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パラレル808  作者: 五十鈴 りく
拾・野干〈後編〉
43/46

拾 ~二~

 あれは、雨がよく降った日だった。


『どうした、動けぬのか?』


 腹の底に響くような低音の声がかかる。

 けれど、不思議と恐ろしさはない。


 鉄の罠に足を挟まれ、どうにかして通力で逃れたものの、深く食い込んだ鉄の歯は肉をえぐっていた。

 とにかく、未熟であったのだ。上手く傷を塞ぐこともできず、ただ雨が滴り落ちる葉の影にうずくまり時を過ごした。

 痛みに意識が朦朧とし、すぐそばにあった気配を察することもできなかった。

 だからその声がして始めて顔を上げたのだ。


 そこには供を連れた高僧がいた。煌びやかな袈裟と袂の数珠、抹香臭さのすべてが不愉快だった。こちらに屈み込んだ高僧の被り笠から雨水が落ち、鼻先を濡らした。その不快感にかぶりを振って水を払う。そんな様子を高僧は微笑んで眺めていた。


『妖狐とてひとつの命。無下にはできぬな』


 供の者がわぁわぁとやかましく喚いた。けれど、高僧はすべてを受け入れ、そうしていとも容易くのたまうのだった。


『我らと同じ御仏の教えを解さぬとも、心はあるのだよ』


 心。

 ニンゲンが好む言葉だ、と存外心地よい高僧の腕の中でぼんやりと思った――




 莉々(りり)はまるで一人きりの映画館でスライドショーを眺めているような感覚だった。右も左もわからない暗闇の中、ぼんやりと灯るのは莉々に憑いた亜浪あろうの記憶だろう。同化している二人は、思い出も共有している。




 そうして、足の痛みは高僧――白蔵主(はくぞうす)によって徐々に癒された。放っておけば壊死して切断するよりなかった傷を、懸命に薬を塗り込み、あやかしにするとは思えぬような神仏への祈りによって、辛うじて繋ぎ止めてくれた。

 少し引きずる程度に自由の利かない足は、自身の通力が増すに連れて以前と変わりなく動くようになった。


 白蔵主が言うように、狐にも心はある。だからこそ、感謝の念を持ち、白蔵主に親しみを感じるようになったとしても不思議ではなかった。

 相手は坊主。清浄な霊力を毛の先に感じるたび、思わず身震いしてしまうけれど、それでも白蔵主の天空海闊な人柄に触れた後ではそれも大した問題ではないように思われた。

 いつも柔らかな眼で微笑み、ふわりと優しく頭を撫でてくれた。その時間がとても好きで、怪我も治ったというのに寺を離れることができなかった。白蔵主の弟子たちも師を慕う狐を苦笑気味に受け入れるようになった。



