第8話
なんか気がついたら、普段よりちょっと?
長めになってましたw
天正2年【1574年】4月
天正2年4月、足掛け10年に及ぶ石山本願寺との本格的な戦が始まった。
時代的には、第二次信長包囲網と言った辺りか?朝倉は滅びたとは言え、北陸一向宗の抑えに柴田勝家殿、佐々成正殿、前田利家殿が当たっているからな。そちらは何とか持たせて貰うとして、東の武田は徳川殿を攻める辺りか。
あの御三方には、俺の知っている限りの、加賀の地理図をお渡しして置くことにしよう。
「只、この時代の手取川って、治水整備すらされてないから、かなりの暴れ川だしな……。『陣は手取川より北には行かないよう、暴れ川故に南へ下ることも出来なくなりますので、お気をつけください』と書状を送るか」
まあ、書状の意味を理解して、受け止めてくれるかは、わからないけどな……。
「それにしても加賀か……元服した15になる1年前ぐらいに元亀元年だったか?確か坊さん達に会った時が14だったから……、で旅に出たときには『元亀2年』てことは、生まれの年号を遡ると、え~っと『元亀元年が1570年』になるんだったか?そこから14引くわけで……1556年ってことか。14年前っていうと元号は何だっけ?『元亀』の前が『永禄』で、その前ってことか?だとすると………………『弘治2年』辺りになるか。まあ、詳しい月日はわからないのは仕方ないとしても、そうか……この世界に転生して約18年位になるのか……」
以外に短くて長い生活をしているんだな。
天の声【年齢計算はちゃんとできてますので、間違えてはないのですよ】
「商人として自立したと思ったら、料理人に転職させられ戦にも駆り出され、城主代行までさせられたからな~、異色の経歴ってこう言うのか?」
と那谷右衛門は思い伏せるのだった……。
そうこうしている内に時は経ち、天正2年【1574年】6月には徳川殿の治める遠江に武田勝頼が攻め込み、高天神城が落とされそうにはなったが、織田家の後詰めが間に合い両軍かなりの痛手を被り、引き分けとなった。
天正2年【1574年】7月
そして俺は現在、近江の安土山に来ている、飯炊きと言う仕事でだ。
「城造りしている譜代の者達に、飽きが来ないように、食事を与えよ!」
との信長様の指示でだ。その代わり家臣になった者達を、置いてくる形になったんだけどな……。うん、単身赴任です。
俺が此処に行けと指示出される前から譜代は行われていたみたいで、安土山での建築の様子はかなり進んでいた。
その際、麓に新築の屋敷を造ってやるとも言われたんだが、麓と言っても広いからな~……、どうなるかが怖いわ。
初日は『釜揚げうどん』に『刻み葱』をのせて、二日目には『天麩羅』でものせてみるか。
こちらに綾を呼ぼうとしたが、断られた!?送られてきた文を読んでみると、「二人目の稚児が出来ました」と、この文を読んだ後の記憶が定かではないのだが、どうやら『稚児ができたんじゃ!帰るんじゃ!仕事なぞ知ったことかぁ~!!』と暴れ回りを呆れさせ、それを聞いた信長様も呆れ果て……
『妻を思い、子を思うのは大変良いことだが、与えられた職務を放棄だけはするな!城が出来次第、暇をやるから、それまで安土で奮起せよ!』
と書状が届いたほどだ。書状は俺の家臣が持ってきてくれた。
何でも『これ以上に、あ奴に暴走されても困る。そなたら三人は、あ奴とは入れ替わりで、安土で食事を夫役の者達に作ってやってくれ。暫くした後、あやつは一時的に此方に戻し、気を落ち着かせる。』と……、呆れた口調で伝えたそうだ。
流石、信長様w分かっていらっしゃる。
同年10月、安土での二の丸居館の完成の祝いに、三河の徳川殿が呼ばれ、明智光秀殿が接待を仰せつかったようだ。天守閣等はまだ建設中だが住む為の場所だけは、早々と作られた。出されるのは後世で言われる饗応『安土御膳』かな?
