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 結局、それからのカグヤは、四六時中、イヴの後ろをついて回った。彼は鬱陶しがることもなく、ただ不思議そうに、その様子を眺めていた。

「懐かしいな、これ」

 子ども部屋の本棚に、イヴが手を伸ばした。そこには絵本がずらりと並んでいる。

「イヴ様も、小さい頃に読んでもらいました?」

「むかし、ミレイユに読んでもらった。あれは、俺が赤子の頃から傍にいる。子守唄を歌ってくれたのも、絵本を読み聞かせてくれたのも、ミレイユだけだった」

「お母様の声、とっても綺麗ですよね」

 母の声は、誰が聴いても美しいと讃えるだろう。絵本の読み聞かせも、たまに歌ってくれる子守唄も、カグヤは大好きだった。

「何が一番好きなんだ?」

「シンデレラ」

 シンデレラだけ、カグヤが前世から知っている物語だった。

 どうして、前世――それも、明らかに異なる世界の物語が広まっているのか分からないが、記憶を取り戻してから、自然とシンデレラが好きになった。

「ああ。ガラスの靴?」

「拾って、王子様が迎えに来てくれるんですよ。わたしは魔女だから、シンデレラにはなれませんけれど。イヴ様は王子様ですねえ」

「残念だが、俺も王子様にはなれないな」

「どうして? とっても綺麗な、本当の王子様なのに」

「戦場しか知らない。自分が生きるために、まともに顔も知らない誰かを、まともに意味も分からず殺してきた。綺麗なんかじゃない。綺麗なのは、王城にいる他の王子だった」

 イヴがいつから戦場に立たされたのか知らないが、本当に幼い頃からだったのだろう。

 魔女が生んだ王子は、難しい立場にある。ろくに情報のないカグヤが、そう思ってしまうのだから、現実はもっと過酷だ。

 物心ついて、生も死も、まともに向き合えるようになったとき、すでにイヴの手は他人の血に濡れていた。その意味も知らず、たくさんの命を奪った後だった。

「他人を殺したくせに、自分は生きている。そんなこと許されるのか? 俺が殺した人々は、俺なんかよりずっと大事なものがあって、たくさん愛されていたはずだ。誰が、許してくれる? こんな空っぽの、何も持たない人間が生きることを」

 その問いかけは、許されたい、という望みの裏返しだった。

 生きることなんて、本当ならば誰の赦しも請う必要はない。だが、そんな風に追い詰められるほど、イヴの歩んできた道のりは険しいものだった。

 カグヤは自分の両手を見下ろした。

 傷ひとつない掌、血に濡れることのない手は、大事に守られてきた子どものものだ。

 朧げになっている前世でも、生まれて五年しか経っていない現世でも、カグヤは恵まれていた。虐げられることもなく、痛みも知らずに生きた。それを当然のこととして受け止めてきた。

 顔をあげると、宝石のような緑の瞳がある。その美しい緑は、何処か空虚で、何もかも諦められたかのような虚しさがあった。

 やっぱり、捨てられた仔犬のようだ、と思った。

 かつて、日本に生まれた少女だったとき。公園に捨てられた犬を拾おうとしたカグヤを咎めたのは兄だった。手を伸ばそうとしたカグヤを抱きあげて、兄は困ったように首を横に振った。

