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パラレル808  作者: 五十鈴 りく
拾・野干〈後編〉
42/46

拾 ~一~*

 汗ばむ手でしっかりと握り締めた太刀は、そんなことをしなくとも(てん)の一部であった。

 霊力で作り上げた太刀が裂いた空間には、宇宙のような闇が広がっている。天はためらいなくその切れ目に突入した。もし失敗したら崖に転落するという不安はなかった。天は自分を信じ、跳んだ。


 今はただ、水巴(すいは)のもとへ――

 それだけを強く願った。


 暗闇が天の視界を支配する。落下感はあったけれど、天は目で見るのではなく、気配を察知するためにまぶたを閉じた。

 どこからともなく、獣の弾む息遣いがした。天は瞬時に太刀を振るい、再び空間を斬る。

 そこから明るい光が差し込み、天は覚悟を決めて光の中に飛び込んだ。


 真っ先に目に入ったのは空の青さ。そして、天の真下を走るまだらの背。

 天は落下で加速された勢いのまま、太刀の先を下へ向けた。水巴を咥えているせいか、振り返ることをしなかった黒眚しいの背に、太刀を深々と突き刺す。馬乗りになって渾身の力で柄に力を込めると、ごぶり、と鈍い音がして、腹まで刀身が貫通するほどにめり込む。

 赤黒い血が、地面に染みていく。天の霊力でできた太刀は、あやかしの黒眚にとってはただの刀とはわけが違ったのだろう。暴れ馬のように首を振る黒眚に、天はふるい落とされないようにとしがみつく。黒眚の口から狸の姿をした水巴が放り出された。


 耳から、頭の中を汚染するような断末魔が上がった。

 天の霊力がこもる太刀であるせいか、焼け爛れた傷口から煙を上げ、黒眚は事切れた。その大きな体が横たわった時、天は下敷きにならないようにとっさに跳んで地面に転がった。霊力の太刀は黒眚の体から抜き取る必要はない。幻のように消え去った。


 肩で息をしながら立ち上がった天は、水巴のもとへ駆けつける。

 気を失ったままの小さな水巴。毛並みには黒眚の噛み痕が筋になって残っている。こうして見ると、出血量はそれほど多くはないのかもしれない。

 それでも、恐る恐る手を伸ばした。霊力のこもる右手を伸ばしかけ、途中で左手に変えて触れた。


 指先にぬくもりと、とくりとくりと脈打つ心音が伝わる。

 その途端、天は体中の力が抜けてしまった。その場に崩れ落ちて膝を突くと、熱い涙がこぼれた。誰も見ていないと、堪えることをしなかった。


 水巴の小さな体を腕に抱く。ヒトの姿はしておらず、狸のままだというのに、愛しいと思えた。

 その気持ちが変わりなく胸に湧くのだから不思議なものだ。鳴雪めいせつ莉々(りり)に対してこんな気持ちで接していたのだろうか。


 命に別状はないとはいえ、早く傷の手当をしてやりたい。天は水巴を林火りんかのところへ連れて戻ろうとするけれど、脚がいうことを利かなかった。カタカタと震える。


 今になって恐ろしさが蘇ったばかりでもなく、少し力を使いすぎたのだろう。

 辻神の悪戯で牛鬼と対峙した後も疲労感はあった。あの時は疲れがどうとか、そんなことを言っていられないほどに抜き差しならない状況だったのだが。


 正直なところ、天は疲労困憊だった。グラリと体が揺れる。思わず手を突くと、天の腕から水巴の体がすり抜けた。落としてしまったのかと焦ったけれど、それは意識を取り戻した水巴の行動であった。

 人型になった水巴が天の頬にほっそりとした指を添える。


「天――大丈夫、か?」


 そう言った水巴の顔色も随分と悪い。それでも、水巴は冷えた手で天の顔を包み込む。人型に化けた着物に血の染みは見当たらないけれど、体の傷は塞がっていないはずだ。


「大丈夫じゃないのはそっちだろ……」


 そう声を絞り出すと、水巴はゆるくかぶりを振った。


「大丈夫だ。お前が助けてくれたではないか」


 水巴の指は天の目尻の涙をなぞる。


「無理をさせた。すまぬ」


 天はとっさにその手を握り締めた。疲労している天の右手に霊力は集まっていないのか、水巴は平然としていた。それとも、天が気にしているだけで、害意がなければ右手で触れても影響はないのだろうか。


「水巴が無事ならいいんだ」


 心からそう言った。水巴は軽くうなずいただけだった。


「莉々のことも心配だ。早く鳴雪様のもとへ戻らねばな」


 水巴は、莉々のことに責任を感じていた。そうして、鳴雪の身をいつ何時も最優先に案じている――

 今の自分がそうだから、わかる。水巴のあれは、忠誠心でも仲間意識でもない。

 ただ単に、鳴雪自身が大切だからに他ならない。


 ズキズキと胸が痛み、天は顔を歪めた。水巴の指を握り締める手に少しだけ力がこもる。

 何をどう伝えたらいいのか。天はそれを模索するように黙り込んだ。二人の目だけが合う。


 水巴は天を見つめたまま、天の頬に手を添え、唇を重ねた。柔らかな唇の感覚に呆然とした天の手がゆるむと、水巴はその手から自分の手を引き抜き、今度は両手で天の頬を包み込んで二度目の口づけをした。どちらのものか、血の味が広がり、現実味を帯びる。