 そんなある日、白蔵主は僧侶たちを集めて深刻な顔で告げた。


『神仏のお告げがあったのだ』


 ざわり、と僧たちに動揺が広がる。白蔵主は憂いを帯びた表情で苦しげに言葉を紡ぐ。


『今宵より三日の後、山沿いの村を土砂崩れが襲うであろう、と』


 山沿いの、それは小さな村である。人の足ではこの寺から六日はかかるのではないだろうか。

 駕籠かごも飛脚も間に合わぬ。知らせることなどできようはずもない。

 皆が白蔵主の神託を疑わぬだけに悲愴な空気が流れた。危機を知りつつ、村人を避難させることができぬとは、なんと皮肉なことか。

 その時、狐は白蔵主の傍らで小坊主に化けた。そうせねば語れぬからだ。


「私が参ります。私の足ならば二日で辿り着けるはず――辿り着いてみせましょうぞ」


 白蔵主が救った足だ。彼のために役立てるのならば、こんなにも嬉しいことはない。

 逼迫した状況だというのに、白蔵主のために役立てることに強い喜びを感じていた。


『どうか、頼む。けれどお前は妖狐。決して正体を知られてはいけないよ』


「もちろんでございます。使命を果たし、必ず戻って参ります」


 山道も狐の足には苦ではない。跳ぶように、目にも留まらぬ速さで先を急いだ。

 正直なところ、見知らぬ人間の命などどうでもよかった。けれど、白蔵主が悲しむ姿は見たくなかった。

 白蔵主の役に立ちたい。よくやったと褒めてほしい。その気持ちが足を速める。


 いつからか降り始めた雨は狐の背を叩くように強まり、足をぬかるませる。それでも、懸命に駆け抜けた。

 そうして辿り着いた村で、狐は白蔵主の姿に化けた。そうして、ひどい雨に怯えながら家で縮こまる村人たちの戸口に立ち、危機を訴えた。白蔵主の姿は濡れそぼっていても威厳に満ち、村人たちは偉い御坊の言葉だと疑うことをしなかった。狐の言葉は迅速に村に浸透し、村人たちはなけなしの財を持って逃げ出すことができた。


 こうして命こそ助かったものの、住む場所をなくした村人が生きていけるという保証はない。狐は通力を振るって雨風凌げる救小屋(すくいごや)を建て、そこへ村人を誘導した。そこには数日間の食料を用意するだけで精一杯であった。妖力も無尽蔵ではない。小屋も、長くは保てぬ。

 村人たちは村の危機に、降って湧いた救いを疑うことはしなかった。幻であろうとなかろうと、すがれるものがほしかったのだろう。


 本物の白蔵主からの使者が数日後に到着した。信心深い当時の藩主は白蔵主の言葉の通り村人に施しを始めた。

 それを見届け、狐はその地を去った。



 くたくたになって白蔵主のもとへ戻った狐を寺の者たちは労い、あたたかく受け入れてくれた。白蔵主は何度も何度も狐に礼を言った。狐は、それだけで満足であった。

 それからというもの、狐はその俊足を称され、皆から『飛脚狐』と親しみを込めて呼ばれるようになった。


 白蔵主も、そんな狐を大層可愛がってくれた。それは幸せな日々であった。

 狐は次第に力をつけ、眷属の中でも上に立つようになったけれど、それでも寺を離れようとは思わなかった。白蔵主は狐の同胞たちのことも同じように可愛がってくれたので、他の狐たちも白蔵主にはよく懐いた。


 こうして度々、白蔵主の役に立てるようにと力を振るっていた。そんな歳月が過ぎていった。

 その日も狐は白蔵主のために親交のある寺へと文を届けに行った。狐の姿のままでは入れぬので、ここも坊主に化けた。怪我をしたあの日から白蔵主が霊力に対する護りを与えて自身の神聖な寺に入れてくれた。だから、他のあやかしに比べれば耐性はあるのだ。大事な文を渡し、そうして寺を後にした。


 帰り道、狐はある行列に出くわした。

 黒塗りの輿は身分のある者の乗り物だと狐にもわかった。特に興味もなく、四足を休めることなく走った。

 けれどその時、血腥ちなまぐささが鼻先をかすめた。ハッとして足を止めると、行列の先で下人が手打ちにされて事切れていた。土に還るようにして血が染みていく。

 行列の進行を妨げた、とそんな理由であろう。そう思い当たるほどには、狐もヒトの世に詳しくなっていた。本当に、以前ならば風景の一部として、道端の石ころとして眺めることができただろうに――


 それができぬようになったのは、白蔵主の影響だ。

 あの村の時も、村人一人の命をも軽んじることなく、白蔵主はひたすらに案じた。同じヒトでありながら、何故こうも違うのか。

 狐はフツフツと胸に沸き起こる怒りを感じていた。


 そのまままっすぐ白蔵主のもとへ帰るという選択をせず、狐はその行列の後をつけた。

 道半ば、立派ななりをした連中だけが宿を取って休むようだった。狐は夜も更けた頃、音もなく宿に忍び込んだ。そして、妖艶な美女の姿へと変化する。

 なまめかしく庭先の木の影から視線を投げかけ、唾を飲んで近づいてきた血腥い家来の男に暗示をかけて眠らせた。だらしないその寝姿を冷然と見下ろしながら、狐は男に手を伸ばした。消された命は、この男の死を望むだろう。


