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短編・習作集

シクラメンの想い出

作者: 綿花音和

 私は先生のことが好きだった。中学校の入学式で、その姿をみたときから。一目惚れだった。

 

 酒井(さかい)先生は吹奏楽部の顧問で、大きな声で吹奏楽部の生徒に指示を出していた。ときに冗談を言ってふざけていたが、とてもわかりやすい指揮棒の振り方であった。声は低くかすれており、姿も中年太りしたとりたて格好がいいとは言えない四十代過ぎの眼鏡をかけた男性だった。

 たぶん私以外の、大多数の生徒にとっては感情の起伏の激しい、生活態度にうるさい教務主任でしかなかったかもしれない。

 元々音楽が好きな私は迷うことなく吹奏楽部に入部した。

 

 東京の音楽大学のホルン学科を首席で卒業した先生の指導はとても厳しく、振り返って考えれば暴言に近いことも言っていた。音楽に対して真面目で一生懸命な先輩に対しても、

「お前くらい吹ける奴はよその学校に行けばいくらでもいるんだぞ」

 と心を抉るようなことを平然と言い渡すこともあり、階段の踊り場で泣いている先輩を見たこともあった。

 また演奏が気に入らないときには指揮棒が飛んでくることもあり、私たち生徒は張りつめた緊張感の中で合奏の練習をしていた。酒井先生に対する好き嫌いは生徒の中ではっきり分かれていた。好きといっても、彼の音楽性や指導力を認めているという生徒がいただけだが。 

 しかし私は先生の姿をみるだけで胸が高鳴り、声が遠くから聞こえると心が浮き立つのである。どうして、こんなに彼に惹かれるのか、自分でもわからず戸惑っていた。

 

 酒井先生に少しでも関わりたくて楽譜係という名の雑用係に親友を巻き込んでなったこともある。当時の自分の気持ちが重過ぎて、ただの一生徒でしかない我が身が儚くて泣けてくることもあった。それでも、私は彼の姿を沢山見ることが出来た日は浮かれてしまう程、学校生活の中心は酒井先生だったのだ。

 

 一年生のときは先生と関わりを持つ機会は少なく、部活前に楽器庫の鍵を借りに行った時だけ、

「佐々木、少しはユーフォうまなったか?」

 とたずねる先生に、 

「難しいですが、楽しいです」

 と簡単な言葉のやりとりをすることが出来た。それは、貴重な時間だった。

 先生と生徒では最初からむくわれることのない恋だが、私の心には炎が灯っていた。片思いを諦める気はさらさらなかった。

 酒井先生との関わりは二年生に進級すると自然と増えていった。それでも関わりが増えると人間欲が出て、もっと彼を知りたい、私のことを覚えてほしいと思いが募っていく。勉強が出来れば印象に残るかもしれないと考えて、音楽は勿論どの教科も恋心から熱心に学んだ。今思えば、熟慮した結果が勉強に励むこととは我ながら真っ直ぐだったと思う。

 

 その年の秋、市主催の弁論大会に私たち吹奏楽部の客演が決まった。弁論大会は市内の中学校から二名ずつ代表者が選ばれて競い合うものだった。私は弁論大会に出場したいと強く思っていた。そうすれば、酒井先生が自分のことをいい意味で記憶に残してくれる気がしたからだ。夏休みの宿題に弁論大会用の作文の宿題が出ていたので、これまでにない程私は努力して原稿に向かった。結果、奇跡的に弁論大会に学校代表で出場することが決まった。

 このとき初めて酒井先生が、

「佐々木よく頑張ったな。演奏と弁論の練習大変だろうが、頑張れよ」

 と私を見て褒めてくれた。

「はい、精一杯頑張ります」

 と声が震えそうになるのを必死で抑えて答えた。泣くほど嬉しかったのを忘れることが出来ない。

 弁論大会当日先生が、

「お客さんはジャガイモかカボチャとでも思っとけ。そして今日まで努力した自分を信じなさい」

 と出演前の舞台裏で励ましてくれた。心が温かくなり、全力で挑もうと思った。

 吹奏楽部の演奏の準備だろうか、私が弁論を発表するときには、舞台を見つめてそっと彼がホール入口から立ち去った。それでも私は自信を持って自分の伝えたいことを弁論することが出来た。酒井先生からもらった宝物のような励ましの言葉が何より嬉しく、それが一番の勲章だった。


 コンクールが終わり三年生が引退すると同じ楽譜係の親友が部長になり、私は副部長になった。部長の綾子あやこちゃんは色白の美少女で控えめな賢い子だった。私の気持ちを知っている唯一の親友だった。最初に酒井先生への気持ちを打ち明けた時は、

美穂みほちゃん、冗談やろう」

 と驚きを隠せない様子だった。それでも私が本気だとわかってからは色々協力してくれた。面倒な楽譜係に一緒になってくれたり、夏休みには先生が世話しているプチトマトの水やりにも付き合ってくれた。


 酒井先生と接する機会が増えて、私は彼の気性の激しさは計算されたものであることにようやく気付いた。先生は自分が嫌われることなんて何とも思っていない。誤解されてもいい腹づもりで熱い情熱を持って生徒を指導してきたんだと。

