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初恋

作者: 古河 渚

 初恋




    スカートの中を盗撮……県警巡査部長を逮捕。

    スカートの中をデジカメで……県職員を逮捕。

    中学生のスカート内盗撮、大学准教授を逮捕。


 毎日々々、同じような報道を見聞きする。一体どうなっているのだ、という怒りと、そうだよな理解できるよ、という声が心中で交錯する。皆が高感度カメラを四六時中持ち歩いているのだから、スカートの中を撮影したくなる気持ちも解らないではない。スカートには秘密があるのだから……、男は永遠にその秘密を追い求めているのだから……



 小学校高学年の頃、夕食が終わると毎日四帖半の自室に行き、百科事典と図鑑を読みふけっていた。百科事典は全八巻だったが全部読破し、図鑑は、植物、動物、人体、昆虫、宇宙で、特に人体図鑑は細部まで完全に暗記していた。それは野口英世の伝記のせいで、そのころ医者になるのが夢だったからである。でも、すぐに医者には向いていないことを肉屋の作業を見て悟ってしまった。毛をむしりとられたニワトリの首が切り落とされるのを見て、恐くなったからだ。


 それからは人体の代わりとして、原子の構造や物質の究極の姿である素粒子や宇宙、ブラックホールの誕生なんかに夢中になった。しかし、人体の暗記と違って、内容がまったく理解できなかった。ただ言葉の響きに憧れたのである。α線β線γ線とか陽子、中性子とかがカッコよくて、それを覚えればウルトラマンの科学特別捜査隊に入れるものだと思っていた。

 特に横文字には弱くて、フェルミ粒子、ボーズ粒子、スピンなんて単語は僕を痺れさせた。そのころの男友達は、僕をいろいろな呼び方で呼んでいた。「吉岡」と呼び捨てるか「ヨッシー」または「オカちゃん」というのが通常だったが、たまに「キチガイ博士」なんて呼ばれることがあった。でも、僕は密かにそれが気に入っていた。


 理科ができる男なんて、女の子から興味や関心を持ってもらえないのが普通だろう。だが、こっちは女の子に興味津々だった。スカートの中の構造は、原子核の構造と同じくらい知りたい対象だったから、僕は積極的に実験を試みた。つまり、スカートめくりである。しかし、女の子はスカートめくりへの反射時間が本当に短かったから、ほとんどの実験は失敗に終わった。たまに白いパンツやスリップを垣間見ることができたときには、なぜか嬉しかった。


 でも、なぜこんなに早く反応できるのだろうか? それが不思議なのだ。まるで、女の子はスカートめくりを予測しているみたいに素早く手でガードし、その防御行動は「キャー」「キャーやめて」「キャーなにするの」という超高音発声とほぼ同時だったからだ。僕は女の子たちが家で素早いガードと発声練習をしているに違いないと思っていたのだが、男子の友達からは「お前のスケベなオーラを捕らえる技術でも開発したんじゃないのか」と言われていた。 

 僕はこの実験を小学校のときだけでやめた。危険な実験であることに気がついたからである。実験をやめても興味は尽きなかった。




 中学に入り、僕は初めて恋をした。

 女の子を好きになるのは苦しい。苦しい、苦しい、苦しーい、と心の中で叫びながら、机に広げた百科事典のページをかき捲ると、どのページにも、佐々木楓、佐々木楓と書きなぐった痕がある。初恋の女の子の名前だった。


 四重半の和室、そこは勉強部屋であると両親は思っていたらしいが、勉強などはやったことがなかった。頭の中は同じクラスの「佐々木楓」で埋め尽くされていた。秘かに憧れる片思い、僕は何故こんなに彼女を好きになったのだろうか? その理由を知りたかったが、中学生の僕には判らなかった。そして、その答えは読み終わっていた百科事典全八巻にも見つけることはできなかった。


 僕が中学生だったのは年号が昭和と呼ばれていた頃である。そのころ僕の家にはよく行商人が来ていた。もうかなり昔のことだ。よく来ていた行商は九十九里からやってきたおばあさんで、大きな背負い籠を運んできた。

