悪役令嬢は絶望する
悪役令嬢・ツェツィーリア視点
エリアルさん高等部一年の秋のお話
吐血・苦痛の描写あり
「お守り出来なくて…っ、申し訳、ございません…っ」
常でさえ下がった眉を余計に下げて、人形のように美しい少女が、私の顔を覗き込んで泣いていた。
漆黒のダイヤモンドですら敵わない美しい瞳から大粒の涙が零れて、ぽたりと私の頬に落ち掛かる。
愛しい愛しい、私の黒猫。
重たい手を持ち上げれば、小さな温かい手が、きゅっと私の手を包んでくれる。
良いのよ、大丈夫。そう言って、涙を止めてやらなくちゃ。
思うのに、どうにも重たい身体では、声を吐き出すことも敵わなかった。
紅茶に毒が。
第二王子派の仕業。
誰だかおぼろな声が、遠くで聞こえた。
「エリアル、医務室に運ぶから」
テオがエリアルの肩を押し、私を抱え上げる。
「この学院の治癒魔法使いは優秀だからね。絶対に、死なせたりしないよ」
はらはらと泣き濡れるエリアルに、ヴィックが言葉を掛ける。
頷いたエリアルが、しかと私を見つめて言った。
「あなたの憂いは、わたしが必ず払います」
黒い瞳がまるで、底なしの深淵のように見えた。
恐ろしいほどに強固な決意が、伺える表情。
止めなくちゃ。
なぜだか強く、そう思った。
「―――、」
声が出ない。めまいがする。
やっとのことで口から出たのは、血の混じった咳だった。
「ツェリ…!」
「ツェリさま…っ!」
騒然とする周囲のなかで、黒猫が大きな目を真ん丸に見開いた。
唇を引き結んで、私に背を向ける。
駄目。行かないで。
手を伸ばしたいのに手はぴくりとも動かず、呼び留めたいのに掠れ声すら出なかった。
視界がぼやけ、世界が回る。胸が痛い。苦しい。熱い。寒い。
エリアル。どこ?エリアル。
身体が震えて、止まらない。
あの温かい手が、欲しくて堪らなかった。
けれど歩き出したあの子が、振り向くことはなくて。
お願いエリアル、そばにいて。
私を、置いて行かないで。
あなたさえそばに居てくれるなら、私は―――、
その思考を最後に、私の意識は暗転した。
夢を、見ている。
なぜか、そう自覚していた。
いくつもの光景が、ふわふわと辺りを踊っている。
幼い頃の、古ぼけた記憶。暗い牢獄の記憶。虐めと、温かい手のひら。新しい家族。新しい友人。
重なる記憶のなかで、最も愛しく輝いているのは、いつだってひとりだった。
誰より長い時間を共に過ごして来た、美しい黒猫。
無表情だと人間離れしているようにさえ見えるその美貌が、微笑むと途端に愛らしくなることを知っている。
蝋のような真っ白な肌が、触れると柔らかくとても温かいことを知っている。
化け物だと罵られる彼女が、誰より優しいことを知っている。
独りぼっちのツェツィーリアに手を差し伸べてくれた、独りぼっちの黒い猫。
抱き締めて抱き締めて、愛してあげたい。あの子が私に与えてくれた喜びを、私はまだちっとも返せていない。
してあげたいことも、して欲しいことも、まだまだ山ほどある。
今はなにより、名を呼びたい。名前を、呼んで欲しい。
「エリアルっ!!っ!?っごほっ、けほっ、っ、けほごほっ」
叫んで飛び起きた瞬間、喉が詰まって咳き込んだ。
「ツェリ、起きたか。無理するな。寝ていろ」
付き添ってくれていたのだろう。寝台の横に座っていたテオが、立ち上がって咳き込む私の背中をなでた。そのまま寝かそうとする手に、逆らう。
「こほっ…エリ、アル…は…?っげほっ」
「エリアル?そう言えば、姿が…っておい!寝ていろ!解毒はして貰ったが、さっきまで死にかけてたんだぞ!?お前!」
「駄目。止め、ないと…けほげほっ」
喉が痛い。苦しい。
それでも、動ける。
「行かないと。私が」
拍車を掛けられた馬のように、心が急いて気を焦らせる。
行かなければ、間に合わなくなると。
なにに?
