取り巻きC、誘拐される 下
取り巻きC・エリアル視点
前話続きにつき未読の方はご注意下さい
上中下の下ですのでお気を付け下さいませ
「エリアル」
お昼休みになるが早いか、空恐ろしい笑みを浮かべたブルーノ・メーベルト先輩が教室に現れた。
「こんにちは、るーちゃん」
「こんにちは。さて、弁明はあとで聞くとして、まずは治療をするからね」
うん。やばいわ姐さんのお怒りはツェリより恐いわ。
左右も許されず包帯を剥かれ、あらわになった怪我をまじまじと検分される。
周囲から、小さな悲鳴が上がった。
……痣は目立つだろうし、切った唇は腫れ上がっているだろう。見た目は悲惨なのだ。見た目だけは。
静かにわたしの怪我を診たるーちゃんは、ふぅん、と呟いて頷いた。
「確かに、大した怪我ではないねぇ」
「見た目は派手ですけれどね」
「口開けてぇ。あー」
「あー」
「ん。口の中も切ってないねぇ。巧く蹴られたんだ」
うんうんと頷いたるーちゃんがそっと頬を撫でる。かすかに感じていた痛みが、綺麗に消え去った。
「ありがとうございます」
「もぉ。女の子なんだから、顔に怪我しないのっ」
ぷくっと頬を膨らませたるーちゃんにデコピンされる。
怒りが収まったようで、ひっそり安堵した。
「申し訳ありません」
「女の子の顔を蹴飛ばすなんて、酷い男もいたものだよねぇ」
「訓練でたまに蹴られたり殴られたりしていますけれどね」
「訓練は訓練だし、お互いさまでしょう。拘束した相手に対する一方的な暴力とは、訳が違うよ」
「まあ、そうですね。……双黒を捕まえておいてエリアル・サヴァンだと気付かなかったなんて言い訳も、苦しいものがありますし」
誘拐犯は、フードを取らせなかった。それが、明らかな敗因だ。
この国に、黒髪なんてひとりしかいないのだから。
そうすれば少なくとも、国家叛逆に問われることはなかっただろう。
「そうだねぇ。……指示した者はわかっているの?」
「裏取りは今王宮でしているところでしょうから、断言は出来ませんね。実行犯が名前を出した組織はありましたが」
「貴族?」
「商会ですね。生活に直接関わる相手な分、なまじ貴族の名前を出されるより、平民には恐ろしいかもしれません。運営している貴族の存在もほのめかしておりましたし」
るーちゃんの顔が曇る。メーベルト家は男爵家だ。貴族であるとは言え、平民の立場の弱さも理解出来やすいのだろう。
「どこ?」
「確証はないので、迂闊なことは、」
「そうだね。で、どこ?」
「いえあの、実行犯が口にしたと言うだけで、本当に関わっていたかはまだ、」
「どこ?」
やばいこのひと退かない。
「……実行犯は、ローヴァイン商会と」
「ああ、あそこねぇ。うん。情報ありがとう」
「え?る、るーちゃん?」
「んー?なんでもないよぉ。ただ、まぁ、悪い噂も耳に入る商会ではあるなぁってねぇ」
へぇ。
聞捨てならない情報に、目を細める。
「そうなのですか?」
「僕も聞いただけだけど、代替わりしてからは駄目って話だよぉ。前の会頭は貴賤問わない商売で平民からの人気があったけど、息子が継いでからは経営が悪化して、平民からの評判も悪くなったってぇ」
「経営悪化と顧客離れ、ですか」
ゾフィーの仕立て屋は、土着店の色が強い。もちろん、商会を利用して遠くの生地を仕入れることもあるが、多くは近隣で織られたり紡がれたりした生地や糸を、直接買付で仕入れて使っている。
販売に関しても、すべて自店の店頭販売だ。
商品中継点として利益を得ている人間から見れば、望ましくない存在だろう。
その上で最近の派手な儲け。目を付けられてもなんら不思議はない。
「噂を聞く限り、自業自得だけどねぇ。だから元々関わりは控えていたけど、犯罪に手を出すようなら、完全に取引はやめた方が良いねぇ」
「ですが、まだ確証は」
