玖 ~四~
関所のあった峠を越え、天と狸たち一行はようやく伊の国へ歩を進めることができた。
けれど、伊の国の現状に狸たちは呆然としたのだった。
「どうした?」
初めて伊の国を訪れた天にはその変化がわからず、鳴雪に訊ねる。
鳴雪は毛を逆立てるがごとく、警戒心をあらわにつぶやいた。
「においが違う」
「におい?」
「地形も随分変わってしまったな」
そう寂しげにつぶやくのは砕花だった。
天の目にはのどかな林道に見えた。けれど、土のめくれた地面には石畳のような四角の平らな石が見える。これは今までこの世界で目にしたことのないものだった。
「急がねばなりますまい」
普羅が厳しい面持ちで刀の柄に手を添えている。終始そこに触れているのは癖か、危機感からか。そんな父の袂を青畝がギュッと握り締める。
「地形が変わってると、鳴雪の屋敷跡まで行けないのか?」
天が思わず問うと、鳴雪はかぶりを振った。
「いや、利玄の気配がある。それを辿れば着けるだろう」
そうして踏み出した時、鳴雪は何かを思い出したのか、ハッとして立ち止まった。それからすぐに、天を振り返る。二人の目がはた、と合った。
「天殿、念には念を入れておこうと思う。左手を出してもらいたい」
唐突な申し出に、天はきょとんとして目を瞬かせた。
「左手? 何をする気だ?」
「うむ、私の屋敷跡の辺りには代々の刑部狸が張った結界があるのだ。我らと共におれば問題はないのだが、この先何があるかわからぬ。もしはぐれてしまった時のために、そこを潜るための許可を与えておこうと思うてな」
鳴雪の屋敷は、長く離れざるを得なかったとはいえ、彼ら八百八狸にとって本陣であるのだろう。そう易々と誰でも入り込めるようではいけないのかもしれない。
「わかった」
天は素直に左手を差し出す。結界の霊力のこもる右手では具合が悪いのだろう。
鳴雪はうむ、とうなずくと天の手を取った。男に手を握られても背中がゾワリとするだけだが、鳴雪が真剣なのでそこは誰も茶化さなかった。
その時、ポゥッとかすかに手の平に熱を感じた。それだけだった。
「これでよい」
「ああ……」
見た目はなんの変化もない。あまり気にするほどのことでもないようだ。
こう無防備に鳴雪の言葉を受け入れてしまう程度には、もう彼らを信じきってしまっている。莉々を救出するためでなくとも、疑わなかっただろう。天はぼんやりとそれを感じたけれど、そのことを不快には思わなかった。
「じゃあ、急ぎましょうか」
林火もそう言って強く唇を結んだ。
❖
林道を抜け、日差しが燦々と照りつける中、一行の前を白い影が横切った。あまりの素早さに天はそれが何かを認識することができなかった。
パアン、と大きな音を立ててその白い影を跳ね飛ばしたのは、鳴雪の神通力であった。車に跳ね飛ばされたようなものだった。
一度横倒しになったその影は、白に黒の斑模様をした犬に似た生き物だった。あれほど機敏に動いていたのが不思議なほどの巨体だ。体は牛ほどに大きい。赤すぎる鮮やかな舌をだらしなく垂らし、底光る眼をキッと鳴雪に向けた。
「黒眚、か」
鳴雪はぽつりと言う。
それに対し、水巴が声を上げた。
「黒眚は知能の高い生き物です。敵うはずもないのに、鳴雪様に牙を剥くなど――」
その途端、砕花が叫んだ。
「皆、散れ!!」
天もとっさに反応し、横へと跳んだ。わけもかからないまま振り返ると、先ほどまで皆が終結していた地点に新たな獣がいた。
それは鋭い爪を持つ中型犬のような獣だ。ただ、脚は六本、尾は二本――その時点で明らかに犬ではない。艶のある灰色の毛を眺めながら、天の横にいた水巴が顔をしかめた。
「雷獣!」
「雷獣?」
大きさは黒眚よりも小さいというのに、ただならぬ空気を発していた。黒眚が正面にいるため、雷獣に背を向ける形になった鳴雪の背に砕花が立つ。そうして、砕花は雷獣を睨み据えながら背後の鳴雪に言った。