 二人の影が、互いの顔が見えるほどに離れると、水巴は色のない顔でそっと微笑んだ。


「天は異種である私に心を移すようなことはないのだろう?」

「え……」

「何故だろうな。どうしてだか、いつも私が苦しい時には天がいてくれるような――いや、違うな、『いてほしい』と思うようになってしまっている。私は鳴雪様を第一に考えねばならぬ身だというのに、愚かだと思うか?」


 天は驚きに目を瞬かせた。


「お前は鳴雪のことが好きなんじゃないかって思ってた」


 無粋だと怒られそうな言葉だが、天は思わず口にしてしまった。水巴はバツが悪そうにうつむく。


「そうした時期もあったことは否定せぬが、あれほどまでに莉々を想う気持ちを示されては、つらくとも諦めるよりなかった。今はお二方の幸せを心から願っている。そう思わせてくれたのは、莉々が優しい娘であったからで、莉々には感謝している。もちろん、大きなきっかけになった天にも――」


 そうか、と天は柔らかく言った。そうして、ささやく。


「俺も水巴のそばにいたいと思うから、素直に嬉しい」


 その言葉に、水巴は血の気の失せた唇でも艶やかに微笑んだ。その唇に、今度は天の方から三度目の口づけをした。



     ❖



 天と水巴はその場で木にもたれかかりながら少しだけ休んだ。

 水巴はその間、まぶたを閉じて天の胸に寄り添っていた。天は水巴に向けて気遣いながら言う。


「狸になってていいぞ。その方が楽なんじゃないのか?」


 すると、水巴はゆるくかぶりを振った。


「私は天と同じヒトの姿でいる。天と共に歩むと決めたのだから」


 天はそんな言葉をくすぐったいような気持ちで受け止めた。


「強情だな」


 クスリと笑うと、水巴はどこか拗ねたような目で天を見上げた。


「それだけ、ぬるい覚悟ではないということだ。私は後任の者に引き継いだら百匹頭を降りる。天の方こそ、ちゃんとわかっているのだろうな?」

「ん?」

「私はお前の子がほしいのだ」


 思わず真っ赤になってゴホゴホとむせた天に水巴は笑う。そうして、そっと抱きついた。


「大丈夫だ。ヒトには我らにはわからぬしがらみもあるだろう。もちろん、すぐにとは言わぬ。少しばかりは待とう」

「ああ、助かる……」


 さすがに自分の食い扶持も稼いだことのない高校生に、いきなり所帯は持てない。天には水巴の考えがひどく突飛に思えたけれど、相手は狸なのだから、価値観は違って当たり前だろうか。



 それから、少し休んだら天も回復した気がした。水巴も立ち上がる。

 天は自らの拳にささやき、あの空間を裂いた霊力の太刀を出現させた。


「とりあえず、鳴雪たちのところへ戻ろう」


 けれど、あれだけの妖怪と戦っていたのだ。まだ戦闘の真っ只中かもしれない。傷ついた水巴を連れて行きたくはないけれど、傷の手当てができる林火りんかもそこにいる。それに、皆のことも心配だった。

 水巴は少し考え込みながら言う。


「……天、鳴雪様から館に向かう許しを得ていただろう? もしその刀で空間を抜けることができるのならば、先に館へ向かって利玄りげんを連れて戻ってはどうだろう」


 利玄――

 百匹頭の最後の一匹。

 先代の頃から仕える古狸だという話だ。

 水巴がいれば事情の説明も聞き入れてくれるだろう。そうすれば、鳴雪の力を早く取り戻せるかもしれない。そうして、莉々と紫緑しろくを救いに行ける。


「俺には場所がわからないけど、どの辺りだ? 地形が変わってるって聞いたな……」


 ただ、利玄を優先すると、水巴の傷の手当は後回しになる。苦痛を強いることになると天は心配した。

 それが伝わったのか、水巴はふわりと微笑む。


「私ならば大丈夫だ。それに、利玄のもとならば多少の手当ては頼める」


 それを聞いて、天はほっと胸を撫で下ろした。


「わかった。でも、無理はするなよ。つらくなったらすぐに言ってくれ」


 水巴はうなずいた。そんな仕草も愛おしくなる。

 けれど、幸せな気持ちに浸るには状況が悪い。早く莉々も紫緑も助けて封印を戻して、皆が平穏に暮らせるようになればいい。鳴雪が義弟になるのは複雑だけれど、今の天には何も言えない。そのうちに慣れるだろうか。


