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森の中、頭上でたわわに実るチェリーの実にわたしは手を伸ばす。
「ん~、あとちょっとなんだけどなぁ」
木漏れ日に透けてルビー色に光を放つ木の実は見ているだけでもおいしそうだ。
パイにしたりジャムにしたり、もちろんオリバー用の砂糖菓子にしたりと用途は様々。
だからできるだけ沢山摘んでいきたいんだけど、手の届くところはもう取り尽くしてしまった。
あとちょっとわたしの背が高ければ……
そんな思いを抱えながら精一杯手を伸ばす。
そういえば、コンラッド様も王子様も背が高かったな。
こんな枝ぐらい楽々手が届くほど……
「ほらよ」
何処からともなく降ってきた声と共にチェリーの梢がぐっとわたしの頭上に落ちてくる。
「え? 」
不思議なこともあるものだと振り返りわたしは息を呑んだ。
「うわっつ!」
同時にうっかり大げさな声をあげる。
「失礼な奴だな。
なんだよ? その化け物にでもあったかのような反応は? 」
「えっと、そのっ…… 」
まさか頭に思い浮かんだ顔がタイムリーにも現実に現れるなんて思ってなかったから驚いた、とは言えずかといって適当な言い訳も思い浮かばずにわたしは曖昧に答える。
「コンラッド様、どうしてここに? 」
頭上にあったチェリーの枝を引き寄せてわたしの手の届く位置で押さえてくれる馬上の男に問い掛ける。
「おまえの家にいったら、多分ここだって言うから。
この間は悪かったな、変なことに巻き込んで」
何故だろう? そういうコンラッド様の顔が少し照れているように見える。
「ううん、大事になる前に助けてもらったし。
ありがとうございました。
それで、
何か御用ですか? ひょっとしてお急ぎ? 」
一応魔女なんて商売していると、顔見知りもそうでない人も突然訪れる。
こうして出先に迎えに来られることも日常茶飯事だ。
だからたいして驚きはない。
ただ、強いて言えばもう少しこのチェリーを摘んでしまいたい。
森に自生している食べごろに紅く色づいた木の実なんて、うっかりするとあっという間に小鳥の餌だ。
「いや、急ぎってことはない」
「じゃ、ちょっと待ってね。
この枝だけ摘んでしまうから」
せっかく下げてもらった枝だ。
このまま元に戻すのは勿体無くてわたしはできるだけ急いでチェリーを摘み取った。
「ごめんなさい、お待たせしてしまって」
程なく食べごろの実がなくなったのを確認してわたしは枝から手を放す。
「家帰るんだろ?
こいよ。乗せてってやる」
馬の上からコンラッド様が手を伸ばしてくれた。
「それにしても、何処まで欲張ればいいんだよ」
わたしが抱えた摘んだチェリーが山盛りになった籠を目にコンラッド様は呆れたように息を吐く。
「だって、困らないもの。
チェリーは保存食にもなるし、種は薬の材料になるの。
もちろんこのまま食べてもおいしいのよ」
籠の中のチェリーをつまみ出すとわたしはすぐ後ろにある男の口に一つ放り込んだ。
「ね? 見た目や大きさは負けるけど、栽培種より味が濃いの」
と、同時に手に馬上で支えてくれていたはずのコンラッド様の腕の力が急に緩み、わたしは体制を崩して持っていた籠が傾く。
中身をこぼしたくなくて慌てて抱え直したら、今度は上体がすべる。
しまった、ここは馬の上だってことすっかり忘れてた。
しがみつける場所もなく落ちるのを覚悟してぎゅっと目を閉じる。
だけど、予想に反してわたしの身体はそこにとどまっていた。
背後から廻された手がわたしの身体がそれ以上滑り落ちるのを引き止めてくれている。
「気をつけろよ。子供じゃないんだから」
言われた声が妙に近い。
声だけじゃなくて息遣いまで。
でもそれが嫌じゃなくて、できたら少しでも長くこうしていたいような気がする。
「……うん」
そう意識すると一気に顔に血が上った。
「それで、その急ぎじゃないお話って、何? 」
家の軒先までつけてもらった馬を下りながらわたしは訊く。
本当はもう少しあのまま、一緒の馬に乗せてもらっていたかった。
なんて身の程知らずなことを思いながら。
ただでさえ王子の側を離れられないこの男が単身ここにこうして出向くには何かよほどの用件なんだろう。
「用があるのはおまえだろう? 」
わたしの問い掛けにコンラッド様が聞き返してくる。
「えっと…… 」
思い返してみるけど別にこれといった火急の用事はなくて。
強いて言えば、なんとなくこの少し不機嫌な整った顔が崩れるところをまたみたいななんて思ってはいたけど。
「この間、何か言い掛けていただろーが」
言われて記憶を手繰ってみる。
そういえば、王子様に迫られたりなんかしてすっかり気が動転した上に、ここのところ忙しかったからすっかり忘れていた。
「そう! あのね……
ちょっと待って! 」
言い置いて慌てて家の中に飛び込んだ。
チェリーの入った籠を玄関脇に放置して自室へ向かう。
そしていつもの場所にある水晶球とその隣からあのピースと本を抱えて階段を駆け下りる。
「これ、なんだけど…… 」
乱れた息を整えながら今の所手中にしていた六枚のピースをわたしは男に差し出した。
「あれから家の中で五枚見つけたの!
