

「僕の、大学のときの同級生がやってるんです」

「え、すごいじゃん。どの人どの人」

 優斗は写真の中の本郷を指差した。

「私と髪型一緒だ」と香織が笑って言った。

 笑った顔も可愛いかった。

 当たりだ。優斗は心の中でガッツポーズをした。優斗にとっては香織がアプリを使って初めての会う人だった。ビギナーズラックというやつか。

 これ知ってます?新しいアルバム出てる、など目の前で見たものの会話をしながら店内をぶらぶらして、一通り見終わると店を出た。


 まだ外は明るかった。二人は渋谷の街を歩いて移動した。目的地までは十分ほど距離があり、沈黙が気まずい。さっきまではいくらでもネタが目の前に転がってたのに。何か話さなきゃと思いつつ、考えれば考えるほど何も思い浮かばなかった。

「香織さんって年齢はプロフィール通りなんですか?」

 苦し紛れに思いついたことをそのまま聞いてしまった。さすがにいきなり年齢の話は失礼だったと聞いた瞬間後悔した。

「そうだよ。三十二歳。どうして?」

 香織はあっけらかんとした表情で言った。

「いや、全然見えないなあって、良い意味で」

「ありがと。てか、タメ語で話そうよ。なんか私、おばさんみたいじゃん」

「すみません。あ、ごめんか。僕、アプリで会うの初めてなんで勝手が分からなくて」

「そうなんだ。優斗君って呼んでいい?」

「いいですよ。あ、いいよ、ですね」

 敬語に慣れる前に、目的の店に着いてしまった。

 この店は優斗が予約していた。昔、友人と行ったライブの帰りにたまたま路地裏にあるのを見つけたのだ。昼はカフェとして営業しているが、夕方からはアルコールも提供される。いわゆるカフェ&バーだった。内装が凝っていて雰囲気のある店だったので、一緒に来た友人(男)と今度は女の子とのデートで来ようぜと言い合っていた。

 まだ少し早かったが、二人ともお酒を頼んだ。初対面の人とこれ以上シラフでは間が持たない。優斗はビール、香織はジンジャーハイボールを頼んで乾杯した。

「僕は本当に最近アプリ始めたばっかりで、香織さんが初めて会った人なんですよ」

「それ、さっきも聞いた。何回言うのよ」香織は笑って言った。「どうしてアプリ始めようと思ったの?」

「ちょっと前に彼女にフラれて、、、」

「そっかそっか。私はけっこう古参で、ってこのアピールはマイナスでしかないね。今のなし」

「いえ、全然。いろいろ教えてください」

「優斗君は学校の先生なんだよね?」

「まあ、一応。正確には講師ですけどね」

「へえ~、すごいね。じゃあ、勉強できるんだねえ」

「香織さんは何の仕事してるの?」

 アプリのプロフィールでは接客業となっていた。

「私は、水系かな」

 水系? おそらく水商売のことだ、と遅れて理解した。優斗はなんだか妙に納得してしまった。香織は明らかに自分の周りにはいないタイプだった。

「なんか大変そう」

「うん。ろくなやついないよ」香織は笑って言った。

 彼女が働いているのは池袋にあるキャバクラらしい。お店のナンバーワンとまではいかないまでも、そこそこ上手くやっているという。

「最近の子供ってさ、発育良いでしょう? 先生やってて、なんかこう、ムラムラとかしないの?」

 酔ってきたのか、香織がフランクな質問をしてくる。

「うーん、子供をそういう対象としては見ないですね」

 優斗はキッパリと言った。

「そうなんだぁ。ニュースとかネットでよく見るからさ、いけない意味で子供が好きな人が多いのかなあって思ってた。偏見?」

「そうですねえ。なかにはそういう先生もいるかもしれないけど」

 その店の会計は香織が払った。優斗君が予約してくれたし、どうしても私が払いたいと言った。

「その代わり、優斗君は次の店のお金払ってね」

 一軒目のカフェバーを出ると、香織は優斗の手を握って歩き始めた。辺りはすっかり暗くなっていた。入り組んだ細い道を何度も曲がり、優斗は自分が今どのあたりを歩いているのかわからなくなっていた。

 辿り着いたのはいわゆるロックバーと呼ばれる店で、店内には六十年代、七十年代のクラシックロックが流れていた。

 香織は優斗がほとんどわからないような古い音楽のことをよく知っていて、これは誰の曲、これはあのバンドの曲、と丁寧に教えてくれた。店のマスターとは顔なじみらしく、次はあの曲を流してなどとリクエストしていた。

「お姉さん、若いのによく知ってるねえ」

 気づけば隣のカウンターに座っていたおじさんが話しかけてきて、酒を奢ってもらい乾杯までしていた。優斗も一緒に奢ってもらった。

「こういうの知ってると喜ばれるのよ」

 香織はラムコークを飲みながら言った。きっと彼女の店に来る客のことを言っているのだろう。きっと香織は人気があるんだろうなあと思った。優斗もなんだか楽しい気分になって、いつもより多く酒を飲んでいた。


    9

 目が覚めると、知らない天井があった。

 優斗は知らない部屋のベッドの上に寝ていて、ひどく頭が痛かった。隣には香織が寝ていた。服は着ていた。目がチカチカするネオン街とおって、休憩休憩と言ってホテルに入ったところまでは覚えていた。自分は初めて会った人と会ったその日にラブホに入ったのか。

 スマホを覗いて時刻を確認すると、日付が変わっていた。もう終電もない。優斗は香織の肩をやさしく揺すって起こした。どんな顔をしていればいいかわからなかった。

「あー、してないよ。優斗君、寝ちゃったから」

 目を覚ました香織はとろんとした表情でそう言った。そうか、してないのか。優斗は一人胸を撫で下ろした。

「でも、言っておかないといけないことがあって」と香織が言った。「私、子供いるんだよね」

「え、結婚してるってこと?」

「もう離婚してるから、バツイチ。ダメかな?」

 ダメじゃないけれど、シングルマザーか。思わぬ展開に優斗は戸惑った。香織は顔色を窺っている。優斗は思っていることが顔に出やすいタイプだ。二人のいる部屋はなんとも気まずい空気になった。

 すぐにでも帰りたい気分だったが、終電も逃してしまったし、二人はそのまま朝までホテルで過ごすことにした。香織はすぐに寝息をたてて眠ってしまったが、優斗はなかなか眠ることができなかった。始発が動きはじめ、人や車が移動を始めても優斗は眠れなかった。香織を置いて、先に帰ろうかとも思ったが、なんとなくやめた。テレビで朝のニュースを見ながら香織が起きるのを待った。