「オレは今朝は五時に家を出ただけど。もう重くてさー。てえへんだった」

 僕は女の人も自分のことをオレって呼ぶ場合があるのかと、少し不思議に思った。籠には体長が十センチくらいの蟹とか、鯵の干物なんかが入っていた。母はこの蟹をよく買ってゆでて食べていたが、僕はこの蟹をあまり食べなかった。実が入っている脚が細くて、うまく食べられなかったからだ。


 他にもいろいろな人が来たが、その中に百科事典の訪問販売人というのがいた。僕の百科事典好きを知って来ていたのだと思う。当時、学研、小学館、平凡社などがいろいろな百科事典を編纂していたと思う。

「今日は、新しく出版される百科事典のカタログと、見本をお持ちしました」

 いかにも読書一筋といった感じの、長身で細身のメガネ男が、愛想笑いを浮かべて僕に言う。応対しているのは百科事典に関心があるからとの理由で僕一人である。セールスマンは狭苦しい玄関先に座ると、黒い分厚い鞄から一枚のカタログと一冊の本を取り出して僕の前に並べた。その本の表紙には見本と書いてある。どうやら何巻かある中の一冊らしかった。

「この百科事典はいままでにはないくらい、挿絵や写真をふんだんに使ってるんですよ」

 セールスマンの声は自信に満ち溢れており、僕は体の角度を変えて思わず身を乗り出していた。彼の開いたページに大きな絵か写真のようなものが見えたからだ。

「どうです、この男女の内臓の配置図は、これはいままでにはなかったものですよ」

 と訪問販売のセールスマンが言う。そこには、男性と女性の腹から胸にかけての内臓が、全て曝け出されている図がリアルに描かれていた。

「わかりますか。これを見ると男と女の内臓の配置が同じではないことがわかるんです。ほら、ここですよ。この小腸と大腸の様子、全然ちがうでしょう? いままでの事典では、それは一緒くたにされて、まあ、適当に描かれていたんですがこれは違います」


 セールスマンは図を指し示しながら興味深いことを言い始めた。

「見て下さい、男の小腸は整然と規則的に曲がって配置されているのに、女の小腸はもうぐちゃぐちゃに曲がりくねってるんです。どうです、面白くないですか? 私もこの事典を観るまで全然知らなかったんですよ」

 セールスマンはどうだと言わんばかりの笑みを浮かべて僕を見た。  

 結局この百科事典は買わなかったのだが、この話は僕にとって重要な意味を持つことになった。

 しばらくして、両親が全三十五巻の平凡社世界大百科事典を僕に買い与えたのだが、さすがにこれは難しくて宝の持ち腐れになった。世界大百科事典には男と女の腸の配列の絵は載っていなかった。


 それからしばらくして、僕は「女を理解するために」という怪しげな題名の本を買った。その本はそのころ一大センセーションを巻き起こした「 How to Sex 」という本と同じコーナーに在ったので、清水の舞台から飛び降りる気で買ってきた。 

 家族が寝静まった夜中に、部屋の白熱灯を消して布団の中に蛍光灯スタンドを引き込んでこっそりと読んでいると、その中にまた興味深い記述を見つけた。それは要約すればだいたいこんな感じである。


『ですから男性の精神は女性の精神と比較して壊れやすいのです。例えでいいますと、男性は比較的簡単に性転換が可能です。もし性転換手術をすると男性の体はすぐに女性の体になってしまいます。つまり女性ホルモンを与えれば体つきも精神もすぐ女性になるのです。でも女性は性転換しても男性の体になりにくい、つまり、男性のほうが繊細にできていて壊れやすい。女性のほうが繊細度が低いのですが、繊細度を向上させる方向に変化するのはエントロピーの法則にそむきますので、つまり女性は男性になりにくいのです』


