弐 ~一~*
兄妹と化け狸の親玉である鳴雪が出会った播の国から、この摂の国に突然やってくることになった。
戸惑いも強くある。莉々たちの世界では、乗り物も使わずに移動するようなことはないのだから。
「そういえば、制服置いてきちゃったね」
莉々はポツリとつぶやく。ブレザーの制服から着替え、今は黒地に菊柄の着物と赤い帯といった出で立ちである。
和装の人々ばかりの中で制服では目立ちすぎた。学ランの天と一緒に和装に改めたのだが、着替えた呉服屋に制服は置き去りである。取りに戻るのも難しい。
「この際、仕方ないな」
幼い頃から剣道を習っている天は、袴がよく似合っている。とても自然だ。
着替えたのはいいけれど、そこで事件に巻き込まれ、追い立てられるようにしてここへ来た。
兄妹の荷物と呼べるものはその制服くらい。身軽だとはいえ、心許なくもある。
こうして、身ひとつで旅をする一行だ。また野宿か、と莉々は嘆息した。けれど――
「この辺りでいいか?」
少し開けた場所に砕花がポツリと立つ。
砕花は鳴雪の手下の雄狸である。線が細く美少年の風貌をしているものの、髪の下の耳だけがフサフサとした毛に覆われていた。
鳴雪の方は一見しただけでは人間と見分けがつかないのだが、時々は狸の姿になる。莉々は正直に言って、狸の姿の鳴雪の方が好きだった。密かに砕花の耳も可愛いと思っている。
砕花が何をしようとしているのか、莉々たちにはわからなかった。鳴雪だけがうんとうなずく。
逢魔が時に妖しい光が宙を舞う。砕花の通力である。
まぶたを閉じた砕花の髪や着物の裾がさやさやと揺れる。そうして、その集中を途切れさせずに通力が像を結んだ。
ポン、という音と共に現れたそれは、小さな茅葺の家であった。
天と莉々が唖然としていると、鳴雪が得意げに言う。
「我らの力を使えばこれくらいのことは可能だ」
「おにぎり出してくれたのと同じ原理?」
莉々が訊ねると、鳴雪はうなずく。
「そうだ。通力で物質を再現したのだ」
わかるようなわからないような説明を莉々が聞いていると、砕花が家の前で懐手をしながらため息を零した。
「まあ、こうした大きなものは持ってひと晩だ。所詮俺の術はまやかしなのでな」
まやかしだと言うけれど、莉々が試しに戸板に触れてみてもその質感は確かなものだった。棘が刺さりそうなほどだ。
「へぇ。大したもんだな」
と、天も感嘆する。そして、鳴雪をちらりと見遣った。
「お前もできるのか?」
「うむ。砕花たちがそばにいれば同等のことはできる」
「便利なんだか不便なんだかよくわからないな」
グサ、と傷ついた素振りを見せる鳴雪を特に構うでもなく、砕花はさっさと家の戸を開いた。
「飯にしよう」
「あ、うん」
砕花がいちいちリアクションしないところを見ると、鳴雪は常にこうなのだろう。
中に入ると、まず吹き抜けの中央に囲炉裏があった。そこを囲み、丸い御座が置かれている。四人はそこに座った。ただ、囲炉裏にかかった鍋は空である。そこですかさず鳴雪が言った。
「ここは私が出そう」
そうして、ポンと音と煙を立てて鍋の中を満たした。季節柄暑いのだが、鍋物だった。葉物野菜と茸と肉――美味しそうではあるけれど、天はすかさず言った。
「これ、なんの肉だ?」
鼠、とかそうした答えが返ってこないことを莉々が祈っていると、鳴雪は不思議そうに首をかしげた。
「猪肉だ。天殿は苦手か?」
「いや、それくらいなら食べる」
許容範囲である。二人してほっとした。
莉々は鳴雪に頼んで器と箸を出してもらうと、その鍋物を取り分けた。出したのは鳴雪なのでまずそれを鳴雪に差し出す。
「はい、鳴雪さん」
「ああ、ありがとう」