「どうやら我らを害しようとする動きがあるようだな」
「そのようなもの、今はどうでもよい。莉々殿のことが最優先だ」
苛立った鳴雪の声に、砕花はふぅと嘆息した。
「先に行けと言いたいところだが、我ら手下が欠けてはお前の力も半減する。皆でここを乗りきってから利玄のもとへ行くしかないな」
「ああ」
けれど、妖怪たちはどこからともなく続々と現れた。前方、後方――天にはどれほどの力を持った妖怪たちなのか察することはできなかったけれど、次第に増えていく頭数に不安がないわけではなかった。
小鬼や、中には人型をした者もいた。妖怪とわかっていても、人間の形をした者と戦うことに抵抗がつきまとう。雲行坊と戦った時は、頭のどこかで命のやり取りにまでは発展しないという甘さがあったのだ。
ぽ、ぽ、と狸火が現れる。あやかしの顔をした鳴雪が低く唸った。
「邪魔立てするならば生きて帰れると思うな」
一瞬、妖怪たちが怯んだように見えた。けれど――
真っ先に動いたのは黒眚だった。またしても逞しい後ろ足で跳び上がったかと思うと、身構えた鳴雪の方ではなく、空中で器用に体を回転させ、横に移った。
「っ!」
天はその動きに、とっさの反応ができなかった。鋭い爪と、糸を引きながら迫りくる牙と赤い舌、それが視界を染め上げる。その瞬間、天はあの鋭い爪と牙が身に食い込む覚悟をした。
それなのに、天に衝撃は来なかった。
「水巴!!」
林火の甲高い悲鳴が耳を劈く。感情的に駆け寄ろうとした林火の腕を砕花がつかんだ。
天は一瞬、呆けてしまっていた。天の眼前で、黒眚がのしかかるのは水巴だった。黒眚は天の隣にいた水巴を狙っていたのだ。
赤い色は水巴の着物の色。――そればかりではない。
黒眚の鋭い爪が水巴の薄い肩に食い込む。そして、水巴の白いうなじに牙が向かった。水巴の意識はないのか、ぐったりと動かない。
気づけば天は喉が潰れるほどに叫んでいた。冷静に、霊力を具現化することができなかった。この力は精神に大きく左右される。
それでも天は闇雲に、霊力のこもる右の拳を絶叫と共に黒眚に叩きつけた。
黒眚の動きを捕らえることができず、天の拳は宙を切った。消えた黒眚を天が再び目で捉えた時、黒眚の口には狸型になった水巴と思わしき狸が咥えられていた。
それを目にした瞬間、鳴雪からどす黒いオーラが滲み出た。鋭く光る眼が黒眚を射すくめる。けれど、意識の逸れた鳴雪の着物の裾を雷獣の爪がかすった。チッと短く舌打ちした鳴雪は、やむを得ず標的を雷獣に変えて狸火を放った。
砕花たちも他の妖怪との攻防を繰り返している。
黒眚が斑模様の背を向けた。トン、と軽やかに木の上に飛び上がると、そのまま風のように駆け出す。
「水巴!!」
天は叫んだ。
鳴雪の力の弱体化を図るなら、手下を狙うのは効果的だ。
水巴は――
「ワタシが行きまする」
どこからともなく天の隣に現れた月斗が低く怒りをたたえた声で言う。けれど、それを押し留めるようにして天は言った。
「お前が追ったら鳴雪の力が落ちるだろ! 俺が行くから!!」
水巴が欠け、さらに月斗にまで何かあっては――
駆け出した天の背中に彼を呼び止める声がいくつか投げかけられた。それでも、天はすべて振り払って走った。
莉々のことが心配で、早く駆けつけてやりたい気持ちはあるけれど、同じように水巴を案じる気持ちも強くある。
鳴雪の力が軽減されてしまえば莉々を助け出すことはできないかもしれない。
そんな不安は、この時の天にはなかった。そこまで深くは考えられていない。月斗にはああ言ったけれど、本当はそんなものは建前だ。正直な気持ちは、頭で考えるよりも先に動き出した足と同じなのだ。
いても立ってもいられず、水巴の着物をどす黒く染めた血の色が心を掻き乱す。
黒眚の去った方角はこのまま行けば崖だ。黒眚はその崖下へ下りていったのだろうか。