「ローヴァインの名前が出たときに、意外と感じなかった。その時点で貴族として良い家とは言えないよ。ローヴァイン商会を利用しないと決定的な不利益があるならともかく、そうでないなら不確証な情報だろうと切るには十分。それが貴族だし、そのことは彼らも承知しているはずだよ。貴族も商人も、信用商売なんだからねぇ」
るーちゃんの言っていることは、正論だ。
現に、わたしもいろいろ情報戦はやっているし、それで潰……げふん、大人しくなって貰った輩もいないわけではない。
「そうは言いましても、ローヴァイン商会ですら、真実の黒幕とは限らないわけ、ですから」
「ああ、それは確かにそうだねぇ。その上、がいる可能性もあるし、誰かにそそのかされてる可能性もある」
「貴族としての繋がりはもちろん、商会同士の繋がりもあるでしょうからね」
「となると、確かに現段階でローヴァイン商会だけを悪と決めつけるのは尚早かなぁ。だからと言ってローヴァイン商会の評価を善に転じさせようとは思わないけどねぇ」
「わたしを誘拐したところで、旨味はないと思うのですがね」
ため息を吐いて、苦笑する。
「少なくとも現状、わたしがこの国に歯向かうつもりはありません。クルタス在学も国の決定に従った結果で、婚姻も国に委ねておりますし、必要とあらば戦場に立つつもりです。ですから、現状の国に不満のない方であれば、わたしに手を出す必要はないのです。そもそも国内で、わ、ヴァンデルシュナイツ導師以上にわたしを巧く御せる方がいるとも思えませんから、むしろその監視を剥がすのは害です。現状のバルキア王国にとっては」
「そうだねぇ。だから、現状に不満があったんじゃないかなぁ、誘拐の元締めは」
「そうでなければ、国外でしょう。バルキアを攻めたい国からしてみれば、国殺しは大きな障壁です」
朝と同じように、教室は静かだ。
教室中から、いや、外からさえも、耳をそばだてられている。
「つまり、バルキアと言う国へ、害意があったわけだね、犯人達は。そう思えば、ますます、たとえ疑惑と言えどローヴァイン商会とそこに親しむ者との交流は控えたくなるね。迂闊な言葉すら、国を攻撃する手段に利用されかねない」
「連座で処刑、となる可能性もありますよ」
「むしろ、それを狙ってすり寄られるかもしれないねぇ。無関係の家まで巻き込んで自滅すれば、それはそれでバルキアへの打撃だ」
言ってから、るーちゃんは肩をすくめた。
「まあ、こんな話を聞いてまでローヴァイン商会と関わろう、って言う家には、関わりたくないかなぁ。なにぶん情報が少な過ぎるからねぇ。それくらいしないと、自衛できないよ」
聖女さまでも、真っ白なだけじゃないんだなぁなんて感想を抱きながら、頷く。
わんちゃんの狙いはそれなのだろう。
令嬢の顔に傷、と言うのは、それだけ重大な問題なのだ。
治癒魔法で消えるとか、そう言う問題ではない。傷が付いた、それだけでも、十二分に縁談には響くのだ。
特に年頃の令嬢にとっては、そう、男性が目の前で家畜の去勢を見せられたときくらいの衝撃と恐怖を感じる案件だろう。
だからわたしの怪我を見た彼女らは、わたしに同情し、犯人への嫌悪や忌避を覚える。
関わろうとは、思わなくなるだろう。
強いインパクトと共に噂を流し、社会的なダメージを与える。
怪我をるーちゃんに治癒させたことは、わたしへの罰であると同時に、犯人たちへの攻撃手段でもあった、と言うこと。
「そうですね……さて、そろそろお昼に行かないと、午後の講義に間に合わなくなってしまいますね」
「ん?ああ、エリアルは食べるのゆっくりだもんねぇ」
「カフェテリアに行こうと思いますが、るーちゃんも一緒に如何ですか?手当てのお礼に、一食ご馳走しますよ」
立ち上がって小首を傾げて見せれば、微笑んだるーちゃんがわたしを見上げた。
「この程度の怪我くらいならお礼なしでいつでも治してあげるよぉ。あ、騎士科生限定の特別待遇だからねぇ?ほんとぉ、みんな生傷が絶えないんだからぁ」
ご飯はご一緒するけど、お金は自分で払うよ。るーちゃんが言って、ふたりで歩き出す。
「それにしても、今日はお弁当じゃないんだねぇ?」