思い出せないのに、どうしても、行かなければと騒ぐ気持ちが消えない。
「いや、無理だ。まだ絶対安せ、」
「だったら背負って連れて行きなさい!!げほっ、ごっほっ」
止めようとするテオを、怒鳴り付けた。喉に激痛が走り、発作のような咳が出る。
それでも寝台を下りようと、テオの腕を押し退けた。
「だから…っ!ああもう、わかった!連れて行ってやるから、せめて歩くな!どこに行きたいんだ」
「けほっ…エリア、ルの、ところ」
言いながら立ち上がろうとすれば、先んじてひょいと抱き上げられた。
寝台に横たえられていた身体は制服のままで、考えてみれば背負われるには向かない格好だった。焦りのあまり、そんな判断すら出来ていない。
エリアルのところに行かないと。
でも、それはどこ?
考えるより先に、唇は動いた。
「大広間に、行って。中央の、大広間…けほっ」
「わかった。行くから、それ以上喋るな」
私の咳を心配してか顔をしかめながら、テオは頷いて歩き出した。
異常は、大広間に着く前から明らかだった。
空気が異様に重く、苦しい。
透明なはずの昼間の空気が、どうにも暗く黒くよどんで、かと思えば紅く濁って見えた。
焦燥が、胸を荒らす。
「これは…」
「急いで!っ、けほっ、こほっ」
「だが、」
「良いから!!げほ、ごほごほっ」
立ち止まりそうになったテオの胸を叩いて急かす。
間に合わなかった。いや、まだ間に合う。
諦めと焦りが、胸のなかでせめぎ合う。
甲高い鈴の音が、煩いくらいに響いていた。
廊下のそこかしこで、うずくまる生徒がいた。私を抱くテオも、心なしか苦しげだ。
渦巻く、愛しくも恐ろしい気配。
「エリア、っ」
テオの腕から飛び降り、大広間に駆け込もうとした私は、肩を掴まれ引き戻された。
そのまま肩を押され、突き飛ばされる。
「っきゃ、」
「ツェリっ」
転がりかけた私を、テオが抱き留めた。
「そいつ、捕まえとけ」
目線だけで振り向いてテオにそう言ったのは、私を突き飛ばした張本人。この国唯一の魔導師にして筆頭宮廷魔導師、ヴァンデルシュナイツ・グローデウロウスだ。
返事も待たずに視線を戻した宮廷魔導師が、足早に大広間へと歩み入る。
その背後から覗いた大広間に、愛しい黒猫を見つけて、引かれるように前に足を出す。
けれど進むことはあたわず、お腹に回った腕に留められた。
「離して…!」
「大人しくしろ。冗談じゃなく、死ぬぞ」
「でも、エリアルを!」
「導師が行った」
それでは、駄目だ!
心のなかで、誰か、私の知らない私が主張する。
なぜ?
その答えは、すぐにわかった。
「離せ!」
「うあっ、…待て、ツェリっ!」
魔法で無理矢理テオの腕から逃れた私はけれど、大広間の入り口に造られた見えない壁に阻まれた。私よりもはるかに上手の魔法の使い手、宮廷魔導師の張った防壁に、無力な拳を叩き付けた。
「エリアルっ、エリアル!!」
声を限りに叫べば、また喉から血が溢れ出した。
真っ青な顔をしたエリアルが、真っ赤に腫れて潤んだ瞳をこちらへ向ける。
伸ばされた手は、遠過ぎて。
こちらからは、手を伸ばしてあげることすら出来なかった。
宮廷魔導師が、乱暴にエリアルを取り押さえる。床に押さえ付けられたエリアルは、それでもこちらを向いていた。
あなたが、無事で、良かった。
痛みに顔を歪めながらも、黒猫はそう言って、微笑んだ。
瞳から、涙が溢れた。
直後のけぞったエリアルが、信じられないような声量で絶叫する。魂すら吐き出してしまうような絶叫ののち、ぷつん、と糸の切れた人形のようにエリアルは床に伏した。
宮廷魔導師はぐったりしたエリアルを荷物のように担ぐと、そのまま、
「いやっ、エリアルっ!!エリアっ、ごほっ、っぅえ、げほげほっ」
消え去ったエリアルを追うことも叶わず、私は意識を失った。
未来なんてわからないはずなのになぜか、もう、黒猫とは会えないのだと確信した私の心は、暗く深い絶望に染め上げられていた。
「―――っ!」
ばさっと掛布を跳ね除けて飛び起きた。荒い呼吸。ぐっしょりと汗ばんだ身体。
枕元の写真立てを引っ掴んで、深く息を吐き出した。
殿下に頼んで劣化防止を掛けて貰った写真。高等部入学のときのものだ。私とリリアとエリアルが、並んで微笑んでいる。
夢の中のエリアルと、写真の中のエリアルは、容姿や首輪こそ同じでもほかは似付かない。
長い髪、華奢な身体、女子制服。
短い髪、細いとは言え鍛えられた身体、男子制服。
