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「な…な……何なのココおおぉ──!?」
私は頭を抱えながら絶叫した。
早鐘を打つ心臓を落ち着けながら、辺りを見回す。
「……は、ははは」
辺りには見たこともない植物がたくさん生えている、雑木林だった──。
「いやいや、雑木林って何……?」
あの『てんし』──が、今や何故か『天使』というものだと理解できてしまうことも、知らないはずの雑木林という言葉を使えることも、全てはあの天使の仕業なのだろう。
言語がどうとか未来の知識がどうとか言われても、その時は天使の言葉の意味がイマイチよく理解できていなかった私だが──、今、身をもって、その言葉の意味を理解する。
私は闘技場では狼の毛皮を纏っていたはずなのだが、なぜか今は、トゥニカと呼ばれる白い筒型の腿丈ほどの衣装に、トガと呼ばれる大きな一枚布を身体に巻き付けるというローマの低級市民にも許された格好をしていた。
そんなローマの衣装は、大変残念なことに、この場所には微塵も適していないようで。
「歩きづらい……」
地から勢いよく生える草に、トガの裾を持ち上げられ、オマケに何度も足を取られかける。
それだけならまだ良いのだが、細い腰帯に差した、ルディスと呼ばれる木刀が、丈の高い草に当たって腰帯から抜け落ちるのだ。
それを何度も繰り返し、かなりイライラとした気持ちになる。
ルディスは剣闘士を引退できる立場の者にのみ与えられる、名誉ある……まあ、ただの木刀だ。
私がそれを賜った後も剣闘士として自分の意志で闘技場に立ち続けたのは、その時、ただ剣闘士として決闘の末に死ぬ。それしか目的のなかった私に『夢』を与えてくれた、とある方のためで。
その方とは──。
「ううっ……皇帝様ぁ……」
五年程前、初めて闘技会を観に来られた、まだその頃は即位されていなかった、ローマ帝国の現皇帝──カエサル・マルクス・アウレリウス・コンモドゥス・アントニヌス・アウグストゥス様。
ローマに百以上ある闘技場の内、私が巡業で一度だけ訪れた、首都ローマにある皇帝様も観覧に来られる帝国最大の闘技場──コロッセウムにて、私は同じ年頃だったため、観覧席から抜け出した彼にこっそり声を掛けて頂いた過去がある。
私はその時、彼が次期皇帝だということを知らず、呑気にも乞われるがままに、彼へと剣の扱いなどを指南してしまった。
そして、コロッセウムでの闘技会も終わり、次の闘技場へと向かう前に、私は彼から、次期皇帝であることを告げられ──、
「次また、私が巡業でコロッセウムへと来る時があれば、その頃には自分も皇帝となっているだろうから、その時は私を指名し、皇帝様に仕えさせて下さる、と──」
彼は、ただの奴隷上がりの剣闘士でしかない私に、月桂冠──コローナを与えるとともに、そう約束して下さり──。
その約束は当時、ただの戦闘狂で、刹那主義のような生き方をしていた私にとっての夢と──そして生きる希望となった。
「『戦闘狂でも構わない。そのままのお前に仕えてほしい』と笑って下さった……そんな皇帝様だったからこそ……」
──心に決めていたはずだった。
私は必ず約束を果たし、この優しいお方に全力でお仕えするのだ、と──。
それからは、いつまたコロッセウムへの巡業が決まっても良いように──いつ、皇帝様の剣となっても、彼が恥をかくことのないように、私は徹底的に自分を磨いてきた。
なのに──。
「誠に申し訳ございませんー……」
まさか、その夢を叶える前に、こんなことになるとは。
遠い夢に切なく思いを馳せながら、草を掻き分け進んでいると、少し離れた場所で、女性のものと思われる、甲高い悲鳴が上がった──。
「ん?」
とりあえず、行く宛てもない状態なので、その悲鳴の上がった場所へと向かってみる。
と、辿り着いたそこでは、見たこともない、だが『小袖』という知識を持ってしまっている──ローマとは全く系統の違う衣を着た妙齢の女性が、草地に尻もちをついた状態で、後ずさっていた。
「なんだァ?」
