壱 ~三~*
小さく呻いて莉々は目を覚ました。ヒタヒタと、かすかに水音がする。
背中が痛かった。莉々が寝かされていたのは、剥き出しの岩肌の上だった。生ぬるい気温でも、岩肌はひやりと冷たい。
「ここは……」
頭をさすりながら莉々は体を起こす。
気を失う前の記憶をぼんやりと思い出した。
着物に着替えるため、天と鳴雪と別れて一人、奥の座敷に通された。そこには選んだ着物とは違う、彼岸花の着物しかなかった。仕方がないのでそれに袖を通した。みっともなくない程度には着られたと思う。
けれど、その部屋には鏡がなかった。とりあえず店主に鏡を見せてほしいと頼もうとした。
障子戸を開けてみたところ、近くに店主の姿はなかった。莉々は諦めて部屋に戻り、脱いだ制服を畳んでから天と鳴雪のところに戻ろうとした。
その先が思い出せない。畳の上に正座した、そこから途切れている。
誰かが莉々の気を失わせ、ここまで運び込んだということだろうか。そう考えてゾッとした。
莉々を浚ったのは妖怪か。だとするなら、化け猫の時のように食われそうになっているのかもしれない。
「お、お兄ちゃん」
とりあえず呼んでみたけれど、近くにはいないようだ。鳴雪もいない。
代わりに何かをズルズルと引きずる音がした。
「おや、気がついたようだねぇ」
その声はしわがれていた。
かすれていても婀娜っぽい口調から女性であると思った。莉々はハッとして振り向く。
そして、後悔した。
背を向けたままでいた方がよかったのではないかと――
恐怖のあまりその場にへたり込んだ莉々に、『彼女』は苛立ちを含んだ声で言う。
「醜い我が身がそんなにも恐ろしいかぇ」
莉々は震えるばかりでとっさに返事ができなかった。
大きな岩の上から莉々を見下ろしていたのは、蛇である。正確には、蛇の顔をした何かだ。
耳がなく、口は大きく裂け、そこから鋭利な牙と赤く細い舌がチロチロと覗く。鱗と皮に覆われた頭部に髪は生えておらず、般若の角が二本生えている。
蛇の顔から続く長い首の下は人間のようであり、それでも足元は蛇のものである。赤く艶やかな着物がかえって恐ろしく感じられた。袂から覗く手は人の形ではあるけれど、蛇の肌だ。蛇と人とが混ざり合っている。
この異形の姿を見た者は、まず莉々と同じ反応をしたことだろう。しかし、蛇はそれを否定したいのか、莉々を責めるように言った。
「私とて、何ももとよりこのような姿であったわけではない。私はヒトであった。ヒトの――女であったのだ。お前と同じように」
そうして蛇は莉々の着物を指さす。
「その着物の柄がなんだか知っているのかぇ?」
莉々は張りつく喉でなんとかして声を漏らす。
「ひ、彼岸花?」
すると、蛇はクツクツと笑った。
「そう、いくつかの呼び名がある。そのうちのひとつが、『蛇花』さ」
その絡みつく声に、莉々はヒッと短く悲鳴を上げて口を押さえた。
そんな莉々に、蛇は笑う。
「その着物には私の念を込めた。お前はそれとは知らずに袖を通したねぇ」
ズルリ、と岩肌と着物の擦れる音が響く。莉々は凍りついたように体が動かなかった。
蛇はゆるゆると近づいてくる。
「私はね、昔から美しいと言われて育ったんだよ。美貌が何よりの自慢だった。けれど――」
言葉が切れたのは、今なお薄れない憎悪がたぎるからであったのかもしれない。蛇は口惜しそうに牙を剥いた。
「けれど、花の色は褪せるもの。肌は乾き、髪は痩せて白いものが混じり、老いて衰える容姿を嘆いても、若さは戻らぬ。そうして夫は若い妾を囲い、私を顧みなくなった」
蛇は黄色に黒い筋の入った眼を、憎らしげに莉々に向ける。まるで莉々がその妾でもあるかのように。
「恨んで憎んで毎日を過ごしているうちに、気づけば私はこのような姿になっていた。この奇怪な姿に」