 僕は、その「つまり」が多い文章を読み終わった後で、あのセールスマンが見せてくれた百科事典との接点を考えた。 「男性のほうが女性より繊細にできている。だから、男性の腸のほうが女性の腸より整然としている」彼の言葉を思い出していると、僕の頭の中で二つの命題が連結した。なんだか大発見をしたような気分だった。たぶんニュートンが万有引力を発見したときも、こんな爽快な気分だったにちがいない。


 僕が出した結論は次の一言、

『男とは、きっと女から生み出されたものである』

 になる。

「きっと」を付けたのは、これを学校で発表したら皆からバカにされるかもしれないと思ったからで、逃げ口上みたいなものだ。「男は女から生み出された」と断言したら、許してくれない奴とか女子とかが湧き出てくるような気がしたからだ。でも、「たぶん」では弱すぎる。「きっと」を付けていれば、「まあまあ許してあげましょうよ。吉岡君も百%そうだって断言しているわけじゃないんだから」みたいな展開になり、なんとか追求をかわす事ができるだろう。


 でも、何故そうなのだろうか? 理由が必要だった。さんざん考えた末に僕はなんとか解答を見つけた。結局、この学説も解答も誰にも発表しなかったが、発表用の原稿を書いたのは確かで、次のようなことを書いていたような気がする。


『オスとメスに分かれている生物を観察すればわかることだが、ほとんどの生物はオスのほうがメスよりも美しくて大きい。カブトムシや蝶などの昆虫、孔雀やキジなどの鳥類、ライオンや鹿などの哺乳類いろいろ考えてみればいくらでもある。そして、たいていメスよりもオスのほうが強くできている。そこから、オスとは外敵や天敵に襲われたときに犠牲になる存在であることがわかる。

美しくて大きいのは目立つためで、敵は目立つほうを最初に襲うからだ。そしてオスが強い理由は、メスが逃げる時間をかせぐために敵と戦えるようにできているからであろう。オスは食われ、メスは逃げる。そして、食べられる性と逃げる性に分離したのは、間違いなく逃げる性の意思である。

つまり、メスがそのような特別な役目を負わせるために、オスを作ったに違いない。オスの持つ強い力は外敵に向いていてメスに向いているわけではない。蟷螂や鈴虫のメスは必要なときがくればオスを食ってしまうが、オスはメスよりも力が強いからといって力を行使して「食べられること」を拒絶することもなく、おとなしく食べられてしまうのだ。

 人間ではどうだろうか、確かに男のほうが女より大きくて力も強い。でも男のほうが美しいのだろうか? たぶん人間を食料とする外敵が存在したとしたら、外敵からはそう見えるようになっているのかもしれない。だが、蝶や鳥と比較すれば男女間での形状の差はあまりないように見える。

 すると着飾ることの差が問題だが、どうも女のほうが男よりも美しく着飾っているようである。これは、人間が地球上で食物連鎖の頂点に立ち、人間を食料とする外敵が存在しなくなったからであろう。天敵が存在すれば、男がリボンやフリルや赤い服等で着飾り、女はねずみ色の地味なスーツですごすに違いない。人間のオスは着飾る必要がなくなったのだ。

 人間の的は人間になった。だから男は武器を持って戦場に行く。男は女を一途に想って死ぬだろう。女はきっとあらん限りの涙を流して悲しむが、でも必ず生き残るのである』


 完璧な論理展開だ。でも一つ疑問が残る。男を造り出して分離しても、分離した男は女のいうことを聞かないかもしれない。「俺はそんな役目はいやだ」と逃げ出すことも考えられる。だから性別分離の主体である女は、きっと、そうならないようなしくみを作っているはずだ。それこそが、僕が真剣に女の子に憧れる原動力である気がした。 

 その憧れの源泉を知りたかったが、その日はすでに限界で、思考を停止した。頭を使いすぎて知恵熱が出てきたからだ。

 その後、たまにそれについて考えたが良い答えは見つからなかった。


 そのころテレビでよくアメリカンなコメディードラマをやっていた。後ろでドッと笑い声の入るやつで、例えば「奥様は魔女」とか「じゃじゃ馬億万長者」みたいなやつだ。僕はそのアメリカンなコメディーが好きだったのだが、その時見たのは、父親が小さな息子に恋を語るシーンだった。


