零 ~四~
狸の青年、鳴雪はふむと言って顎に指先を当てた。そうしていると、むしろ美青年で絵になる。
黙っていれば狸には見えなかった。耳も普通で尻尾もなく、完璧に化けている。
「私たちが封じられていた封印が破れた。世界が歪んだのはそのせいかと」
「え??」
莉々が声を上げると、鳴雪はにこりと笑って言った。
「私たちの棲まう世界と莉々殿の世界とは、封印という隔たりがあったのだ。その封印が消えたことにより、世界が混在してしまったのであろう」
「せ、世界が混在?」
「うむ。互いの世界になかったはずのものがある、そうした世界だ。けれど、世界が混ざったのは現段階ではごく一部。どうやらここは私の世界が主体で、莉々殿たちの世界はごく僅かなのだろう。私から見ればおかしなところはあまりない。莉々殿たちの世界の大部分は今まで通りの世界として存在しているはず。莉々殿と兄上殿はこちらに迷い込んでしまったわけだ」
莉々がイメージしたのは、パレットの上の隣り合った二色の水彩絵の具だった。その二色の接触面が滲み、混ざり合い、第三色が生れる。ここはその三色目ということだろうか。
にわかには信じがたい話のようだが、化け猫化け狸と登場した後では、そんなことあるわけがないとは言えなかった。
莉々と天は顔を見合わせる。
「もしかしてシロちゃんはもとの世界で、こっちにいないの?」
「そういうことみたいだな……」
一人はぐれたのではないと、ほっとした。ただ、問題はこの後のことである。
「あの、鳴雪さん」
莉々が呼ぶと、鳴雪は頬を染めてニコニコと笑った。
「他人行儀なので『さん』は要らぬよ」
「他狸だからな、そのままでいいだろ」
冷静に突っ込んだ天に、鳴雪は仰け反った。いちいちリアクションが大きい。
「あ、兄上殿?」
その呼び方も気に入らないようだ。天はギロリと鳴雪を睨む。
「お前の兄じゃない。俺は西原天だ。名前で呼べ」
くすん、と鳴雪は泣き真似をする。顔はいいけれど、動きが子供のようだ。狸だからだろうか。
そして、話が横にそれている。莉々はそれを感じて問いかけた。
「ねえ、わたしたち、自分の世界に帰りたいの。どうやったら世界をもとに戻せるのか、鳴雪さん知らない?」
すると、鳴雪は得意げに言った。
「私の力がそろえば、それくらいのことはできる」
「そうなの? すごいね、鳴雪さん」
素直に尊敬の眼差しを向ける莉々に反し、天は疑わしいものを見る目つきであった。
「なあ、お前、さっき封じられていたって言ったよな?」
「え?」
「どんな悪さして封じられてたんだ?」
途端に鳴雪はうろたえる。
「あ、や、それはとんだ誤解だ。悪さをしたわけではない……」
その言葉を天が全く信じていないことが莉々にはわかった。疑り深くなるのも仕方のない状況ではある。
しかし、だからといって他に手がかりはないのだ。
「お兄ちゃん、鳴雪さんは悪い狸じゃないよ。だって助けてくれたし。世界をもとに戻してくれるっていうんだから、そんな失礼なこと言っちゃ駄目」
「お前はなんでもかんでもすぐに信用する。特にこんな状況下では疑うことも必要だ」
「う……」
逆に叱られてしょんぼりした莉々に、鳴雪は心配そうな目を向ける。心配そうというほどに純粋なものではなく、何か余分なものが混ざっている気がしたりもするけれど。
天は疲れた様子で嘆息した。
「まあいい。戻せるって言うならすぐに戻せ」
「いや、すぐには無理だ」
鳴雪はきょとんとして答える。
「私の手下がそろわぬことにはな。世界が歪んだ時、私たちがいた場所はかなりの衝撃だったのだ。皆、散り散りに飛ばされてしまったのだろうな、気づいたら一匹もそばにおらぬのだ」
そういえば、鳴雪は一匹で伸びていた。
その手下の狸たちも同じようにどこかで伸びているのかもしれない。
「全部で何匹そろえばいいんだ?」
「八百八匹」
気が遠くなる数字である。けれど、と鳴雪は言った。
「百匹ずつを束ねる『百匹頭』の八匹が特に重要なのだ」
「そいつらを探さなきゃいけないのか?」
「うむ、そういうことだ」
この歪んだ世界で、狸を探してさまよわなければならないということ。莉々は少し眩暈がした。
どうしてこんなことになったのだろう、と莉々が考えたせいだろうか。鳴雪がポツリと言った。
「いやぁ、けれどあの封印を破ったのは莉々殿と天殿だろうに」
