玖 ~三~
美しい女性の姿をした亜浪を莉々はおずおずと見つめていた。
年の頃は人間でいうところの二十代前半くらいだろうか。見た目だけならば林火と同じ年頃だ。林火も落ち着いた美人だけれど、またタイプが違う。におい立つような色香を持ちつつも、勝気な微笑をたたえている。
亜浪はどこか莉々を見下すような目をしていた。何の力もないヒトの娘だと。
ほぅ、と小さく息をつき、亜浪は莉々に向けて言った。
「まずは座るがよい。少々長い話になる」
「は、はい」
言われるがままに莉々は畳の上に正座をした。
ただ、そんなことよりも紫緑に会わせてほしい。紫緑はこの世界ではぐれていたのだ。早く顔見知りに会いたいはず。
そうした莉々の逸る心が伝わったのか、亜浪はフン、と軽く笑った。
そして、錦衣の裾を広げて莉々の正面に腰を下ろす。白い脛が垣間見えた。
「私たち――いや、私の長年の悲願は、あの封印を解くことであった」
はっきりと亜浪は告げた。
鳴雪たちと同じ目的であったということだ。お互い天敵同士、協力し合うことはなかったが。
けれど、何故封印を解きたかったのか、それはまだ語られない。
黙って先を待つ莉々に、亜浪は続けた。
「よって、封印を解ける可能性のある者に私は呼びかけ続けた。そうしてその呼び声に応えたのが、お前とお前の兄だ」
「あ……」
あの日、導かれるようにして辿り着く前に聞いた獣の声。あれこそが亜浪の声であったと言うのだ。
亜浪は気だるげな仕草で髪を掻き上げた。
「あの侍と似た気配を持つ者に呼びかけた。もっとも、お前には封印を破るほどの力はなく、兄の方が私の望みを叶えてくれたのだがな」
「あの、どうして封印を解きたかったんですか?」
莉々が思いきってそう訊ねると、亜浪は口の端を持ち上げてみせた。
「そう急くな。ものには順序というものがある」
「すみません……」
しょんぼりとした莉々に、亜浪は意外そうに目を細めた。
「素直な娘だ。思えばお前もとばっちりとしか言いようもないな」
自分を攫った相手に気遣われてしまったことが、莉々には少し複雑だったりもする。
「まあ、封印の力をお前の兄が受け継いでしまったことは想定外ではあったのだが、それは些事と言える。お前たちがあの代替わりした隠神刑部と出会ったことも、初めはどうでもよかったのだ」
封印の力を持つ天と鳴雪たちが結びついたことも、亜浪にはどうでもよいことだったと言う。
そう言われてみると、狐たちの横槍が入りだしたのはいつからだったか。鳴雪が手下の一匹もおらずに弱っていた時ではない。最も弱体化しているところにつけ入ることはなかった。
亜浪は一度唇を強く結び、それから言葉を紡いだ。その仕草が、莉々には亜浪の感情の表れに思えた。
「私は、この世界に来れさえすればよかったのだ」
「え?」
目を丸くした莉々に、亜浪は感情を吐き出すように言う。
「彼奴が刑部狸のために閉じたこの世界――私はこの世界に来ることだけを夢見て来た」
まさか――と、莉々は震える手で口元を押えた。亜浪は口がそのまま裂けるのではないかと思えるほどに笑った。
「そう、我らはお前たちの世界の方に潜んでいたのだよ。ずぅっと、永い歳月を――」
あの時の亜浪の鳴き声は、封印の中から届いたのではない。封印の外の莉々たちの世界にあったのだ。
「さあ、ここから導き出せる答えは? 紫緑の居場所はわかったか?」
亜浪の妖艶な微笑が莉々に近づく。莉々は震える唇でつぶやいた。
「シロちゃんは……こっちにいないんですか?」
その言葉に、亜浪は満足げにうなずいてみせる。