「お父さん、女の子に恋をするってどんな感じなの?」

「いいかい息子よ。ある日お前にも、道端にころがっていた石がダイヤモンドのように見える日が来るんだよ」

「それが恋をするってことなの?」

「そうだよ。女の子が眩しいダイヤモンドのように輝いて、欲しくて、欲しくてたまらなくなるんだ」

「ある日突然に?」

「そうだよ」

「じゃー、魔法をかけられたみたいだね」


 僕はそのドラマを見ていて納得していた。女の子に憧れるのは、魔法をかけられるってことなのだ、だとすれば、それ以上理由を考えても仕方がない。でも誰がどうやって魔法をかけるのだろう? 天使か? キューピットか? あるいは女自身なのか? 女はどこかで秘かに魔術の修行でもしているのだろうか? それは最後まで残った疑問だった。




 初恋の佐々木楓とは中学二年三年と同じクラスになった。僕は本当に嬉しくて、心から神様に感謝した。これだけは、自分の力でどうにかできる訳ではなかったからである。


 中三になってしばらくした頃だろう。その日、僕とクラスメートの佐藤と長谷川とで昼休みにふざけていると、やはり同じクラスである青木真弓が僕らに声を掛けてきた。

「ねえ、佐藤君たち今日の放課後空いてる?」

 佐藤は長身でハンサムだから、僕のような平凡一般男子とは違ってモテル男だった。

「えっ、俺は別に何にもないから暇だけど。なあ、お前らどう?」

 と佐藤は僕と長谷川のほうを向いて言った。

「何もないから空いてるよ」と長谷川が言い、「何もないな、部活もないし」と僕が言った。

「じゃー、帰りに私の家によっていかない。家の人誰もいないからさあ」

「えー、でもそれまずいだろ?」と佐藤が言う。

「だいじょうぶよ。家の人いないし、女の子あと二人来るからさ」

「だれが来るの?」

 と僕が尋ねた。

「一人は坂本淳子で、あとの一人は内緒よ。じゃー、来るってことでいいよね?」

「ああ、それじゃー三人で行くよ」

 と長谷川が言った。

 そんなことで僕たち三人は、放課後、青木真弓の家に寄ることになった。そこが彼女のおばあちゃんの家だという事は、書いてもらった地図を見るまで判らなかった。地図には、祖母の家(今はいないからだいじょうぶ)と書いてあった。


「なあ吉岡、なんだろうな?」

 と佐藤が聞いて来た。

「たぶん、目的はお前だろ。俺と長谷川はどうでもいいんだよ。ただ、そこにいたから呼ばれただけさ」

「目的って?」

「これもたぶんだけど、お前にラブレターでもくれるんじゃないのか」

 と僕は答えた。


 ゆっくり歩いたつもりだったがすぐに家に着いた。門を入ると鬱蒼とした木々の植え込みがあり、その先に引き戸の玄関があった。そこを開けて中に入ると、青木真弓が出てきて「上がっていいよ」というので、その少し暗い最初の部屋に上がって、ダイニングテーブルの椅子に腰かけた。青木はここが祖母の家で、祖母は親戚と旅行に出かけているから自分と女友達以外はいないことを説明した。


「ねえ、コーラでも飲まない?」

 と彼女は言い、男子三人分のグラスを運んで来た。

「ああ、それもいいけど、後の二人はどうしたの? まだ来てないの?」

 と佐藤は部屋を見回しながら言った。

「えっ、あー、あっちの部屋で支度しているのよ」

「支度? なんかゲームでもやるのかい? 人生ゲームでも?」

 と僕が言った。そのころ人生ゲームがはやっていたからだ。

「えぇ、まあ後でわかるわよ」

 と青木は言って、たぶん台所だと思われる部屋に消えていった。

 僕らが座っている部屋の奥には襖があり、襖の向こうには隣の部屋があるように思われた。コーラを飲んでいると、「それじゃーいいかしら」と青木真弓の声が聞こえたので、「あー、別にかまわないけど」と僕等は答えた。そして、部屋の照明が消えるのと同時に襖が開いた。