 それに気付くことが出来たのは自分が後輩を持って、叱ることの難しさを改めて知ったせいである。厳しく接するといい顔はまずされない。嫌な先輩だと陰口を言われることもあった。それでも、舞台では一人で緊張せず演奏できるように、自分も後輩も鍛える必要がある。相手のことを考えて厳しくするのは優しく慣れ合うよりずっと大変だ。心だってとても痛い。


 冬休み、クリスマスフェスティバルが大きなホールである予定だった。そのため吹奏楽部は練習スケジュールが組まれていた。

 私は音楽が好きだったし練習にも励んだが、演奏の実力は部長の綾子ちゃんにどうしても勝てなかった。二人ともユーフォニアムという同じ管楽器を演奏していた。

 自分と綾子ちゃん、負けてしまったのは演奏だけでなく先生との信頼関係も。意地悪な運命だ。私は複雑な気持ちだった。この恋が成就することはないとわかってはいたが、先生の一番の生徒になりたかったのだ。

 

 寒い廊下で、綾子ちゃんとロングトーンを合わせ、スケールの練習をする。いつもの風景だった。ふと、先生がパート練習を抜き打ちでチェックしに来た。私は、いつからだろうか? 足音だけで先生の気配がわかるようになっていた。我ながら嫌になる。先生はまず、綾子ちゃんに声を掛けた。そして私は、強がって明るく先生に挨拶した。

 

 先生がパート練習をみてくれる機会はめったになかった。早速、二人でコンサート演奏する『そりすべり』を合わせた。私たちのアンサンブルに、先生が陽気なそりすべりの主旋律を口笛で唄う。沈んだ気持ちも、つかの間忘れることが出来た。

「いいハーモニーだな。ユニゾンもよく合っている。かなり練習しただろう」

 と褒められた。その時、私は意外なものを見た。綾子ちゃんの涙である。急に泣き出したのだ。

 

 もしかしたら、私と彼女は同じ気持ちだったのではないか? 自分の気持ちを抑えて私に付き合ってくれていたんだとようやく思い至った。先生が慌てて彼女に白いハンカチを渡した。私も泣きたかったが、指導の礼を伝えお手洗いに行きたいと断ってその場を静かに離れた。


 渡り廊下は寒く、吐く息も白く手はかじかみやっと女子トイレにに辿り着いた。そして声を殺して私も泣いたのだった。

 

 その日の帰り、綾子ちゃんと一緒に花屋に寄った。酒井先生の誕生日が迫っていたからだ。彼は植物が好きで園芸クラブの担当もしていた。

「いつから、先生のこと好きだったの?」

 私が尋ねると、

「最初は、美穂ちゃんに付き合っていただけだったんだよ。だけど先生の内面から溢れる情熱に心を打たれて惹かれてしまって。いつからか先生のことを男性としてして見ていたの」

 そう率直に答えてくれた。

「私が付き合わせたのがいけなかったね。お互い辛い恋になっちゃったかな?」

「そんなことないよ。美穂のおかげで先生のこと好きになれたんだよ。後悔なんてない」

 私は改めて親友に感謝した。

「さてさて、シクラメンの花は何色にしようかね」

 私が相談すると、

「赤がいい! 花言葉は『嫉妬』だって。私たちからならぴったりだよ」

 綾子ちゃんが答え、陽気に私たちはバースデープレゼントを決めた。

 

 酒井先生には家庭がある。私たちの恋は実らない。それでも、先生に叱られて褒められて心配されて、指揮棒を投げられても青春だった。

 早朝、二人で職員室に向かっていたら雪が降ってきた。深紅のシクラメンに雪がかかる。私たちの苦しい気持ちもいつか真白の雪と一緒に溶ける日が来るのだろうか?そう思った。先生は、とても喜んでくれた。彼の笑顔を見つめながらきっと先生の魂に強く惹かれたんだとそう感じるのだった。

 花言葉は私たちだけの秘密にして卒業を迎えた。それでも今もはっきりと思い出せる、あの日の景色と雪の結晶のように美しい恋心を。









こんにちは!初めまして綿花音和です。佐倉治加様「真冬に染みるくれなゐ」企画参加作品です。途中からしか冬にならなくてすいません。最後まで読んで下さりありがとうございました。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 淡々とした語り口で、主人公とその友達の部活の様子が映画の1シーンのようにゆったりと流れていくのが心地よいです。 時に厳しい先生のその一面が「故意」であり、指導することの難しさに気付く主人公…
2019/05/23 22:15 退会済み
管理
[良い点] 企画つながりでお邪魔します。 ……実は、拝読したのはもう少し前なのですが。少し遅めの感想を失礼します。 うん、紅いシクラメンに雪が映える、そんな終幕だったはずなのに。むしろ「青春」という…
[良い点] 先生のことが好きだな、ってちゃんと気づいている、そして、節度もある主人公。その友人。いい人達に囲まれたからこそ、想い出が美しい。 [気になる点] タイトル。 ダメじゃないけど、最適解でもな…
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