Forse una villa vuota. おそらくは無人の屋敷 I
扉をノックする音でアベーレは目を覚ました。
部屋の南側にならぶ大きな窓から朝陽が射している。
雑に引いたカーテンはところどころ隙間があき、村の森の多い景色が覗き見えていた。
手をつき身体を起こす。
シャツとズボンを身につけたままもぐりこんだ寝具は、比較的最近に整えられたものに思えた。
夕べは取りあえず寝具のあるらしい部屋を探し寝ることにした。
灯りのない屋敷内は思いのほか行動しにくく、蝋燭の位置を探ることすら無理な状況だった。
朝まで寝て時間を潰すしかないだろうという結論にすぐに達した。
こういった屋敷なら客室はたいてい一階にあるので、手さぐりで着けるだろうと。
玄関ホールから分かれた廊下をさがし部屋の扉のものらしきドアノブを開け、寝台の上に寝具が敷かれているかを確認した。
先に入った客室はヨランダに譲った。
一人で不安がってはいないだろうかと心配だったが、まさか一緒の部屋で眠るわけにもいかない。
一晩中、落ち着かなかった。
「アベーレ?」
廊下側から聞こえたのは、ヨランダの声だった。
リズミカルに扉をたたく。声は意外にも明るい。
「姉上」
そう返事をし、アベーレは寝台を降りた。
部屋の出入口に歩みより扉を開ける。
シンプルなワンピースにショールを羽織ったヨランダが、にっこりと笑いかけた。
まったく化粧はしていなかったが、それでもやはり綺麗だと感じる。アベーレは目元をほころばせた。
「起こしに来るなんて、姉上が従者のような真似をしなくても」
「従者の方は? 誰かあとで到着のご予定はあるの?」
ヨランダは窓の方を見た。
「ないですよ。給金を支払うのが苦しくなった時点で、家に帰しましたから」
アベーレは苦笑した。
ヨランダの意外にも明るい様子にすこし面食らう。
知らない土地で不安におびえて一晩を過ごしたか弱い女性、それを自身が守るのだという頭の中のシナリオが、まったくそぐわない。
「朝食にしましょ。厨房に新鮮なお肉があったわ」
ヨランダが踊るような足取りできびすを返す。
後ろ姿をアベーレは眺めた。
「……肉」
ややしてから、アベーレは眉をよせた。
「何でそんなものが」
「伯父様が置いていたんじゃないかしら」
振り向いてヨランダが答える。
「というか、厨房に入ったんですか、姉上」
「入ったけど」
何か問題だったかという風に、ヨランダが返す。
「下級の使用人が入る所ではないですか」
「修道院では普通に入るわ」
ヨランダは言った。
戸惑いながらヨランダの結われた髪を眺める。
「そ……そうなんですか」
「当番制で炊事係さんのお手伝いをしたりするから」
目を見開いたまま、アベーレは従姉について行った。
もしかすると、自身よりもよほどヨランダの方が一人で出来ることが多いのだろうか。
没落し将来の見通しも立たない上に、女性よりも使えないではかなり情けない。
アベーレはヨランダの後ろ姿を眺めた。
屋敷の中は、自分たち以外に人の気配はない。
古い屋敷のようだが、調度品などが盗まれた痕跡はなく、埃も積もってはいない。
長く放置されていた感じではない。
親戚のほとんどが忘れていたであろうこの別邸に、手入れに入っていた者がいたのか。
客室の扉のならぶ廊下を抜けると、広い玄関ホールに行き当たった。
夕べは暗くて分からなかったが、ホール内は非常に広い。
吹き抜けの天井が高く、二股に分かれた階段の間に大きな翼を広げた女性の像があった。
アベーレは像の頭部を見上げた。
首が無かった。
取れたという訳ではなく、始めから無いようだ。
首から下は、薄い衣を風になびかせ美しい肢体を軽くよじっている。
身体より大きな背中の翼が今にも羽ばたきそうだ。
「何をモチーフにしているのかな。フィレンツェあたりにあったかな、こういうの」
「さあ。ユディトなら、首は相手のものを持っているはずよね」
振り向きもせずにヨランダが答える。
ああ……とアベーレはうなずいた。
「だだの作者の創作かな」
もういちどアベーレは女性の像を見上げた。
均整の取れた肢体に不自然な箇所はなく、デッサンからきちんと学んだ作者の手によるものと思えた。
正確に身体を描写するために腑分けにまで参加した芸術家もいると聞いたことがあるが、あるいはこの作者もそこまでしたのか。
ヨランダは、勝手知ったるような感じで階段の横の廊下に歩を進めた。
「何があるんですか、そちらは。厨房?」
「厨房は奥。その途中に食堂広間があるの」
ショールを肩に掛け直しながらヨランダが答える。
「……すでにずいぶん屋敷内にお詳しいんですね、姉上」
淑やかでか弱い人という印象を持っていたが、あんがい行動的なところがあるのか。
子供の頃に抱いていたイメージとの整合性が取れず、アベーレは戸惑った。
「お屋敷の探検なんて、子供の頃みたい」
楽しさに上擦った声でヨランダが言う。
「姉上……子供の頃に探検なんてしたのですか?」
「したわよ」
ヨランダはそう答えた。
美しくおとなしい、誰かが支えなければ立っていることすら出来ない人だと思っていた。
いきなり主導権を握られているではないか。
アベーレは従姉の背中を見ながら眉をよせた。