第四話 うつろう涙と蝶の従者
ひまりと二人でケーキを作った次の日、資料室を尋ねるとそこに彼女の姿はなかった。まあ人がいつも同じ場所に必ずいると言うのも妙な話ではあるが、ここ最近毎日のように訪れている資料室にひまりの姿がないのはこれが初めてだった。僕は少し肩を落として資料室を後にしようとした。
「……うぉえっ……ごほっ……」
薄い扉から漏れる、微かな嗚咽。絞り出すような声にならない言葉。僕は話しかけていたドアノブを力一杯掴み、扉を破らんばかりの勢いで開け放った。
「ひまり! ここにいるのかっ!」
帰ってくる声は無い。僕は小さく聞こえる嗚咽に耳をすませ、息をのみひっそりとそれを辿った。
「……ひまり?」
大きな書物棚の影から、彼女がいつも着てる淡い若草色のワンピースの裾がはみ出していた。それを踏まないようにゆっくりと彼女の正面にしゃがみ、目線を合わせる。
「どうしたんだよ、一体何があったん……だ……」
降りしきるたくさんの花弁。それが窓からではなく、彼女の両眼からこぼれるものだと気づくのには数秒かかった。そして、それが胡蝶候群の中でも特に貴重な“涙花病”だと気づくのには、さらに時間を要した。
それは、あまりに美しすぎたのだ。
病と名のつきながらその光景は恐ろしく綺麗で、神秘的で触れてみたいような、しかし神聖すぎて触れることを赦されないような、不思議な気持ちになった。まるで天使のように、この世の汚れから隔絶されたかのように佇む彼女を、発作が起きたのだと認識するには時間がかかるのも無理はなかった。
「だっ、大丈夫か⁈ いま先生を呼んで……」
「やめて!」
正気に戻った僕の声を、ひまりは強く制した。
「……大丈夫、よくあることだから……放っておけば治る。だから、先生は呼ばないでっ……」
呼ばないで、の部分で再び語気を強めたひまりに、たじろぎながらも僕は従い背中をさすって落ち着くのを待った。
しばらくしてひまりの容体が元に戻ったのを確認すると、僕はひまりの背中からそっと手を話した。
「……大丈夫?」
「……大丈夫。ありがとう」
初めて聞くひまりのあんなに大きな、怒声にも似た声を聞いたせいか、僕の声は無意識に震えていた。ひまりもそれを感じてか、気まずそうに顔を背けた。
「……ひまりは涙花病だったんだね」
今度はひまりの背中が震えた。おそらく知られたくなかったのだろう。
普通、胡蝶症候群と言えば花咲き病を指す。もちろん花吐き病自体は希少な病だが、そう言える位胡蝶症候群患者の中では大半を占めている。一方で涙花病は世界で依然として十数例ほどしか見つかっておらず、その症状以外のほとんどが未だ謎に包まれている。そのあまりの希少さと美しさから、よくも悪くも『伝説の病』などと言われている。僕は自分が花咲き病であるせいか偏見か、ひまりも花吐き病であると心の中で端から決めつけていたのだろう。
「……ごめん」
「大丈夫だよ。ありがと、ユーリ」
振り絞って出した声は自分でもびっくりするほど弱々しく、結局余計にひまりに気を遣わせるけだった。
「言ったでしょ、よくあることだって。……それに、辛いのはユーリも同じでしょ?」
そうだ。ここは同じ境遇の者が集まる場所。一見普通に暮らしているように見えるこの生活は、その実社会が作った箱庭の中に過ぎない。それをわかっていながら、それでも僕たちはここで暮らしていくしかないのだ。
まるで小さな子供をなぐさめるように優しく声をかけるので、その声に溶かされるように僕の顔はほどけた。それを見て、ひまりの顔も綻ぶ。ひまりは僕の頬にそっと手を添え、微笑んだ。
「私たちはみんな一蓮托生。だから大丈夫……ね?」
そう言って、ひまりは僕の頬から手を離した。
それが離したのではなく、意識を失い離れたのだと気づくのにそう時間はかからなかった。
自らの出した花の上に目を瞑り横たわるその姿は、一枚の絵画のように美しかった
お待たせいたしました!ここからいよいよ2人の関係性が変わってきて……?