新生活、最初の1日はこう終わる
その後、俺は家の掃除をした。
スキルで一掃したのは表層的なほこりのみ。暮らすとなれば隅々まできれいにしなければならない。俺とアイリーンは持ってきたタオルを水につけ、丁寧に部屋を拭いていった。
「よーし、お掃除頑張るぞ!」
アイリーンは、う~ん! と頑張ってタオルを絞る。それから居間にあるテーブルセットに近づき、イスを拭き始めた。
そのぎこちない手つきも――真珠のように輝く素肌も家事が得意そうには見えなかった。
……それも不思議ではない。彼女は貴族の娘なのだから。
「アイリーン」
「なぁに?」
「掃除は初めて?」
「えへへへ……うん、そう。いつもはメイドがやってくれてたから。でも、大丈夫! わたし頑張るから!」
「いや、無理しなくていい……苦手なら俺がやる」
彼女への罪を思えばそれくらい。
だが、アイリーンは首を振った。
「大丈夫だって! それに――慣れないとダメだもん。わたしはアイリーン。もう貴族のアイリーン・クロウアーじゃないからね!」
そう言って、アイリーンは拭き掃除を続ける。
「でも、ごめんね、リルトさん。あんまり得意じゃないから。今日は一日、家の掃除で終わっちゃうかも……」
「大丈夫だ」
俺は言った。
「掃除は得意だから」
言葉の通り、俺はすぐさま掃除を終わらせた。10分とかからず、いや、正確には9分16秒42で。
ミリ秒単位までわかる理由は簡単だ。
スキル『時間把握』。
警備の一瞬の隙をついて侵入、誰にも見られないよう風のように去っていく暗殺者にとって経過時間の把握は絶対条件。
感覚を鍛え抜いた俺ならばミリ秒単位での把握など造作もない。
掃除が得意なのも事実だ。
スキル『掃除人』。
暗殺者は己の痕跡を残してはならない。任務が終わった後、すさまじい速度で現場を片付ける。髪の毛1本すら残さない。
掃除能力が低い暗殺者はその時点で二流なのだ。
「クロウアーのおうちよりぴっかぴかになってるよ!?」
「……言いすぎじゃないかな?」
「そんなことないよ! リルトさん、すごい!」
「ありがとう」
そう応じつつも、俺は内心で落ち込んでいた。この1ヶ月半、任務から遠ざかっていたので精度が落ちている。
全盛期の俺ならば、あと2秒32は早く終わらせていただろう。
現役を退いたのだ――
やはり衰えは隠せない。
「……本当に掃除は得意なんだ。ずっとやっていたからさ。だから、俺に任せてくれていいよ」
「うん……でも、あの、わたしも頑張るから! 手伝わせて!」
それは必死な目だった。
きっと本当に、彼女はただのアイリーンとして生きていこうとしているのだ。そのために『普通』を学ぼうとしている。
「……そうだな、アイリーン。少しずつ慣れていこう」
「うん!」
満面の笑みとともにアイリーンがうなずいた。
ひと仕事を終えたアイリーンはコップを取り出すと、蛇口から水を入れて飲み始めた。
「早く冷たいのが飲みたいね」
そう言って、アイリーンが目を向けたのは炊事場の横にある冷蔵庫だった。
俺は冷蔵庫を開ける。
ひやりとした冷気が――こない。まあ、動力が止められているのだから当然だろう。
冷蔵庫とは名前の通り、ものを冷やして保存するものだ。
こういった製品は魔力で機能を実現している。よって、動力に魔力を足してやる必要があり、それには店で売っている『魔力石』が必要なのだ。
だが、まあ、とりあえず冷やすだけなら――
「貸して」
俺はアイリーンからコップを受け取った。
スキル『冷手』。
暗殺者の獲物は短剣だけではない。徒手空拳で戦うこともある。これは手刀強化のスキルで、相手に凍傷ダメージを与える。
きん、と水が一気に冷えていく。
俺はコップをアイリーンに差し出した。
「どうかな?」
「すごい、リルトさん! 冷え冷えだよ!?」
アイリーンがごくごくと水を飲んだ。
「おいしー!」
「それはよかった」
「でも、どうやったの? リルトさんの手ってすごいの?」
……しまった。ごまかさないと。
だが、それよりも早くアイリーンが大声でこう褒めてくれた。
「手品だね、すごいね!」
「そ、そうだな」
……運がよかった。
「休憩が終わったら買い物にいこうか」
魔力石以外にも必要な日用品は多い。
新しい生活を始めるのだ。必要となるものは多い。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
日用品店で買い物をすませた後、俺たちは家に戻った。
冷蔵庫に魔力石をセットすると――
ぶぅん、という音ともに冷蔵庫が稼働する。冷気がふわりと部屋に混ざった。
「これでよし」
俺は買ってきた果実水を入れてふたを閉める。
「明日の朝には冷えてるよ」
「ああ、楽しみ!」
アイリーンが嬉しそうに背中を丸めた。
それからは旅でずっと食べていた携帯食料で腹を満たした後、俺たちは寝ることにした。
居間に持ってきた寝袋を着て、ごろりと並んで眠る。
本当はアイリーンを備え付けのベッドで寝させてやりたかったが、まだシーツの掃除が終わっていない。その辺は明日になるだろう。
「長旅ご苦労さま! 疲れたね、リルトさん!」
「……そうだな」
実際のところ、俺は特に疲れていない。暗殺者は体力が信条。強行軍など当たり前。これくらいの旅など苦労には入らない。
だけど、アイリーンは違う。
貴族の屋敷で大切に育てられたのだ。悲しい出来事から始まった長い長い旅だっただろう。
「ねえねえ、リルトさん、旅は楽しかったよね、特にあの街で――」
アイリーンは夜の静けさを埋めるように話題を口にする。その話題はどれも「楽しかったね」で終わった。
俺は静かに耳を傾けて、うんうんとうなずく。
その言葉がやがて途切れて――
小さな寝息に変わる。
寝た、か。
俺も寝よう。そう思って目を閉ざしかけたとき。
その声は俺の耳に届いた。
「……パパ、頑張るからね……」
俺はアイリーンを見た。
アイリーンは目を閉ざしたままだった。その顔はとても悲しそうだった。
この旅の中で、決して俺には見せなかった表情だ。
ずっと彼女は俺に笑みを浮かべていた。
そして、よく「楽しいね」と口にしていた。今夜のように。
俺はその言葉を額面どおりに受け取っていたが――
本当に俺はバカだ。そんなはずないのに。
目の前で父を失い、貴族の身分を隠し平民として逃避行。
負担を感じていないはずがない。
だけど、アイリーンは俺にその感情を隠すために「楽しい」と言い続けていたのだ。
俺の心を少しでも軽くするために。
己の心に言い聞かせるために。
13歳なのだ。もっと己の弱さをさらけ出してもいいのに。
彼女は13歳の女の子だけど、その心はとても強かった。
俺は眠るアイリーンから視線をそらす。
責任を果たそう。
胸中にわだかまる感情を俺はその一言でまとめた。それだけだ。俺が果たすべきことは。
俺はこぶしを握り瞳を閉じた。