「お前たちと共に行動していた少年だ。そのうち役に立つかも知れぬと思って姿を記憶しておいた。ただそれだけで、私は名すら知らなかった。あの少年ならば、あちら側だろう」
亜浪が封印の外にいたのなら、こちらに迷い込まなかった紫緑の姿を見知っていたとしても不思議はない。その事実に、莉々は愕然とするしかなかった。
「この世界に来ることが目的だったなら、もう願いは叶いましたよね? どうしてシロちゃんの姿を使ってまで、こんなことするんですか?」
この世界に来て、覇権がほしくなったのだろうか。そのために邪魔な鳴雪たちを排斥しようと画策するのか――
すると、亜浪は一瞬だけ瞳を揺らがせた。意外なほどに繊細な色が垣間見える。
「来れたものの、この世界で私が目指す場所へ行くことができなかった。狸どもが繁栄したこの世界だ。――忌々しいことに、狸の力を殺がねば伊の国にある『あそこ』へ近づくことはまかりならんようだ」
狐たちの目的地は伊の国。そこは鳴雪の領地だと聞く。
「……伊の国には何があるのですか?」
「何もない。ただ、会いたいお方がおる」
「会いたい……?」
それは意外な理由だった。凛と気高い亜浪が他の誰かを必要とすることがあるとは。
永い時を今でも生き抜いているのだとしたら、相手も妖狐だろうか。それとも、別の怪異だろうか。
亜浪は艶やかな唇で愛しげにつぶやく。
「永き時、おそばを離れざるを得なかった。再び見えることこそ我が悲願だ」
「その方が伊の国にいらっしゃるのですね……」
そっと、亜浪を気遣いながら莉々は訊ねた。
それがどんな存在であるのかはわからないけれど、莉々をここへ連れて来たのは、伊の国へ向かうための手段らしい。
だとするなら、こうして話を聞いて莉々が鳴雪にその相手と引き合わせてあげてほしいと頼めばいい。
「ああ、あの狸どもの土地にな」
亜浪はキッとまなじりをつり上げた。けれど、先ほどまでのように怖いとは思わなかった。莉々は小さくうなずいた。
「ええと、どういうお方なのかお話しして頂けますか? それで、鳴雪さんたちに会わせて頂けるようにわたしからも頼んでみます」
莉々が誠意を持って発した言葉を、亜浪は驚いたような顔をして受けた。
「お前が、刑部狸に頼むと? ヤツの寵を得ているとはいえ、お前はただのヒトの娘だ。お前の言動にそこまでの力があるとは思えぬ」
「それは……」
そう言われてしまえば恥ずかしくなる。自分が頼んだだけでどうにかなるなど、思い上がりも甚だしいと。
けれど、ここで怯んではいけないと莉々は膝の上で拳を握った。
「それでも、頼みます」
やっとそれだけ言うと、亜浪は唇に当てた小指を曲げてコロコロと笑った。そんな仕草も莉々には色めいて見えた。
笑いが収まると、亜浪はほんの少し目を細めて莉々を見据えた。
「お前は真剣にそれを言うのだろう。それでも、そのように不確かな方法は取れぬ」
「……そう、ですか」
しょんぼりとした莉々に、亜浪は膝を寄せた。そうして、唐突に莉々の肩をつかんだ。尖った爪が刺さらないように、亜浪は指の腹で莉々に触れる。
「お前に恨みはないが」
「は、はい」
まったく恐怖を感じなかったとは言えないけれど、その言葉を疑うわけではなかった。莉々と亜浪の視線がぶつかる。亜浪は小さく嘆息した。
「すまぬな」
「え?」
肩に添えられた手に力がこもる。ドクン、と心音が大きく鳴った。
心臓が締めつけられるような感覚がした。急な痛みに、莉々は涙を浮かべてうめいた。
「っあ……」
「抗うな」