 八時過ぎに香織が起きた。二人はホテルを出て渋谷駅まで歩いた。傍から見れば明らかに朝帰りをする男女だった。駅に到着すると、改札の前でまたねと言って別れた。香織とは違う電車だった。

 ホームで電車を待ちながらもう会わないだろうな、と優斗は思った。彼女は間違いなく美人で、趣味が合い、話も盛り上がった。でも、シングルマザーの彼女が結婚を前提にパートナーを探しているのなら、優斗には荷が重いというのが正直なところだった。香織に子供がいるという話を聞いてからの自分は相当戸惑っているように見えただろう。彼女はあれだけの美人だから、きっと優斗の他にもアプリでやり取りしている人がいるはずだ。誰か良い人を見つけて幸せになってほしいと無責任に思った。こちらから連絡はしないことにした。たぶん、相手からも連絡は来ないだろう。

 優斗の予想とは裏腹に初デートのあとも香織からは頻繁にメールがきた。内容は、最近読んで面白かった漫画や映画、動画、良かった曲のリンクなど他愛のないものだった。やはり、香織とのやり取りは楽しく、優斗も彼女からメールが来たら返すを繰り返すうちに、自然と次はいつ会うかという話になって、二回三回とデートを重ねていった。


 香織とのデートは飲みに行くことが多かった。

 都内の香織が気になっている店や行きたかった店に行き、お酒を飲みながらあれこれ喋って時間を過ごした。そして、どちらともなく誘ってホテルに向かった。

「やったら人が変わったようになる男の人が多かったけど。ゆう君は違う」

 いつかのホテルで香織が言った台詞だ。今まで付き合ったことないタイプと付き合おうと思って選んだがゆう君だったんだあと嬉しそうに言った。  

「ゆう君は、ランドの復活ライブ行く?」

 ランドガーデンが活動再開するという話は香織と会う少し前から知っていた。

 それに伴い復活ライブが開催されることが決まっていて、優斗もそのライブに参加したいと思っていた。場所は新木場にある大きなライブハウスで、チケットの入手は相当困難だった。

「行きたかったけど。チケット取れなかったよ」

 案の定、チケットは相当な倍率になり、優斗は友人と二人で抽選をかけていたが、二人とも外れた。

「私も取れなかった」と香織が言った。「じゃあさ、うちで一緒に配信で観ようよ」

 チケットが取れなかった人のために当日ライブ配信があるらしい。聞けば、香織の家にはかなり良いスピーカーがあるという。

 優斗は考えた。香織の家に行くということは、彼女の子供と顔を合わせることになる。子供の話を聞いて以来、優斗はあえて彼女の子供の話題は避けていた。


    ⒑

 教えてもらった住所には、綺麗な鉄筋コンクリートのマンションが建っていた。十階建て以上はあるように見えた。何階以上あるとタワマンになるのか優斗にはわからなかったが、限りなくタワマンに近いマンションだと思った。セキュリティもしっかりしていて、エントランスでドアのロックを外してもらわなければ、ドアが開かないようになっていた。知らない人が勝手に入れないようになっている。香織に教えてもらった部屋番号を押すと、スピーカーから香織の声がして、自動ドアが開いた。エレベーターで八階まで登り、言われた部屋の前まで行ってチャイムを押すと、いらっしゃいと香織が出迎えてくれた。

 小ぎれいな玄関にはたくさん靴が置いてあった。新品同様に綺麗なものもある。

 リビングには大きなソファーとオークのローテーブルが置かれていた。テレビ台の両脇にはデノンの大きなスピーカーが置いてあった。

 優斗と香織はソファーに座りながらライブを観戦した。香織が用意してくれた料理をつまみながら、優斗はビール、香織はワインを飲んだ。確かに、香織の部屋の音響は驚くほど良かった。どうしてこんなに良い音なのか聞くと、前に付き合っていた人が詳しかったからだとバツが悪そうに言った。

 ライブ観戦していると、奥の部屋のドアが空いて、長い黒髪の女の子が出てきた。Tシャツにショートパンツ。部屋からまったく出ない人特有の真っ白い肌をしている。こちらには見向きもしない。

 彼女はそのままリビングを通り抜け、トイレに向かった。香織の部屋は間取りの都合上、リビングを通らないとトイレに行けない構造になっていた。トイレのドアが閉まると、

「あれが娘」

 と香織がトイレの方を指差してなんでもないことのように言った。しばらくすると、トイレから女の子が出てきて、またリビングを通って部屋に戻ろうとした。

「ほら、。挨拶しなさい」

 と香織が言った。どうやら娘の名前は由愛というらしい。

 こんにちはと優斗が先に挨拶をした。何か言うかと思って待っていたが、由愛はぺこっと一瞬お辞儀のようなものをして、また自分の部屋に戻って行った。

「ごめんなさい。難しいお年頃なの」

「いや、全然。こっちが勝手にお邪魔してる訳だし」と優斗は苦笑いしながら言った。「由愛さんは、何年生なの?」

「うーん。由愛は次、十五歳だから。たぶん、中学三年生かな」

 たぶんって。親が自分の子供の学年を忘れるものだろうか。不審感が顔に出ていたのだろう。

「由愛は、学校行ってないからさ」

 香織は弁明するように言った。

「え、学校に行ってない?」

 優斗はだんだん混乱してきた。不登校ということだろうか。確かに優斗が働く学校でも不登校の子供は多い。過去にイジメがあったなどのわかりやすい理由があるわけでもなく、なんとなく学校に行けなくなる子供が増えていた。

 しかし、由愛が学校に行っていない理由は意外なものだった。

「なんていうか、あの子、戸籍がないのよ。だから学校に行ってないの」

 戸籍がない。

 優斗には香織の言葉の意味がすぐには理解できなかった。普段学校でたくさんの子供と関わるが、彼ら彼女らに戸籍があるかないかなんて意識したことはない。戸籍がないとはどういう状態なのか。というか、戸籍がないと学校に行けないのか。学校で働いていながら、そんなことは考えたこともなかった。

 ビリー・アイリッシュも学校行ってなかったらしいわよ。ホームスクーリングっていうの? アメリカじゃ割りと多いみたいよと香織はあっけらかんと言った。


    ⒒


 ライブ配信が終わると、今日は帰ると言って、優斗は香織の家をあとにした。まだ頭の中が混乱していた。ライブも途中からはほとんど覚えていなかった。

 帰りの電車の中、優斗はスマホで「戸籍がない人」と検索してみた。同じように検索している人がいるのだろう。検索バーの予測には「なぜ」、「住民票」、「学校」などの多くの言葉が追加で表示された。優斗はその中から「戸籍がない人 困ること」を選んで検索した。