ふたりのエリアルの違いを確認して、さっきのは夢なのだと言い聞かせる。
それでも不安が消えないのは、いくら外身を装っても中身は一緒だとわかっているから。
やりかねないと、思っているから。
「あの……馬鹿猫っ」
例えば自分の存在が、私の悪評になると判断したならば、あの黒猫はたちまち敵に寝返り、喉を鳴らしてすり寄って懐に入り、敵にとって最大限打撃を与える状況を造り上げてから自ら命を絶つだろう。
例えば私にどうしても欲しいものが出来て、対価に黒猫の命を求められたら、あの黒猫は微笑んで、自分の首を掻き切るだろう。
例えば私にとって恐ろしく邪魔な人間が現れて、正攻法で排除できなかったならば、あの黒猫はその人間の前で心を乱し、魔力を暴走させるだろう。
なんて、愚かで、忌ま忌ましい、猫。
猫の小さな頭では、私にとってなにが最も大事なのかを、理解出来ないとでも言うのか。
要らないことは山ほど頭に入れるくせに、私にはエリアルがいなくては駄目なのだ、それだけのことを、ちっとも覚えてくれない。
起こり得る、未来。
起こり得る未来なのだ、あれは。
「……いっそ鎖に繋いで、檻に入れてやろうかしら」
私が泣いて頼んだら、あの黒猫は鎖に繋がれてくれるだろうか。
そんなことを考えて、気を紛れさせる。
夢のなかで覚えた絶望は、魂にでも刻まれたように、私の心に深く突き刺さっていた。
「…………」
エリアルがもの問いたげな目で、ちらりと私を見る。
気付かない振りで、視線を向け続けた。
「…………」
また、ちらり、と視線が向けられた。
「なによ」
投げ掛ければ、手を止めたエリアルがこちらを向く。
今は、演習合宿の慰労会の準備中。他人に食べさせるものを作っているとき、エリアルは喋らない。
そのことは、早朝に扉を叩いて部屋に押し入ったときに聞いた。これから慰労会のための食事を作るので、その間相手が出来なくなる、と。
つまり帰れと伝えたかったのだろうが、私は留まり、それからずっと調理場の壁際に立ってエリアルを眺めていた。生きて、夏期演習合宿の慰労会なんて、平和この上もない目的のために動いているエリアルを、見ていた。
このまま、時が止まれば、良いのにと。
いまは、平和だ。不和もないわけではないが、おおむね平和、だと思う。
けれど、時は流れる。
時は流れながら、ひとを変えて行く。いくら変わってほしくないものでも、無情に、変質させて行く。
もしも時を司る神がいるとすれば、それは恐ろしく冷たく無慈悲な存在に違いない。
「……」
かすかに首を傾げて私を見つめてから、エリアルは視線を逸らした。流しに身体を向け、よく手を洗うと、綺麗に拭いて調理場の出口に向かう。
「、」
「待っていて下さい」
追おうとした私に顔だけで振り向いて言う。
ぱたりと閉じた扉を、絶句して見つめた。
あの扉の向こうは、絶望が広がっていないか?
開けて、確認しなければ。開けて、確認したくない。
焦燥と恐怖で、じくり、と胸が苦しくなった。
壁から背を離し、扉へ向けて、一歩、が、踏み出せない。
ああ、どうして、私はこんなにも弱い。
悔しさに涙がにじみそうになったとき、視線の先で地獄の門のように立ち塞がっていた扉は、いとも簡単に開かれた。
ひょこ、と顔を出したエリアルが、私を見てぽかんとする。
「なんて顔、しているのですか」
足早にやって来たエリアルから伸ばされた、温かい手を掴む。普段と違い香辛料が薫る胸に、体当たりの勢いで抱き付いた。
「っ、ツェリ?なにかあったのですか?」
少し息を詰めるも危なげなく抱き留めて、エリアルが私の背をなでる。
喉が震えて、言葉が出せなかった。
「わたしは、ここにいますよ。なにがあろうと、ツェリの味方です」
どうして。
どうしてそんなに欲しい言葉をくれるのに、いちばん欲しい約束はくれないのか。
守ってなんか、くれなくて良い。
役になんて、立たなくて良い。
ただ、幸せに笑って、隣に居てくれれば良いのに。
服がしわになるのも考えず、エリアルの背を握り締める。決して、離れないように。離さないように。
無言ですがり付く私を、エリアルはそれ以上なにも言わずに抱き締めてなで続けた。
まるで、胸の奥に根付いた絶望を、溶かして消そうとするように。
「……あなたが、いなくなる、夢を見たのよ」
どれくらい経ったあとか、そう、ぽつりと呟く。
「わたしは決して、ツェリのそばを離れませんよ」
それは、身体が?心が?