 あのときは拾ってあげられなかった。けれども、今ならば、と思う。

「許してあげますよ」

 この可哀そうな男の子に手を伸ばしても、許されるのではないか。

「わたしが、イヴ様が生きることを許してあげます」

「……俺が、どんなに汚れても?」

 そんな風に尋ねながらも、イヴは何も期待していなかった。五歳の少女、何も知らない子ども、と侮っている。

「どんなに汚れても、ぜんぶ許してあげます。だから、帰ってきて。死なないで」

 このまま戦場に行かせたら、きっとイヴは帰って来ない。自分の命すらも、簡単に投げ出してしまう気がした。

 カグヤは本棚の引き出しから、金糸で刺繍のされた箱を取り出す。掌に載るくらいの小さな箱は、五歳のカグヤが大事なものを仕舞ってきた宝箱だった。

 父が贈ってくれた栞、母が編んでくれたレース編みのリボン、両親と出かけたときに買ってもらった可愛いボタン、ひとつひとつを取り出す。

 そうして、空になった宝箱を、イヴに押しつける。

「わたしの宝箱、イヴ様にあげます。大事なものは、ぜんぶここに仕舞っちゃってくださいね」

「仕舞う?」

「そう。この箱がいっぱいになるまでは、死んじゃダメですよ」

「こんな小さい箱、すぐいっぱいになる」

「ううん、箱の大きさの話じゃないんです。これはイヴ様の心だと思ってください。あなたが本当に大事に思うもの、失くしたら生きていけないものだけしか、仕舞ってはいけません」

 イヴは困ったように眉を下げる。

「……お前、本当に五歳か? 何十年も生きていそうだ」

「五歳ですよ! もう」

「冗談だ。本物の魔女は、人間と違って、最初から道理を()っている生き物だからな。天カグヤなら、この箱に何を仕舞うんだ?」

「家族、でしょうか?」

 不思議なことに、カグヤはこの星に生まれてからの記憶を、鮮明に思い出すことができる。赤子の頃の記憶でさえ、魔女の身体には残っていた。

 生まれるとき、取り上げてくれたのは父だった。

 自分にも、そして母親にも似ていない娘を見て、彼は嬉しそうに笑った。僕の娘、と言ってくれた。

 魔女の容姿は、あらかじめ型が決まっている。親子であろうとも、同じ型になることはないので、見た目からは血縁が分からないのだ。

 だが、それは魔女側の常識であって、人間であるダリウスには通じない理屈だ。

 それなのに、彼は何の疑いもなく娘と言って、大事にしてくれた。

 母も同じだ。仕事で家を空けることが多いが、帰ってきたときには鬱陶しいくらいに甘やかしてくれる。

 カグヤはずっと愛されてきた。家族に大事にされてきた。

 だから、カグヤの宝箱には、きっと家族が仕舞われている。

「家族、か。……なあ、もし、この箱にひとつも仕舞うことができなかったら、どうすれば良い? 自分の命だって、どうでも良いのに。失くしたら生きていけないほど大事なものなんて、見つかるとは思えない」

 空っぽの王子様は、皮肉げに笑う。まるで自らを嘲るように。この男の子の掌には何もないのだ、とカグヤは思い知る。

 イヴの袖を引く。彼は目線を合わせるよう、膝を折ってくれた。

「あのね、この先もずっと空っぽなら、わたしがそれになってあげます。約束しましょう? 大人になったら、お嫁さんにしてください。シンデレラみたいに迎えに来て、王子様。あなたの箱が空っぽでも、わたしが入ったら、空っぽじゃなくなるでしょう?」

「俺の隣にいると、きっと不幸になる」

「そこは、幸せにする、くらい言ってください。わたしが大人になるまで、生きてくださいね」

「何があっても、生きろ、と言うんだな」

「だって、死ぬことより不幸なことはないんですよ」

 少なくとも、十五歳で亡くなった前世の自分は、そう信じていた。死因をはっきりと思い出せなくとも、幸福な少女だったことは憶えているから、進んで命を投げ出したとは思えない。