 一番上に表示されたページをクリックすると、世の中には何らかの理由によって戸籍がない人がおり、そういった人がどんなことで困っているか、要点をわかり易くまとめているページにとんだ。どこかの法律相談所のホームページのようだ。思ったよりもページが長く、優斗はスマホの画面を何度もスクロールしながら読んでいった。

 まず驚いたのは、戸籍がない人は住民票がないということだ。住民票がないから学校に行けない。それから保険証なども作れない。保険がきかないので病院は全額自腹になる。他にも、運転免許は取れないし、選挙にも行けない。銀行口座も作れない。多くの場合、就労も困難とある。要するに、戸籍がない人というのは日本から存在を認められていない。この世界に存在しないということだ。

 優斗は学生の頃、社会科の授業で聞いた話を思い出した。

 中国の戸籍のない「ブラック・チルドレン」と呼ばれる人たちの話だ。

 一人っ子政策により、中国では長い間、子供を産むのは一人までと決められていた。人口が増えすぎて困っていたからだ。二人目を産むと罰則もあったため、だいたいの人はこれを守っていたが、農村部など、子供を労働力として重宝していた地域では、隠れて二人三人と子供を産んでいた。他にも、どうしても男の子が欲しい家庭などは、女の子が産まれても出生届けを出さないで、二人目の子供をつくった。そうやって戸籍に登録されていない人たちが中国には一千万人以上いるという。

 その話を聞いたとき、まるでおとぎ話の世界だと思ったが、日本にも戸籍のない人たちがいるのか。

 自宅に着くと、香織からメールが届いた。

「あの子、ゆう君のことけっこう気に入ったみたい」とあった。あれのどこが気に入ったのだろうか。自分は世界に存在しない、幽霊みたいな子に気に入られた訳か。


    ⒓


 香織と次に会ったのは二週間後だった。

 待ち合わせ場所は渋谷のタワーレコードで、向かったのは二人が最初に行ったカフェ&バーだった。なんだか今日の彼女は妙にかしこまった雰囲気をしていた。珍しく待ち合わせ時間にも遅れずに来た。

 まだ昼間だったため、アルコールの提供はなく、優斗はブレンド、香織はカフェラテを注文した。

「私ね、マッチングアプリを使ってたくさんの人と会って来たの。いろんなアプリ使って、アカウントを消したり、また作ったりしてね。なんでかわかる?」

 優斗は首を横に振った。

「マッチングアプリで出会った人を自分の店に連れてくの。お客さんとして。まあ、要するに営業だよね。ホストやってる男の子とかもアプリ使って集客してるみたい」

 そんな使い方があるのか。優斗は関心して話を聞いていた。だが、自分は香織の店に誘われなかった。

「私、最初会ったときね。ホントはゆう君をすごーく高い料金を取るバーに連れて行くつもりだったの。ぼったくりバーってやつね。悪い知り合いがやってる店があるの。アプリで会った人を連れてって、バカ高いお酒飲ませて、高額な料金を払わせる。その売り上げのいくらかを私がマージンとして貰うっていう。最低だよね。本業の方でお客さんが全然来ない時期があって。その時、たまたまその知り合いに誘われて、魔が差したっていうかさ」

 香織はさらりととんでもないことを話し出した。

「でも、あの時行ったのは普通のロックバーだったよ」

 優斗は彼女を擁護するというよりは、自分を落ち着かせようとして言っていた。代金もぼったくりと言うほど高くはなかった。

「だって、ゆう君、マジで全然お金持ってなさそうだったし」

 香織は苦笑いしながら言った。

 どうやら冗談というわけではないらしい。あやうく自分は詐欺にあうところだったのか。マッチングアプリは身元がわかっているから安全と田中の話を聞いて思い込んでいた。思えば、優斗はロックバーに行ったあと、ホテルでのんきに寝てしまっていたが、ホテルにいきなり怖いお兄さんが来て、金をふんだくられるというパターンだってあったかもしれない。優斗は身をもって、世間の怖さと自分の危機管理能力の低さを知った。巷で、学校の先生が一番世間知らずなんて言われる訳だ。

 優斗はイライラしてきた。不甲斐ない自分に。そして、香織の態度に。

「それで、香織は何がしたいの。そんなこと、いまさら告白してきて」

 香織は優斗の目を覗き込んだ。

「ゆう君、由愛に勉強を教えてあげてくれないかな?」

「勉強を?」

 いきなりの提案に意味がわからなかった。

「そう。由愛の、言ってみれば、家庭教師になって欲しいの。こないだ家に来てくれたじゃない? 由愛、ゆう君のこと気に入ったみたいなの。あの子が誰かを気に入るなんて本当に珍しいんだ」

 学校に行っていない由愛はきっとずっと家にいる。そんな彼女が出会う人間なんて、母親が連れてくる男くらいだろう。香織が今までどんな男と付き合っていたかはわからないが、そういえば以前、たまには全く違うタイプの人と付き合ってみようと思って選んだのが優斗だったと言っていた。

「実は、少し前にあの子と喧嘩したんだよね。あの子、なんか急に、なんで私には戸籍がないの? なんで学校に行って勉強できないの? って聞いてきたの。今まではなんとか誤魔化してきたけど。いろいろわかる歳になったのね。もう誤魔化せなくなってた」

 今まではどうやって誤魔化してきたのだろうか。

「ネットかなんかで調べたんでしょうね。戸籍がないと仕事だってできないって言うのよ。それで私、勉強なんてしなくていいって言っちゃったの。あんたは私に似て顔が良いから、なんとでもなるって。そしたら、今まで見たことがないくらい怒って、いろんな物投げて暴れたの、壁は凹むわ、床は傷つくわ、大変だったのよ」

 ほらここ、と言って香織は前髪を上げた。髪の生え際に少し色が変わっている箇所があった。

「ファンデ厚く塗ってあるけど、アザになっちゃった。もうどうにも止まらなくって、お願い、お願い、由愛ちやん、ごめん、お母さんが悪かった。替わりに、誰か勉強教えてくれる人を連れてきてあげるからって言って、なんとかなだめたの」