手遅れにならないよう、天は走り続けた。そうして、径とも呼べない場所の草木が途切れた。その先に歩む術はない。パラリ、と崖下に天の草履に当たった石が落ちる。
眩暈がするような高さの崖下に、あの斑の背があった。軽やかに着地し、そのまま数秒停止したのみでまた駆け出す。
高さは――三階立ての屋上ほどにもある。ここから飛び下りれば、水巴を助けるどころか、天の方が先に逝くことになってしまう。けれど、ここで手をこまねいていては水巴が噛み殺されるかもしれない。
絶望と無力感に、天はその場で狂ったように叫んでいた。
後先考えずに飛び出した挙句、救えもしない。
水巴のいくつかの微笑と涙が、天の中に浮かび上がった。それが虚しく、心を苛む。
そうした時、頭を抱えた天の右手首が何者かにつかまれた。
「!!」
息が止まるほどに驚いた。
けれど、改めて見た自らの右手首には誰の手も繋がっていなかった。手のあった跡すらない。それなのに、何故かつかまれた感覚だけは残った。
そんな場合ではないと思うのに、天はゾクリと身を震わせてほんの少し冷静さを取り戻した。
すると、声が聞こえた。
『落ち着かれよ、少年』
「え!?」
姿は見えない。それなのに、声の主を敵だとは思わなかった。
その声は再び天に言う。
『おぬしには力がある。その力を信ずれば道は開ける』
「誰だ? どこにいる!?」
天が辺りを見回しながら問うと、その声の主はようやく姿を現した。ただし――それは手である。
手から腕にかけて二十センチ程度が宙を浮くように天の前に現れた。その手は自身を主張するように上下にパタパタと動いている。
『ここだ、ここ。いや、このような姿ですまぬな。具現化が間に合わず、な』
なかなかにシュールな光景だが、そんなことはこの際どうでもいい。どうやらこの手と声の主は男性のようだ。わかるのはそれくらいのことである。
『少年、おぬしの力を引き出す手助けとなろう。右手を出すがよい』
今度は右手を出せと言う。
疑わしい相手だというのに、今の天は藁にもすがりたい心境だった。目を擦り、それから右手を突き出す。
天の手首を再びその手が握った。冷たくも熱くもない不思議な手だった。
その手から、波動のようなものが伝わる。それは天の体を駆け巡るようにして脈打った。
神聖な力だと、それだけはわかる。
『さあ少年、唱えよ』
天はハッとして、自分の中にあった力を探り出し、言の葉を紡いだ。
「ノウマク・サマンダ・バザラダン・センダマカロシャダ・ソワタヤ・ウンタラタ・カンマン――」
ポゥ、と霊力が一点に収束し、形となる。今までに感じたことのないほどの熱が手の内にあった。
まるで別の命のように息づくのは、太刀であった。以前にも何度か出したこともある。けれど、それらとは格が違うような感覚だった。
鳴雪と共に蛇の作った空間へ亀裂を入れた刀、牛鬼と戦った刀――その二種がひとつに合わさったほどの力を感じる。
そこで天は気づいた。空間へ亀裂を入れた刀――その力があれば、崖下の水巴のもとへ飛べるのではないかと。手の主は天の考えを肯定してくれているような気がした。
『うむ。では気をつけてな』
「ああ……ありがとう」
どこの誰とも知れない手だけの相手に、天は素直に感謝を述べた。
そうして消えかかった手の主は、最後に柔らかな声音で言った。
『――をよろしく頼む』
はっきりと聞き取ることのできなかった声。怪しいことこの上ないというのに天が疑わなかったのは、その声にどこか懐かしさのようなものを感じたからかもしれない。
聞き覚えがあるようで――けれど、今の天にはそれを突き詰めて考えているゆとりはなかった。霊力の太刀をしっかりと握り締め、空間を斬り裂いた。
水巴が先にいる。天はそれをはっきりと確信した。
【 玖・野干〈前編〉 ―了― 】