首の無い騎士-2
「もうローズと呼んでくださらないの?」
噴水のふちに腰かけローゼリアが見上げると、紫水晶がぱちりと瞬きをした。
光が弾けるようだ、と思って単純な自分にローゼリアは笑った。
「不敬でしょう。」
「秘密なのでしょう?」
まあ、と言葉を濁す静かな相貌に、ローゼリアの悪戯心がむくむくと顔を上げる。
ローゼリアは、覗き込むようにして美しい顔を見上げた。
「わたくしもこっそり、リオネル様ってお呼びしてもいいかしら。」
にこ、とローゼリアが笑って言うと、リオネルは思案するように首を傾げ、
「…まあ、いいか。」
内緒だよ、とローゼリアの頭を撫でた。
驚いたのは、ローゼリアである。
断られるだろう、と冗談のつもりだったし。
というか、頭を撫でられたのなんて、何年ぶりだろうか。
「…嫌だった…?」
「…いや、そうではなくて…その、リオネル様には婚約者の方がいらっしゃるでしょう?」
気まずそうに遠ざけられる手を思わず握り、ローゼリアは慌てて問いかける。
自分から聞いておいて、と思わなくも無いがだって断られると思ったんだもん仕方ない。
「いるよ。」
こくり、と頷くリオネルの表情に変化はない。
ともすれば婚約者と不仲なのだろうか、とすら思われるような顔だ。けれどその声は優しく、どこか嬉しそうなので、ローゼリアは思わず握るリオネルの手に力を入れてしまった。
「…仲がよろしいのね?」
「すごいな、どうしてわかったの」
ぱちん、とまあるく見開かれた紫水晶の、なんとまあ美しく、可愛らしいことだろう。
初めて見たリオネルの表情らしい表情に、ローゼリアは小さく笑った。
「リオネル様が、聞いた事の無い声をされていたから。」
「…どんなだろう。」
恥ずかしそうに頭をかくリオネルに、ふふ、とローゼリアは笑った。
「いいな」
――いいな。
どちらがだろう、とローゼリアはリオネルの手を離した。
リオネルに会うのは、年に一度か二度だ。
そんなに頻繁に会うわけではない。
けれど出会って数年、一度も表情を変えなかったリオネルが、こんなにもあからさまに、誰かへの愛情を示している。
リオネルをこんなにも変えてしまう人か。
誰かをそんな風に思えるリオネルか。
羨ましいのはどちらだろう、とローゼリアは目を細めた。
太陽の光をきらきらと反射する白金の髪に触れたいような、見たくないような気持ちだ。
「次は、セシィも連れてこようか。」
「…婚約者の?」
そう、と頷く彼は優しさで満ちているのだとわかった。
けれど、相変わらず何を考えているのかわからない。
緩く首を傾げるローゼリアに、同じようにリオネルも首を傾げた。
「女友達が欲しいのかと思って。彼女なら信用できるから、父も反対しないと思う。」
「まあ…」
自分なんぞに近付けて危ないのは彼女の方では、とローゼリアは思わず瞬いた。
リオネルの婚約者といえば、国の中枢に根を張る公爵家の末娘だ。
三人の子息と両親に、それはそれは可愛らがられているのだというお姫様と引き合わせて良いのだろうか。
「スロウワーズ公爵がなんと仰るかしら…」
「公爵のご意向は伺ってみないとわからないが…。でもセシィは、あまり女の子の友達がいないし、君と会ってみたいと言っていたからきっと喜ぶと思う。」
「わたくしと…?」
そんな馬鹿な、とローゼリアが顔をゆがめると、リオネルは本当だよ、と頷いた。
「セシリアーノ・スロウワーズの噂を君なら聞いた事があるんじゃないか?」
兵士やメイドの元へ噂話を集めに行くローゼリアが詳しいのは、何もオカルト話だけではない。
何せ彼女彼らは噂話が大好きだ。
兵士のウッズが、メイドのマリンと食堂のシシリーと二股をかけていて修羅場もそろそろらしいとか、実は兵士のジャックとアイズは付き合っているらしいとか。
二股って修羅場ってなあに?と聞いても大人は教えてはくれないが、黙って聞いていれば意味はわかる。
ローゼリアは、大人達がなぜ子どもは何を言ってもわからない、と思っているのか不思議でならない。
子どもにも耳があって、頭があることを、どうしてみんな大人になる間に忘れてしまうのだろう。
母に、ルイーザに、王女らしくあれ淑女らしくあれと育てられてきたローゼリアは情報の重要性を知っている。
子供相手だろうと、うかつに貴族の噂話をしてはならないと教えられた。
例えば、スロウワーズ公爵の末のお姫様はお転婆で、ダンスや裁縫よりも馬や剣がお好きな困ったお嬢様らしい、とか。
どうして簡単に口にできるのだろう。
どこをどうやって回り巡るのか、彼らは貴族たちの噂話がことさら好物で、ローゼリアは会ったこともない貴族達の噂話もよく耳にしていた。
不思議でならんが、まあ、感謝もしている。
知識や情報は邪魔にならんうえに力にも弱みにもなる。
王宮に生きるローゼリアは、それを身をもって知っているのだ。
なので。まあ。
ローゼリアはオブラートに包んで噂について素直に話すことにした。
「…まあ…その…とても…お元気が、よろしいと…」
「うん、元気がよくて可愛いんだ。君と少し似ている。」
どこがだ。
ローゼリアは、自分が可愛いなどという言葉と無縁の存在であると知っているので、眉を寄せた。
「それはスロウワーズ公爵令嬢に失礼では。」
「…反対じゃない?」
「反対じゃない。」