 優斗は苦笑するしかなかった。あの幽霊みたいな子が暴れるなんて想像できなかった。

「今までは勉強、どうしてたの?」

 ふと優斗は疑問に思ったことを聞いてみた。

「私がわかることは教えてあげてた。小学校の算数や国語のドリル買ってきてね。それくらいなら高卒の私でもわかったからね。でも、私、馬鹿だったからさあ。中学校の勉強とか教えてあげられなくて。大学も行かなかったし」

 まったく何も勉強していないという訳ではないらしい。さすがに香織も親として、読み書きと四則演算くらいは理解していないと生きていけないと思ったのか。

「聞いておきたいんだけど。どうして由愛は戸籍がないの?」

 この際、疑問に思っていたことは全部聞いてやろうと思った。うーん、長くなるよと言って香織はカフェラテのお代わりを注文した。優斗もブレンドを注文した。

「私の元旦那ってねDVクソ野郎だったの。結婚する前はわかんなかったんだけど。ていうか、私は高校を卒業したばかりの小娘で世の中のこととか、男のこととか、全然わかってなかった。付き合ってた頃はただ年上の優しいお兄さんだと思ってた。ノリが良くて、お金持ってて、なんでも奢ってくれた。未だに私はあいつが何の仕事してたのかわからないんだけど。で、結婚して一緒に生活し始めたらね、ちょっと喧嘩になったり、気に入らないことがあると、あいつは私に手を出すようになったの。お前が悪いんだって、なぜかいつも私が悪いの。最初はネコパンチだった。それがだんだんジャブになって、痣ができるようになった。毎日殴られて、お前が悪いって言われて。頭おかしくなりそうでしょ? でね、私、逃げたの。

 由愛はね。そのあと出会った人との間にできた子なの。あの頃は、ほら、若かったから、出会いもたくさんある訳よ。仮にAさんとしようか。Aさんはとっても良い人で、ちゃんとした仕事もしてた。でもさ、出会ったときはまだ私、離婚してないじゃない。逃げてきた訳だから。でね、Aさんが一緒に弁護士に相談とか一生懸命に動いてくれて、裁判とかやって、やっと離婚できたの。裁判って長いのよ。若いから余計に長く感じた。私、裁判やってるうちに妊娠しちゃったの。やっと離婚が決まって由愛が生まれて、この人と新しい家族になるんだって思ったら、由愛は元旦那の子供になるって言われたの。こっちは離婚してんのに、あいつの子供になるっておかしいじゃない? 日本の法律っておかしいのよ。離婚して二百日とか三百日経たないと元夫の子供になっちゃうんだって。それで私、出生届出さなかったの。だって、ムカつくじゃん。で、由愛は無戸籍になっちゃったの。本当のお父さんの戸籍に入るにはまた大変な裁判をしなくちゃいけなかったけど、Aさんがいればなんとかなるだろうって思った。だけど、そのあとすぐ彼いなくなっちゃった。君はトラブルメーカーだって。もっと普通の人を探すよって言って」

 普通に考えて、香織はまともな人間ではない。出会ったときから嘘ばかりついている。あやうく騙されるところだった。優斗に対しては未遂に終わったが、同じようなことを他の誰かにしているかもしれない。目の前に座っているこの女は犯罪者かもしれない。普通の人ならば、香織との関係はここで終りにするだろう。

 でも、普通とは一体何だろう。誰が決めたのか。優斗は混乱していた。由愛が無戸籍状態にあることは香織だけの問題なのだろうか。ちゃんと法律を知らなかった香織が悪い、自己責任だ、とてもそんな風には思えなかった。普通の人なら知っている? 日本にそんな法律があることを、学校の先生をしている優斗だって知らなかったのに。

 そして、困ったことに、香織の話を聞く前から優斗は、もう一度由愛に会いたい、由愛と話しがしたいと思っていた。ちらっと会っただけの由愛のことが気になってしょうがなかった。

 優斗も十分普通の人間とは言えない。

「自分にできることなら、力になるよ」と優斗は言った。香織の顔がいつものように明るくなった。

「これで、秘密は一切なし。だって、家族ぐるみの付き合いになるんだもん」

 家族ぐるみの付き合いか。

「そうと決まったら、今からうちに行こ。今日からお願いします。先生」

 え、今日からと優斗は思ったが、香織はすでに席を立っていた。


    ⒔

 

 マンションに向かいながら、どんな風に勉強を進めていけばいいかと香織に聞くと、

「全部ゆう君にお任せするから、好きにやって」という適当な答えが返ってきた。

 実際の学校では、教科書に赤字で問題の答えやポイントが書かれた指導書という本を使って授業を進めている。どの時期に何の勉強をするかも詳しく書いてあり、進め方など特に考える必要がなかった。これは結構大変だぞと優斗は思った。

 マンションに着くと、話はついてるからと香織に促され、優斗は由愛の部屋のドアをノックした。

「はい」

 とても小さな声が聞こえ、優斗は恐る恐る部屋の中に入った。

 最初に目に飛び込んできたのは、大きなサメのぬいぐるみだった。こちらに大きな口を空けて鋭い歯を見せているが、まったく怖くはない。いや、むしろ可愛い。

 由愛の部屋の中は、可愛いぬいぐるみだらけだった。そんなにぎやかな様相とは裏腹に、この子は誰とも会わずにずっとこの部屋にいるんだと思うと複雑な気持ちになった。

 部屋の隅には、勉強用の机と椅子があった。机の横にはランドセルがかかっていた。

 由愛は椅子に座っていた。母親である香織が美人なだけに、改めて見ると、由愛は相当な美少女だ。

 今日の由愛は上下ともに黒いジャージ姿で、生足は見えなかった。優斗は少しホッとしていた。あんな格好で横に座られたら変な気を起こしかねない。

「はじめまして、ってはじめてじゃないけど。藤井優斗と言います。よろしく」

 由愛の隣に用意された椅子に座って、優斗はぎこちなく挨拶をした。

「です。よろしくお願いします」

 人見知りもあるだろうが、相変わらず声が小さい。由愛はとても大人しい子のようだった。

「学校行ってないのにランドセルはあるんだね」

 机の横にかかったランドセルを見て優斗が言った。新品のように綺麗だ。

 由愛は緊張しているのか、無口なのか、あまり喋らなそうだったので、優斗は自分から積極的に喋らないとと思った。

「学校行きたいって言ったら、お母さんが買ってくれました」

 蚊の鳴くような声で由愛が言った。普段母親以外の人と会話することがないのだろう。

 由愛が言うには、ランドセルを背負って外を歩くだけで学校に行っているような気分になれたらしい。周りの人には、私立の小学校に行っていると香織が言ってくれていたようだ。でも、中には不信に思う人がいて、ねちねち問い詰めてくることもあった。そういうことがあると、だんだんランドセルを背負って出歩くことが少なくなった。気づいたら由愛は中学に通う年齢になっていて、このランドセルは綺麗なまま机の横にかかっているという訳だった。

