屋敷に響く笑い声(前)
屋敷は真っ暗だった。
日はまだ高いにもかかわらず、扉から入る灯りが唯一の光源で、自分達の影が細く長く伸び、床と同化している。
扉を閉めてはならない。
ごくりと生唾を飲み込み、
扉を閉めないように声を掛けようとした瞬間、
バタン!
大きな音を立て、扉が閉まった。
途端、暗闇が身体を包む。
じっとりと重たい闇が、身体に張り付くようだ。
は、と誰かが息をついた。
寒い。
そう、寒いのだ。
つい先ほどまで、じんわりと汗をかいていたのに、寒いのだ。
この屋敷の中は、凍えるように寒い。
ほう、と白い靄が見えた。
ああ、やはり息が白い。
そう、思って。
ぎくりとした。
暗闇なのに?
隣に誰がいるのかすら、わからない闇なのに?
いや、そもそも本当に隣に誰かいるのだろうか。
いたとして、それは本当に、自分の知っている誰かなのだろうか。
上下左右がわからなくなるような、正体のつかめない恐怖に男は寒気が止まらなくなった。
怖い。
純粋な恐怖は、思考を奪う。
ぎし、
と床が軋む音が響いた。
誰かが動いたのだ。
誰だろう、と考えて、脳は勝手に得体の知れない何かを描く。
ああ、いやだ怖い、怖い、と男は無意識に剣に手を伸ばした。
かちゃり、とすぐ隣でも音がする。
ああ、同僚も同じく剣を構えようとしているのだろう、と、ほっとして、
息を呑んだ。
違う。
隣にいた同僚は、魔法士だ。
剣を、持たない。
「あ、」
思わず声が漏れると、くすり、と隣の何かが笑った。
『こわい?』
声は、どこかで聞いたような、男の声だった。
だが、同僚の者ではない。
では誰の?
ぎしい、と床が軋んだ。
駄目だ、と男の緊張が切れそうになったその時、ふいに明かりがつく。
そして、隣を見て、
「ひ、」
「あははははははははは!」
叫び声が響き渡る、と思いきやその空気を蹴散らす様に、豪快な笑い声が響いた。
その声に驚いて腰を抜かす者や、呆気に取られたように口を開けて笑う男を見ている者、それからローゼリアを指さして固まる者、と様々だ。
「おいしいとこ持ってかれましたね。」
「それな」
くそう、とローゼリアは腕を組んだ。
ちら、と隣を見るとフェリオが頭をどつかれている。騎士仲間を脅かしてやるのだと意気揚々と潜んでいたので、仕返しをくらっているのだろう。
自分も怖がりの癖に、人が怖がる姿を見て笑おうというのはどういう神経だろうかと、ローゼリアは見なかったことにした。
剣の柄で殴られていたような気がするけど多分気のせいだ。
「はー、笑った。凄い登場だな。」
涙を拭いながら、まだ笑っているのは赤銅色の長い髪を一つに束ねた男だ。
日に焼けた精悍な顔つきに、ローゼリアは見覚えがある。
ぐ、と苦い物が喉を通るような思いにもまた、気付かぬふりをしてローゼリアは微笑んだ。
ま、笑おうがしかめっ面をしようが、相手には見えないんだけれども。
「初めてお会いする方ばかりですから、どうせ不気味だと怖がられるくらいなら、最初から思いきり怖がらせてみようかと思いましたの。」
騎士達の真ん中に、トレーヴェンと一緒に立つローゼリアは、男を眺めた。
男が浮かべている笑顔に、嫌味はない。
多分、本気で笑っている。
収まるかと思えば、また思い出したように隣の男の肩を借りてまで笑っているのだから。
「や、やべえ、立てない…!」
文字通りひぃひぃと苦しそうに笑っている。
ローゼリアは、一歩踏み出した。
気付いた周囲の騎士達が、すっと道をあける。
ローゼリアを恐れているような顔をしている者いれば、礼をとる者もいる。
礼を取る騎士の中には、ローゼリアの知らない顔も多い。
良い人達なのだろうな、とローゼリアはその前を真っ直ぐに歩く。
気付いた男は、涙を滲ませて顔を上げた。
「ローゼリアと申します。」
真正面に立ち、ローゼリアはドレスをつまむ。
ゆっくりとカーテシーをすると、男は「急に堅苦しいな」と笑った。
それから、す、と手が差し出される。
「アーネストだ。」
それは、ごつごつとした、大きな手だった。