強い嫉妬と憎悪がただの女性を蛇に変えてしまった。それほどまでに強い恨みを抱き続けた彼女は、どんなにかつらかっただろう。
だとしても、憐れだと思う以上に恐ろしさが先に立つ。
莉々がろくに口も利けずにいると、蛇は息がかかるほど近くで言った。
「娘、お前は若く美しい。私の心など少しも理解はできぬだろう」
カタカタと震える莉々から蛇は顔を離した。そして、きっと笑ったのだろうと思う表情になる。
「このような姿になって嘆き続けたが、ひとつだけ良いこともあった。ヒトでなくなった私は、ヒトにはできぬことができる。私には強い力がある」
細く冷たい指が莉々の頬を撫でた。莉々がビクッと体を強張らせると、蛇は莉々の顔を乱暴につかむ。
「お前の体を私と取り替えてやろう。そうしたら、お前にも私の心がわかるだろう」
莉々は愕然とした。
憐れだ可哀想だと口で言えたとしても、代わってやれるかと言えば、それはできない。家族や友達でさえ、莉々が蛇の姿になれば離れていくだろう。
まず、誰も蛇が莉々だとは気づいてくれないのではないだろうか。莉々の姿をした蛇が莉々なのだ。
やはり、姿は大事だ。綺麗事だけでそんなことはないとは言えない。
あんなに莉々が好きだと言う鳴雪でさえ、莉々が蛇になれば嫌な顔をして突き放すだろう。
彼女は老いたこと以上に、夫が自分に興味をなくしたことに、ひどい孤独と絶望を感じたのだ。
共に老いてそばにいてくれる夫であれば、彼女は皺の分だけ幸せを感じられたはずなのだ。
莉々はぽろりと涙をこぼした。
「涙を零したところで救いなどない」
蛇の言葉は、泣き続けたからこその言葉だった。そう思うとより悲しい。
そうした時、岩の切れ目から声がした。光と共に差し込んだ声に聞き覚えはなかった。
「取り込み中にすまぬがな――」
そう、淡々と言う。この状況と蛇の姿に臆した様子もなく、その声は美しく澄んでいる。
突然のことに驚いて莉々の涙も止まった。
逆光になったその姿は、どちらかといえば細身で小柄だった。トン、と軽い音を立てて上から降りてきた人物に光が降り注ぐ。細かな埃が舞う光の中で、その人物は輝いて見えた。それは美しい少年だった。
艶やかで癖のない薄茶色の髪をひとつに束ね、着流しに羽織という、どこかの若旦那のような風体。中性的に整った面立ちの澄んだ眼が莉々と蛇に向く。
少年は小首をかしげた。その時、サラリと耳の辺りにかかる髪が揺れ、その下が見えた。それは、獣の耳の一部であった。フサフサの毛に覆われた耳である。蛇もそれに気づいたようだ。
「……獣?」
ただ、目の前の少年は品が良く、耳の一部だけでは判断ができなかった。鳴雪は完璧に化けるのだが、どこか抜けた性質が狸である。この少年は落ち着いていて、それとは真逆に感じられた。狸の逆といえば――
「狐さん?」
莉々はつぶやいてみる。けれど、少年はそのひと言を無視した。答えてやる義理はないとでも言うのだろうか。
「ここは私が作り出した場所だ。一体何をしに来た? この娘の知己か?」
すると、少年ははっきりと言った。
「いや、面識はない」
優しげな顔立ちではあるけれど、この少年は淡白な様子だ。それに肝が据わっているのか、蛇を前にしても平然としている。
急な闖入者を蛇も扱いあぐねている様子だった。そうしていると、少年はふぅ、と嘆息した。
「本来ならば、蜘蛛の巣にかかった蝶を助けるような真似は趣味ではない。けれど、その娘には少しばかり訊ねたいことがある」
莉々はハッとした。一見して狐っぽいけれど、彼はもしかすると――
「狸、さん?」
恐る恐るつぶやくと、少年は無表情のままでうなずいた。
「正解」
「もしかして、鳴雪さんの?」
その名を聞くと、少年は毛に覆われた耳をぴくりと動かした。
「やはりその名を知っておるか。ヒトだというのに、かすかに鳴雪のにおいがすると思った」