 突然家に連れて来られただけに、何から始めたらいいかわからなかった。優斗は大学で小学校の教員免許を取った。中学校の免許も取ったが、実際に中学校で働いたことはなかった。

 とりあえず、優斗は由愛の部屋にある教材を見せてもらうことにした。香織に聞いたとおり、小学生用の計算ドリルや漢字ドリルなどの問題集があった。それぞれ一年生から六年生までがきっちりと揃えてある。優斗は順番にドリルを手に取ってパラパラとページをめくってみた。そこには小さくて几帳面な字で計算や漢字がぎっしりと書き込まれていた。

 漢字ドリルや書き取りは無意味とは言わないが、そこまで必要ではないと優斗は考えていた。パソコンやスマホがある時代に手書きで書く能力が必要だとは思えない。漢字は正しく読めて、意味がわかり、適切に変換できればいいと思っていた。学校という場所は同じことをずっとやるのが慣習となっている。やり始めたらやめられないのだ。

 だが、とりあえず由愛の勉強に対するやる気は十分だ。勉強したくない生徒に勉強を教えることほど虚しいことはない。

「すごい!しっかりやってあるなあ」

 少し大げさに褒めた。

「子供扱いしないでください」

 由愛はぴしゃりと言った。

「ごめんごめん、つい癖で」

 小学校でしか働いたことのない優斗はどうやら対応を間違えたらしい。由愛の年齢や性格を考慮していなかった。

 褒めると子供の自己肯定感が上がって、自信がつく。最初の頃、先輩教師にそう教えられたが、優斗には大人が子供を思い通りに操ろうとしているだけに思えて、抵抗感があった。それがいつの間にか大げさに褒めるのが癖になってしまっていた。 

「由愛さんはどうして子供は勉強しなきゃいけないと思う?」仕切り直しに優斗が聞いた。「実際、学校には勉強なんかしたくないって言う子もたくさんいるよ。みんなお母さんに無理矢理勉強しなさいって言われて勉強してる」

「うーん、どうしてでしょう」

 なんで勉強しなきゃいけないの?

 そう子供に聞かれて、しっかり説明できる大人は少ない。学校で働いている教師でさえ、なんで勉強しなきゃいけないか、しっかり説明している人はそうそういない。もちろん、絶対にこれが正解という答えはないが、そういうものだからと言って子供に勉強を押し付けるような大人にはなりたくなかった。

「由愛さん、ゲームしたことある?」

「はい」

「最近のゲームって最初にチュートリアルってのがあるでしょう? 昔のゲームは説明書ってのが必ず入ってたんだけど、今はチュートリアルになってる。このボタンを押すとこんなことができますよって教えてくれるよね」

「はい」

「学校の勉強って、それと同じなんだよ。学校で勉強してることって百年以上前の偉い人たちが、人生でこれを知っとくと便利だよってのをまとめてくれてあるんだ」

「だって、役に立つからみんな学校に行って勉強するんですよね」

 思っていた反応と違った。考えてみれば、由愛は学校に行ったことがないからピンときていないようだ。為になるから、嫌でもみんな学校に行っている。言われてみれば、当たり前のことだった。

 優斗は少し考えて、続けた。

「中学生くらいになるとね、こんな勉強して意味あるのかなって、考え出す人が増えるんだよ」

「へえ、そうなんですね」

「受験があるから勉強しなきゃって思って勉強してる人ばっかりになる」

「え、受験で使う勉強って役に立たないんですか?」 

 由愛が少し興味を示した。

「正直、小学校の勉強とは違って、人によっては一生使わないってこともあるだろうねえ」

「一生使わないかもしれないことを中学、高校と六年間も勉強するんですか?」

「そう。一生使わないかもしれないし、もしかしたら使うかもしれないことを勉強するのが中学校と高校だね」

「非効率ですね。最初から将来使うことを勉強すれば良いのに」

「みんな自分が将来どんな大人になって、どんな仕事をしているかなんてわからないんじゃないかな」

「そうですね」

 由愛は確かにという顔をして言った。

「アイフォンを作ったスティーブ・ジョブズっていう人がスピーチで言ってたんだけどね。たまたま学んでいたことが、ある日偶然繋がって新しいものを生み出すってことがあるんだって。人生ってそんな小さな点と点を繋いでいくような作業なんだよ。彼はコネクティング・ザ・ドッツって言ってた」

 ジョブズは学生時代、カリグラフィーという学問の授業に潜り込んでいた。カリグラフィーは文字をいかにカッコよく見せるかという学問で、それを学んでいたときは、これが何の役に立つのか、はっきりとはわからなかったという。でも、それが後にマッキントッシュに始まるアップル製品の、あの美しいフォントに繋がったのだ。

「とは言っても、勉強するからには何か目的、もしくは、何かこうなりたいっていう目標みたいなものがある方が、モチベーションが出るよね」

「目標、ですか」

「考えといて。宿題にしよう」

 目標が決まれば、自ずと勉強の仕方も決まってくる。

 とりあえず、それまでは中学校の国語と数学の参考書を買ってきて基礎的な問題に取り組んでいこうと思った。

 


 初回の授業はなんとか終わった。由愛の部屋を出てリビングに行くと、香織がソファーに座ってテレビを見ていた。

「どうだった?」と香織が聞いてきた。

「今日はまだ挨拶と様子見って感じかな。でも、やる気はあるみたいだね」

「何か必要なものがあったらこれで買って」

 そう言って、香織はテーブルの上に一万円札を三枚置いた。

「ありがとう。次はいつ来ればいいかな」

「いつでもいいわ。あの子ずっと家にいるもの」

 香織の仕事は夜遅くなることが多い。香織が仕事に行っている間、優斗が勉強を教えることになった。

 最初は週一で通うことにした。優斗は土日が休みなので、そのどちらかの日に香織の家に行った。

 エントランスで香織の部屋番号を押すと、由愛が入り口のドアを開けてくれた。

 

 香織が家にいないとき、由愛はよく喋った。

 彼女はホラーやサスペンスが大好きだった。無限にある時間を映画やドラマを観ることに費やしていて、それらの話題になるといつまでも喋った。昔の殺人事件やテロ事件のウィキペディアを読むのも大好きで、優斗が聞いたこともない事件の話をいくつも教えてくれた。香織以外の大人に会わないため、相当に知識が偏っている。最初はグロい話が苦手だった優斗だったが、由愛があまりに嬉しそうに語るので、だんだん面白いと感じるようになってきた。