細かい傷や、タコがたくさんある、ちっとも綺麗じゃない手を差し出したアーネストは、に、と唇の端を上げた。
「初めまして、妹よ」
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「第二陣が来たんだろ。」
ほら、とルッソに差し出されたパンを、ローゼリアは両手、それからするすると伸ばした草木で受け取った。
何せ数が多い。
一人で運ぶには腕が足りないので、草木を触手のように使う事にする。
「またあのお貴族様、さっさと来ちまってたんだろ?毎回後を追ってくる他の連中も大変だなあ」
そうねえ、とローゼリアは笑いながら、ルッソと共にパンを届けに来てくれた男達に笑い返した。
「アルトは…ああ、まだいんのか」
ルッソは、屋敷の前で話をしているアルトに目を向けた。
つられて視線を向けると、玄関の前でアルトは背の低い黒髪の騎士と話しをしている。
ガタイの良い騎士の集団でとっても目立っている彼の身長は、ヒールを履いたローゼリアよりも低い。
それはそうだ。何せ彼はまだ12歳なのだ。
わずか10歳と史上最年少で騎士になった彼はアルトの憧れの存在で、リオネルの逗留中はよく話を聞きに来ていた。
「連れて帰るよ。」
「え?」
ローゼリアが見上げると、ルッソは静かに言った。
「いいか嬢ちゃん、結果ってのは終わってみねぇとわからん。だから人は、必ず後悔をする。」
必ずだ、とルッソは目を細めた。
深い皺が刻まれた顔は強面で、いかにも頑固そうなのに、そうして静かに遠くを見る顔は、とても穏やかだ。
「だから迷ったら、楽しそうな方を選べ。」
「楽しそうな方…」
いつも不機嫌そうにしているルッソからの、なんだかちょっと意外な言葉に、ローゼリアはぽかんとしてしまう。
間抜けな顔をしてもバレないので、まじまじとその顔を見詰めると、ああ、とルッソはローゼリアに視線を下ろした。
ルッソの前にいるのは、骨だけの骸骨だ。
けれどルッソは、アルトの頭を撫でるように、ごつごつとしたローゼリアの頭を撫でた。
「その方が、誰も恨まんでいい。」
「…恨むのはやっぱり、良くないのかしら。」
「恨みてぇなら恨みゃいいが、疲れるだろ。」
確かになあ、とローゼリアは目を閉じた。
ローゼリアには目玉も瞼もない。
だから、目を閉じるという動作はできないけれど、目を閉じたように視覚を遮断する事はできる。
ほんのりと明るい日差しと、ルッソの掌の暖かさだけを、感じる事ができる。
「…それでも決められなかったら、どうしたら良いかしら」
ローゼリアが、大人ってすごいなあと思うのはこんな時だ。
ルッソは何も知らない。
今日がローゼリアにとってどんな日になるのか、何が起きているのか、何も知らない。
けれど、何かあるのだと気付いて、こうして声を掛けてくれている。
普段とは全く違う、落ち着いた優しい声に、ローゼリアは目を開けた。
ルッソにはローゼリアが目を閉じていたことなんてわからないはずなのに、まるで見ていたかのように笑った。
「そんときゃ、相談すんだよ。」
「…そうだん」
初めて聞く言葉のような心持のローゼリアに、後ろで聞いていたルッソの息子のベンが笑った。
「親父達はさ、ずっとこの町と死ぬつもりだったんだ。俺達はそんなクソ親父どもを放っておけないし、でもこの村と心中するのも嫌だし、何も選べなかった。」
しかめっ面の眉間に、さらに皺を刻むルッソの横で、でもさ、とベンはそばかすの浮いた頬をかいた。
「お嬢さんが来て、新しい選択肢をくれた。俺達だけじゃ考えられなかった未来に連れてきてくれたんだ。」
「…俺達が嬢ちゃんにできる事なんざタカが知れてるが、あのクソ執事やお貴族様は違うだろ。」
「…わたくし、ルッソさんもベンさんも、みんな好きよ。」
そういう事じゃねぇ、とルッソは顔をゆがめ、ベンはわーい、と笑った。
一緒にパンを届けに来てくれていた男達も、ルッソおじさん照れてる、と笑うので、そうか、照れてるのか、とローゼリアも笑った。
ローゼリアがこの町に来て、もうすぐ4年になる。