 襖の先は六畳の和室で白熱灯の下で、敷き布団の上に女の子が一人座っていた。違うクラスの子で、僕は名前も顔もよく知らなかった。 

 後でその子は村松洋子という名前だということを知ったのだが、村松は僕と長谷川がいることなんか眼中にないような雰囲気で、佐藤を見つめていた。布団の上にペタンと女の子座りをしていた彼女は意を決したように、紺のセーラー服の白いリボンを外し始める。僕等は三人とも無言だった。部屋の隅では青木真弓と坂本淳子がやはり無言で村松を見つめている。リボンを外すと袖のホックをはずしセーラー服の横のファスナーを下げて、それを頭からくるりと脱いだ。真っ白なスリップに覆われたツヤツヤとした女の体が現れた。

 何をしているのだろう、彼女は? 一瞬驚いたのだが、鈍感な僕にもその意味は何となく判った。彼女は佐藤に恋をしていて、その抑えきれない感情がこの行為に走らせたのだ。たぶん彼女の瞳には佐藤以外は映っていないのだろう。細くて艶やかなスリップの肩ヒモが震えていた。

 僕は静まり返った部屋の中で、僕自身の唾を飲みこむ音が「ゴクリ」と聞こえてしまうのではないかとヒヤヒヤしていた。

「えっ、ど、どうしたんだよ?」

 佐藤の声が少し震えている。

「ねえ、佐藤君、洋子のこと最後まで見てあげて」

 青木真弓の声がした。それから彼女は白いソックスを脱ぎスカートのファスナーを下げると、ゆっくりと足元から抜き取った。光沢のあるスリップを押し上げるふくらんだ胸元や、スリップの胸元や縁をかざるレースが女体の悩ましさを際立たせる。女の子の体はなんて魅力的なんだろう。彼女は僕のタイプではなかったけれど、もしこの部屋に二人きりだったならば、きっと彼女を布団に押し倒していただろう。胸のふくらみに手を伸ばしていただろう。でも、僕らは三人で、そしてまだ幼かった。それはそこで終わって、襖は閉じてテーブルの部屋の照明も点灯した。僕等は無言だった。しばらくするとセーラー服を着た三人が部屋に現れた。

「ねえ、どうだった?」

 と青木が聞いた。もちろん佐藤にだ。

「えっ……、うーん、まあよかったんじゃない」

 と佐藤が答える。

 僕は頭の中がボゥとしてしまって、会話もよく聞いてなかったのだが、まあ、とにかく僕等は無事に帰還した。もちろん童貞のままで。


 女の子はなんて大胆な行動をとるのだろう。恋はそんなにも大胆な行動を引き起こすのか? もしかすると、これは女が使う魔法かもしれない。だとしたら、スカートやスリップは魔法アイテムに違いない。 

 あの、制服を脱いだ瞬間の女の子の眩しさ、僕は間違いなく魔法をかけられたのだ。


 女の子の体の悩ましさを見たことは、僕に少なからず影響を与えた。女の子の体への興味が増幅したのだ。そんな訳で、そのころ女子更衣室におおいなる興味を覚えるようになった。もちろん、女子が着替えているところに侵入したら大変な騒ぎになるから、女子がいなくなった更衣室をこっそりと覗くのだ。そこにはまだ知らない秘密がたくさん隠されているにちがいない。


 女子は体育館一階にある体育用資材置き場のような部屋で着替えていたから、何とか資材を取りにいくような口実を用意すれば、進入することができる。先生に見つかっても、どうしてもしかたなく資材を取りに行ったと言えば許されるだろう。そんな計算をしながら機会をうかがっていたが、実現不可能な妄想だった。ところが、チャンスはやって来た。


