壱 ~一~
莉々は山道を歩きながら空を見上げた。
朝になって、空の色はうっすらと桃色と藤色が混ざっている。絵画のように幻想的な空だけれど、奇怪には違いなかった。
鳴雪の話を信じないわけではない。それでもこうしたものを目にすると、やはりここは自分たちの常識が通用しない場所なのだと改めて思う。
そんな莉々を鳴雪はニコニコと眺めていた。それから、うぅんと唸る。
狸から人間に化けている鳴雪は、毛の生えた耳も尻尾もついておらず、涼しげで袴のよく似合う青年だった。天も背は低くないが、鳴雪の方が少し高い。
黙っていれば端整な面立ちの青年であるが、鳴雪はいつもその容姿を台無しにする。
「砕花にはもちろん早く会いたいのだが、ひとつ心配なことがある」
砕花というのは鳴雪の手下の百匹頭狸で、鳴雪が最も信頼する狸なのだとか。
「なんだ?」
天は表情を厳しくした。
この世界は天や莉々にとっては危険極まりない。ここへ来てすぐに化け猫に食われそうになったほどだ。だから、鳴雪の言う心配事とやらは不安の種になる。
鳴雪はそれを至極真剣に言った。
「砕花も莉々殿を気に入ったらどうしようかと」
「…………」
天の目が冷え冷えとしたことなど、鳴雪は気づいていない。
鳴雪はうんうん唸りながらまだ言う。
「もしくは、莉々殿が砕花に夢中になってしまうというのも恐ろしい」
当の莉々は乾いた笑いで躱した。
無言の兄妹に、鳴雪は不安そうな目を向ける。
「砕花は有能で頼りになるからな、心配だ……」
「鳴雪さんはその砕花さんが大好きなんだね」
莉々が苦笑しながら言うと、鳴雪は躊躇いなくうなずいた。
「うむ。自慢の友だ。早く会いたい……いや、会うと危ないのか……」
ブツブツとつぶやく狸に、天はもう突っ込む気力もなかったらしい。放置された。
❖
町と聞いて、莉々は自分たちの住む町を想像していた。けれど、それは大きな誤りである。
山を下りた麓にあった町は、まるで時代劇のような町並みだった。瓦屋根の建物が軒を連ね、行き交う人々も皆着物である。
思えば鳴雪も袴姿だった。それに対し、下校中だった莉々はブレザー、天は学ランである。それも、天は猫又との戦闘のせいでところどころ破れていた。
――人目が気になる。チラチラと兄妹を見ている人たちが多かった。
「……もしかして、わたしとお兄ちゃんの格好って目立つ?」
「うむ、珍しいな。もちろん莉々殿は何を着ても愛らしいのだが」
すかさず言う鳴雪に構わず、天はつぶやく。
「あまり目立ちたくないな。着替えた方がいいか……」
「お金ないよ。ここでもお金は要るよね?」
そこで二人は鳴雪を見た。化け狸の鳴雪なら葉っぱを金にできるのではないかと、少しずるいことを考えてしまった。
すると、鳴雪はあははと笑った。
「金銭は神通力で出すと色々と厄介なのだ。まあ、ここはツケで買おう」
意外と堅実な答えだった。神通力がもう少し戻れば、おにぎりを出したように着物くらい一瞬で出せるらしいが。
道行く人々はやはり、莉々と天に不審そうな目を向ける。
皆、着物姿ではあるけれど、日本髪の髷は結っていない。下ろしていたり束ねている程度である。ここは江戸時代のように思えたけれど、その流れを汲むだけで独自の発展をしたのだ。
それとも、これは莉々たちの世界と混ざった影響だろうか。
それにしても、世界が歪むような大事が起こったというのに、町の人々は普通である。慌てた様子もなく、楽しげでさえある。それは彼らが人間ではないということだろうか。
そんな疑問を持って鳴雪に訊ねると、鳴雪は首を振った。
「いや、ここはヒトの町だ。皆が平然としておるのは、世界が混ざってしまったことに気づいておらぬのやもしれぬな」
「そ、そんなことってあるの?」
驚いて莉々が言うと、鳴雪はうなずく。
「うむ。要するに、彼ら『こちら側の人間』は封印が解けた時、『世界の一部』であったのだ。彼らの思考もすべて混在してしまい、彼らにとって世界はもとより『こう』であったということかと」
「世界が混ざったと知らないやつが多いってことか?」
天も愕然とした。鳴雪はつけ足すように言う。
「当事者の莉々殿と天殿、それからそれなりに力のあるあやかしともなれば話は別だろうが」
「じゃあ、封印がどうとか、無闇に話すなってことだな」
そう言って天は嘆息する。鳴雪はもう一度うなずいた。
「それが賢明だ」
そんな話をしながら進むと、埃っぽい道に柄杓で水を撒く、前掛け姿の丁稚らしき少年がいた。鳴雪が店先で足を止めると、丁稚は顔を上げる。
「お、呉服屋だな。よし、ひとつ見立ててもらおう」
「う、うん……」
三人は丁稚に迎え入れられ、その呉服屋の軒先を潜る。中へ入ってすぐ、老年の店主が迎え入れてくれた。正確な年齢まではっきりとしないものの、しみの浮かんだ禿頭に皺の深い顔をしている。渋い色合いの羽織はさすがに良い仕立てだった。
「ようこそいらっしゃいませ」
笑顔で色々な感情を覆い隠している。何故か莉々はそんなふうに感じてしまった。
この年齢になれば体の節々は痛むだろう。老いて、行く末に対する不安もある。未だに商売に関する悩みも当然あるだろう。
そうしたものを抱えていれば、それも無理はない。莉々はそう思い直す。
「この二人に合う着物がほしい。旅の途中でな、反物から仕立てている暇はない。すでに出来上がったものを見せてほしいのだが」