でも一組も繋がらないのよね。
だから続きが王城のどこかにあるんじゃないかって思ったんだけど」
「ああ、この間の」
男はわたしの手の中からその中の一枚を摘み上げる。
「……やっぱりどこかで見たことがあるような気がするんだよ」
薄っぺらの木片を顔の前にかざして返す返す見つめる。
「それなら、多分知っているよ」
目の前にいる男と全く同じ声が、少し離れたところから聞えた。
「殿下! どうしてここに? 」
振り返ったコンラッド様が戸惑った声をあげる。
手綱を手に馬を引いて同じ顔の男が立っている。
「その言葉はそっくり返すよ。
そもそも私達基本はいつも同一行動だろう?
単独行動なんてありえないはずだよ」
何故だろう? その声は少し怒りが篭っている。
「殿下、来客中でしたよね?
一緒にいられるわけないでしょう」
それに対してコンラッド様が睨みつけた。
多分、この場合の「王子様と同室できない来客」とは女性のお客さんのことだろう。
「ふぅん、面白いもの持っているんだね」
王子様はコンラッド様の問いには答えずにわたしの手の中をのぞきこんだ。
「枚数も丁度六枚か」
その中の一枚を摘み上げ確認してから言う。
「殿下、これが何か知っているのか? 」
コンラッド様の目が僅かに見開かれた。
「君だってわかっていると思うよ?
ひょっとして忘れてしまった? 」
「いや、どこかで見たような記憶はあるんだけどな? 」
コンラッド様はさっきからひたすら首を捻っている。
「おいで、これが何か知りたいんだろう?
教えてあげる」
摘み上げた一枚のピースを握りこんで王子様は空いた手をわたしに差し出した。
素直に甘えていいんだろうか?
一抹の不安がわたしの脳意を横切る。
だからもちろん差し出された手を素直に取れない。
「教えてくれるって、言っているんだから、行くぞ」
躊躇っているわたしの手をコンラッド様が取り上げる。
大きな手が腰に廻ったと思ったら、さっきまで乗ってきた馬に軽々と抱えあげられた。
城の中に足を踏み入れると自然と期待が高まった。
逸る心を押さえて足早にロングギャラリーを進む。
先日の嫌な記憶があるせいか、この場所はあまりいい気持ちがしない。
そんな思いを抱えながら先を歩いて案内してくれる王子様の後を付いていくと、やがて一枚のドアの前で足を止めた。
先日とは違う部屋だ。
「ここだよ」
振り返って、わたしとコンラッド様の顔を見るとそのドアを開ける。
開いたドアの先には異空間が広がっていた。
壁や床から始まって、照明器具まで全てが同じ異国の意匠で統一されている。
同じ様式の家具調度が過剰なまでに並べられて、エキゾチックな雰囲気が漂っていた。
足を踏み入れると、まるでその国に迷い込んだみたいだ。
「昔先代国王のおじい様が異国趣味にはまってね、その時に収集したものを収納するために造らせた部屋なんだ」
中央に立って暫く周囲を見渡した後、王子様は窓際の壁に歩み寄り、その前に置かれた大きな極彩色の壷に手を掛ける。
ずっと無言で、でも見張るようについてきたコンラッド様が慌ててそれに手を貸す。
見た目だけでもかなり重量があるとわかる壷を移動して場を空けた王子様は、その壁の前に腰を下ろした。
「ここ…… わかる? 」
調度や床と同じ意匠の寄木細工になっている壁の一部を指で示す。
多種多様の色の違う木片で異国の風景画が描きだされたその壁の細工は見事としか言い様がなかったけど、古いものなのか一部はがれ落ちている場所がある。
「それから、あと、
ここと…… ここ」
王子様が指し示したのはその欠けた個所。
しかも何故か全部で六つ。
「どこかで見たと思ったら、これのことだったのか……
おまえ、よく覚えていたな? 」
コンラッド様が息を漏らす。
「ほら、これ鳥の形している。
こっちは木の葉に見えるだろう、それから聖杯?
