暗殺者、辞表を出す
どうしてアイリーンがここに現れたのかと俺は考えた。
確かに俺とハインツは激しく戦ったが、その音は決して外部には漏れていない。
俺が発動しておいた暗殺者スキル『絶界』により、この部屋の音は決して聞こえないのだ。
ドアの前まで来なければ。
アイリーンの部屋は離れていたはずだが――
そこで俺は思い出した。
ハインツが照れながら言った言葉を。
「アイリーンな、ちょくちょく俺の部屋にやってくるんだよ。ひとりじゃ寂しくて寝られない、パパと寝たいってな。母親を早くに亡くしちゃったからパパっ子になっちゃったのかなあ、ははは」
……アイリーンはそうやって部屋の前まで来て――異変に気がついたわけだ。
俺はアイリーンに向かって歩き出した。
近づいて――ナイフで心臓をひと突き。
ただそれだけの仕事だ。今まで何回も繰り返した動作。おまけに相手はただの震える小娘。目を閉じていたってできる。
右足を前に。左足を前に。右足を前に。左足を前に。
ぴしり、ぴしり、ぴしり、ぴしり。
怯える少女に近づくたびに俺の心が悲鳴を上げた。
ハインツを殺したときに大きな亀裂が走ったかのような音が聞こえたが、それからどうにも精神が不安定だ。
こらえろ――
もうすぐ終わる。
アイリーンの前に立った。
アイリーンは俺に気づかないのか、ずっと父親を見つめている。震える少女は俺を見上げようとして――
ふらりと倒れた。
音すら立てず、アイリーンが床に崩れ落ちる。
気を失ったのだ。
俺はそんなことお構いなしに短剣を振り上げる。この銀の輝きを無慈悲に振り下ろすだけ――
だが。
俺の右腕は動かなかった。
まるで透明な糸が絡みついているかのように腕が動かない。
なぜ?
短剣を振り下ろす――もう何万回もしている動作がなぜできない?
理解不能だった。
だが、どんなに頑張っても腕は俺の意志を無視する。
そうやって力を込めていると――
ばきん。
俺はその音を聞いた。ひびや亀裂ではなくて明らかに何かの砕ける音を。心の奥底から聞こえた悲鳴のような音が。
ああ……。
同時に俺の手から短剣が滑り落ちる。からん、と音がして床に転がった。
任務の最中で俺が短剣を落としたことなど今までないのに。
俺はすぐさま短剣を拾い、再びアイリーンへと振り上げる。
だけど、ダメだった。
腕は俺の意志を無視して動かない。
俺は理解していた。
アイリーンを殺せない? 違う。
アイリーンが殺せないのではない。きっと俺はもう誰も殺せなくなったのだ。
心の悲鳴を押し殺して短剣を振るい続けた日々。
その限界を今日ここで迎えたのだ。
友人ハインツの死とともに。
俺はため息をついた。もう目撃者の排除はできない。最初で最後の、俺の任務失敗。
俺の暗殺者業の終わりでもある。
殺せない暗殺者に価値などない。
俺は迷ったが、アイリーンを両腕に抱きかかえた。
目撃者をこのまま放置はできない。
だが、ひとつの決意もまた俺の心にあった。
俺が初めて殺さずにすんだ命――俺の数少ない友人の忘れ形見。
俺はハインツの遺体へと近づく。ハインツは半目を開けたまま、己の血だまりに座り込んでいた。
ぴくりとも動く気配はない。
当然だろう。隙をついた俺が急所を攻撃したのだ。生きているはずがない。
それでも俺はそっとハインツの耳元に口を近づけた。
「……ハインツ、聞こえているか。俺はアイリーンを殺さない。アイリーンを殺させない。その誓いをお前に捧げるよ。俺がこんなことを言うのも変だけど……安心して眠ってくれ」
心臓が止まっても人の感覚器官はしばらく生きているらしい。
俺の声は届いただろうか。
届いていて欲しいと思った。せめてそれくらいの安寧はあってもいいだろう。その言葉を天国に持っていってくれ。
俺はハインツの顔に手を当てて瞳を閉ざす。
感傷の時間は終わりだ。
俺は立ち上がると窓ガラスを開けて、アイリーンを抱えたまま夜の闇へと飛び出した。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
それから半月後――
俺は暗殺者組織『アサシンズ・ハウス』の長の部屋にやってきた。
俺の目の前には組織長グリードが座っている。
グリードは五〇歳を超えた男だ。右目の下に大きな創傷がざっくりと刻まれている。もともとは凄腕の暗殺者だったそうだが、本人の体つきは大柄かつ筋肉質であまり暗殺者には見えない。
「で、これはどういうことだ、リルト?」
そう言って、グリードは執務机の上に紙をぱらりと置いた。
俺が提出した報告書と――
俺が提出した辞表だ。
「目撃されたアイリーンを殺すことができなかったので保護した。まあ、それはいい。そこからが問題だ」
グリードは指を1本ずつ立てながら話を続ける。
「ひとつ、アイリーンを生かして欲しい。ふたつ、自分は人を殺せなくなってしまった。みっつ、組織を辞めたい」
グリードは3本の指を立てた手を開いて、ひらひらと振った。
「お前は何を言っているんだ? ひとつだけでも意味不明だ。それをみっつも書き並べやがって!」
「ふたつ目とみっつ目は一緒なんですけどね。人を殺せなくなった暗殺者に価値はありますか?」
「ない。殺すのが仕事だからな。パンを焼けなくなったパン職人はパン職人じゃあない」
「俺もそう思います。なので辞表を出しました」
「じゃなくて!」
ばん! とグリードは机を叩いた。
「殺せなくなったってのが嘘くさいって話だ! 組織を抜け出したいだけの方便じゃないのか!?」
「証明が難しいですね」
俺は淡々と言った。
単純に証明するのなら俺に誰かを殺させることだが、殺せなかったとしても俺が演技していると責められたら終わりだ。
「でも本当なんですよ。もう俺には誰も殺せない」
「信じられるとでも?」
「信じてもらうしかないですね。これも組織を思っての行動なので。次の仕事で俺は確実に失敗しますよ」
……もちろん、その失敗すら演技だと言われると困るのだが。
グリードがじっと俺の目を見つめ、
「試してやろうじゃないか」
引き出しから1本の短剣を取り出して執務机に置いた。
「この短剣で俺を襲ってみろ」
なかなか剛毅なことを言う。
「……意味がないですよ。どうせ演技だと言われ――」
「いいから、やれ」
グリードが俺の言葉を叩っ切るかのように言葉を吐き捨てる。その目は俺を見たまま動かない。
俺は内心でため息をついた。
こうなったグリードは頑固で人の話を聞かない。
「わかりました」
俺は短剣を手に取るや、疾風のような速度でグリードの首筋へと斬りつける。
いつもなら頸動脈を切断しているはずの一撃が――
肌から3ミリ手前で止まってしまった。
俺の手はぶるぶる震えたまま、その3ミリをどうやっても詰め切ることができなかった。
「……くっ……はあ……!」
俺は荒く息をつきながら短剣を下ろす。
そんな俺をグリードが眺めていた。口元に薄笑みを浮かべて。
「名演技だったぞ、リルト」
「いや、演技ではないんですけどね、これ」
「合格だ」
意味不明な言葉を言った後、グリードはさらに想像不能な言葉を吐き出した。
「お前の引退を許可してやる」