断固として首を振ると、リオネルは首を傾げた。
「でもセシィは、君が幽霊の話が好きだって話をすると喜ぶんだ。聞いてみたいって。」
「…リオネル様それ、誰から聞きましたの。」
「父が王妃様から伺ったと。」
不思議そうに首を傾げるリオネルに、ローゼリアはなるほど、と頭を抱えた。
ローゼリアはこの少年を警戒していたけれど、母は随分とトワイライト辺境伯を信頼しているらしい。王女たれ、ローゼリアに説く母が、ちっとも王女らしくないローゼリアのエピソードを話すくらいだ。
「忘れてくださると嬉しいわ。」
恥ずかしいとは思わないが、それが不利に働く事くらいはわかっている。
溜息をつきながら言うと、リオネルはこくりと頷いた。
「王妃様によく似ているね。」
「……どこが…?」
ローゼリアは眉を寄せた。
脈絡がなさすぎる。
それに。
それに、とローゼリアは自分の髪を一房掬った。
確かに、桃色の眼や黒い髪は母と同じだけれど。
けれど、ローゼリアは釣り目で、母は垂れ目だ。
おっとりとした女性らしい印象の顔立ちに対して、ローゼリアは目も眉も上がっていて、なんというかキリキリとしているのだ。
ローゼリアは、父の面影のある自分の顔が、好きではない。
不思議と、母とも|父とも似ていないのだ。
「顔の造作はどうでも良いんだよ。」
思考を呼んだかのように、リオネルが言った。
その声に、ローゼリアは自分が俯いていたことを知る。
闇のように真っ黒な己の髪とは違い、リオネルのアメジストはきらきらとしている。
「いつも正しくあろうとするところとか、意思が強そうなところとか…ちょっとした仕草とか、話し方とか。王妃様とよく似ていると思う。一緒に居る人に似るのは、その人の事が大好きだからだろう?」
リオネルの眼が、優しく問いかけている。
どこまでも穏やかなボーイソプラノは、ローゼリアの心にゆっくりと溶けるようだった。
ちっとも正しくできないからため息つかれてばかりですよ、とか
意志が強いんじゃなくて頑固なだけですよね、とか
淑女らしくしろってさっき説教を受けたばかりですけど、とか
7歳児らしくないと評判の皮肉はいくつも浮かぶのに、どれも言葉にならなかった。
あ、と声が掠れて、
はくはくと口を開けて、
ころん、と意志に反して転げ落ちていく言葉を、ローゼリアは止められなかった。
「…お母様を、好きだと、言っていいのかしら」
リオネルの目が、うっすらと見開かれる。
驚いているらしいリオネルの表情に、ローゼリアは泣きたいような気持ちで笑った。
―――ローゼリアの母は、王妃だ。
貴族たちは見向きもしないし、派手派手しい魔女と嗤うけれど。
怪談話をせがむローゼリアを、兵やメイドは仲間内の誰かの子供だと思っているくらい、城の人間はローゼリアの顔すら知らないけれど。
それでも母は孤児院やスラムへの支援を惜しまないし、貴族に人気取りと揶揄されても、国民に愛されていた。
母は、自分の国を滅ぼした国で生きる民を、愛していた。
どうしようもないほどに王族としてしか生きられない母は、どうしようもないくらいに王妃だった。
ローゼリアは、それを、誰よりも知っている。
だから、ローゼリアはどうしたらいいのかがわからない。
「幽霊なんて、怖くないわ。だってわたくしは、生きている人間の目が、怖いのです。」
母とローゼリアを見る目が。
母が自分を見る目が、ローゼリアは何よりも恐ろしい。
ローゼリアがぎゅっと両手を握ると、リオネルは静かに膝をついた。
穏やかな風がリオネルの金糸をさらうのを、ぽかんと見詰める。
「私は国母たる王妃様に、ローゼリア王女殿下に、忠誠を誓っております」
「…リオネル、様」
多分、リオネルは微笑んだのだろう。
細められた紫水晶に、ローゼリアは胸がいっぱいになった。
「ご側室様や、ご息女のリリアーナ様ではなくて、お母様とわたくし?」
「ええ。」
「お母様より陛下に想われているご側室様や、わたくしよりずっと可愛いリリアーナ様ではなくて?」
「おや」
リオネルは、瞬きをすると「ご存知ない?」と首をかしげた。
「私が4つの時。小さな小さなお姫さまが私を見て微笑んでくださって以来、私と父は不遜にも、貴方様が可愛くて仕方がないのですよ」
ローゼリアは、とても信じられなくて、思わず笑ってしまった。
こんなにびっくりするくらいの無表情で、びっくりするくらいに優しい言葉を掛けられてしまうなんて。
秘密を打ち明けるような小さな声は、少し楽しそうで、ローゼリアは弾む心が抑えられなかった。
ぐ、とちっぽけな力で引っ張れば、リオネルはローゼリアが転ばないようにと背中に手を添えながら立ち上がってくれる。
ローゼリアは背伸びをして、たった3つしか離れていないのに、まるで大人のようなリオネルと、一生懸命に目を合わせた。
「わたくし、その忠誠に見合う王女になってみせますわ!」
母のような美しさも強さも、持たぬ身ではあるけれど。
母のように、誰に笑われようと目を背けられようと、大切なものを大切だと微笑むことができる王女になりたい。
ローゼリアがそう言うと、リオネルは、きゅっと手を握り返してくれた。
「それは楽しみだ」
不安がなくなったわけでも、王の関心が自分達に向けられたわけではない。
けれど、その日、ローゼリアは無敵になったような気分で眠りについた。