そんな、ふいに響いた野太い声に、私は女性の前方を見やる。
木々を掻き分け、出てきたのは、ローマの者とは顔立ちの全く違う、黒髪で無精髭だらけの、着物を着た数人の男だった。
何やらその手には抜き身の打刀を握っている。
「うん、もう驚かないや……」
打刀、などとさらりと思いついてしまう己の頭に、諦めの境地でため息を吐く。
一々その手の不思議な知識について気にしていたら、これから先、気になることばかりでやっていけないだろう。
「あ、あ……た、たすけて……!」
女性は背後に立つ私に気付いたのだろう。怯えた目で、こちらへと助けを求めてくる。
まあ、最初からそのつもりではあったのだが──。
「たったの四人で掛かってくるんですか──?」
私は腰に差していたルディスを抜刀し、女性の前へと立つと、ペロリと己の上唇を少しだけ舐める。
ここは、本当にあの天使という者の言っていた、私の知っている世界より一五〇〇年以上も経っている世の中なのだろう。
知らない植物、気候、湿度、文化。それら全てが、私をそう思わせた。
もしかしたら、ローマですらない可能性だってある。
彼女達の言葉を理解はできるし、天使のお陰で同じ言語を使えもする──が、私はその言語自体には心当たりがないのだから。
「へえ、四人だったら何だって? 可愛い顔した兄ちゃんよぉ」
男達は刀をチラつかせながら、じりじりとこちらへと距離を詰めてきていた。
どうやら、彼らは退くつもりはないようだ。
「……何笑ってんだよテメエ」
男達の声に、私は自分が笑みを浮かべていたことに気付く。
「ああ、すみません。つい嬉しくなってしまって」
私は胸の高鳴りを抑え、男達へとそう告げた。
──自分のいた頃より一五〇〇年の年月が経った世。
そんな中で、自分の腕がどこまで通用するのか試すことができるなど、思ってもみなかった。
遙か未来の者達を眼前に捉え、私は木刀ルディスを構え──。
勝負は一瞬だった。
私は立ち塞がる男達の足元へと滑るように潜り込み、手にしたルディスで的確に四人の脚の骨を叩き折る。
「……え、こんなものですか?」
その、あまりにも呆気ない幕引きに、私は目を瞬かせた。
彼らの腕前に落胆しつつも、まあ、まだたったの四人なのだ。と自分に言い聞かせる。
未来の者達が弱いと決め付けるには、いささか判断材料が少ないだろう。
「では、とりあえず、あなた達ですが……」
「ま、待て! 俺達を殺してみろ! 仲間が、志士が──」
彼らの言葉など聞く気は端からなかった。
私はルディスの柄で、男達の鳩尾を突き上げ、さっさと彼らの意識を飛ばしたのだった──。
「あの……本当にありがとうございました!」
目の前で地に額を擦り付けるようにして、助けた女性は礼を告げてくる。
私は女性の前へと片膝をつき、そんな女性の顔を上げさせ、ニコリと微笑んだ。
「いえ。困っている女性をお助けするのは、当然のことですので」
その言動に深い意味はない。
ローマでやっていたことと、同じことをこちらの女性にもしているだけ。
剣闘士は声を掛けてきてくれた一般市民には礼をもって尽くした。
何故なら、自分を気に入ってくれた市民は差し入れをくれたり、個別で報酬をくれたりするからである。
ちなみに、剣闘士が男性の場合は、もう一つ、市民に礼を尽くすと良いことがあった。
上手く行けば、であるが、一般市民の女性、もしくは娘を持つ父親などに気に入られれば、彼らは剣闘士という最下層の身分でありながら、妻を娶ることができたのだ。
妻を娶り、自由市民になるという機会を得るためにも、剣闘士達はこぞって一般市民を──特に女性を丁重に扱う。
女剣闘士には勿論、妻帯者になれるという恩恵はないのだが、まあ差し入れや報酬だけでも充分な益ではあったワケで──。
決して悪いことではないのだが、こんな、どこかも分からないような場所でも、半ば反射のように、女性にローマ市民と同じように接してしまうことに、私はちょっとだけ遠い目をしながら──小さく嘆息した。
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