天の声【安土御膳は天正10年です。】
その際、「料理品目が多すぎると、叱責を受けるかも知れないでしょうから、品の数を抑えた方が宜しいかも知れません。30品くらいにしては?」と助言してみた。其のついでに『すぎかかり』、『真鯛の白酢かけ』、『海老素麺』、『鯛めし・鯛5種尽くし』、『海老進上と鶏そぼろの焼団子の餡掛け』、『鴨の治部煮』等を教え……と言うか、作って共に饗応に出してもらった。
天の声【『すぎかかり』は『TVロストグルメ』を参照してください】
【安土御膳は合計100品は合ったとされてもいます】
徳川殿の接待が終わった後、光秀殿から「徳川殿は満足して帰られ、信長様からもお誉めの言葉を戴けた」と喜ばれた。
お礼として通常よりも太身で厚みのある長さとしては全体で1mはある『大身槍の穂先』を戴いた。
そのままでも、剣として振るえるような代物だ。
前線に出て槍働きは余りしたくないからな……、一応料理人で商人だしな。太刀打ちの部分を柄巻にして貰い、両手での握り4つ分の長さ【約36cm】にして貰った。室内使いする鍔元の無い手槍という形には、ちょうど良いだろう。
安土での屋敷は、初めに聞いていた安土城大手門側でなく、南西側の百々橋側に、屋敷が建てられることになった。重臣方の屋敷も此方側らしい。
天の声【百々橋は安土山の摠見寺跡側です】
この時代では珍しい、二階建ての蔵屋敷型の邸宅だ。この時代での下級武士の屋敷では、『茅葺き屋根』が主流だが、我が家は何故か『瓦葺き屋根』になっている。
家回りには小規模だが『水堀』が巡らされ、門扉は『薬医門』と『棟門』の良いとこ取りだ。堀を渡る為の橋は、『跳ね橋』方式だ。
跳ね橋を上げると、厚さ約1cmの漆塗り銅板を備え付け、多少の襲撃には、対処出来るようになっている。
その屋敷を囲む家壁は、『なまこ壁』で防火性も高いそうだ。
敷地内には、商売荷用の船着き場に、河岸も小さいながら備えてある。水門付きでな。
簡単に言うと、江戸時代の『ちょっとした大きさの大名屋敷一つ』が、我が家の敷地と言うことになるだろう。敷地には未だ余裕があるので、色々と増設は出来るだろう。
「これなら余程の事が無いと、壊せんだろう。矢弾は大丈夫だろうけど、大砲は無理だろうけどなw」
天の声【敷地面積2200坪・屋敷建坪300坪・商店建坪180坪・一蔵建坪100坪x8蔵となっています】
【蔵屋敷になっているので、船舶の停泊する船着き場や河岸も含めた敷地面積は2300坪としています】
【船着き場・河岸で100坪計算です】
本城側の壁面には『埋門』が、何故か付けられていた。
お忍びで来る気満々だな信長様は……、よし開けれないように、家側に石を積んでおこう。
暫くした後、信長様に石を積んだ理由を聞かれたので、それを伝えると口許をヒクヒクさせながら『即刻撤去せよ!』と御通達が来た。何故だ!?
その後、暫くして柴田勝家殿や丹羽長秀殿から小話として伝え聞いた所……
「儂らが重臣が、日中堂々と表門から訪れる訳にも行かぬ為、埋門から出入りする事になったのだ」
「えっ!?そんな話は使いの者から、伝え聞いてすら無いですよ!?」
と言う事になっていたらしい。信長様からは一切合切なにも聞いてないんですが?そう言う重要な事は!
そして、その事が事前に伝わっていなかった事に、御二方は戸惑い調べてくれた処【親切な御方達だ】、使いの小姓者が嫉妬心を出し、伝えなければ行けない報せを、報せなかったと言うことらしい。
その小姓者は処断されたとの事だ。
どうやら、俺が信長様の夜の寵愛を受けている物だと思われていたらしい。
……生憎と其方の趣【衆道】はない!俺は妻一筋だ!!
事情を知ったので仕方無く、埋門を壊し棟門に拡張、桟橋を作り入りやすい形に仕上げた。
え、商売用の船着き場を使えば良いだろうって?それじゃあ、風情が無いでしょw
そして、此の安土の町は至る処に、水路が併設されているので、『茶舟』『猪牙船』『屋根船』『屋形船』の試作品を舟大工に造って貰い、町中の水上交通の発展に貢献した。
葉月【8月】の頃は、こっそりと『行水船』を造り、淡海に繰り出して、夜空を見ながらの湯浴みを、コッソリ楽しんだりもした。屋敷内に浴槽は造っては有るけどね。
天の声【行水船は、現在の湯船の語源になった物です】
長月【9月】を迎える頃、まだ暑い日差しが降り注ぐ中、部屋戸の開け締めが面倒なので、各部屋に『竹簾』を設置し外の風を入れながらも、日の入らぬように、整えていった。
軒下には風鈴を付けて、風情を出しても見た。安土での生活も落ち着いて来たので、妻や子を呼び寄せる事にした。
天正2年(1574年)10月
さすが近江。淡海や各街道などから、商人や食材が集まる集まるwだがこの地では、料理は安土に建てられた屋敷でしか、行っていない。
水路のお陰で、茶舟を使った荷物輸送で対岸からも、物の仕入れが出来るようになった。さぁ~!本格的に商売始めるか。