 通い馴れてくると、平日の夕方も行くようになり、週二、三のペースで優斗は由愛に会うようになった。 

 大変だと思った家庭教師だったが、自分で教える内容を自由に決められるのは面白かった。優斗は家庭教師に案外向いているのかもしれない。


    ⒕


「宿題の答え、考えたんです」

 ある日、授業が終わって二人で適当に雑談をしているとき、由愛が言った。

「私、仲間が欲しいです」

 友達ではなく、仲間。

 学校に行けば、友達は自然と友達はできるだろうが。一人でずっと家にいる由愛にとって、友達は特別なものになっているのか。ただ少年漫画に出てくるイメージで仲間と言っているだけかもしれない。

「仲間と友達はどう違うの?」

「よくわかんないです。ただ一緒に遊んだりするのが友達で、仲間はちょっと違う気がします」

「仲間は、何か一つの目的に向かって協力している人たちって感じがするよね。たとえば、海賊王の隠した財宝を探すみたいな」

「それは完璧に仲間ですね」

 なんだか国語の授業みたいになった。

 優斗にも少ないが友達はいる。

 今だにやり取りしているのは大学時代の友達で、同じ学科のやつや、同じサークルでバンドをやっていたやつらだった。サークル仲間と呼んだりもするから、一応仲間とも呼べる。教室でライブをするために、みんなで音響機材を運んだり、確かに同じ目的のために活動していた。たまたま近くに生まれただけの公立小学校や中学校のクラスメイトとは違って、大学ならいろんな場所から人が来るし、気の合う人が見つかるかもしれない。

「大学に行ったら仲間ができるかもしれないね」

 とは言ったものの、戸籍がない由愛が大学に通うことはできそうになかった。


    ⒖


 夏休みになった。

 他の先生は会議やら研修やら日直やらで休みの間も学校に行かなければいけないが、優斗は非常勤講師なので完全に休みになった。講師の中には休みの間の稼ぎがないため、別でアルバイトをする人もいる。優斗は働くくらいなら節約する派だった。

 その話を香織にすると、だったら夏休み中は授業料払うよと言い出した。最近、香織は妙に羽振りがいい。優斗はそのお言葉に甘えることにした。

 夏休みの間、香織の家に行く頻度が増えた。


「あれ、食べてみたいな」

 勉強が終わり、二人でだらだらテレビを観ていると、独り言のように由愛が言った。テレビの画面には、有名なうどんチェーンのCMが流れていた。うどんの上に牛肉のしぐれ煮が豪勢にのっかっている。

 この家の住民は一切料理をしない。香織は基本外で食べているし、由愛はネットスーパーですぐ食べられるパンやお菓子を注文している。

「それじゃあ、うどん食べに行こうか」

 思いつきで言ってはみたものの、由愛がこの家の外に出たところを優斗は見たことがなかった。

「家から出るの何年ぶりですかね」と由愛が言った。

 彼女は意外にも出掛けることに乗り気だった。

「別に外に出れないわけじゃないんです。ただ、行くとこがないんです。一人で行くのも嫌だし」

 ちょうどマンションの最寄り駅にそのうどん屋が入っていて、二人は歩いて店に向かった。

「これなら、毎日でも食べれます」

 念願のうどんを食べた由愛は嬉しそうに言った。先生がうちに来てくれて本当に良かった。


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 高速道路で事故った友人の話を聞いたことがある。

 免許を取ったばかりの若くて馬鹿だった彼は高速道路でスピードを出し過ぎ、ハンドルをとられ、中央分離帯のブロックに衝突した。奇跡的に命に別状はなかったものの、彼はその事故の瞬間、視界にある全てのものがスローモーションで流れるのを見た。まだ起こっていない衝突の衝撃を感じ、ぶつかる前にそこに至った全ての経緯を後悔し始めていたらしい。

 由愛と唇が重なる瞬間、優斗はその話を思い出していた。

 うどんを食べ終え、由愛をマンションまで送ってきた優斗は、そのまま玄関で別れを告げて帰るつもりだった。

 一瞬、由愛と目が合った。

 重力に引っ張られて落ちるリンゴのように優斗は由愛に吸い寄せられ、二人の境目が曖昧になった。優斗はすべての細胞が沸騰するような感覚に陥った。それは、今まで一度も味わったことのない感覚だった。


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 暑くなったからビールが飲みたいという香織の要望で、その日は夕方過ぎにクラフトビールが飲めるビアバーで待ち合わせをした。赤レンガ造りのどこか懐かしさを感じる建物で、神田川沿いの、昔は駅だった場所を改築してつくったらしい。

 テラス席に座って、久しぶりに二人で川の流れを眺めながらビールを飲んだ。

 世間では夏のボーナスが出たから稼ぎ時だと言って、ここのところ香織は忙しそうにしていた。最近は香織よりも由愛と会っている時間の方が長かった。

「生徒の母親といけないことしてると思うと、なかなかそそるシチュエーションでしょう」

「言われてみればそうだね」

「どう、あの子?」

「やっと打ち解けてきたって感じかな」

「私はあの子が何考えてるのか、ぜんっぜんわかんないわ」

 香織はビールのお代わりを注文した。

 それもそうだろう。頻繁に通うようになってわかったことだが、由愛と香織はまともに会話もしていないようだった。

「でも、やっぱかわいいでしょ、あの子。私の子だし。ムラムラしたりしない?」

「するわけないじゃん。職業柄そういうのは絶対ない。由愛はまだまだ子供だよ」

「そうなの? 親子丼しようと思ったのに」

「馬鹿じゃないの」

 一瞬冷っとしたが、まともに会話もしていない親子でそんなことできるわけがない。第一、香織はかまをかけてくるような性格でなかった。聞きたいことがあれば直接聞いてくるだろう。

 バーを出ると、そのままホテルに向かった。

 正直、優斗はもう香織とセックスなんてしたくなかった。 香織に騙されそうだったとわかってそのままでいられる方がおかしい。かと言って、露骨に拒否しても、怪しまれる。

 ちゃんとできるか心配だったが、優斗は香織を抱きながら由愛のことを思い出していた。首を絞めてという香織のげんなりする要望にも応え、最後は中で果てた。

「あ、そういえば今度、課外授業ってことで由愛を外に連れ出したいんだけど、いいかな?」

 事が終わって、ベッドの脇で電子タバコを吸い始めた香織に優斗が聞いた。

「どうぞ、お好きに。全部ゆう君に任せるから」

 香織は相変わらず適当な返事をした。

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 分厚い防音トビラを開けると、六畳ほどの空間にドラムセットと二、三台のギターアンプが置かれていた。