問い返す前に、淡く微笑んだエリアルが私の左手を取った。なにか硬いものを、腕に通される。
「これは…」
「お守りです。なにか魔法を掛けたわけではないので、ミサンガと同じおまじないくらいのものですが」
白みがかった淡い緑の石で出来た、バングルだった。エリアルの体温で温められたのか、ほのかに温もりを感じる。
色のせいか、石だと言うのにどこか柔らかい印象を与える腕輪だ。
これ、もしかして、
「あの大きい石を、砕いたの?」
「いや、さすがにそんなことをしては各方面から怒られますよ」
第一回夏期演習合宿時に採取した大粒…と言うか大玉のギャドを砕いたのかと思ったが、違うらしい。苦笑したエリアルが、私の手首の石をなでて言った。
「装飾品にするならこっちを使うようにって、るーちゃんが小さい方もひとつくれたのです。ギャドは少量で効果が出るもので、そんなにたくさんはいらないからと」
「つまりあなたなら価値も理解せず砕きかねないと見透かされていたわけね」
「うっ……」
エリアルが呻いて視線を逸らす。図星か。恐らくメーベルト先輩から、なにかしら言われているのだろう。
「…大きい方はちゃんと、割らずにとってありますよ?」
「小さいのは、遠慮なく砕いて腕輪にしたのね?」
小さい、と言っても拳大はあったはずだが。
これ、薬学の先生に見られたらどんな反応をされるのだろうか。
もの言いたげな目に気付いたのか、ちろりとこちらを一瞥したエリアルがおもむろに自分の襟元を探る。
いつの間にか黒猫の首に追加されていた細いが丈夫そうな革の組み紐を手繰った先には、腕輪と同じ色の石が付けられていた。見慣れない形に削られた石。例えるならば、尻尾が大人しいオタマジャクシだろうか。紐にくくられた方が丸く、反対側はしゅっと、つののようになっている。
「お揃いです」
少し自慢げに言う。
でも、腕輪と首飾りをお揃いとは、言わなくないかしら?
「同じひとつの石から切り出したものを分けて持つって、少し特別な気がしませんか?」
私の表情に抱いた疑問がにじみ出ていたのか、エリアルが少し唇を尖らせて言う。
腕輪の輪を作るためにくり貫いた石から作ったのですよ、と、石をなでながら呟いた。
細められた真っ黒な瞳が、緑白色の石を見下ろす。
「抜き取られたこの石が元の場所、腕輪の中心に戻りたいと願い、石の願いが片割れ同士を持つふたりを引き合わせる。たとえ、遠く離れてしまったとしても、必ず」
ひゅっと、吸い込んだ息が鳴った。
大事そうに襟元に石をしまい込んで、エリアルは微笑んだ。
「本当は、石でなくて木で作るものだそうですが、そう言うおまじないがあるのです。それで、お守りになるような石で作ったらもっと効果がありそうだと思って」
わたしは、なにがあろうとツェリの許に帰りますよ。もし、なにか理由があって離れてしまったとしても、心は決して、あなたから離れません。ずっと、一緒です。
―――閉じ込められたら、どれほど良いか。
エリアルの言葉を聞いてそう思った私に、きっと多くのひとが賛同してくれると思う。
この子は自分の吐いた言葉の意味を、わかっているのだろうか。
帰ると言うことは一度は離れると言うこと。心“は”離れないと言うことは、心以外は離れると言うこと。
そんなの、夢の焼き直しがあると言っているようなものじゃない。
「……私が、」
『絶対に離れないでと頼んだら、あなたはずっとそばにいてくれるの?』
否定されるのが、はぐらかされるのが怖くて、出そうとした言葉は喉に詰まった。
わかっている。気付いている。私だけじゃない、周りの多くのひとが。
エリアルがどこかで、自分の人生を見限っていることに。
ときおり、まるで未来を諦めたような態度を垣間見せることに。
他人のために、あっさり自分を手離すような冷淡さを持つことに。
「ツェリ?」
言葉を切って黙り込んだ私の顔を、エリアルが覗き込む。
