Contàbile fiorentino. フィレンツェ式帳簿
ヨランダについて厨房まで来たものの、アベーレはやはり中に入ることは躊躇してしまった。
入り口の手前でぴたりと足が止まる。それ以上は、やはり禁忌を犯すような気がして無理だった。
苦笑して、何となく言い訳のひとことを考えようとする。
ヨランダは一人でスタスタと中に入ると、野菜をいくつか入れた盥を持って来てアベーレに手渡した。
「お庭で。水は汲めるわね?」
そう言い、廊下の突き当たりの勝手口を指差す。
「……すみません」
アベーレは俯いて言った。今まで以上に情けなくはないか。
一体、ヨランダは自分をどんな男と捉えているのだろうと思うと、もはや考えたくない気分になる。
炉辺の火の熱が入り口にもうっすらと伝わっていた。
盥を受け取る際、アベーレは横目で厨房の中を覗き見た。
木製の食料棚が一角にあるのは確認できた。
棚の前の梁にぶら下がっていたものは、ヨランダが前回作った腸詰めか。
新鮮な果物のような匂いに混じって、何かが腐ったような匂いを微かに感じた。
床には絨毯も敷かれず、所々湿っぽそうなのが、庶民の住む界隈の不衛生な道端を連想させた。
居心地は悪そうな気がする。
ヨランダは、こんな所に毎日長時間いるのか。
炉辺の火があるとはいえ、床は絨毯など無い分、冷えそうな気がした。
長時間いたら、か弱いお身体を冷やしたりしないのだろうかと心配になる。
「ああ、今見て貰うべきかしらね」
そう言いヨランダは踵を返した。
身を乗り出して厨房の中を覗き込もうかとアベーレは思ったが、奥まで覗き込むのは、もはや背徳行為のように感じる。
「アベーレ、これ」
少し急ぎ足で、ヨランダは油紙に包まれた書物ほどの大きさの包みを持って来た。
「何ですか」
「執事さんからのお手紙よ」
手紙という厚さと大きさだろうか。
アベーレは、片腕に野菜を入れた盥を抱え、空いた方の手を差し出した。
「なぜ油紙に」
「お肉の下に隠すようにあったの」
成程、濡れないようにかと思いながら、アベーレは片手で不器用に油紙を開く。
「ここに来た時にあった猪肉の下にも?」
「……あの時は無かったわ。わたし達があの日に到着することは知らなかったからではないかしら」
「成程」
ではあれは、本当にたまたま調理の途中だったのかとアベーレは思った。
肩を大きく傾かせ、盥の上に分厚い「手紙」を置いて、片手で油紙を開く。
「盥を置けば良いのではなくて?」
手元を覗き込みヨランダがそう言う。
「どこに置いて良いのか。ここにはテーブルが無いので」
「持っていてあげるわ」
ヨランダはそう言い、両手を差し出した。
細い綺麗な手をアベーレは凝視する。
「……いえ。女性に荷物を持たせるなどという教育は受けてはおりません」
アベーレは盥をがっちりと小脇に抱え包みを開けようとしたが、ヨランダが横から簡単に取り上げる。
真顔で盥を持つ従姉の顔をアベーレは凝視した。
「いいから開けて」
やや呆れたかのような表情でヨランダは言った。
観念してかさかさと油紙の包みを開ける。中にあったのは、一冊の帳簿と封書だった。
パラパラと帳簿のページを捲る。
「フィレンツェ式ですね……」
何気なくアベーレは言った。
「分かるの?」
「ヴェネツィア式だと、金銭の出入りと財産の増減を一緒に見ることが出来る書式なんですが……」
アベーレは二、三のページにざっと目を通した。
「まあ、うちはフィレンツェ式で付けているので、こちらが慣れてはいますが」
ふうん、と頷きヨランダは紙面を覗き込んだ。
財産の管理などは修道院ではご経験ないのだろうかとアベーレは思った。
覗き込む表情が、何か可愛らしく見える。
ここに来て、やっと自身の方が知っている物事に遭遇したのではないか。
ようやくヨランダに格好のつくところが見せられるだろうかとアベーレは高揚した。
「な、何の意味でしょうね。伯父上は、もうこちらで何かご商売でも始められたのか」
「葡萄酒かしら……」
じっと紙面を見詰め、ヨランダは呟いた。
「葡萄酒の……売上ですか?」
そういえばマリアーノ副助祭が、遺体で見つかった者は葡萄酒の売上を誤魔化していた者ばかりなのだと言っていたか。
アベーレは帳簿をひっくり返して背表紙や裏表紙を見た。
「姉上、これ一冊だけですか? もう一冊ありませんでしたか?」
切れ長の目を見開き、ヨランダは包んであった油紙を見た。
「それだけよ」
「執事が不正の証拠を置いて行ったのかと思ったのですが……」
アベーレは片手でがさがさと油紙を探り、同封されていた封書を手にした。
「二冊必要なの?」
「脱税の証拠だとしたら、売上を改竄した帳簿と、本当の売上を記録した帳簿との二つがあるものなのですが」
アベーレは封書を開いた。
封蝋に押されていた百合の花の紋章は、コルシーニ家のものではない。
執事の出身家のものだろうか。
中身は簡単な数行の伝言だった。
伯父君は忙しいが健在なので、心配せず屋敷で過ごして欲しい旨と、肉は街で買い求めたもので七面鳥、前回のものは猪肉。
「……これだけですか」
ついアベーレは顔をしかめた。
淡々としすぎて説明不足の感があるのは、執事の性格なのか、それとも細かく書いている暇すらないのか。
「伯父上の直筆の一言も欲しかったものですが」
そうね、とヨランダは頷いた。
「とりあえず、この帳簿は私の手元に置きます。何らか重要なものかもしれませんし、姉上が持っていては危険ですから」
言いながら、アベーレは執事からの伝言を封筒に仕舞った。