「おい吉岡と田中、バスケットボールが四個足りないから、資材置き場から取って来い。ただし、わき目もふらずに一分以内で戻ってこいよ」

「一分以内?」体育教師の岡田はひどく無茶な要求をした。だが、とても魅力的な要求を。それを聞いた瞬間、「はい、わかりました」と言い終わる前に、僕と田中の足は高速でスタートしていた。その時女子は体育館の外で陸上競技をしていたので、そこには誰もいないはずだった。


 初めて入るそこは、夢のような部屋だった。いろいろなところにセーラー服の上着や襞スカートが置かれ、いくつかの上着やスカートの間からスリップがチラチラと覗いていた。スリップはほとんどが白でツヤツヤと輝いていて宝石のようだった。僕はお宝に頬擦りでもしたい気分だったが、なんとか耐えた。


「おい吉岡、すごいな、これ。でも、触っちゃまずいぞ、早くボールを取って戻らないと岡田に怒られるぞ」

 田中の顔も真っ赤に上気している。スカートの内側には名前が書いてあるから、すこし調べれば、初恋の「佐々木楓」のスカートやスリップに触れることができるかもしれない。だが、それは危険すぎる。一分を過ぎてしまうからだ。ボールの入っている鉄製の大きな籠にもスカートが掛かっていて、それだけは名前を見た。そこには白石麻理子と書いてあり「ハズレ」だったのだが、それ以上の探索は無理で、二人で二個ずつバスケットボールを抱えると走って戻った。


「お前ら得したな。どうだった女子更衣室?」

 友達が皆ハイエナのような眼をして聞いてきた。

「まあ、あれは天国だな。お前らも覗いてこいよ、天国を。でも見つかったら地獄行きになるけどな」

 と僕は言った。しかしそれ以後、天国に行く機会も天国を覗く機会も二度となかった。

 僕は、あの無造作で悩ましげに置かれていたスカートやスリップが頭から離れずに、佐々木楓がスカートを脱いでスリップ姿になるイメージを想像しながらオナニーをした。最高に気持ちがよかった。




 中三の二学期は佐々木楓が隣の席になり、僕らは信じられないほど仲良くなった。彼女に対する感情を悟られないように押し隠すことで、なんとか普通に自然に接することができていた。正月には彼女からの年賀状も届いて、それは僕の宝物になった。

 そして三学期になり、僕は彼女と同じ高校に行きたいと考えていたのだが、その希望は実現不可能となった。彼女が女子校を受験することが判ったからだ。もう卒業まで一ヶ月あまりになり、「好きな子には告白しなくちゃ」という強迫観念は日増しに強くなっていった。


 その日の午後、僕は学校近くにある大きな池の周辺を、夢遊病者のように歩いていた。確か僕の様子を心配した樋口が付き添っていたのだが、どこをどのように歩いたのか、学校にどのように戻ったのかも覚えていなかった。僕はもちろんのこと、たぶん樋口も生まれて初めて授業をふけたのだろう。僕は、ただただ教室から抜け出して、消えてしまいたかった。僕らはいっさい会話をすることなく無言で延々と歩いた。それは、冬と春とを分水嶺のように分けた暖かい日で、明日からは二日間の公立高校の入試が始まるという日だった。


教室を抜け出す少し前、僕は男友達四~五人とで教室の窓にもたれて、明日から始まる試験のことを話していた。ちょうど給食が終わった後で、教室内はいくつかのグループができて、ざわついていた。