誰も彼もがローゼリアを見ると、笑って名前を呼び、心霊スポットの情報をくれたりする。
どこからどう見ても、ちっとも普通じゃないローゼリアを、普通の女の子のように扱う唯一の町。ローゼリアがみんなで作り上げたもので溢れるこの町は、ローゼリアから何も奪わない。
両手で持てない程のパンを抱えて、ローゼリアは笑った。
「有難う、ルッソさん」
骸骨の口がぱかりと開いただけだけれど、ちゃんと笑っているように見えたらいいな、とローゼリア思った。
今度はベンに頭を撫でられたところで、
「代わりますローゼリア様」
びく、とローゼリアの肩が跳ねた。
後ろから声を掛けられ、驚いて振り返ると大柄の男がローゼリアを見下ろしている。
深くかぶったフードから覗く、褐色の肌に走る大きな傷と紅い瞳は一見恐ろしいが、にこ、と浮かべられる笑顔はとても優しい。
「ヴェ、」
し、と人差し指を立てられて、ローゼリアは慌てて口をつぐんだ。
軽率に名前を呼んではならぬほど、彼は有名な騎士なのだ。万が一にでも、彼の名が外に知られれば、何が起きているのか、わかる人にはわかってしまう。
「…驚いた。お一人でいて良いのですか。」
「ローゼリア様をお一人にするのも、と思いまして。」
―――なるほど、呼びに来たわけか。
彼は、アーネストの護衛だ。
ローゼリアを心配して来た、などと言う彼をアーネストの元に戻すには、ローゼリア自身がアーネストの元に行くしかなくなる。
みんなにまずは休むようにと勧めて、そーっと庭に出たローゼリアの行動に気付いているのだろう。
ローゼリアが、大人って嫌だなあ、と思うのはこんな時だ。
「えーと、パンを運んだら中に入ろうと思って。」
「ええ。代わりの者を呼びますよ。」
わー、このワイルドなんだか爽やかなんだか分かんねぇイケおじ、人の話聞かねぇタイプの腹黒だ。
キャラ渋滞してんだよ、とローゼリアはそっと脳内で罵った。
別に本気で逃げるわけじゃないし、そのつもりならそもそも迎え入れないし、ちょっと心の準備させてくれてもいいじゃないか、とローゼリアは視線をさ迷わせる。
目玉が無いって、どこを見ているのかバレないからこういう時便利だよな、と思ったところで、ひょいとパンが大量に入ったバスケットが持ち上げられた。
驚いて見れば、ローゼリアよりも背の低い騎士が、軽々とパンを持ち上げ、にこりと笑った。
「ヴィンセント!」
「久しぶりだなお嬢。これをキッチンに運べばいいんだろ?こっちでやっとくよ」
え、さっきまでアルトと一緒に、と振り返ると、アルトはルッソやベンと一緒にすでに帰っていくところだった。
気付いたアルトが、振り返って手を振っている。
くそう、とローゼリアは手を振り返した。
見れば、数人の騎士達が、にょろにょろと動くローゼリアの草木からもパンを取り上げている。
すっかり心を乱してしまっている自分に気づき、ローゼリアは少ししょんぼりしてしまった。
それに気づいたのか気付いていないのか、指を振って草木をしまうローゼリアに、ヴィンセントは優しく笑った。
「お嬢、フェリオは迷惑かけてなかったか?」
アクアマリンのような、薄いブルーの瞳を見下ろし、ローゼリアはええ、と頷いた。
「おもしろかったわ。」
「そりゃ良かった。あいつ、騎士団にいた時の後輩なんだけど、戦闘中以外は子供みたいで大変なんだよ。」
いや俺も子供なんだけどよ、笑うヴィンセントの方が確かにフェリオより落ち着いているので、なんとも言えない気持ちになる。
「ちゃんと仕事しないと先輩に殺されるって頑張ってたわ。」
「失礼な奴だな。殺しゃしねぇさ。半殺しくらいだ。」
それってどんなだろう、とぞっとしたところで、「じゃあまた後でな」とヴィンセントは綺麗に微笑み、どっさりとパンが入ったバスケットを抱えて背を向けた。
ヴィンセントの倍はありそうな大男への一礼も、勿論忘れない。
小さいけれど、リオネルの生家で騎士として部下を持つヴィンセントの凛々しい背中を見送って、ローゼリアは溜息をついた。
何度もリオネルの護衛として足を運んでいるので、彼はこの屋敷にも詳しい。