「王宮に出頭していましたから」
「ああ、そっかそっかぁ」
納得したように頷いて、るーちゃんが別の問いを投げる。
「王宮には、よく行くの?」
「クルタス生としては、多い方かもしれませんね」
クルタス王立学院のあるリムゼラの街は王都からそう離れていない平地に位置する町ではあるが、だからと言ってそうほいほい行くような距離でもない。移動手段は、馬力頼りになるわけだしね。
わたしひとりであれば誰かしらに話し掛けられていただろうが、るーちゃんと会話しているお陰で話し掛けられる心配もない。
「そっかぁ。んんー……僕もグローデウロウス導師みたいに、ぽーんと転移出来たら良いのになぁ」
ふたり並んで歩く途中、るーちゃんがそう呟いた。
「どうしてですか?」
「そうしたら、エリアルがどこで怪我しても駆け付けられるからねぇ」
「わたし限定なのですか?」
「だって、エリアルがいちばん危なっかしいから」
そんなことはな………………い、と、思いたい。
「ウル先輩やラフ先輩より危なっかしいと言われるのは、誠に遺憾なのですが」
「それは……ウルやラフも無茶することは否定しないけど、ウルやラフとエリアルじゃ、体格が違うからねぇ?あと、やる無茶の度合いと頻度が違うよぉ?」
「そんな、ことは」
「少なくとも、ウルやラフはひょいひょい下町に出向いたりしないし、誘拐されたりもしないよ」
うっ、ついにそこを突いて来たか……。
「わたしの場合下町に出ても監視が付いていますから」
「でも、監視の穴はあったわけだよねぇ?でなければ、誘拐されて怪我するなんてないでしょぉ?」
「それは」
ここで反論して良いものかと目を泳がせたところで、カフェテリアに到着する。
貴族が通う学校だけあって、カフェテリアの料理は質が高い。そして、質の割には値段が抑えられている。それでも、庶民感覚では高い方なのだが。
「……とりあえずご飯を優先しようか。午後の授業もあるし」
「はい」
食いしん坊万歳ふたり組なので、そこの意見は外さなかった。お互い好きなメニューを受け取って、席を、
「……ウル先輩、手を離して下さい」
「あ?席探してんだろ?ここが空いてっから来い」
探す前に捕獲された。8人掛けの長机には、ウル先輩ことウルリエ・プロイス伯爵子息のほかに、スー先輩ことスターク・ビスマルク伯爵子息、ラフ先輩ことラファエル・アーベントロート子爵子息、ゴディ先輩ことゴッドフリート・クラウスナー子爵子息の姿に加え、ヨハン・シュヴァイツェル伯爵子息とリカルド・ラグスター男爵子息の姿まであった。
派閥を越えた交流を目の当たりにして、先輩方の懐の深さを実感する。
断りをいれる前にウル先輩とスー先輩の間に座らされ、正面にるーちゃんが腰掛けた。
斜め前の席に座るシュヴァイツェル伯爵子息が、まじまじとわたしの顔を見て呟く。
「怪我をした、と言う話だったが、メーベルトに治して貰ったのか」
「え、あ、はい。元々、治癒魔法を掛けるほどの怪我ではなかったのですけれど」
「また、エリアルは顔に怪我なんかして……」
わたしの言い訳を聞き咎めたゴディ先輩が、シュヴァイツェル伯爵子息と逆の斜め前からわたしを半眼で睨んだ。
「いえあの、本当に大したことのない軽傷ですから。ですよね、るーちゃん」
「んんぅ?」
相変わらず、小さな身体に見合わぬ大食漢を発揮したるーちゃんが、口の中身を飲み込んでから答える。
「軽傷なのは否定しないけど、唇も切っていたし治癒魔法は掛けた方が良い怪我じゃないかなぁ。顔だしねぇ。でもまぁ、問い詰めるのは食べてからね」
言うだけ言って食事に戻るるーちゃん。ありがたくわたしも従う。
「本当にるーちゃん呼びなのか」
「実際見ると破壊力が違うな」
隣同士に座ったシュヴァイツェル伯爵子息とラグスター男爵子息が、ぼそりと言葉を交わした。るーちゃん呼びを聞いた騎士科の先輩方は大抵ぎょっとするので、無理のない反応なのだろう。
「怪我が治ったなら、騒ぎも収束するか」
