夏の香り
あの夏の日の淡い想い出。
「暑おすなぁ。」
連日の酷暑を嘆くご近所の時候の挨拶に、なかばうんざりしながら相づちを打ち、佐知は家路を急いでいた。
ちょうど祇園祭の折柄、夕暮れ時とは言え、日はまだ高く、一足歩を進めるごとに、額に汗がじわりと浮き上がる。
と、低く唸る機械音と共に、むっとするような青い草いきれが、佐知の鼻をついた。
青臭いその香りを吸い込んで、遠い過去の波が奔流となって佐知をさらう。
工場跡地にうっそうと茂った夏草から陽炎がゆらゆらと立ちのぼり、辺りは夏草の匂いでいっぱいだった。
あの頃、私はまだ小学生だった。
「ここに秘密基地を作るねん。」
胸を張って告げた私に
「ほな、手伝うわ。」
と、優しく微笑んだ従兄弟のかっちゃん。
色白で、茶色がかった瞳が優しげで、物静かな中学生のお兄ちゃん。
「え、手伝ってくれるん?」
いつも静かに本を読むかっちゃんの姿しか見たことがなかった私は、驚いて問うた。
かっちゃんは私の問いには答えず、おもむろに生い茂る丈の高い夏草をざくざくと抜き出した。
みるみるうちに、そこは開けて、引き抜いた夏草の山が積み上がっていく。
「かっちゃん…すごい。」
自分から秘密基地を作るのだと勢いよく宣言したにもかかわらず、私は、かっちゃんの普段とは異なる豪快で力強い動きに、呆気にとられて、ただ、ぼうとその場に立ち尽くしていた。
「ほら、さっちゃん。どうや?」
気付いたら、二メートル四方ぐらいの更地が目の前にぽっかり開けていた。
「わぁ…。」
私は固唾を呑んで、その白く輝く空間を見守っていた。
真夏の日射しが眩しく反射する中、たった今、むしり取ったばかりの夏草の青い香りが馥郁と辺りに立ち込めていた。
「ありがとう、かっちゃん。」
感激で声を震わせる私を見て、かっちゃんは、ふっと茶色がかった瞳をすぼめて、儚げに笑った。
又、一層強く青い香りが匂って、佐知は現在に引き戻される。
家路に向かう途中にある駐車場で、草刈りをしているのだと今更ながらに気付く。
あれから三十数年。
今、かっちゃんは、もう居ない。
目頭が熱くなって、ぎゅっと固く目をつぶって開けると、一匹の蜻蛉が、ついと私の目の前を過る。
まだ羽化したばかりなのか、淡い色の蜻蛉は、ふわふわと頼りなげに、私の前を行きつ戻りつしながら、飛んでゆく。
その儚げな姿に、おぼろにかっちゃんの面影が重なる。
「かっちゃん。」
思わず口をついて出た声に、薄い羽根を震わせて、淡い蜻蛉は真夏の夕空に透けるように消えた。
いつの間にか、静寂に包まれた辺りには、ただ夏草の青い香りだけが残り香のように漂っていた。
ふと香る夏草の青い匂いに、昔を思い出して、一息に書き上げた作品です。
あの時のあの人に。
ご一読いただきありがとうございました。
作者 石田 幸