そんな風に見えたからなんとなく覚えていたんだよ」
いいながら王子様は持ってきたピースの一枚をその欠けた個所に押し込んだ。
ピースはぴったりとそのくぼみにはまり込む。
「もしかして! 」
慌ててその隣に座り込むと持っていたピースを一つずつはめ込んだ。
「えっと…… 」
「ほら」
コンラッド様の差し出した最後の一枚をはめ込むと、かつんとした何かが外れるようなかすかな音が壁の奥から響く。
次いで歯車が動くような一定の音が暫く続いたと思ったらがくんと大きな衝撃音がした。
「何? 」
予期せぬ音にわたしは身を竦ませる。
「多分、これ」
気が付くと先ほどまで真平らだった壁面が四角く囲った模様に沿って凹んでいる。
手を掛けるとそれはきしんだ音をたてて開いた。
「まさか、こんな仕掛けになっていたとはね」
小さな扉の奥に現れた空間を覗き込みながら王子様が呟いた。
おもむろに手を差し入れると、中から一束の書類を引っ張り出す。
「これ。楽譜かな? 」
でてきた書類をわたしに渡しながら王子様が呟いた。
「……みたい」
わたしは呆然とした。
これが『婚活レシピ』?
つまるところそういう題名の曲ってこと?
それじゃ、わたしの苦労は一体……
何のために出入り禁止のお城に入れるようにしてもらったり、男に襲われるなんて怖い思いしなくちゃいけなかったんだろう?
落胆しすぎて身体の力が抜けて行く。
「『グランデルマイヤー・ワルツ』?
何だって、こんな何でもない曲、わざわざ隠しておいたんだよ? 」
だけどわたしの思いとは別にコンラッド様が同じ譜面を覗き込んで不思議そうに呟いた。
曲名はわたしでも知っている、この国でワルツと言えばこの曲を指す、貴族の舞踏会から下級階層のお祭りでも必ず躍られるごく一般的な曲だ。
「ちょっと、見せて」
わたしはもう一度楽譜を手に取る。
「どうかしたか? 」
「うん、もしかしたらこの譜面に何か暗号みたいなものが仕組まれているかも知れないでしょ。
ごく普通の楽譜をこんな場所にわざわざおばあちゃんが隠すわけないと思うの」
わたしは束になっている紙面を寄木細工の床の上に並べ始めた。
「どうだ? 」
コンラッド様に声を掛けられて顔をあげたのは、それから暫くたってからだと思う。
集中しすぎてどのくらい時間が過ぎたのかは把握できていない。
「ない…… と、思う。
っていうかないんじゃないかな? 」
唸るようにわたしは言う。
「なんだよ?
その曖昧な返事は? 」
「隠し文字とか暗号とかそういう物はないみたいなのよね。
水晶球通しても見えないし。
ただ…… 」
そこまできてわたしは黙る。
「ただ、なんだよ? 」
「もしかして、この譜面自体に何か隠されていることもあるんじゃないかって思うんだけど。
音符の位置がアルファベットに置き換えられるとか。
だけどね…… わたしね、譜面は読めないのよぉ…… 」
最後の方は自分でも自覚できるくらいうめき声だった。