「だな。それでも数日はざわつくだろうが、巧く情報を行き渡らせれば、派手な混乱は起きねぇんじゃねぇか?」
「そうだな。中初とも連携して大事ないことをきちんと伝えれば、野次馬で溢れることもないか」
「ゴディ、風点は」
「すでに連携済み。昼休みの時点で特攻しようとした馬鹿がいたからね」
「ヨハン」
「言われなくとも対応する。まったく、ひと騒がせなおおばかねこめが」
飛び交う先輩方の会話で、なぜ彼らが同じ席に着いていたかを理解する。わたしのせいで、校内を騒がせてしまっていたのだろう。
それは捕まっても当然だ。なんせ震源地である。
「……情報操作に関しては」
男声のなかに、鈴の音のような澄んだ声が響いた。
「私も協力するわ」
「勿論、私もね」
机脇に立つのは、ツェリとヴィクトリカ殿下はじめとする悪役同年輩ズ四人に、モーナ・ジュエルウィード侯爵令嬢だった。
四人掛けの机を引き寄せ椅子を一脚足して、会話に加わる。
それぞれ、食事も用意していた。軽食を摘まみながら、ツェリが口火を切る。
「普通科高等部と中等部になら明日の昼までには情報を回しきれるわ。初等部も、寮監から注意させれば大丈夫でしょう」
「外の噂は私が抑えられるから、つつかれて大騒ぎも防げるかと」
「野次馬は、これで黙らせるわ」
おもむろに取り出されたのは、二枚の写真。
「……いつの間に」
思わず、口を挟んでいた。
「あなたと違って抜かりないの」
つんとした口調でツェリが言う。朝の怒りは、継続中のようで。
「……これのどこが、大したことない怪我なのかな、エリアル」
写真を見たゴディ先輩がわたしに冷たい目を向ける。
出された二枚の写真は、るーちゃんがわたしを治療している姿を写したもので、一枚は治癒前、一枚は治癒後の姿が写っている。角度が調整されて、黒髪と怪我はしっかりわかるが人相まではよく掴めない絶妙な写真になっている。
わたしに代わって反論をしてくれたのは、意外にもシュヴァイツェル伯爵子息だった。
「食事の邪魔をしてやるな、ゴッドフリート。見た目は派手だが普通の怪我だ。骨に異常もない。だろう、メーベルト」
「うん。軽傷、と言う主張は否定しないよ。場所が場所だから、危険ではあるけどね。頭を殴られて、傍目には軽傷なのに死んでしまうなんてことも、ない話じゃない」
「だが、そこのばかは騎士科だ。腐っても」
「そうだねぇ。実際、頬を蹴られて歯の一本も折れていなければ、口の中を切ってもいない。巧く力を流して受けたんだろうねぇ」
るーちゃんがシュヴァイツェル伯爵子息を援護し、るーちゃん信者のゴディ先輩が黙らされる。……るーちゃん、もう食べきっていた。早い。
どうもわたしから標的が外れてくれたらしいので、食事に戻る。
「だが、顔に傷を作るのがばかだと言うことは否定しない。攻撃を受けた方だけではない。攻撃を仕掛ける方もだ」
「そうだな。ヨハンやメーベルトでなくても怪我が軽傷だと判断する奴はいるだろうが、それだけの判断が出来るなら、女の顔を蹴ることの意味も理解出来るだろう」
「騎士ならあり得ない」
「わかっているではないか。ゴッドフリート」
シュヴァイツェル伯爵子息は鼻で笑って言った。
「つまり、この写真を見せれば大抵の奴は良く思わねぇってことだな。流石は、ツェツィーリア・ミュラー嬢、策略はお手のものってか」
「お褒めに預り光栄、と、言えば良いかしら?」
「それで良い。けどよ、ほんっと、敵にいたら嫌な知恵の回り方すんなぁ。今回は味方で良かったぜ」
ウル先輩が肩をすくめる。
それからしばし、情報の共有と流す情報の内容が相談された。
それを、蚊帳の外で聞きながら、黙ってカトラリーを動かす。ふと、その手に冷たい手が重なった。
はた、と目を上げれば、優しげな銀の瞳と視線がかち合う。冷たい手が手の甲を撫で、穏やかな声が気遣いも顕な声音で発せられた。
「エリアル、顔色が悪いよ」
「ぇ……?」
「それは消化に良いメニューじゃないから、無理に食べない方が良いねぇ」