「私のそばにいるのが心だけで、あなたは満足なの?」
目を見開いたエリアルがしばし絶句し、ふにゃりとはにかんだ。顔を隠すように、私の首元に顔を寄せる。
「……こうして抱き締められないのは、嫌ですね……」
少しくぐもった小さな声が、弱く私の耳に届く。温かい腕が、ぎゅうと私の存在を確かめた。
この腕が、いつも私の存在を肯定してくれる。
心だけでも、身体だけでも、魂だけでも、声だけでも、姿だけでも駄目なのだ。
全部揃ってエリアルで、私はそのすべてが愛しく、そのすべてを必要としているのだから。
だから、失いたくない。
依存でも、エゴでも、異常でも。
いっそ、脚の腱を切って、動けなくしてしまおうか。
ふたりだけで、だれにも邪魔をされないところに、身を隠してしまえたら。
「……逃げたいって、言ったら、あなたは私と逃げてくれる?」
「それがツェリの心からの願いでしたら喜んで」
ためらいもなく、言葉は返された。
「けれどあなたは、逃げ出したりしないでしょう?」
「あなたと、ほかのすべてを天秤に掛けられたなら、私は、」
温かい手が、私の口許を覆った。香辛料の香りが、鼻を突く。
私の首元から顔を離したエリアルが、ゆったりと首を振る。
「そんな例えは、嘘でもしてはいけません」
引き込まれそうな黒い瞳に、反論は封じられた。
ずるいと、思うのに、どうしてか。
逆らえない。
「さて、そろそろ作業を再開しないと、間に合わなくなってしまいますね」
良い子で待っていてくださいと、柔らかい唇が頬に触れる。
くるりと回され、とんと背中を押されれば、いつのまにか扉の外だった。
不思議と、胸のざわつきが治まっている。
そっと振り向いて、閉ざされた扉を見つめた。
かしずいているようでいて、実は譲らない子。
真実の力関係がどうかなんて、知っているのはごくわずかだろう。
誰も彼も、あの子の嫌がることなんて出来ない。
あの子から、笑顔を奪うことが怖くて。
みんなみんな、臆病で自分勝手なのだ。
それに、理解しているのだ。
例えば手足を根元から切り落とし、舌を抜き歯を抜き、目を潰し耳を潰し、魔力を封じ込めたとしても、あの子は絶対に、信念を曲げたりはしないのだと。あの子を本当に留めるなら、息の根ごと奪い去るしか、ないのだと。
決して誰にも心を見せないあの子が、なにかをどうしようもなく抱えているのだと、だから心を奪えないのだと、気付いているのだ。
鎮まったはずの心が、また粟立ち始める。
視界が揺らいで暗くなり、足許がひどくおぼつかない心地がした。
りん
そんな暗雲を、涼やかな音が断ち切る。
はっとして、傾いでいた体勢を直す。平素より重く感じた腕に目をやれば、貰ったばかりの腕輪が澄まし顔をしていた。
石なのに温かい気がするそれを、指先でなでる。
鳴ったのは、これだろうか。
なんの装飾もない、削り出しただけの腕輪だ。音の鳴るようなものではない。ただ、簡素なだけに、素材そのものの美しさが浮き彫りになっている。継ぎ目の誤魔化しようがない単なる輪であるからこそ、それがひとつの石から切り出されたものであることが、よくわかる。
この大きさの、ギャド。市場に出れば、どれほどの値段になるのか。
もしそんなものにさらに、魔法を埋め込んだとしたら。
……いや、それならそうと、伝えるはずか。
長く息を吐きながら、腕輪をなでる。丹念に磨いたのか、腕輪の表面は滑らかで触り心地が良かった。
ぎゅ、と石を握り締めて、額に押し付ける。
本人の前では決して口に出来ない言葉を、本人の名残に投げ掛けた。
「あなたさえそばに居てくれるなら、ほかはなにも要らない。たとえ煉獄に落ちたって、私は構わないのよ」
石はなんにも言わずに、黙って私の言葉を受け止めていた。
拙いお話をお読み頂きありがとうございました
続きも読んで頂けると嬉しいです




