拾 ~四~*
亜浪も頭ではわかっていた。
それでも、一縷の望みにすがっていたかったのだろう。確かな言葉にされると、悲しみが押し寄せる。
白蔵主を慕う亜浪の慟哭に、戦場とは思えぬような空気が漂った。その想いを知る莉々も鳴雪に寄り添って泣いていた。莉々の肩を鳴雪が優しくさすって気持ちを落ち着かせてくれる。
戦いの気は薄れ、皆が呆然と立ち尽くしている中、その中心――莉々と鳴雪のそばに一筋の光が現れた。亜浪はもう何の気力も湧かぬのか、その場にへたり込んでいる。その光をハッとして見つめたのは、鳴雪の方だった。
莉々も顔を上げると、その光は徐々に膨らんで、まるで人間のような形を取った。
それが誰であるのかを狸たちはすぐに感じ取ったらしく、慌てて駆け寄るとひざまずいた。鳴雪にもそのような姿勢を見せたことのない砕花でさえも例外ではない。
莉々が驚いていると、鳴雪もあんぐりと口を開いてから言った。
「父上!?」
パン、と光が弾け、その姿が露になる。背の高い、白装束の男性だった。
鳴雪に父と呼ばれた彼は、確かに鳴雪によく似ていた。しかし、兄弟にしか見えぬような若々しさで、作る表情も似通っている。親しいとまでは行かぬ間柄なら、鳴雪当人と勘違いしてしまうのではないだろうか。
鳴雪と先代とを間違えた、いつかの温泉宿の猿たちのことを思い出した。
ただ、決定的に違うのは雰囲気だ。
妖怪とは思えぬような清々しさとでも言うべきか、どこか神聖な気すらしてしまう。
莉々は頭が混乱してきた。そもそも、鳴雪の父である先代は亡くなったのではなかっただろうか。
目の前の彼は魂だけの存在だとでもいうのか。
それに気づいた莉々が身震いすると、鳴雪は莉々から手を放して父に向き直った。
「父上、お久しゅうございます。まさか再びお目にかかれるとは。母上もお達者ですか? ええと、唐突ですが、私はこの莉々殿を妻として迎えたく思うております。父上に紹介できて嬉しゅうございます」
矢継ぎ早に上機嫌で告げる。かなり一方的であった。
ハラハラとした莉々だったけれど、さすがは鳴雪の父親であった。同じようにニコニコとしている。
「あいつも息子のお前のことを心配しつつ見守っておったのでな、喜んでおる。うむ、よい娘御だ。しっかりな」
「はい!」
今はそれどころではない、とさすがの砕花ですら突っ込めなかったようだ。
莉々はおずおずと挨拶をする。
「さ、西原莉々です。よろしくお願いします。――あの、ところで鳴雪さんのお父様は亡くなられたのだとばかり思っていたのですが、違ったのですか?」
思いきってそれを訊ねてみた。先代には恐ろしさこそないものの、それでも幽霊だと言われればやはり怖い。先代は驚いたように鳴雪を見た。
「なんだお前、私が死んだことにしたのか?」
「はて? そのように申した覚えはございませんが」
と、鳴雪も首をかしげた。
けれど、友の武太夫に会えないままに家督を鳴雪に譲っていってしまったと言われた。それは亡くなったという意味ではなかったのだろうか。
先代はクスリと笑う。
「私は友である武太夫に封じられることとなってしまった。その封印は私たちが解くことなどできない代物でな、これではいかんと思って私は家督を鳴雪に譲って妻と共に去ったのだ」
「え?」
「武太夫の力は神仏により授かりしもの。私の妖力よりも勝る。そこで私は、武太夫に力を授けられた宇佐八幡大菩薩様のもとを訪ね、神使としてお仕えすることにしたのだ。そこで宇佐八幡大菩薩様のお役に立てば、いつか武太夫の魂に会わせてくださると仰られたのでな。今回ようやく下界へ向かう許可を頂けて飛んできたのだ」
目の前の狸は、すでに妖怪ではなく神の使いである。
鳴雪たちとの決定的な違いは、やはり身にまとう空気だ。先代が持つ空気は修験者のように澄んでいる。
「まあ、予想外のところから封印は解けましたが、武太夫殿にお会いすることは叶いましたか?」
鳴雪が問うと、先代は目を瞬かせた。
「なんだ、気づいておらなんだのか?」
「何をです?」