手を離したるーちゃんが机を回り、わたしの斜め後ろに立つ。
「おいでぇ。今日はもう、休んだ方が良いよぉ」
「え、いや、」
「……ラフ」
「ああ」
るーちゃんに呼ばれたラフ先輩が立ち上がり、ひょい、とわたしを持ち上げた。
「えっ、え、えぇえ?」
「スー、あとよろしくねぇ」
「ちょ、ラフ先輩?るーちゃん?」
状況が理解出来ないままに横抱きにされ、離脱させられた。
周りも、ぽかーんだったので、混乱していたのはわたしだけではない、と思う。
「るーちゃん?」
「黙って」
「大人しく従っておけ。こうなると話は通じん」
抵抗も許されず運ばれたのは、医務室ではなく見知らぬ部屋だった。
入って来た扉以外に、二ヵ所扉がある。扉と小さな明かり取りの窓以外は棚で覆われ、一部は本で、それ以外は瓶やら引き出しやらで埋まっていた。中央には作業机が二台あり、流し台や竈まで備えられている。ふわりと、独特な香りが鼻をくすぐった。
るーちゃんは部屋には目もくれず、入って右手の壁にある扉を開いた。
納戸のような狭い空間に、大きな窓。そして、部屋の大半を被うベッド。
この小さな空間で一際存在感を放つベッドに、降ろされる。
「ここは」
「僕の作業部屋、の、仮眠室だねぇ。さぁ、靴と上着脱いで、横になって休んで」
「ですが」
「良いから休みなさい」
反論を許さない口調に、否やも言えず従った。どうにも、るーちゃんには弱い。
指示に従ってベッドに横たわれば、リネンで包まれた毛布を掛けられた。薬草の香り。首許に伸びた手が、ブローチとクラヴァットを取り去る。
「なにか栄養になる飲み物を作るよ。食欲は?」
「……あまり」
「そう。じゃあ、飲み物だけね。眠たかったら、待たずに眠って良いから」
諦めて、目を閉じる。差し込む日光のお陰か、暖房もないのに部屋は暖かい。
気付けば、眠っていた。
ふと、意識が現に引き戻される。
薄暗い部屋。起き上がれば、ベッド脇の小机に水差しとコップが置かれていた。
手を伸ばし、水差しの中身をコップに注ぐ。唇を寄せると、ほのかにミントの香りがした。
一口飲んで、息を吐く。すうっと通るミントの香りと爽やかさに、覚醒を促された。
何時間、眠っていたのだろう。立ち上がろうとベッド端に身体を動かすと、きしりとベッドが軋んだ。ぱたぱたと足音が聞こえ、扉が叩かれる。
「エリアル、起きたのぉ?入って大丈夫?」
「はい」
扉が開くと明かりと共に、鉄紺の髪が目に入る。
「うん。多少はマシな顔になったねぇ」
「ご迷惑をお掛けして、」
「いや。謝るのは、こっちかなぁ」
まだそこにいて。
そう声を掛けてから部屋の灯りを灯すと、るーちゃんは一度部屋を出て行く。しばらくして戻って来た彼の手には、木製の器と木匙に、椅子が一脚があった。
ベッド脇に椅子を置いて座ったるーちゃんが、わたしの顔を覗き込む。
「雑穀入りの野菜スープだけど、飲めるぅ?」
「はい。ありがとうございます」
「そっかぁ。じゃあ、はい、あーん」
「え、いえ、自分で食べられますよ?」
「良いから。あー」
「あー……ん」
雑穀にお米が含まれている点に、感謝したい。
温かいスープに溶けたトマトの酸味と甘味。そして、お米の食感に、ほっとする。
「ごめんねぇ、疲れているのに気付かないで、大袈裟に騒いだり、問い詰めたりしてぇ」
わたしにスープを食べさせながら、るーちゃんはそう謝った。
「無事に戻って来たからって、大丈夫そうに見えるからって、まず言うべきこと、気遣うべきことを忘れちゃ駄目だよねぇ」
るーちゃんが一度机に器を置き、わたしを引き寄せる。
「おかえりぃ、エリアル。きみが、戻って来られて良かったよぉ」
「るーちゃん……」
なぜ、このひとたちはこうなのか。
「ただいま、戻りました」
答えれば、ぎゅう、と抱き締められた。
「お願い。消えないで。エリアル」
顔の見えないるーちゃんが、絞り出すように言う。
「幽霊ではないのですから、そんな、ひょいひょい消えたりしませんよ」