 前世のカグヤは、もっと生きたいと願いながら死んだ。

「皆が、俺の死を願っていても?」

「皆って、誰ですか? わたしはイヴ様に生きていてほしいのに」

 イヴはうつむく。カグヤは手を伸ばすして、形の良い頭を撫でてあげる。

「あのね、生きていたら、綺麗なものとか、美しいものとか、きっと見つかると思うんです。生きているだけで、幸せだなって思えるときが来るんです」

 イヴの腕を引っ張って、カグヤは窓辺に向かう。

 開かれた窓から、甘い花の香りが流れてくる。子ども部屋は、薬草園のなかでも特に花の多い場所と面している。カグヤのために、父がそうしてくれた。

「わたしは、お父様の薬草園を見ていると、ああ幸せだなって思うんです。だって、とっても綺麗しょう?」

 イヴは何を思ったのか、カグヤを抱きあげる。窓辺に足をかけると、そのまま薬草園へと飛び降りた。

「綺麗だな、たしかに」

「でしょう? なんだか、それだけで幸せだなあって思いませんか? 生きていて良かったって」

 花々を眺めながら、イヴは薬草園を歩く。

「今日みたいな日はね、寝っ転がると気持ち良いんですよ。とっても良いお天気なので」

 カグヤに言われるがまま、イヴは仰向けに芝生に倒れた。近くに座りこんで、彼の顔を覗き込めば、イヴは小さく笑っていた。

 まぶしい太陽に目を細めて、ほんのわずかに唇の端をあげる。たったそれだけの表情に、カグヤは息を呑む。

 人形のような男の子に、はじめて命の息吹が吹き込まれた気がした。

 あまりにも綺麗だったので、動揺したカグヤの全身から、色とりどりの花が咲いた。

 波打つ黒髪からは赤い雛罌粟(ひなげし)が、まなじりから白いカスミ草の花が、指先からは澄んだ青の勿忘草が。

 瞬く間に咲き乱れた花々が、カグヤを飾りつけた。

「カグヤ」

 寝転んだままのイヴが、甘えるようにカグヤの膝に頭を預けた。

 その仕草は、小さな子どもが母親を探しているようで。

 あるいは、捨てられた仔犬が健気に鳴いているようで。

「良い子ですねえ、イヴ様は」

 気づけば、カグヤは彼の頭を撫でていた。そのまま、小さな掌で、ぺたぺたと顔のあちこちを触っていくと、イヴがそっと頬を寄せてきた。

「死んでしまいたい」

 言葉とは裏腹に、その声は明るかった。いまこの瞬間が幸せで、幸せだからこそ、このまま死んでしまい。そんな気持ちが籠められているかのようだった。

「もう。死んだらダメですって」

「なら、ぜんぶ許すなんて言わないでくれ。死んでしまいたいくらい、お前のこと好きになってしまうから。……なあ、カグヤ。俺のことを好きになって」

 イヴは祈るように目を伏せて、カグヤの膝に額を押しつける。

 十歳も年下の女の子に甘えるのは、カグヤが何も知らない五つの少女だからだ。イヴの抱える事情を知らない、いずれ、こんな風に過ごしたことを忘れる。そうやって、彼はカグヤのことを幼い娘として侮っている。

 ほんのいっとき、すがる相手としてちょうど良かったのだろう。

「はいはい、好きですよ。だから、大人になったら、お嫁さんにしてくださいね。約束です。指きり」

「指きり?」

 イヴの小指に、自分のそれを絡める。

「指きりげんまん、嘘ついたら針千本飲ます。指きった!」

「針千本も飲んだら、さすがの俺も死ぬ。カグヤは変なこと知っているな。魔女の風習なのか?」

「そんな感じです。約束は絶対ですよ。破ったら呪います」

「針千本はどこに行った?」

「御返事は?」

 イヴは、カグヤの手に口づけた。

「いつか、俺の花嫁になってほしい」

 イヴにとっては、戯れのような約束だったのかもしれない。明日とも知れぬ王子は、いつか、こんな小さな女の子がいたことを忘れてしまう。

 そうあるべきだと思っていた。

 

 二人の約束が叶えられたのは、それから十年が経った日のことだ。


 十五歳になったカグヤの前に、美しい王子様は現れた。

「約束どおり迎えに来た」

 最愛の母――ミレイユの葬儀が執り行われた夜。

 棺の前で跪いたイヴは、泣きじゃくるカグヤに指輪を差し出した。





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