ヴィンセントに任せておけば、間違いなくパンはトレーヴェンの手に渡るだろう。
「戻りましょうか、ヴェルテート将軍」
「今はしがない無職の男ですよ」
よう言うわ、とローゼリアは睨んだが、まあバレてないだろう。
多分。
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「いい湯だった。もてなしを有難う。」
応接室に入ると、ワインの入ったグラスを片手に、アーネストはにかりと笑った。
隣でリオネルもワイングラスを傾けている。
「あら、銀の食器でなくてよろしいので?」
ふふ、と笑いながらローゼリアはアーネストの向かいのソファに腰を下ろした。
肩にタオルをかけたアーネストは、からからと笑う。
「ここで死ぬならそれまでだろ」
それに、と燃えるような朱色の瞳が、楽しそうに細められる。
炎のように暖かく、宝石よりも輝かしいオレンジガーネットに、ローゼリアは嫌だな、と思った。
「お前は兄を殺すような子じゃないだろ」
「初対面で皆様を盛大に驚かせるような子供ですよ。」
「俺を試したんだろ?」
ぐ、とローゼリアは言葉に詰まってしまった。
アーネストは、また柔らかく笑う。
どうせ嫌な顔をされるなら、盛大にやってやろうと思ったのは嘘ではない。
でも、少しだけ。
怒って帰ってくれないかな、とほんの少しだけ、期待をしたのも、悔しいけれど本当だった。
なのに、アルトが妹に悪戯をされた時のような顔で、アーネストは笑っている。
その顔がローゼリアは好きではないのに、心を許したくなってしまう、そんな笑顔なのだ。
嫌だな、とローゼリアは組んだ手をこっそり握った。
「アーネスト様、わたくし」
「お兄ちゃん。」
「は」
「お兄様でもいいけど。いや、やっぱお兄ちゃんが良い。」
「はい?」
「我、兄ぞ。」
「…………」
しん、と沈黙が落ちた。
部屋には、ここまでローゼリアを連行してきたヴェルテートの他にも、何人か騎士が立っている。
リオネルも同様に、後ろにフェリオと数人の騎士を従えていて、ローゼリアの前にはすっと葡萄ジュースが置かれる。
つまり、あの性悪執事も隣にいるのだ。
え?この状況で??呼べと????
「…わたくし、骸骨ですよ。」
「ああ、思ったよりしっかりした骨で安心したぜ。カルシウムが足りてる証拠だな。」
「…髑髏ですよ。」
「綺麗な頭の形をしている。ベールが良く似合っているよ。」
「……骸骨に、呼ばれてそれ、嬉しいもんですか。」
「嬉しいに決まっている。」
そんな馬鹿な、とローゼリアの手が震えた。
気持ちが悪いと、不気味だと、恐ろしいと、顔を背けたって仕方がないほど、自分は、
「妹だ。」
なるほど、とローゼリアはついに頭を抱えた。
完敗である。
これ以上ないほどに、どうしようもないほどに、もう、完敗だった。
「最悪だわ。ほんっとうに嫌。ああ、本当に嫌。」
諦めなさいな、と隣で小さな声で笑う執事を殴り飛ばしたい気持ちで、ローゼリアは顔を上げた。
アーネストは、ローゼリアの言葉に不思議そうな顔をしている。
いっそここで怒ってくれれば、気付かぬ振りができるのに、アーネストの眼は、ただ暖かい。その眼に、ローゼリアの心は、この男を知りたいと、この”兄”との日々は楽しそうだと叫んでいる。
ちら、と見たリオネルは、我関せずとばかりにチーズとパンをもぐもぐしている。
お可愛らしい、と分かりづらいが嬉しそうな顔にローゼリアは笑ってしまった。
そもそも、大好きなリオネルが連れてきた時点で、わかりきっていた事だ。
リオネルが、ローゼリアにとってよくない人間を近づけるわけがない。
いいや、そうではない。
ローゼリアは、多分、本当の本当は、この日を、待っていたのだ。
自分が産まれるその前から、きっと決まっていたこの日を、ずっと待ちわびていたのだ。
ローゼリアは、降参します、と両手を上げた。
「国王陛下にそっくりなお顔なのに、ちっとも似ていないお兄ちゃんを、わたくし、きっと大好きになってしまうわ。」
だからどうかこの手を離さないで、と祈るように願った。
ショタが…好きです…