微笑んで、答える。
「無茶しても、僕の目の届くところなら良いよぉ。そうしたら、直ぐにでも治してあげられるから。でも、駆け付けられないほど遠くで無茶されたら、僕にはわからないからぁ」
「困ったら、呼びますよ?」
「絶対にぃ?」
「るーちゃんのこと、頼りにしていますから」
「猫みたいに消えたら、許さないよ。弱ったところも、ちゃんと見せて」
「猫ではないですよ、わたし」
いっそ、すべてを放り出して、逃げてしまいたい。
そう、思ったのが、きっとるーちゃんにはばれてしまったのだろう。
ツェリもわんちゃんも愛しているし、バルキア王国にだって愛着はある。
ツェリだけ、わんちゃんだけでなく、大切にしたいひとがいる。
でも、不意に、全部が煩わしく、どうでも良く思えてしまう瞬間がある。
そんなときは、食事ですら億劫で、味がしない。
エリアル・サヴァンは立場上、否が応でも注視される。注目され、動向を観察され、一挙手一投足ですら、固唾を飲んで見守られる。
それが、重圧でない、と言えば、嘘になる。
なんでもない、ただの子供として生きたいと思わないと言えば、嘘になる。
でも、それはあくまで一過性のもので、心からツェリやこの国を見棄てたいだなんて、そんなことはない。
「……内緒に、してくれますか?」
本当は、皆を騙し通せるのが理想だ。
るーちゃんも、わんちゃんも、とりさんですら。
でも、それはあまりにも、苦し過ぎるから。
「エリアルが、黙っていて欲しいことなら、言わないよ」
るーちゃんの言葉を聞いて、その華奢なようでがっしりした肩に顔を埋めた。口を耳に寄せ呟く。
「本当は、今日、学院に来たくありませんでした」
「うん」
今ごろ下街は年越えの市の後片付けだろうなとか、ゾフィーの仕立屋は大丈夫だろうかとか、誘拐犯はどうなるのだろうかとか。
平民の心象を下げないためにはどうしたら良いか。どう動けば良いか。
考えても考えても、これだと自信を持てる答えなんて見付からなかった。
ローヴァインを追い込むため、その裏に居る者の尻尾を掴むために、騒ぎを拡大させることが必要だと理解していても。
わたしの行動ひとつでヴィリーくんの人生を潰しかねないと思えば、怪我が目立たなくなるまで引き籠ろうかとさえ考えた。確実に注目されるだろうと思えば、こんな柵だらけの身分を捨て去って、どこへなりと消えてしまいたいと思った。
そう、もしも目の前を電車が走っていれば、うっかり飛び込むくらいしかねなかった。
電車に跳ねられれば蹴られた怪我なんてどうでも良くなるし、この、厄介な立場だって棄てられる。
安易な逃げだと理解して選びたくなるほどには、追い込まれていた、のだと思う。
ああ、このところどうも、考えが暗くなっていけない。
「わたしは、もっと、自由に生きたい」
「うん」
なぜわたしが首許に唇を寄せて話しているのか、なぜ音を消しているのか、理解しているからだろう。るーちゃんはただ、頷くだけだった。
そんな、るーちゃんが動く気配がして、耳許に熱を感じた。
「逃げたい?」
「逃げたいです」
「なら、逃げる?」
思わぬ言葉に、ぱっと顔を上げた。穏やかな表情で、るーちゃんが言う。
「協力するよ、エリアルが望むなら」
「そんな、」
「ツテならあるからね、それに」
るーちゃんが再び、わたしを引き寄せる。
「僕とエリアルなら、欲しがる国はいくらでもある。国に頼らなくても、生き延びられるだけの知識と技術もあるしねぇ」
確かに、るーちゃんの薬学知識とわたしの雑学知識があれば、サバイバーも出来なくはないだろうけれど。
「逃げません」
耳許にそう呟いて、首を振った。
「そう?」
「そうですよ」
「なら良いけど、気が向いたら言ってね。僕はいつでも、エリアルの味方だよぉ?」
「ありがとうございます。心強いです」
にこっと聖女の笑みを向けられて、はにかみを返す。
騎士科の聖女さまは、ふと視線を逸らし、あー、と呟いた。
「スープ、冷めちゃったねぇ。新しいの持って来るよ」