 天は霊力の太刀を作り出した。そこでふと、あの時の手は結局何者であったのだろうかと考えた。あの手が助けてくれなければ、天は水巴を助けることはできなかった。

 きっと、天の中には答えに行き着けるだけの情報がない。

 そう思ってそれ以上考えることをやめた。またいずれ真相に行き着く、そんな気がしただけだった。


 水巴の説明によると、鳴雪の屋敷跡へは崖を登る必要はないらしい。このまま南へ下るのだと。

 天はそのイメージのまま、ザン、と空間を裂く。宇宙のような闇がまたそこにあった。


「ここを潜るのだな?」


 水巴は天を見上げる。


「ああ」

「では行こう」


 一切の疑いのない声で水巴は言う。天は水巴を支えながらその空間の切れ目を潜った。



 その先に待っていたのは、跡地ではなかった。屋敷はそこに存在する。艶やかな瓦葺の屋根、白い土壁、竹垣に囲まれた屋敷をさらに外堀が護る。天と水巴はその屋敷から少し離れた場所に出ていた。水巴は屋敷を眺めながら独り言のようにつぶやく。


「そうか、利玄が――」


 その声を拾った天が訊ねる。


「利玄がいつも砕花さいかがするように屋敷を出してるのか?」

「まあ、そうなのだが、利玄の力だけではないな」


 利玄だけではないというのは、利玄がまとめる妖狸たちのことだろうか。


「よし、早く利玄を連れて鳴雪たちと合流しないとな」

「そうだな、急ごう」


 そうして二人は利玄が再現した屋敷へと急ぐのだった。

 その外堀の手前に来た時、すでに彼はそこにいた。敷地の中に立ち、穏やかな笑みをたたえている。

 水巴は古狸の顔に涙ぐみながら呼びかけた。


「利玄!」


 上品な、茶人のような装いをした老紳士。けれど、その耳は狸の耳である。狸の耳を目にして、天はほっとした。利玄は微笑み、目を細める。


「水巴、無事のようで安心したよ。血のにおいがしたのでな、案じていたところだ」


 そうして利玄は水巴の傍らの天を値踏みするように見た。天は気を引き締めて名乗る。


西原さいばら天といいます。詳しい事情は追々説明しますが、まずは水巴の手当てをお願いできませんか?」


 利玄はおもむろにうなずいた。


「不思議な青年だね。尋常ではない――まるで武太夫ぶだゆう殿のような霊力を持ちながらも、鳴雪様のしるしがある。どうやら君は我らの客人のようだ」

「ああ、鳴雪様のもとに一刻も早く集結せねばならない。それで、私たちが先に利玄を迎えに来たのだ」


 水巴は時を惜しむように早口でまくし立てた。けれど、利玄は対照的に焦りを見せなかった。


「……まずは中へ入りなさい。手当てをしながら話そう」


 逸る心を抑えきれないのか、この状況で自分を優先できないと思うのか、水巴はやや不満そうに口を尖らせた。

 天がその手を取って屋敷の中へと踏み入る。利玄はそんな二人を見守りながら座敷へ向かった。

 途中、上品な老婦人に出くわした。白髪の髪をまとめた藤色の着物姿の老婦人に利玄は言う。


「かずさ、水巴の手当てを頼む」

「あらまあ、ようやくお会いできたと思ったら、お怪我をなさっているなんて。ささ、こちらに」


 かずさと呼ばれた老婦人は利玄の妻なのだろう。水巴はしょんぼりとしてつぶやく。


「かずさ殿、お久しゅう。お手間をおかけして申し訳ない」


 すると、かずさはわざと怒ったような顔を作るけれど、それは十分に優しいものだった。


「そんなことを気にするものではございませんよ。ささ、お早く」


 かずさは有無を言わさず水巴の肩を押した。水巴は心配そうに天を振り返るけれど、天は無言でうなずく。そんな天に利玄は言った。


「さあ、こちらに」


 そうして通された座敷は、真新しい藺草いぐさの匂いがした。

 開け放たれた障子戸から中庭の風景が見える。そこには小さいけれど、綺羅綺羅しい社があった。狸も何かを祀るのかと不思議に思った。

 座敷に正座した天が社に気を取られていると、利玄はゆったりとした声で告げる。


「天殿と申されましたな?」

「はい」


 天自身、気が急いていないわけではない。それを落ち着けと自分に言い聞かせながらそこにいた。

 そうして利玄の口から続いたのは、予想外の言葉だった。


「鳴雪様の窮地とはいえ、私はこの地を離れることができないのです」

「え……」


 頭を殴られたような衝撃を受ける天に、それでも利玄は冷静に続けるのだった。


「どうしても、それはできぬのです。それをすれば逆に鳴雪様の不利になることでしょう。私には、先代より命じられた役割がございまして。ですから、ここに鳴雪様たちが到着されるのを待つよりないのです――」

  

挿絵(By みてみん)

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