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一
──全て、終わった。
私は、薄れゆく意識の中、ただ青く丸い空を見上げる。
辺りは興奮と熱気に包まれ、集う人々から歓喜やら悲鳴やら、色々な声が上がり、豪雨よりも激しい音の拍手が湧き起こっているのだが、もうそれも私には関係のない話だ。
私の名はアキリア。
ココ、ローマ帝国でグラディエーターと呼ばれる剣闘士。……ではなく、剣闘士は剣闘士でも、グラディアートリックスと呼ばれる女の剣闘士だった。……まあ、そろそろ私は剣闘士でもアキリアでもない、ただの屍に変わるのだけど。
剣闘士としては生ける伝説とまで言われた腕を持つ私であったが、今日の闘技会で、昨日降った雨によって出来た、ぬかるみで足を僅かに滑らせ、その一瞬の隙に、目の前の剣闘士から、胸をごく一般的な剣──グラディウスで貫かれたのだ。
「これで……」
──死ぬ、のか。
それは不思議な気分だった。
つい先程までは、こんな結末になるなんて思いもせず、元気に剣を振り回していたというのに。
私を見事仕留めた、頭にトサカ状の飾りの付いた兜を被った若い男は、少しの間、何が起こったか分からない、というような表情であったが、徐々に私を討った、という実感が湧いてきたのだろう。
円形闘技場──コロッセオへと集まった、熱狂するローマ市民たちに彼は感極まった表情で手を挙げる。
私は女剣闘士では相手にすらならないほどの実力を持っていたため、プリームス・パールスと呼ばれる、筆頭剣闘士である男達といつも対戦し、今までその全てを屠ってきていたという過去を持つ。
そんな私に今日、こうして勝てたことがよほど嬉しいのだろう。男はその目に歓喜の涙すら浮かべていた。
私は最後の意識で、私の『夢』を粉微塵に打ち砕いた、そんな腹立たしくも、勇気のある彼に、祝福の言葉を贈ろうとしたが、いい言葉は何も思いつかず。
身体はやたらと重く、もう、指一本だって動かせる気がしない。
本当は、汗で頬にへばりついた、己の長い黒髪を剥がしたかったのだが──それも、段々と面倒に思えてきた。
全身に広がる痛みの中、私は全てを手放すように細く息を吐きながら、目を閉じる。
そして──。
私の世界から、全ての音が消え去った──。
それからどれだけの時が経ったのか、私には分からない──。
一秒ほどかもしれないし、とんでもなく長いのかもしれない。
そんな曖昧すぎる時の末、私は死んだはずなのに、ふいに目を開いたのだ。
辺りは一面、真っ暗な闇だったのだが、何故かそこには、頭上に黄色の光る輪を浮かべた、薄緑色の髪の幼女が佇んでいた。
「ええと……?」
私は急に身体が軽くなったような気がしたので、物は試しにと身体を起こしてみると、あれほど重かったはずの身体は、すんなりと起き上がる。
──ここは、死後の世界で、彼女はここの住人……とかなのだろうか。
本気で、そんなことを考えた。
よくよく見れば、目の前の仄かに光る幼女の背には、何やら大きな白い翼が生えている。
そんな不思議な幼女をぼんやりと眺めていると、彼女は懐っこい笑みでニコリと笑った。
「初めまして〜。私、今回初任務となりました、天使のヒヨッコです〜」
その、子供特有の甲高い声に、私は「てんし?」と、首を傾げる。
「ハイ〜。多分、宗教的な違いで、あなた様の知識に天使という存在はないかもですけど、神様より、生前すごーく頑張ったあなた様にご褒美を与えるよう言われて、私はここに来たのですよ〜」
「はぁ、ご褒美……」
褒美を貰えるというのは、本来であれば嬉しい話なのだろうが、死んだ今、褒美などもらったところで何になるのか、という話で──。
私はそんなことを思いながら、素直には喜べずにいる、と──。
「そうですねぇ、ご褒美ですけど、例えば未来に行きたい、とかとか、そんなのでも叶いますよ〜?」
私は、さらりと告げられたその言葉に、目を剥いた。
──未来に、生きたい!?
「え!? 死んだのを、なかったことにできるの!?」
「ハイもちろん! ええと、食い付いてきたということは、未来に行きたいのですね〜? ……どこまで行きたいですか?」
──どこまで生きたいか。
どうやら、彼女の言葉からすると、私が再び生きられるのは期間限定ではあるようだ。
だが──。
「後少しでも良い……!」
闘技会での最期に不満はなかった。だが、私には一つだけ心残りがあり、それこそが私が抱いていた『夢』のことであった。
もし延命が叶うなら、その『夢』の片鱗だけでも叶えられるかも、との希望を抱く。
「さあさあ、どこまでをお望みで? ご希望をこちらの板に指でお書き下さいませ〜」
私は幼女から、すっと差し出された、ツルツルとした石のような板を眺め、
「ええっとねえ、今が一八一年でしょ? じゃあせめてこれくらい……い、いやいや、もう少し生きたいか。……でも高望みしすぎて、逃げ帰られても嫌だな……」
その板面に、どういう理屈でそうなるなのかは分からないが、青白い光で一八六と書いた指を、六の途中で止め、彼女が怒らない程度に、それをもう少し伸ばそうと必死に考え始める。
──何年、延命できたら私は間違いなく『夢』に辿り着けるだろうか。
そんなことを考えていた時だった。
「ふむふむ。その辺りでもう少し、ですか……。ちなみに…ええと、あなた様の培ってきた能力は生かせる世の中がいいですよね?」
幼女は何やら、当たり前のようなことを確認してくる。
「むしろ、そうでないと困るというか……」
私の『夢』を叶えるためには、剣闘士以外の選択肢はなかった。
幼女はそんな私の顔を見やり、うんうんと頷き──。
「はい! かしこまりました! ではでは西暦一八六三年。あなた様の能力が生かせる場所にお連れしたいと思います!」
彼女の言葉に、私は思考が音を立てて固まる。そんな感覚がした。
──彼女は今、なんと?
「一八六三…年──!?」
私の発言した『もう少し』の意味を彼女はとんでもなく取り違えてくれていた。
まさかの桁が……年数の桁が『もう少し』分、増えている。
この世界がそんな未来まで続いていることには衝撃であるが、大人しく衝撃を受けている場合ではなかった。
──待って欲しい! そんな、考えもつかないような未来になど行きたくはない!
「あの、待っ──」
咄嗟に目の前の仄かに光る幼女へと手を伸ばす──が、私の視界は一瞬で真っ白に塗り潰され、彼女はどこにも見えなくなった。
「ご安心を。言語などの未来の知識は最低限お渡ししておきますので──!」
──いや、全然安心じゃない!
段々と遠くなってゆく、間違いなくもう目の前にはいないのであろう幼女の言葉に、私は内心でそう叫ぶ。
言語以前の問題だった。
──私は未来に行きたいのではなく、少し延命したかっただけなんですけど!
そんな私の思いなど、その『てんし』という者の、これは呪術の類いなのだろうか。身体がふわりと浮かび上がる感覚の前には、無意味なもので──。
耳元を強い風が吹き抜けていくような音がしばらく続き、強い光に目を閉じる。
しばらくそうしていた私が、ようやく収まった音と光に、強ばったまぶたを開く──と──。
そこは、緑に覆われた、見も知らぬ所だった──。
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