「吉岡、お前このままでいいのかよ。なあ、もうじき俺達は卒業だぜ……。たぶん佐々木楓は女子高にいくから、このままじゃーもう終わりだぞ。行くしかないよ。行くしか」

 渡辺が僕をしきりにけしかけた。

「行くったって、今は無理だろう?」

 と僕が言う。

「チャンスは今しかない。ほら、お前のすぐ目の前に佐々木が居るじゃないか」

 確かに彼女は僕等から二~三メートル離れたところで、教師用の机を布巾でふいていた。周りには人がいなくて彼女一人だった。

 ついこの間、渡辺に佐々木楓が好きで忘れられないことを話したばっかりだった。告白するなら人づてではなく、直接話すしかないと思っていたのは確かである。このとき「けしかけには乗るな」という声と「確かに今しかない」との声が、頭の中で交わらない平行線のように存在していたのだが、一瞬の間を置いて「告白するのは今だ」に速やかに収束した。数秒の内に僕の心拍と呼吸は最大限になり、たぶんアドレナリンも大量に放出されていた。人生初の告白だ。 


 僕は机に近づいて行く。

「さ……、さ、佐々木」僕の声は震えていた。

「えっ」

 彼女は机の上をふく布巾の動きを止め、僕を見つめた。

「あ、あのさ……、お、覚えてる。ま……,前にお前に俺の好きな子の名前を教えたことを」

「ええ、ミドリでしょ」

 彼女はクラスにいる女子の名前を言った。

「そうさ……、でも……、あれは嘘で……、本当に好きなのは『佐々木楓』なんだ……」

 一瞬驚いたように見えたが、彼女は机の上に視線を戻し、また机を拭きはじめた。僕らの周りを静寂が包み、それには終わりがないように思えた。

 血圧が急降下したように、ふらふらしながら窓際に戻ると、渡辺が「どうだった」と聞いてきた。

「My long and winding road will never reach her.」

 と渡辺の得意な英語で答えると、僕は教室を後にした。様子を見ていた樋口が心配して追いかけてきた。

 その一週間くらい前に僕は佐々木宛の恋文を書いていた。


 『 佐々木楓 様


   君がこゝろは蟋蟀こおろぎの    風にさそはれ鳴くごとく

   朝影清き花草に      惜しき涙をそゝぐらむ


   それかきならす玉琴たまごとの   一つの糸のさはりさへ

   君がこゝろにかぎりなき  しらべとこそはきこゆめれ


   あゝなどかくは触れやすき 君が優しき心もて

   かくばかりなる吾こひに  触れたまはぬぞ恨みなる


  僕はあなたのことが好きで好きで、夢を見てもその中でも好きで 

  す。僕のことが好きですか嫌いですか、はっきりしてください。

  もし好きならば、付き合ってください。


                       吉岡隆康 』

                

 詩は島崎藤村の完全な丸写しで、意味もよく判らなかったのだが、雑誌で見かけたときにあまりに美しくて、たぶん熱烈な恋の詩だろうと推測し、自分の恋する心情に合っていると思って拝借した。便箋に僕のありったけの想いを込めて書いた。完璧なできばえだと思ったのだが、小心者の僕は彼女にわたすことができなかった。


 その手紙を書いた事は樋口だけが知っていた。樋口はその昼休みの様子を一部始終見ていて、僕が佐々木に告白したことを知り、心配になって付いて来たのだ。


 公立高校の入試の事をよく覚えていない。それは一日で終わったのか二日間だったのか? その日の朝どうやって試験会場に行ったのか? 何の教科をどんな順番でやったのか? どうやって帰って来たのかもだ。当然のように公立高校は不合格だった。


 告白から二週間もたち、明日は卒業する日なのに、すべてが空しく流れ続けていた。卒業までの日々は、三年間で最も空虚な時間を確認する日々なのだ。すでに授業はなく、学校は毎日午前中で終わっていた。今日も大掃除をすれば、ただ茫然と帰路に着くだけだ。教室内は少しざわついていたが、それは皆の高校が決定して「友達といっしょだ」とか「友達と別れる」とかで騒いでいただけだろう。もしかしたら、僕のように無茶な告白をした奴が出現したのかもしれない。でも、何を見ても聞いても、心も体も反応しなかった。


 やがて、大掃除の時間になった。大掃除は各学期の始業や終業の時にもやる。でも、皆の気分としては三年分やるような気分かも、皆張切ってやるんだろうな、とそんなことが頭をよぎったが、すぐにどうでもいい気分になった。


