第三話 甘いお菓子を作りましょう
数日後、黒いエプロンに身を包んだ僕たちは、誰もいない調理室へと足を運んだ。ひまりが僕の作るお菓子をひどく気に入り、作り方を教えてほしいと頼まれたからだ。
「こんな場所があったなんて、全然知らなかった」
物珍しそうに部屋を見渡すひまりに、ふと僕は疑問に思い声をかけた。
「ひまり、この施設に入って長いんだよね? 授業でたまに使ったりしない?」
その言葉を聞いたひまりは斜め下に目線を逸した。
「……うん。当時は病気の勉強が多くて、毎年同じ内容しかやらないから、飽きちゃったの。それからずっと授業には出ていないんだ」
そこまで聞いて僕は口を開こうとしたが、「ていうか、この部屋借りられたよね!」と遮られてしまった。
「うん。ここは司書さんが管理していて、僕は仲が良いから特別にこっそり貸してくれたんだ」
「そうだったんだ。じゃあ改めて今日はよろしく、先生」
「前と同じりんごのやつでいいの?」
「うん! あれ美味しかったから、また食べたいと思ったの」
そう言って、ひまりはルンルンと準備を始めた。
「あ、私で洗ってくるね」そう言ってひまりは水道の方へ行ってしまった。
僕が緑は研究所に来たのは三年前。それでも出入りの多いこの施設ではそこそこの古株だ。あの僕が入ったときにはすでにあった授業を受けていないのなら、いったいひまりはいつからこの施設にいるのだろう……?
ふと俯いた瞬間、僕の目に銀色のドッグタグネックレスが映った。これは施設への入居順に与えられたナンバーが書いてあり、ここでは名前の代わりに個体識別に用いられていた。そして僕は、ひまりのプレートがいつも裏返っていたことに気づいた。最初はたまたまかと思っていたが、これまでに一回も表になっていないというのはさすがに偶然にしては出来すぎている。この番号に特別な何かがあるのだろうか。
僕のプレートナンバーはNo.829。あれだけ館内に詳しいと言うことは、少なくても500番以内、まさか二桁か……? 恐る恐る手に取り、ひまりのプレートを裏返す。そこには……
『No.001』
「えっ?」
一瞬、時が止まったかのように僕の体は硬直した。
一番だって? ありえない。ここで生活する患者の多くはなぜか知らないが別の研究室に移るか何らかの理由で退院するため、数年以内にこの施設を出て行ってしまう。それこそここで五年以上過ごした人間はいないと言われているほどだ。それを……No.001だって? まさか、この施設ができた十年前から、ひまりはこの施設に居続けているっていうのか? もし本当なら一体なぜ……
「何してるの?」
突然聞こえてきた声に、僕は凍りついた。背後から降り注ぐその声は、振り返るのも躊躇われるほどに冷たかった。
「えっ……と……エプロンの紐を結ぼうとしたら、プレートタグ落っことしちゃって。驚かせちゃった?」
なるべく畏怖の念を悟られないよう、僕はひまりに背を向けたままいたって普通の声で答える。永遠にも思えるような一瞬の静寂が空間を支配した。
「……なあんだ! ずっと固まってるから心配しちゃったよ。ほら、早くケーキ作ろう?」
そう言うとひまりは満面の笑みで準備を再開した。
その笑顔はまるで、「何も言うな」と圧をかけるように上っ面に張り付いた、なんとも不気味な顔だった。
「出来たー!」
2時間後、りんごジャムを使ったパウンドケーキが完成した。本当は冷蔵庫で一晩寝かせてからの方がしっとりとして美味しいのだけれど、焼きたての甘い匂いに我慢できなくなったひまりが今食べさせろとせがむので、半分だけ切ってお茶にすることにした。
「んーっ美味しい! ユーリ天才!」
一切れ目を早々に平らげたひまりは、二切れ目に手を伸ばした。僕の分まで食べられないか心配なくらいの勢いだ。そして、「あっ紅茶にも同じジャム入れたら美味しいかも! ……っえ美味しっ?!」と慌ただしく口を動かしている。
「ひまりは本当に甘いものが好きなんだね」
僕がそう言うとひまりは紅茶を口に含んでケーキを飲み込み、
「昔、よくお母さんが作ってくれたんだ」
と話した。
「お母さんには送ってもらったりしないの?」
その発言が不用意であったと、ひまりの顔を見て気づいたときには遅かった。
「……今はお母さん、いないんだ。だから食べたくても作ってもらえないの」
ひまりは今にも泣きそうな、けれど微かにどこか嬉しそうな表情をしていた。
「ごめん、無神経なこと言って……」
「え? 大丈夫だよ。ユーリのお菓子食べてるとね、お母さんのこと思い出せるの。だからユーリの作るお菓子が好きなんだ」
もちろん味が美味しいのもね、と付け足して、ひまりは再びケーキを頬張った。
父子家庭の。謎は深まるばかりだが、今はただこの笑顔を信じたいと思った。