木目の浮いた碗に箸を添えて差し出すと、鳴雪は嬉しそうにそれを両手で受け取った。莉々の手ごと椀を包み込む。テレテレと嬉しそうに手を離さない鳴雪に、天が低くぼそりと言った。
「新婚生活みたい、とか考えてるだろ」
「みたいというか、そろそろ――」
その先を天は目で遮った。化け狸の長を目で黙らせるなんて、兄が人間離れしてきたと莉々が少し心配になったのは内緒である。性格も何かきつくなったような気がしないでもない。
その後、小さな石風呂を出してもらい、交互に入った。莉々が入っている間、鳴雪は天と顔をつき合わせていたらしい。少しでも動いたら錫杖を見舞う――と脅しながら。けれど、覗かれたくないので莉々は可哀想だとは思えなかった。
寝間着の浴衣も鳴雪が出してくれたものを着た。白地に紺の朝顔柄が可愛らしかった。
濡れた髪を拭きながら戻った莉々に、鳴雪はがっかりするかと思ったら、それはそれで嬉しそうだった。
「湯上り!」
口は災いのもとと言うけれど、本当にそうだ。
天に両耳を引っ張られている鳴雪を、砕花は見なかったことにしていた。
そうして、当然夜は莉々だけ特別に部屋を分けてもらった。それでも天は鳴雪に油断のならない視線を投げかける。
「じゃあ、お休みなさい」
深々と頭を下げて障子戸を閉めた莉々は、畳の部屋の中央にあった布団を敷いた。掛け布団は薄手のものだ。
色々なことがあった後なので、莉々は横になると疲れを感じた。ちゃんとした布団で眠れて、ありがたい。問題があるとしたら、目覚まし時計もなく起きられるかということだけだ。
寝入るまでに、多分時間はかからなかった。暑さを寝苦しいとも思わずに眠りについた。
眠りの中、莉々を呼ぶ声がしたのは夢であったのかもしれない。
「莉々殿」
鳴雪の声のような気がした。けれど、眠くてまぶたが持ち上がらなかった。気のせいだとやり過ごす。
すると、髪を撫でる手を感じた。
「よく眠っているようだな。思えば、疲れているのも無理はない。可哀想に」
手は優しく労わるように莉々に触れる。
「もうあんな思いはさせぬようにそばにいる。すまなかった」
切ない声だった。これも、夢なのだろうか。
翌朝になって莉々はすっきりと目が覚め、着替えて部屋の外に出た。
すると、火の入っていない囲炉裏の前に座っていた鳴雪と天が顔を向けた。鳴雪はにこりと笑う。
「おはよう、莉々殿」
「おはよう、鳴雪さん、お兄ちゃん」
莉々も笑って挨拶すると、鳴雪は心配そうに座ったまま莉々を見上げた。
「昨晩はよく眠っていたが、疲れは取れただろうか?」
「あ、うん。おかげ様で」
そう答えた瞬間に、天が眉間に皺を寄せた。
「よく眠っていた? まるで見てきたみたいに言うな?」
「へ?」
鳴雪はそぅっと天を見遣る。
「よ、よよ、よく眠れたみたいだという意味で!」
慌ててつけ足す鳴雪は、やはり嘘がつけないようだ。霊力の錫杖でバチンと叩かれ、鳴雪は狸の姿でしくしく泣いた。
「まったく、油断も隙もない」
憤る天を宥めつつ、莉々は狸の姿になった鳴雪を抱き上げた。
「心配してくれたんだよね、鳴雪さんは」
夢うつつで聞いた言葉を覚えているから、怒る気にはなれなかった。狸の姿に弱いわけではない。それもなくはないけれど。
狸の姿で莉々に甘える鳴雪に、戸口から入ってきた砕花が凍てつく視線を向けながらつぶやく。
「夜這いに行ったら、よく寝ていたから諦めただけじゃないのか?」
そのひと言に、莉々が鳴雪を落とした。
❖
森を抜けた先は街道であった。少し離れたところに広がる青田の緑が眩しい。
そうした道では、旅装束の人々ともすれ違う。彼らに比べると、莉々たちは軽装だった。
砕花は出してくれた家を一瞬で畳み、跡には何も残らなかった。荷物がないというのは楽ではある。