首をかしげた息子にではなく、明後日の方を向いた先代は、顔を鳴雪に向け直すと微笑んだ。
「どうやらこちらに向かっておるようだ。呼び寄せよう」
武太夫が向かってきているというのだろうか。
大きく腕を振るって空間を歪めた先代が呼び寄せたのは、武太夫ではなく、天であった。
「お兄ちゃん! 水巴さんも!」
急なことだったらしく、地面に放り出された天の腕にしがみついている水巴も状況についていけずに呆然としていた。天も皆を見上げ、莉々の無事な姿にほっと息をついた。
「莉々! よかった、無事だな?」
「うん!」
大きくうなずいた莉々に、鳴雪がそっと言う。
「天殿は窮地の水巴を助けに走ってくれてな。天殿、私の手下を助けてくれて感謝する」
その時、先代もニコニコとして口を開いた。
「彼の力ならば、少し筋道さえ立ててやればいかようにもなる。見事なものだったぞ」
その声を聞いた瞬間、天は大きく目を見開いて立ち上がった。
「あの時の!! その声――そうだ、誰かに似てると思ったけど、鳴雪だ。鳴雪の声に似てたんだ」
驚きから礼節も吹き飛んだ天に、狸たちはハラハラしていたけれど、先代は気にしていない様子だった。
「お兄ちゃん、鳴雪さんのお父様とお会いしたことがあったの?」
莉々が控えめに訊ねると、天はうなずいた。
「ああ、妖怪に連れ去られた水巴を追う途中で、行き詰った俺の力を引き出してくれたんだ。利玄さんに会って、少しだけ先代の事情は聞いてきたんだけどな、まさかあれがそうだったなんて……」
「そのようなことがあったのか」
鳴雪も納得していたけれど、ふと何かに気づく。
「もしや、武太夫どのの魂は封印と共にあり、今は天殿の中に――?」
天はえ、と声を発して固まった。先代はクスクスと楽しげに笑っている。
「惜しい、とでも言っておこうか。確かに武太夫の魂は天寿を全うした後に封印と共にあった。解けぬか不安であったのか、ほぼ同化していたようなものだ。そうして、封印そのものとして残されていた武太夫の力はこちらの少年に引き継がれた。心は――」
先代は不意に慈しむように優しい眼を莉々に向けた。莉々はドキリとして背筋を伸ばした。
「こちらの娘に」
心とは。
唖然とした莉々であったけれど、思い当たる節がひとつだけあった。
精神の檻に閉じ込められた時、自分を奮い立たせてくれたあの力強い声は――
「武太夫の心――精神もこの少年と共にあったのならば、武太夫の力がこの少年の精神に左右されることもなく使えたはずなのだ」
天には心当たりがあるのだろう。ああ、と零した。
莉々と天は互いに顔を見合わせると、歩み寄って手を取り合った。その時、合わさった二人の腕が輪となり、弱い電流のようなものが体を抜けるような感覚がした。莉々がとっさに閉じたまぶたを改めて開くと、正面にいた天は、まるで莉々たちの亡くなった父のような笑顔でそこにいた。
天は莉々の手を放し、先代に向けて不敵に笑ってみせた。
『さすがに肉体を具現化することはできぬのでな。彼の体を少しばかり借り受ける。見目は変われども中身は私だ。お前ならばわかるだろう?』
確かにそれは天の声ではなかった。莉々が心の深淵で聞いたあの声だ。
先代は嬉しそうに、まるで子供のような笑顔で天を抱き締めた。
「平太郎!! ようやく会えたな!」
『幼名で呼ぶなと言うに。示しがつかんだろうが』
くすぐったそうにそう言う彼も嬉しげだった。
「私はお前に護ってもらわねばならぬほど弱くはなかった。お前はお節介で独りよがりで困ったものだ。天命尽きても天界に来ようともせぬし、再会するのにこんなにも時がかかってしまったではないか!!」
『そうは言うがな、あのままではお前たちは藩主が代替わりしようが政の道具として使われ続けたのではないかと思うぞ。まあ、それが我慢ならなかったのは私の方やもしれぬが』
「お前は優しすぎていかん」
『お前もあやかしにしてはお人よしではないか』
と、二人は顔を見合わせて笑った。