此処では料理人ではなく、商人として手広く商売を行っている。扱っている品といっても『調味料』に『酒』、『干物』に『甘物』、『反物』や『書物』等を扱っている。
履き物は草鞋ではなく、『下駄』を用意した。二枚歯の物と一枚歯の物だ。これが以外に売れてくれるんだよ。
夏秋の限定商品としてだが、『銀鳥の蚊取り線香』も取り扱った。
『書籍』には『四書』【論語、大学、中庸、孟子】、『五経』【易経、書経、詩経、礼記、春秋】、『兵法書』【六韜、三略、孫子】、これ以外にも今日の公家衆を頼り、写本し製本化した『源氏物語』全巻や『枕草子』、『古今和歌集』、『万葉集』等も取り揃えた。
そして、女性のための教訓書4種を集めた物として『女四書』と言う物が、江戸期には在るらしいので調べてみたら、明国と日本では一冊だけ違う部分が有るのがわかった。
とりあえず、和訳されてものを用意して、これも写本科へと回し製本させた。物としては、このような一覧になる。
明では『女誡』、『女論語』、『内訓』、『女範捷録』で、日本では『女誡』、『女論語』、『内訓』、『女孝経』という形になるようだ。
なので我が淡津屋では、共通しない一冊を混ぜ込んで、『女四書』ではなく、『女五書』という形で、売り出すことにしたw
それ以外にもコッソリと、この時代から見れば未来の『医学書』も、数冊棚に入れておいた。
そして、写本し製本化した物を全巻各三冊づつを、偶然知り合えた京在住の公家衆にいた、図書頭様にお渡しして、公家の方々に楽しんでもらうと共に、後世まで保管してもらう書物として、納めてもらった。
店内の正面には、扱っている商品の実物一覧と、両壁には商品分けした『在庫棚』、口に入れる物は店に入って右側の棚、衣服類は左側の棚、反物は中央の棚……俺が帳簿を付ける『帳場机』の後ろになる。
俺が帳簿を付ける『帳場机』に、それを囲む『帳場格子』、その後ろに竹簾の両側に板を付けて固定した『太刀掛け』を下げた。太刀掛けの下には『証文箱』、『印鑑箱』『帳簿箱』『銭箱』を備え付けた。
印鑑の一つには家紋を彫り込むことにした。
『組合角』に『五竜胆車』と言う凝った作りだ。
天の声【家紋に関しては、許可すら貰っていない】
下げられている太刀は、加賀から出る時には持っていた『雪華椿』、浅井長政殿から頂戴した『大和千手院』の二つの太刀を下げてある。
盗みを働く奴は、斬り捨てると言う意味を込めてだ。
衣類棚側だが、打掛や小袖、狩衣や直垂などを見本として掛けておいた。
そして妻や側女、下女の多大なる協力を得て、作り上げた『南蛮風女性下着』だ。これの扱いに関しては、妻と側女が担当してくれている。
上級武士の奥方衆の受けはかなり良さそうだ。これは奥の部屋での対応になった。
天の声【現代物の女性下着とでも思ってください】
『紅花』、『山梔子』、『鳳仙花』を使かい、配合割合を変えた口紅や爪紅なども女衆には人気の品となり、品薄が続いた。
この商店では、旧六角家の家臣の息子達が働いている。三雲茂持の子で三雲茂永、進藤貞治の子で進藤光治、平井定武の子で平井定秀が働いてくれている。
三人とも末っ子らしく、家を継ぐことは無いらしいので、此処で働き日々の生活の糧を得ている。末っ子とは言え、文字や計算は習っているようだったので、此方としては大変有り難かった。
天の声【この三人はオリジナルで、残りの3人とは別人です】
うちの商店、水路経由で淡海も使って、商いをしているため、羽柴に姓を変えた秀吉殿の居城のある長浜と、明智光秀殿の居城のある坂本とも、商売をしていたりする。
長浜からは北陸の物品を、坂本からは京や堺の物品を、ほぼ仕入れ価格と同じで価格で、店頭に出している。
港になる場所も、『安土』『坂本』『長浜』『大溝』だけではなく、『大浦』『守山』と増やし、物資の行き渡りをしやすくした。
料理人に転職した一部の旧浅井家臣逹は、尾張名古屋、美濃岐阜、安土等に別れ、それぞれ料亭を営んでいる。勿論食材や調味料の支援は、全力で行っているぞw
生活は以前よりも、安定しているとの文が来るぐらいだ。
あ、店名を言ってなかったね。安土の本店名は『淡津屋万処・別世界』だw何故って?簡単だ!ここでしか扱っていない商品があるからだよ。
他のお店は『調味料』『反物』『書物』の3種が基本だ。それ以外は店主の個性任せだ。
箱看板にも、その様に書いて店門の両側に置いてるしね。
店門も自宅側の門とは違い、『高麗門』と『棟門』を合わせたものだ。門には彫刻を施して貰い、『滝壺の鯉【1匹】が滝を登り【2匹】、登りきり跳ねる【3匹】』彫刻を、左右の門扉に対称に彫って貰った。その彫刻門の天井には龍が雲海を泳ぐ欄間を取り付けて貰ってある。
この門を潜ることで、『立志出世』が叶いますようにとの、願掛けも含めてある。
ついでだが改名もした、粟津から淡津に変えた程度なんだけどな。
上得意様用商品でね、『神酒』『神桃』『仙桃』『黄金のリンゴ(生果実)』『世界樹の雫』『竜鱗』……等、もちろん説明書付きだぞ!