にこにこと愛想よく言う鳴雪は羽振りが良さそうに見えただろう。一瞬、店主は嬉しそうに口元を綻ばせたけれど、天と莉々の二人を見た途端にまたしても複雑な面持ちになる。二人の格好があまりに馴染みのないものであったせいかもしれない。
「これはまた……変わった装束でございますな」
「ん、まあ、あまり深いことは気にするな」
鳴雪は楽天的に笑っている。莉々は黙って成り行きを見守った。
「天殿は動きやすさ重視でいいだろう」
「そうだな」
天は普段からシンプルな服が多い。アクセサリー等もつけているのを見たことがなかった。
そうして、鳴雪はちらりと莉々を見下ろす。そして唸った。
「莉々殿には何が……なんでも似合うだろうが、だからこそこれと決めるのが難しい……」
しつこく唸っている。天は面倒くさそうに言った。
「莉々、自分で選べ。この調子だと日が暮れる」
「うん……」
艶やかな黒い板敷の店内。詰まれた色とりどりの反物を一瞥しつつ、衣紋掛にかかった数点も見た。けれど、そうしたものは綺羅綺羅しくて、あまりに大仰だった。金銀織り交ぜた鶴や牡丹――重たそうで町を歩くには向かない。
そんなことを思っていると、店主が莉々のそばへ音もなくやってきた。
「お気に召すものはございましたか? お若い娘さんでございますから、桃色や緋色もよくお似合いかと思います」
店主がそう言って勧めてくれたものは華やかだったけれど、この奇怪な場所で異物のような自分が目立っていいことなどひとつもない。
「えっと、あんまり派手じゃないのがいいんですけど」
苦笑気味に言うと、店主は何か急いたように長持から着物を取り出した。
「そうですね、ではこちらなどいかがですか?」
店主が莉々の前に広げたのは、黒地の裾の方に細かな菊の柄の入った小袖だった。
「こちらに赤い帯を合わせるくらいならば、それほど派手にはならないかと」
莉々は振り返って天と鳴雪を見た。天はすでに決めたらしい着物を手にしている。鳴雪に訊くと長引きそうなので、莉々もこれにしようかと思う。
「はい、じゃあそうします」
笑って答えると、店主はほっとした様子でうなずいた。
「そうですか、ではお着替えのための別室へご案内します」
あのほっとした顔に、莉々はかすかに違和感を覚えた。何故なのかはわからない。それも店主の笑顔に流されてしまった。
これから着物を着るわけなのだが、莉々は着つけを母から習っている。天も普段から道着を着慣れている。二人とも自力で着られるだろう。
まさかこんなところで役に立つとは思わなかったけれど。
「お兄ちゃん、鳴雪さん、ちょっと着てくるね」
一応声をかけると、鳴雪がすかさずついてこようとした。
「手伝おう」
天が素早く鳴雪の耳を引っ張る。引っ張った上に、ねじった。
「いだだだ」
「この色ボケ狸が!」
鳴雪は傷ついたように目を潤ませる。
「天殿、私はただ純粋に――」
「手伝おうと思っただけだって?」
ギロリと睨む天に、鳴雪はこくりとうなずく。
「何かいけなかっただろうか?」
「色々とな」
鳴雪はまたしてもショックを受けたようで、いじけた。けれど天の眼差しは冷ややかである。
莉々はどうフォローしたものか困った。しかし、覗かれたくはない。
「え、えっと、じゃあ後で」
そそくさと店の奥へ向かった。天も着替えるのだろうけれど部屋は別だ。
着物と帯を手にした店主に案内されるまま、莉々は渡り廊下を行く。
店主が歩くたび、キシリキシリと廊下が鳴る。途中、上品に整えられた小さな庭園が見事だった。
廊下の突き当たりで店主は奥の間の障子戸を開く。中は畳の、ごく普通の和室だった。壁には鷺の描かれた掛け軸、いけられた花は菖蒲のようだった。
けれど。
何か違うにおいがした。
いつか嗅いだことのあるようなにおい。
なんのにおいいだか、すぐには思い出せなかった。
「こちらをお使いください」
店主は部屋の中に入らず着物と帯を中へ置いた。
「ありがとうございます」
莉々は微笑んで頭を下げた。それからおずおずと中へ入ると、店主は一度低頭してから障子戸を閉めた。
静かな空間だった。むしろ、静か過ぎて落ち着かない。早く着替えを済ませてしまおう。遅いから手伝いに来たと鳴雪がやってきては困る。
莉々はブレザーのボタンに手をかけ、するりとブレザーを脱ぐ。そうして襟元のリボンを解いた。それを脱いだブレザーの上に落とすと、その時、何か背中に突き刺さるような視線を感じた。
ゾクリ、と身震いするほどに強い。
慌てて振り向いたけれど、障子戸は閉まったままである。覗くのは鳴雪くらいのものだろうけれど、天がそばにいる以上、そう簡単にやってこられないはずだ。
疲れているのかな、と莉々は嘆息した。そうして、手早く襦袢を着込む。スカートは着てから脱いだ。女子高生の着替えのテクニックである。
覗かれていないと思うけれど、念のためだ。
そうして、莉々は黒地の着物を広げ、思わず首をかしげた。
着物の柄が違うような気がした。
見せてもらった時には細かな菊の柄だったけれど、この着物は広げてみたら大柄の彼岸花であった。
赤く細い花弁の花。
彼岸に咲くとされる、どこか不安を煽る、赤い花。
同じ黒地であったから、店主が間違えてしまったのだろう。莉々は嘆息した。
すでに襦袢姿である。部屋から出て取り替えてもらうのも大変だ。
まあいいかと軽い気持ちで袖を通したのだった。