そんな光景を満足げに見ている鳴雪の顔は穏やかだった。莉々もそれを嬉しく思った。
手下の狸たちも同様に表情をゆるめている。
再会を喜んでいた武太夫は、泣き疲れて抜け殻のように座り込んでいる亜浪のそばに膝を突いた。
『狐、私を覚えているか?』
亜浪はキッと天の顔を睨みつける。
「私を捕らえに来た侍だろう。私はどうなってもよかったのだ。白蔵主のそばを離れるくらいならば、生き永らえても嬉しくなんぞなかった!」
再び滲む亜浪の涙に、天の姿を借りた武太夫はそっと言った。
『それでは御坊が悲しむではないか。お前もつらかったとは思うが、お前が無事だという希望が御坊にとっても救いであったのだから』
「けれど、死に目に会うことも叶わず、私は――」
そこで武太夫は背後の先代を振り返った。
『風生』
「お前の方こそ俗名で呼ぶな――と、まあよい。心得ておる」
先代は友にうなずくと、小さく何かを唱え出した。その間に武太夫は亜浪に微笑む。
『御坊は修行を積まれた徳の高いお方だ。神仏の覚えもめでたく、その魂は極楽浄土におるだろう』
亜浪はぼうっと先代の声に耳を傾けていた。そうして――
空から光が降る。
その光がホログラムのように一人の僧侶の姿を映した。
立派な金糸の袈裟をつけ、慈愛に満ちた目をした僧侶は、柔らかな仕草で亜浪に手を差し出す。皺が刻まれた微笑を、亜浪は目を見開いて見上げていた。瞬きもなく涙だけがポロリと零れ、恐る恐る伸ばした亜浪の指先が僧侶の手に触れる。
けれど、その手はすり抜けて触れ合うことは叶わなかった。僧侶は苦笑し、それでも亜浪の頭を撫でるようにして手を添えた。
亜浪のむせび泣く声には、先ほどまでの悲痛さだけではない、満ち足りた喜びがあった。
言葉も交わせず、触れ合うこともできないけれど、それでも魂で触れ合った。
長く留まることはできなかったのか、白蔵主の姿は幻のように薄れ、消えてしまった。
それでも、その後に残された亜浪の面持ちは雨上がりの虹のように艶めいていた。どこか恋に焦がれる童女のようにも見えるから不思議だ。
先代は鳴雪に向けてにこりと微笑む。
「鳴雪、屋敷の中の社に白蔵主殿の舎利がある。私なりの敬意としてそこに眠って頂いたのだが、お移り頂こうか」
亜浪は静かにその先を待っていた。
「さらに立派な社を建て、そこにお祀りするのだ。狐殿、その守りをして過ごす気はあるか?」
「もちろんだ」
迷うことなく、亜浪は力強くうなずいた。
「他の狐たちも領地を荒らすことなく過ごすと約束するのならば、この地に留まるがよい。鳴雪、構わぬな?」
少しだけ嫌そうにも見えたけれど、鳴雪は渋々言った。
「狐たちが悪さをしないと誓うのなら。……過去は過去と割りきり、ここが狸と狐の理想郷となってもよいのではないかと思います」
「そうか、お前たちなら禍根を絶ち、そのような世界が作れるやもしれぬな」
はい、と鳴雪は父に返答する。満足そうにうなずいた先代は、自身の姿がうっすらと透けてきたことに気づいた様子だった。
「おや、大菩薩様がお呼びのようだ。あまり世俗に関わりすぎるなと叱責されるのやもしれぬが、まあ致し方ない」
そうして、先代は天の中にいる武太夫に人懐っこく微笑んだ。
「さて、共に行こうか」
『そうだな。封印はもう、今を生きる彼らが望む形に作り変えればそれでよい』
と、武太夫も穏やかに言った。
先代の手を天が取り、そうして天の体は滑り落ちるように倒れ込んだ。水巴が慌てて駆け寄り、脈を確かめてほっと息をつく。先代の姿もすでになかった。
「……行っちゃったの?」
莉々がつぶやくと、鳴雪はうなずいた。そうして澄み渡った空を見上げる。
「ああ。とは言っても、天界から我らを見下ろしているのだろう」
う、と小さく呻いて起き上がった天に砕花が訊ねる。
「天、体の様子はどうだ? 霊力は衰えておらぬようだが」
「ああ、武太夫の力は神仏から授かった力で、自分自身だけのものじゃないから、この力は置いていくって――」
鳴雪は微笑むと、皆に聞こえるように言った。
「では、後ひと仕事だな」