明るい日差しの中、はっきりとしたあてがあるわけではないけれど、とりあえずは人の多い場所に向かうことにした。
「莉々殿、莉々殿」
道中、ずっと鳴雪が莉々の右と左を行き来していた。
天と砕花は何やら馬が合うらしく、後ろで話し込んでいる。砕花の年齢が見た目通りかはわからないけれど、一見すると同世代ではある。
莉々は昨晩のことを思うと、この狸をどう扱っていいのかわからなかった。そういうわけでとりあえず放置しているのだが、口を利いてくれない莉々に鳴雪は焦ってつきまとっているのである。
しょんぼりとした顔でつきまとわれると弱い。けれど、ここで何事もなかったかのように振舞うと次がありそうな気がする。
どうしたものかと困惑する莉々の手を、急に鳴雪が握った。
「ふあっ」
驚いて変な声を出した莉々に、鳴雪は真剣な面持ちで迫る。
「私は真剣に莉々殿と祝言を挙げたいと考えている。中途半端な気持ちではないのだ」
いくら狸だからといって、人の行き交う往来でプロポーズするのはどうなのだ。じろじろと見られている上、どこか冷たいヒソヒソ声が突き刺さる。莉々が恥ずかしさのあまり赤面して固まると、天の草履が鋭く鳴雪の頭を直撃した。
「うちの妹が変な目で見られてるだろうが!」
鳴雪の手がゆるんだ隙に、莉々は素早く手を引いて後ろに隠した。
「天殿、そろそろ認めてはもらえぬだろうか?」
「ふざけるな」
「いや、本気で……」
砕花はそんな二人を眺めつつ、
「なんだろう、こんな話をしてる場合ではないはずなのにな?」
とぼやいた。かなり真っ当な意見だったけれど、誰も聞いていない。
四人は十字になった辻の中央でなんとなく立ち止まった。そこで砕花は改めて言う。
「天に話を聞いたのだが、封印に触れる前に獣の声を聞いたのだそうだ。それに誘われるようにしてやってきたのだと」
そこで鳴雪はきょとんと首をかしげた。
「そうなのか?」
「大事な話だろうが。まず、どうしてこういう事態が起きたのか、そこを突き詰めろ。今後何が起こるかもわからないのだからな」
ビシリと手厳しく言った砕花に、鳴雪は感心していた。
「さすが砕花は頼りになるなぁ」
褒められても嬉しくないのか、砕花は堂々と顔をしかめて舌打ちした。
「お前がのん気すぎるのだ」
砕花の小言にも鳴雪はやはりのん気に構えていた。
「獣の声……」
そう、莉々は唇に指を添えて小さくつぶやいた。そうして、あの時のことを思い出す。
「ねえ、お兄ちゃん、あの声、シロちゃんには聞こえてなかったね」
莉々と同じ場所にいた、幼なじみの少年紫緑には聞こえていなかった。
天もうなずく。
「俺が教室にいても聞こえるような声だった。でも、そう言われてみれば教室では誰も気に留めてなかったかもな」
「二人にしか聞こえない獣の声、か。鳴雪、お前じゃないだろう?」
鳴雪はうなずく。
「知らぬな」
砕花はひとつ嘆息するとかぶりを振った。
「まあ、そうだろうな。となると、残念ながらそれではまだ手がかりが少なすぎる。けれど、このことは留意しておこう」
あの声がなければ、二人が封印に触れることはなかったかもしれない。
新たに水面上に浮かび上がった謎に、四人が釈然としないものを抱えていると、にわかに雨が降り出した。先ほどまで晴れていたというのに、気づけば鉛色の雨雲が空一面を覆っている。ぽつりと雨が落ち、湿ったにおいがした。
「にわか雨? おかしいな?」
鳴雪が不思議そうに言う。おかしいも何も実際に雨は降っている。この十字辻は雨宿りのできそうな場所もなく、莉々は慌てた。けれど、鳴雪と砕花がポン、と同時に傘を出した。蛇の目の傘を鳴雪は莉々へ、砕花は天へ差し出す。おかげで濡れずに済みそうだ。
「では、行こうか」
ほっとした莉々は鳴雪の言葉にうなずいた。
暗雲は、まだ晴れそうもない。