蛇を挟んで会話をする二人に、蛇は苛立たしげに唸った。
「化け狸風情に指図される謂れはない。このまま去るのなら見逃してやるが、この娘を連れ去るというのならその皮剥いで、四肢を引き裂いてやろう」
シャァと大きく裂けた口を開ける蛇に、少年狸は目を細めてみせた。
「真蛇、か。深く濃い恨みを持つ者の成れの果て。そんな生は苦しかろうに」
「黙れ。私はこの娘と入れ替わって生き直す。次こそは幸せに暮らすのだ」
「ほう」
まともに論争するつもりもないのか、少年狸はあっさりと会話を打ち切った。そうして、蛇を無視してその後ろの莉々に訊ねる。
「鳴雪は近くにいるようだが、そばには誰かおるのか?」
「わたしのお兄ちゃんが一緒だと思うけど……」
莉々が答えると、少年狸は柳眉を顰めて首をかしげた。
「お前の? それはヒトの子だろう? 我らの同胞は誰もおらぬのか」
「あ、うん。狸さんは誰も。探してたところ」
それを聞くと、少年狸は盛大に嘆息した。
「そうか。ではここで悠長に時間を潰している場合ではないな」
そうしてようやく少年狸は蛇に目を向けた。
「――というわけだ。悪いが先を急ぐ故、その娘は連れてゆくとしよう」
「偉そうな狸めが。娘は渡さぬ!」
莉々にとってはこの少年狸が頼みの綱である。祈るような気持ちで先を待った。
蛇の執着に、少年狸はゆらりと首を傾けた。
「そうなると力ずくということになってしまうが、致し方ない」
そう言ったかと思うと、ポゥッと彼を囲むように五つの青白い狸火が現れた。蛇はその火を見て一瞬だけ怯んだ。莉々は慌てて下がる。
透明感のある少年狸のまとう空気が、どこかどす黒いものに変わったような気がした。莉々はふと上を見上げる。小さな石のかけらが落ちてきたのだ。
そこを見上げてぎょっとした。赤く光る眼がぎっしりと暗がりの中にある。これも鳴雪の手下の妖狸たちだろうか。狸たちに囲まれていることに気づいた蛇は憎々しげに吐き捨てる。
「狸など、何匹そろっても蹴散らしてくれる!」
「こちらとしては平和的な解決がしたいというのにな」
少年狸は面倒くさそうにつぶやく。一触即発――そんな状況に横やりが入る。
莉々のそばで聞き慣れた声がした。
「オン・ヂリタラ・シュタラ・ララハラバ・タナウ・ソワカ」
その直後、岩の一角が鋭い音を立てて切り崩された。切断された岩が斜めにずれ、それらが崩れた際に粉塵を上げる。
けれど、その粉塵の中のふたつの影を莉々が間違えることはない。
「お兄ちゃん!」
涙声で呼ぶと、天よりも先に飛び出してきたのは鳴雪だった。莉々の無事な姿を見て、パッと顔を輝かせる。
「莉々殿!」
両手を広げた鳴雪を、うっすらと輝く日本刀を手にした天が背後から押しのける。力一杯押された鳴雪は、ぎゃんと声を上げて横に吹き飛んだ。
「莉々、無事だな?」
「うん!」
天が持つ日本刀は、いつもの錫杖のように霊力で作り出したものだろうか。
莉々は立ち上がって天の胴に抱きついた。ギュッと腕に力を込める莉々の頭を、天は優しく撫でてくれた。鳴雪はその様子を羨ましそうに眺めている。そんな鳴雪を慰めるように、そばにわらわらと妖狸が群がる。そこでようやく鳴雪は少年狸の存在に気づいたのだった。
「あ、砕花!」
少年狸――砕花は、眉間に深い皺を刻み、顔をしかめて嘆息した。気づくのが遅いと呆れたのかもしれない。
鳴雪はうきうきと砕花に駆け寄る。そんな時、蛇の怒りが爆発した。
「うっとうしい狸どもめ! 根絶やしにしてくれるわ!」
シャアシャアと唸る蛇の声。鳴雪はおもむろに蛇に顔を向けると、冷たい目をして言い放つ。
「おぬしが莉々殿を攫った蛇だな。莉々殿に恐ろしい思いをさせたこと、後悔させてやらねばなるまいな」
さわり、とその場の空気が変わった。
天も莉々を背に庇うと、刀を構え直した。