 けれど、殺生は白蔵主の最も厭うことである。

 それに、この男を殺めたところであの下人は蘇らず、この男の主もまた他の家来を使うだけだ。

 狐は苦々しい思いで男の衣服を剥ぎ、下帯姿でさらすという恥辱を与えるのみに留め、命までは取らなかった。自分は随分と人間臭くなったものだと道中可笑しくなりながらも白蔵主の寺へと戻った。



 そのことをわざわざ白蔵主に告げることはしなかった。相変わらずの毎日を、傍らで過ごす。

 しかし、その出来事から数日経ったある日、一人の男が寺を訪ねてきた。


 辱めたあの男ではない。侍の風体をした、けれど、そこにいると思うだけで震えが止まらぬほどの霊力を秘めた男だった。がっしりと逞しく、その性質は豪胆であるのだろうと見て取れた。

 男は寺の主である白蔵主に向けて言った。


『この寺には化け狐が棲みついておるでしょう。我が殿のご家臣にそやつが悪戯をしかけましてな。そのご家臣は恥辱のあまり切腹なさってしまいました。殿は大層ご立腹にございます。どうか、その狐をお引渡しください』


『まさかそのようなことが。この狐は聡い子です。拙僧を何度も助けてくれました。無闇やたらとヒトを害することなど、あろうはずもございません』


 白蔵主のその言葉が、狐には涙が出るほどに嬉しかった。男は少し困ったように笑い、そうして零した。


『ええ、悪しき獣であればご家臣を食い殺していたことでしょう。化かしてたのしんでいたわけでもございますまい。あのご家臣はあの日、下人を殺められた。その報復であったのではないかとささやく声もありました』


『そうでございましたか』


 白蔵主の声は穏やかであった。男はどこか悲しそうに言った。


『お引渡し、願えますか』


 けれど、白蔵主は目を伏せ、かぶりを振った。


『引き渡せば、あの子の命はないものと思われます。それがわかっていて、お渡しできようはずもございません』


 狐は我を忘れて飛び出した。これ以上、自分のせいで白蔵主に迷惑をかけたくはない。

 けれど、そんな狐を一瞥すると、男はまるで何も見なかったかのように白蔵主に笑いかけた。


『私にもあやかしの友がおります故、御坊のお心はお察し致します。あやかしにも我らとなんら変わらぬ心があり、時にヒトの方が傲慢に彼らの力を利用します。げに恐ろしきはヒトにございますな。まあ、本来であれば家臣である私がそのようなことを申してはならぬのですが、そのあやかしの友も見ていて憐れなくらいにヒトに翻弄されてしまうのです』


 その話を聞いて、白蔵主の表情が少しだけ和らいだ。

 この男は白蔵主と同じ部類の人間だと狐にも思えたのだ。あの血腥い男たちとは違う。


『おわかり頂けて嬉しく思います。けれど、あなたもこの子を連れて戻らねば、なんらかの罰を与えられるのでしょうか』


 男はためらいがちにうなずく。


『私のあやかしの友は、心優しくはあれど、大きな力を持った大妖なのです。殿はその力をとても頼みにされておられますが、我が友は自らの力をまつりごとに利用されることを心苦しく思うております。それでも、民の暮らしを保つために悩みながらも力を使ってしまうのですが。私は友が憐れで、殿にかけ合い、極力彼の力を使われぬよう進言いたしておりました。殿はそうした私を煙たく思いながらも、あやかしの友の手前、放逐できずにおられるのです。その狐を連れて戻らねば、殿はそれを口実に私と友を引き離そうとされるでしょう』