「大丈夫です。そのままで」
トマトスープは冷めても美味しい。
「そう?」
「はい」
「わかった。あーん」
ぬるくなったスープをわたしの口に運びながら、るーちゃんが言った。
「差し当り、だけど」
赤い幸せを食べながら、るーちゃんの話を聞く。
「この部屋、奥は湯浴み出来る部屋になってるから」
「もぐ……個人の作業部屋ですよね?」
「目を掛けられてるからねぇ、僕」
「んぐ……それは知っていますけれど」
「ここに怪我人や病人が運ばれることもあるから、洗浄設備は必要なんだよ。ついでに言うと、着替えも大中小がひと揃えずつある」
騎士科の聖女、伊達じゃない。
反応に困りつつもそんなことを思って、
「仮眠室には鍵も掛かるし、泊まると良いよぉ、今日は」
外泊のお誘いに目を瞬いた。
「むぐ……それは、どうして」
「ここには僕しか来ないから、かなぁ。エリアルの部屋だと、訪ねて来るひとがいるかもしれないでしょぉ?」
「んく……ですが今日は、外泊許可が」
「僕から寮には伝えておくよぉ。大丈夫、よくあることだから」
この、るーちゃんの大丈夫に、なぜか弱いのだよなぁ。
ほらほら、お湯を用意するから歯をみがいて、なんて言われると、従わずにはいられなくなってしまう。
年下に甘い、は言われることがあるのだけれど、年上には弱いのだろうか。駄目駄目じゃないか。
「……今回、一緒に誘拐されたひと」
「うん?」
渡された歯ブラシを持ち、ふと、呟く。
「少し、るーちゃんに似ているのです」
言おうと思って、言った言葉ではなかった。
口にした自分で、そんなことを思っていたのかと驚く。
「そうなのぉ?」
「ぱっと見は、似ていないと思うのですけれど。あ、髪色は似ていますね。それ以外は、顔立ちも背格好も髪型も似てはいないです」
似ているのは内面、と続ける。
口にすれば、なるほど似ていると思うのだから我ながら単純なのか鈍感なのか。
「筋骨隆々とはしていないですし、控えめで少し女性的な雰囲気なのに、すごく頼り甲斐があって、真面目だけど茶目っ気もあって、厳しくすべきところはきちんと締められる、とても優しいひと」
言葉にしてしまえば、本当によく似通っていた。
「優しくないよぉ、僕は」
「って、否定するところもですね」
実際、るーちゃんもヴィリーくんも、優しいと言うよりは外面が良いのだろう。広く浅く付き合うのが得意で、なかなか懐は開かない。代わりに、一度懐を開いた相手は、尽力で優しくしてくれる。
「わたしに対しては優しいから、優しいで良いのですよ」
「……普段は聞けない暴論だねぇ」
「嫌いになりましたか?」
「うぅん、好き」
「ほら優しい」
くすくすと笑ってから、しゃこしゃこと歯磨きを始める。るーちゃんはこれ以上の会話の意思なしと判断してくれたらしく、部屋を出て行った。宣言通り、お湯を用意してくれるのだろう。
一昨日の王后陛下とのお茶会と同じような至れり尽くせり度合いだけれど、こちらは不思議と息がしやすい。こう、実家のような安心感、と言うか。夏季演習合宿のせいだろうか。
「瞬間湯沸し器……」
「んん?なぁにぃ?」
「いえ、なんでもありません」
数分と経たずに湯気の立つ水桶を持って来た、るーちゃんを見て思わず呟く。いや、そう言う魔道具があるのだとは、知っているけれど。……わんちゃんの部屋にもあるし。
るーちゃん、男爵子息だけれどお金持ちなのだろうなぁ……。高身長ではないけれど、高収入で、出世も見込めて、性格も良くて、男爵家の長男。現実的な視野を持つ子爵家や男爵家のご令嬢なら、狙い目の嫁ぎ先候補だろう。
西の帝国ラドゥニア辺りが焦臭い今日この頃、戦時の貢献で上位の貴族位を与えられることも、あり得なくはないのだ。
もしもわたしが普通の子爵令嬢で、平民までは身分を落とさない判断をしたならば、るーちゃんとの婚姻を望んだかもしれない。
普通とは言えないかもしれないけれど、穏やかな幸せが望めそうだ。