 全ての場所を水拭きして、その後可能な場所はワックスをかけ、そしてさらに可能ならばカラ拭きをするので、いつもの掃除の三倍近く時間がかかる。あれから皆腫れ物を扱うように僕に気をつかい、周りには人が寄ってこなかったから、僕はほとんど誰とも会話をしていなかった。


 一人でバケツを持ち、廊下の掃除を始めた。床だけでなく、壁も拭かなければならなかったのに、誰も近づかなかったからたった一人での作業だった。ボゥーとして作業をしていたので、いったい、いつから佐々木楓が隣にいたのかも判らなかった。


 そのあたりは外界から隔絶されて全ての色も全ての音も消えていた。そこには僕と彼女の二人だけがいて、目の前の壁だけを見つめ、隣り合って無言で壁を磨き続けていた。視線を移動することも、言葉を発することも禁じられていたのだろうか。いや、正確には僕にそれをする勇気がなかっただけだ。彼女を見つめれば、彼女に話しかければ、彼女は消えてしまうかもしれない。それはたぶん二~三分のことだったのだろうか……、自分の呼吸や心臓の鼓動までもが聞こえていて、それ以外は聞こえなかった。それまでの人生で最も長く、最も短い時間だと思った。

「ごめんね吉岡君……」

「ごめん佐々木……」

 そんな会話があったと思いたかったけれど、言葉のかけらさえ見つからなかった。


 僕はあの分水嶺に踏み出した瞬間を思い出す。そこは薄暗い夕闇で、強風の吹きすさぶ細い細い尾根だった。それを渡りきり彼女にたどり着くことはできないことを知っていた。でも、僕は行くしかなかったのだ。 

 僕は魔法をかけられていただけなのかもしれない。「初恋」という魔法を。




 大学を卒業した僕は、百科事典を読破するという趣味がこうじて、出版社に勤め百科事典の編集に携わることになった。ネット社会進展にともなう世の中の変化は激しく、百科事典の出版は停止されることが決まった。僕はその最後の版に、長年考え続けた自説を秘かに書き加えることにした。項目は「初恋」だった。



『初恋


 神と天使がそこから降りた時に、神はある容器を泥から創られた。その容器がなければ天使の光を留めることができなかったからである。その容器には寿命があったのだが、神は容器を無限に造りつづけることを避けたかった。そこで容器から容器が生み出される仕組みを創り出したのだが、そのために容器が二種類になった。神は二種類の容器に異なった属性を与える。その属性は分けられた瞬間からお互いを求めずにはいられない性質のもので、「変化」と「固定」と呼ばれる。

 変化のシンボルは曲線であり「女」と呼ばれる容器に与えられる。変化を強調するための長く揺れる髪を持ち、薄くて光を透過したり反射したりする衣装や華やかな色の衣装を好む。その衣装は動作や風で大きく揺れ動き変化するもので、付属する装飾もその変化を強調する。気質は移ろいやすい。

 固定のシンボルは直線であり「男」と呼ばれる容器に与えられる。固定を強調する短い髪を持ち、変化があまり発生しない地味な形態で地味な色の衣装を着る。気質は頑固である。

 この世界で霊と呼ばれる天使の光は、この輪廻のサイクルに閉じ込められ、ある時は女の容器に、ある時には男の容器に入れられて容器としての寿命を繰り返す。輪廻を維持するエネルギーは愛と呼ばれる感情であり、行動としての肉の快楽に基づくセックスである。自己犠牲をも厭わない無限の愛は神そのものであり、やがて天使の光は愛のみで満たされる神の上界へと帰還したいと願う。

 愛で満たされた状態で肉体の欲望を滅却しなければ、輪廻から離脱しての帰還はかなわない。それは例えば、相手からの見返りを一切求めずに異性を愛することが可能な時、すなわち思春期にしか遭遇できない。それは初恋の魔法と呼ばれる』



<了>



 作品中の詩:島崎藤村「若菜集」より『君がこゝろは』

 著作権は消失しています。


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