わけもわからないうちに、莉々は亜浪の呼吸に同調していた。
パタリ、と体を畳の上に横たえた時、そばに亜浪の姿はなかった。胸の痛みも消えている。けれど――
体を起こした時、頭の中に亜浪の声が響く。
『曲がりなりにも彼奴の末裔、完全に憑くことは難しいな』
「え……」
莉々は驚いて辺りを見回したけれど、亜浪の姿はない。莉々はガタガタと震えながらかぶりを振った。
すると、莉々の体は首を振るのをやめ、不意に立ち上がる。それは莉々の意志ではなかった。
ヒッと短く声を上げた莉々に、亜浪の声が届く。
『恐ろしいか?』
自らの意志ではなく体が動く。恐ろしくないはずがない。
『暗示では狸どもの神通力で解ける恐れがあるのでな、憑かせてもらった。しばらくはこの体、役立てさせてもらうぞ』
亜浪が莉々の体を使って伊の国へ侵入しようとしている。そして、そこで鳴雪たちに遭遇した時に莉々の体を盾に取ることも。
今の莉々の考えは、同化している亜浪には透けて見えてしまうようだ。
『そう、刑部狸にとってお前は愛しい娘だ。万に一つも傷つけようなどとは思わぬことだろう』
けれど、そのせいで鳴雪たちが大変な目に遭うとしたら、そう考えたら莉々は恐ろしくて仕方がなかった。亜浪は莉々の顔で笑って見せた。
『伊の国付近に棲まうあやかしたちに、この世界の異変は刑部狸の仕業であると思わせるよう手配してある。このままではこの世界はなくなる、それを防ぐためには刑部狸とその眷属を倒すよりないのだと。今頃、私の手下たちがあの狸どもに化けてはあやかしたちを狸どものもとへ誘導しておる。これで少しばかりは力を殺げるだろう』
「そんな!」
亜浪は自らの目的のために鳴雪たちを危険にさらしている。けれど天敵ともいえる相手に罪悪感などないのだ。
『さあ、行こうか――』
❖
莉々は、亜浪に体の主導権を奪われていた。莉々が何も考えなくとも体は動く。
屋敷を出て、ここへ来た時と同じように輿に乗せられた。
その道中、亜浪は何も言わなかった。ただ静かに莉々の中に在る。
その静けさの中で莉々も自らの心を閉ざす。考えを読まれてしまわないように無心になった。
悲しさも不安も心配も押し込めて、夜の海に漂うように意識を手離す。
そうした時、莉々は逆に亜浪の心に触れた。
それは永い歳月、結界の外で過ごした記憶だった。
莉々と天に呼びかけたあの時。
そう、亜浪は毎日呼び声を上げていた。この声に応えて封印を解くことのできる者を呼び続けていた。
気の遠くなるような時の果てに天がいた。彼こそが自分が求める力の持ち主だと気づいた亜浪は喜びに打ち震えた。天の指先があの注連縄に触れる瞬間――
そこでテレビのチャンネルのように場面が切り替わった。
白い狐の姿に戻り、亜浪は体を丸くして尻尾に鼻面を埋める。悲しみに苛まれ、寒い夜を過ごした。
結界を解く鍵を探してさまよっていた同胞が車に撥ねられた。高く跳んだ狐の亡骸を、亜浪は咥えて山へ戻った。
時が経つにつれ、神通力が弱まってきていた。それは亜浪自身のせいばかりではなく、神にも精霊にも見放されたような世界になりつつある現代のせいだ。山からろくに下りることもできなかった。
僅かに残った力を振り絞り、毎日鳴き続ける。
血を吐くような毎日だった。
けれど、いつかはあの場所へ至ると信じ、願った。
そうして願いは叶ったのだ。こちらに来て、力が満ちてゆくのを感じる。
亜浪は会いたい顔を思い浮かべた――
狐たちが関所の踏み切りに引っかからなかったのは『向こう』を知っているからでした。