エリアル・サヴァンとして生きるならば、望めないもの。
「もし、居心地が良かったら」
また、良くない思考に落ちかけたわたしを、るーちゃんが拾い上げる。
「逃げ場所にして良いからねぇ?」
「邪魔になりませんか?」
「猫の邪魔はねぇ」
目を細めたるーちゃんが、くすっと笑いながら言う。
「邪魔じゃなくって、癒し、って言うんだよぉ?」
やっぱり敵わないなぁ。
わたしは頼れる聖女さまに敗北を認めて。
でも、その敗北は苦しいものではなかった。
次の日、登校すると、嘘のように騒ぎは収まっていた。
ただ、一部待遇の変わった生徒や、静かに語られる噂で、誘拐の爪痕を察する。
手を回したのは、子供か、大人か。
けれどそんなことを気にするまでもなく、日常は過ぎて行く。
「年末年始、ですか」
「ええ。エリアルさんは、どう過ごされるんですか?」
モーナ・ジュエルウィード侯爵令嬢の言葉に、首を傾げつつ答える。
「今年も、寮で過ごすつもりですが」
「でも、年末年始は寮の職員もお休みでしょう?エリアルさんなら、それでも困らないのかもしれませんけれど」
もしよろしければ、と、モーナさまは遠慮気味に言った。
「よろしければ、うちにいらっしゃいませんか?」
「え……?」
思わぬ申し出に、きょとん、とする。
「モーナさまの、お家、ですか?ご迷惑では?」
「いえ!あのですね!」
ぶんぶんと首を振って、モーナさまが言う。
「ワタクシ、弟が、おりまして」
「ケヴィンさま、ですよね」
「はい!その弟がですね、来年、クルタス王立学院に入学するんです」
「それは、おめでとうございます」
モーナさまの弟は確か、身体が弱くて学院には通えていなかったはず。それが学院に通えると言うことは、もうどうしようもなくての想い出作りでない限り、学院に通えるほどに回復したと言うことだろう。
微笑んで言えば、モーナさまは瞬間虚を突かれた顔をしたあとで、ふわりと頬を染めた。
「ありがとうございます。どうやらご存じのようですが、弟はずっと家庭教師に付いておりまして、学院に通うのが初めてなんです。なので、姉の老婆心なのですが、学院に通う前に誰か学院の生徒と交流を持たせてあげられればと」
「それで、わたしに?」
「はい。本当は、先日アリスさんがなさったように、弟も学院まで来て交流すれば良いのでしょうが、いきなりそれは少し難度が高いかと。かと言って、領地まで来て頂く、と言うのもなかなか難しいですから」
「学院に通っていると、そうなりますよね」
学校、と言うものはなかなかに時間を拘束される。
もちろん長期休暇はあるが、高等部生徒もなってしまうと休暇さえ家の用事に忙殺されてしまうわけで。
なかなか、自分のために時間を割いてくれ、とは言いにくいだろう。
その点、家に拘束されないわたしは、来てくれと頼みやすい。
「ご理解頂けてありがたいです。ですので、エリアルさんさえよろしければ、ぜひとも弟に、会ってやって欲しいのです」
「そういうことでしたら、ええと、一度、保護者に確認を取ってからでもよろしければ」
ジュエルウィード侯爵家は、文門系中立派のトップに立つ家系だ。
モーナさまの弟君は、その後継者となる。
こう言ってはなんだけれど、繋がっておいて損はない。
ただ、先日のこともあって、わんちゃんからの監視が厳しくなっている。ちょっと下街に程度ならばともかく、ジュエルウィード侯爵家の領地まで、となると勝手には行けない。
難儀な身分だと思う。本当に。
モーナさまは、それは嬉しそうに微笑んで頷いた。
「ええ。色好いお返事をお待ちしています」
ジュエルウィード侯爵家の領地は王都からさほど離れていない。あまり良い顔ではなかったが、わんちゃんからの許しは下りて、わたしは年越しをジュエルウィード侯爵家で過ごすことになった。
拙いお話をお読み頂きありがとうございます
この更新の不規則さ……!
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