「わぁー、すごい」

 由愛が小さく歓声を上げた。

 ここは都内にある貸しスタジオだ。バンドや、ふだん家で大きな音を出せない人が練習に使うことができる。

 少しすると、短い金髪の男が入ってきた。

「よう。久しぶりじゃねえか。いきなり電話かけてきたからびっくりしたぜ」

 本郷だった。

 先日、いつものように勉強終わりに由愛と雑談をしていると、好きな音楽の話になった。

 由愛は今どきの若者らしくボカロの曲をよく聴いていると言ったが、優斗はボーカロイドに明るくない。パソコンだけで作った音楽はどこか味気ないと感じていた。やっぱり優斗は人間が演奏した音楽が好きだった。由愛にもどうにか自分の好きなバンド音楽に興味を持ってもらいたい。

「先生、昔、バンドやってたんだよ」

 そう言うと、由愛は目をキラキラさせて優斗にいろいろと昔のことを聞いてきた。

 大学時代に軽音サークルに入っていて、みんなで教室に機材を運んでライブをしたという話などをするうちに、調子に乗った優斗は、かつて自分が一緒にバンドを組んでいた仲良い友達が今はプロで活躍してると言ってしまった。

「えー!すごい。何ていうバンドですか?」

 バンド名を教えると、由愛はすぐにネットで「ラムダキッチン」と検索し、何曲か聴いて、いい感じですねと言った。  

 その日はそれだけだった。しばらくして、由愛は本郷に会ってみたいと言い出した。あれ以来、ずっとラムダキッチンの曲を聴いているという。由愛がバンドや楽器に興味を示してくれたのは嬉しかったが、本郷とは大学以来連絡を取っていなかった。

「あいつも今忙しいだろうからなあ」優斗はお茶をにごそうとして言った。

「本当は友達じゃないんですか?」

 由愛の表情が暗くなった。

 由愛に失望されたくなかった優斗は、ダメ元で本郷の携帯番号に電話をかけてみたのだった。

「こちらさん。俺がいま家庭教師してるんだ。今日は音楽の課外授業ってことで、よろしくお願いします」

「ギター弾くだけでいいんだよな」と言って、本郷はギターケースからギターを取り出し、チューニングを始めた。

 本郷のギターはフェンダーのジャズマスターというギターだ。

 大ぶりなボディと、ギターのブリッジの部分にあるトレモロアームという取っ手のようなパーツが特徴的だ。マイ・ブラッディ・ヴァレンタインというバンドのギタリストが使っていたことから、シューゲイザーというジャンルのバンドマンに人気があるモデルだった。

 準備が整うと、本郷はクリーントーンでコードを分散させて弾いた。いわゆるアルペジオだ。ジャズマスターというだけあって丸みのある綺麗な音がした。複雑な和音を使い、ころころと表情を変えていった。

 足元にあるペダルを踏むと、ギターアンプから出る音が大きくなった。ノイジーで攻撃的な音。由愛がびっくりしたのがわかった。カッティングという技術を使い、次々とフレーズを繋いでいく。リズミカルに右手を動かし、音数が一気に増えた。

 久しぶりに見る本郷の演奏は、昔とは比べ物にならないくらい上手くなっていた。プロになったのだから当たり前か。優斗は本気で何かを突き詰めている人間は凄いと思った。本郷は特別な人間だった。

「ほら、こんなこともできる」

 最後に、本郷は右手でトレモロアームを握って上下させ、音程をぎゅわ~んと変化させた。

「由愛ちゃんは普段どんな曲を聴くの? 好きな曲とかある?」と本郷が訊くと、由愛はラムダキッチンの曲の名前を言った。

「その曲なら知ってるぜ」

 本郷がイントロを弾き始め、即興ライブが始まった。

 由愛は感無量といった表情で聴き惚れていた。

「ほら、歌って」

 一番の歌が終わると、本郷は間奏を弾きながら、目の前のマイクを顎で指して言った。由愛に歌えと言うのだ。こんな経験は二度とないかもしれない。優斗も一緒に歌うように促すと、由愛は恐る恐るマイクの前に立って、深く息を吸った。

 鈴のような声で、由愛は歌った。

 決して上手くはないけれど、優斗は胸に熱いものが込み上げた。

 

 スタジオを出ると、由愛が前から行ってみたかったと言うハンバーガーショップに三人で行った。どこの街にも必ずある、普通のハンバーガーショップだったが、テレビで見たのと一緒だと由愛がいちいち驚いた反応をするので面白かった。

「本郷さんは何で音楽をやろうと思ったんですか?」

 各々好きなものを頼んで、席に着くと、由愛が本郷に訊いた。

「そりゃ、世界を変えるためだぜ」

 コーラを飲みながら本郷が言った。

 相変わらず暑苦しい男だ。よくシラフでそんなことが言えるなと優斗は横で聞いてて思った。

「世界を変えるって、どうやって変えるんですか?」

 由愛が真剣な表情で訊いた。いつの間にかインタビューが始まっている。

「俺は世界って、一人一人違うものを見てると思ってるんだ。誰かが見ている世界と、由愛ちゃんが見てる世界は違うと思う。でも、二人が俺の作った音楽を聴いて、少しでも心を動かされれば、二人の世界は近づいたことになるんじゃないかな。そうやって、たくさんの世界を一ミリでも良い方向に動かしていくことができれば、世界はもっと良くなると思うぜ」

「カッコいいなあ」

 ハンバーガーを食べるのも忘れて、由愛は感嘆の声を漏らした。

「これからも良い音楽を作ってください」

「良い音楽かあ。俺らミュージシャンは常に良い音楽を作ろうって思っているけど、とっても難しいよ。音楽の面白いところはね、答えなんてないってところだぜ」

「じゃあ、どうしたら良い音楽が作れるんですか」

「探し続ける。ずっと変わり続けるだけさ。俺もこの前作ったアルバムはファンにボロクソ言われたんだ。前のアルバムの方が良かった。前と同じような曲が聴きたかったってね。でも、何か変えるにはずっと同じことやっててもダメなんだよ。そんなんじゃ世界は変わらない。まずは自分が変わらなきゃ」