ちなみにその上得意様資格を有している人は、まだ誰もいない。
その中には、『白米』もある。この時代だと『赤米』や『黒米』が主流だしね!その『白米』にはこう名前が付いている、『大地の息吹』って名前が!
中二病が入ってるんじゃないかって名前でだwこの店の売れ行き商品の上位の一つだ。
そうこうして、漸く落ち着いた時間が取れてきたので、『〇〇〇製作』なるスキルを使ってみることにした。
天の声【スキルは第1話参照】
試しに小刀や包丁、行灯や徳利に使ってみたら、小刀や包丁には『斬味上昇』と『錆防止』と言うのが付き、行灯には『持続時間上昇』に『光量増加』、徳利には『水質保全』が付いていた。
どうやら『〇〇〇製作』の〇〇〇は、ファンタジー用語で言うところの『魔道具』や『工芸品』と言う言葉が入るようだ。此れは武具に使うと、とんでもない事になりそうだ。
「一応、ファンタジーではポピュラーな魔道具『無限の水瓶』は一つぐらい作っておくか」
と、俺用の『手甲』と『脚絆』にも、同時期に弄って付けているのだった。
その弄っていた『手甲』には『腕力上昇』と『頑強』……、『脚絆』には『脚力上昇』と『疲労軽減』が……
のちに此等は、波乱を呼ぶ物の一つとなるのだった。
天正3【1575年】年4月
一介の商人として暮らしている、俺の元に信長様から「織田家の嫁御を貰っておるのだから、譜代家臣として此度の会議に出席せよ」との通達が来た。
え?俺はいつから譜代家臣になってたんだ?確かに奥さんは、信長様の妹になる『綾』だけど精々、外様家臣が良い処……だと思うんだけどな~。
そう思い、「だったら、領地に『山城国の山崎の地』から『川沿いに沿った伏見の地』までをくださいな」と言ったら、何故か二つ返事でくれた。そのうちの一つは、後の『伏見城』の築かれる『伏見山』だ。宇治川を使った水利で、商売の幅が広げられるからな。
ただ……
「えっ、すんなり貰えるって、どういうこと?」
そう言った区別を付ける意味でも『地子銭』『市場銭』『棟別銭』等を納めているのに……。
取り敢えず、呼ばれたからには出席しないと行けないので、百々橋口道から城に赴いた。
そうして安土城の大広間での会議の内容は三河への救援と南信濃・飯田城攻めだった。それが終われば、石山本願寺攻めを中心に西国攻めに掛かるようだ。
ん?もしかして……思っているよりも早く、この安土城は出来上がってるのか?
その会議の中で、俺に出された指示は、鉄砲・弾薬に軍兵糧集めだった。鉄砲は『POTO弾仕様のM1ガーランド改』だから、現在の保有数がたしか、あれから1000丁に増えているんだったか。追加1000丁有れば大丈夫かな。後はその分の弾丸確保だな。
弾造衆に増産の指示を、出しておかないとな。まだ矢の催促が無いだけましかな?
もしかすると現場【戦場】に、連れて行かれるかも知れないから、護身用に『十手』と『鉄刀』を鍛冶屋に絵図面を見せ、鋳造して貰うことにした。
刃は付いていなくても『鉄刀』って、殺傷力は高いからね。『長巻』版も用意させてみるかなw
東美濃は自重せず、思いっきりやっちゃってるからな~……俺がwこの時期辺りに、起きるはずだった東美濃岩村城攻略戦は、此の世界では消滅している。
それに、防備も強化してあるから、そう簡単には墜ちる事は無いし、木曽福島側に信濃飯田側には、櫓に連絡路、扇状に伐採した山肌のお陰で、見通しも良くしてあるからな。何かあっても対応は出来るだろう。
さてと、準備と発注しなきゃ。
さて次のお話の最終チェック等行って、
先の話も作っていかないと……
やっぱ、近所の本屋が閉店するのが、やっぱり痛いわ~
次から資料買うの、どこで買おう…… (´Д`)ハァ…