『かと言って、この子を差し出すわけにはまいりませぬ。ああ、拙僧はどうしたらよいのでしょう』


 苦しげに呻いた白蔵主に、男は不意に微笑んだ。


『私はただのヒトではございますが、神仏から授かった霊力を持ちます。御坊にはそれを感じて頂けるかと』


 そう、この男には類稀なほどの強い力がある。狐もまた、出会った瞬間から畏怖した。


『ええ、修行で身につくとは思えぬほどのお力をお持ちのご様子。だからこそ、妖孤を捕らえる役割をおおせつかったのでしょう』


 そうして、男は覚悟を決めたように語り出した。


『実は、私はこの力のすべてを使い、あやかしの友を殿から引き離す結界を張りたいと思うのです。どちらも不干渉に生きて行ける場所を創りたいのです』


『そのようなことができるものなのでしょうか』


 白蔵主は悲しげに顔を歪めた。けれど、男は笑っていた。


『それは施してみねばわかりませぬが』


『もし、そのご決意が確固たるものでございましたらば、おこがましいことを申しますが、その結界の中にこの子も逃がしてはくださいませんか』


 ハッとして白蔵主を見上げる狐を一瞥すると、男は苦笑した。


『それが、実は我が友は狸なのですよ』


『狸とな』


『そう、狸なのです。そうした次第で、この狐とは残念ながら仲良くできそうもございません』


 落胆した白蔵主に、男はそれでも言った。


『けれど、我が友と私が殿のもとを去れば、殿にこのような力を持った狐を捕まえる手立てはありませぬ。逃げ切ることもできるはずです』


 それを聞き、白蔵主と狐がほっとしたのも束の間。男は申し訳なさそうに告げた。


『そうした時、標的になるのは御坊です。殿はなんらかの形で御坊をお咎めになることでしょう』


『構いませぬ。それもお受け致しましょう』


 静かな水面のようなその落ち着きに、狐は体がねじ切られるような痛みを感じた。

 男も静かに言う。


『そこで提案なのですが、御坊こそ結界の中で過ごされてはいかがかと』


『結界の中、と』


『ええ、私はこの地に似せた世界を結界の中に創り上げ、そこを封印します。居心地はそう悪くないかと。殿の手もそこまでは及びませぬ故』


 おどけたその様子に、白蔵主はひたすらに驚いていた。男は、ただ、と声を落とした。その先を白蔵主が引き継ぐ。


『ただ、もうこの子にまみえることはできますまいな』


『残念ながら、そればかりは』


『けれど、友に会えぬのはあなたも同じ。そうして相手を護ろうとするあなたに、拙僧がわがままを申せるはずもございません』


 ふう、と白蔵主は嘆息する。


『御坊の御身が健やかであることが、この狐にとっても幸いなことなのではないかと存じます』


 そんなことは、この男に言われるまでもない。

 大切な存在なのだ。薄汚い人間の手に落ちてほしくはない。

 いっそ、その殿とやらを殺めてやろうかと思った。白蔵主が嫌がるだろうけれど、その身を護るためならば――


 けれど、そうしたなら、この男とあやかしの友に狐は討たれるかもしれない。

 どうにもならぬとわかっていても、二度と会えぬという現実を受け入れることは容易ではない。

 共に過ごしたあたたかな日々が、ほんの些細なことをきっかけに音を立てて崩れる。


 白蔵主は、枯れ枝のような指で狐の頭を優しく撫でた。


『いつでもお前の無事を祈っているよ。達者で暮らしなさい。ありがとう、**――』


 嫌だと鳴いても、二人は狐に背を向けて去った。

 必ず、必ず何か手立てを探して再びまみえる。狐は白蔵主の背にそう誓った。


 ハラハラと零れる涙はまるでヒトのようだと、狐はその別離を嘆いた。




 莉々は零れ落ちる自分の涙を拭うこともできなかった。それに気づいた亜浪が莉々の腕を莉々の内側から動かす。


『何か視えたか?』

「あなたの記憶が。あなたの会いたい気持ちが……」


 亜浪はそうか、とつぶやいた。その心には切なさが渦巻いた。


『あと少しで会える。そのはずなのだ。お前には悪いが、もう少しつき合ってもらおう』

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