 本郷とはハンバーガーショップで別れた。

 別れ際、本郷は優斗に歩み寄り、お前ってロリコンだったのなと耳元でこそっと言った。不思議と嫌な感じはしなかった。俺は全然応援するぜ。そう言って握手をした。

 帰りの電車の中、由愛はほとんど喋らなかった。今日の課外授業で、ずいぶんと感じるものがあったようだった。


    ⒚


 スタジオに行ってからというもの、優斗の家庭教師は勉強以外のことも積極的に教えるようになった。由愛がいろいろなことをやりたがるようになったのだ。今まで家でテレビばかり見ていた由愛の世界は、知ってるけど、やったことがないことばかりだった。学校で普通に教えていることもあれば、学校では絶対に教えてくれないようなことまで様々なことに挑戦した。

 そんなある日、料理をしている最中に(幸か不幸か、この家にも包丁があった)由愛が指を切ってしまった。

 優斗が急いで止血したが、思ったよりも傷が深く、血はなかなか止まらなかった。優斗はそのまま由愛を近くの病院に連れて行った。縫うほどではなかったが、由愛の指は包帯でぐるぐる巻きにされた。

 予想はしていたが、診察が終わって請求された診察代はびっくりするくらい高かった。優斗は盲腸になって破産するアメリカ人の話を思い出した。ここはアメリカか。

「迷惑かけてごめんなさい」

 由愛は元気なく言った。

「今までしてなかった新しいことしたんだから、しょうがないよ」

 由愛は生まれてから一度も包丁を握ったことがなかった。まるでピアニストだ。

 その日の夜、優斗はマンションで香織の帰りを待った。由愛は自分の部屋で眠ってしまっていた。

 深夜三時をまわる頃、優斗がリビングで本を読んでいると、玄関の鍵が空く音がした。スマホを覗きながら入ってきた香織は、優斗がまだ家にいたのでびっくりした。

「今日、由愛、指を切って病院に行ったんだ。すごい高い診察代払ったよ」と優斗は言った。

「へ、お金せびる為にこんな遅くまで家にいたの?」

 香織は長財布を開きながら、いくら払ったのと聞いた。

「違う。そうじゃない。一度ちゃんと行政に相談してみた方が良いって言いたかったんだ。由愛が無戸籍の状態でいることが可哀そう過ぎるんだ」

「今までちゃんと生きてこれてるじゃん」

「ちゃんと勉強させてあげたいんだ。何か目標を作って。たとえば、高卒認定試験に受かれば、大学に行くことだってできるよ」

「なんで急にそんなこと言うの? 私だって前に相談したことあるわ。その時は役所の窓口をたらい回しにされた挙げ句、どうにもならないって言われただけだった」

「その時はそうだったかもしれないけど、今度は僕が手伝うよ」

「あんた、私と結婚でもするつもり? 私はもう結婚なんてしないよ。もうこりごり」香織はあざ笑うように言った。「私はあの子のために、ちゃんとした家に住めるようにしてる。嫌なことがあってもこうやって頑張って稼いでるんじゃん」

「詐欺みたいなことしてるんじゃないの?」優斗が言った。

「詐欺って何よ? 騙される方が悪いんじゃん」

 やっぱり香織はアプリを使って、営業だか詐欺だかわからないことを続けているようだ。

 優斗は先日、久しぶりにマッチングアプリにログインしてみた。香織のアカウントをチェックすると、今でも頻繁にログインしているのがわかった。

「私は絶対協力しないよ」

 そう言って香織はお風呂に入りに行ってしまった。彼女は長風呂だから、小一時間は出てこない。

 何とも煮え切らないまま優斗はマンションを後にした。


    ⒛


「お母さんが起きない」

 その日は半日で仕事が終わり、夕方から優斗は家でのんびりとビールを飲んでいた。

 電話がかかってきたので出ると、電話の向こうで、由愛が静かにそう言った。

 優斗は急いで香織のマンションに向かった。

 マンションに着いたときにはすっかり酔いは冷めていて、玄関で暗い顔をして出迎えてくれた由愛の肩を抱いた。

 寝室に入ると、ベッドの上で香織が寝ていた。

 特に変わったところはないように見えたが、身体に触れると、ひんやりと冷たくなっていた。ベッドの隅には、大量の錠剤とストロング缶が二、三本転がっていた。

 以前、香織は眠れない眠れないと言っていたから、おそらく睡眠薬だろう。それにしても、こんなに沢山の睡眠薬をどうやって集めたのか。せっせと複数の病院を受診しなければこんな量を集めることはできない。香織がどんな気持ちでこんなことをしたのか。今となっては誰もわからなかった。

 とりあえず、警察に連絡するべきか。状況から判断して、おそらく香織の死は自殺として処理されるだろう。

「ねえ、先生」突然、由愛が喋り始めた。

「日本では年間八万人以上も行方不明者が出るんです。被害届けが出されていない人も併せたら、きっと十万人はいるだろうって話です」

 由愛が何を言おうとしているのか、優斗にはわからなかった。

「それってどういう、、、」

「お母さん一人いなくなったって、誰も不思議に思わないってことです」

 優斗は頭がパニックになった。彼女がとんでもないことを言い出したことはわかった。

「替わりに、私がお母さんになります」

 確かに、母親である香織が死んだとなれば、由愛の就籍はより困難になるだろう。だからと言って、そんななりすましのような真似をすれば、由愛は犯罪者になってしまう。

「そんなのダメに決まってるだろ」

 優斗は思わず大声を上げた。

「学校の先生みたいなこと言わないでくださいよ」

 由愛が笑って言った。学校に行ったことのない由愛にそんなことを言われるなんて。こんな状況でなければ笑っていただろう。

「天涯孤独の身になった私はこの先どうやって生きてけばいいんですか。お金が無くなれば、この部屋もいつか追い出されます。戸籍がないと、働くこともできないんですよ。働こうと思っても、きっとグレーな職種、水商売や風俗しかないですよ。最悪の場合、犯罪に手を染めるかもしれません」

「この死体はどうするんだよ」と優斗は言った。

 死体をこのままにしておくことはできない。かといって、十五歳の女の子に死体を運べるとも思えなかった。

「もちろん先生に協力してもらいますよ。先生は海と山、どっちが好きですか?」

 優斗にはもちろん、この場を逃げ出すという選択肢もあった。香織と交際関係にあったことから、警察に事情を聞かれはするだろうが、逮捕されることはないだろう。由愛に協力すれば犯罪に加担したことになる。厄介事はごめんだった。

 でも、なぜか優斗はこう思っていた。これって俺にしかできないことなんだよなあ。

「山かな」

 こうして二人は共犯者という名の仲間になった。



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