「へ?」
「二人はあの封印を施した者の末裔なのであろうな。だから封印が破れたのだ。特に天殿に封印の霊力が流れ込んで力が高まったのではないか? 以前からあった力ではないのだろう?」
「それは……」
迂闊に触れてしまっただけでこんなことになるとは思わなかった。天も困惑気味に髪を掻き上げる。
「封印を戻すためには天殿の協力も不可欠になるが、まずは手下をそろえて私の神通力を戻すことから始めねばならぬ」
そう語る鳴雪はひたすらに嬉しそうだった。莉々が彼を見上げると、鳴雪は人懐っこく微笑む。
「それにしても、封印が破れたおかげで莉々殿と出会うことができた。私にとっては幸せなことだ」
「はあ……」
この狸、どこまで本気なのだろうか。
よくわからないけれど、この世界をもとに戻せるという以上、このまま一緒にいるしかない。
「まあ、このまま放置したら、世界は一部ではなく完全に混ざり合ってしまう。それはさすがにまずかろう。急いだ方がよいのやもしれぬな」
鳴雪の言葉に、二人はゾッとした。
❖
そうして、この山を抜けるのは朝になってからにしようという話になった。鳴雪はともかく、疲れている莉々と天にとって夜道は危ない。野宿をしたところで、普通の獣などは鳴雪がいれば寄ってこないという。
鳴雪は手の平から手品のように青白い炎を出現させた。それが複数、ふわりと空を舞い、三人を照らす。
「狸火くらいなら出せる。これで夜でも安心だ」
火を出すのは狐に限らないようだ。
「うん、ありがとう」
莉々が礼を言うと鳴雪は嬉しそうに照れた。
「腹が減ったのなら、何か出すぞ?」
「そんなことできるの?」
「うむ」
鳴雪はまたしても手品のように何もない手の平を翻して、ポンという音と共に笹の葉に乗った真っ白なおにぎりを八個ほど出現させた。莉々はそれを受け止めて感嘆の声を上げた。
「すごい! 鳴雪さんすごいね!」
「ははは、力が戻ったらもっと良いものも出せるが」
「……木の葉っぱとかでできてないよな?」
水を差すように天がつぶやいた。これは幻で、食べても腹の足しにならないのだとしても、何もないよりはいいかと思うことにした。
「莉々殿たちの世界には馴染みのない力のようだから説明しておこう。こうした摩訶不思議な力は『神通力』、もしくは『通力』と呼ばれるものだ。私の力も天殿の力もこれなのだが、属性は真逆なのだ。私の神通力は妖力、天殿は霊力。できることが少々違う」
要するに、魔法のようなものかと莉々は理解した。天の力は聖なる力というところで、おにぎりを出したりはできないようだ。
三人はそのおにぎりをペロリと平らげる。それから、鳴雪が天の傷口に軽く手をかざすと、ほんの少し傷が薄くなった。
「手下の中には医術に長けた者もおるのだが、如何せん今の私にはこれが限界だ」
すまなそうに言う鳴雪に、天はほんの少しほだされたのかもしれない。
「いや、痛みが和らいだ。助かる」
鳴雪は感情が表に出やすい。パッと顔を輝かせた。莉々の兄である天には気に入られたいのだろう。
だからと言ってそうそう認めてくれるはずもないのだが。
そうして、三人はとりあえず眠ることにした。
「交代で見張りをするか」
そう提案した天に、鳴雪は言う。
「狸火があるから皆で眠っても構わぬ。異変があればすぐにわかるのでな」
「そうなの? じゃあ、ゆっくりできるね」
莉々がにこりと笑う。こんな状況でも笑えるのは、天と鳴雪がいるからだ。
天はいつでも莉々の精神的な支えである。
地面にマフラーを広げて横たわり、莉々は横になった。
二人がいてくれると思えば、莉々は安心して眠っていられた。多分、天も鳴雪がいてくれて少しは安心できたのだろう。横から天の寝息が聞こえる。
眠っていたのだけれど、莉々は自分の頭や頬を撫でる大きな手があることに気づいた。意識がぼんやりと戻りかけた時、耳元で鳴雪のささやきが聞こえた。
「愛しいという気持ちが、こんなにも唐突に湧いてくるものなのだとは知らなかった」
鳴雪が被さってくる気配があり、莉々はギョッとした。目を瞑ったままでいた莉々の頬に、鳴雪が唇をつけた。
その動揺が鳴雪に伝わったかと思った瞬間に、天が目覚めたようだった。怒りに震えた声がした。
「お前……っ!」
「え? な、何か?」
「寝込みを襲うとはいい度胸だな!」
莉々は気まずくて起き上がれず、薄くまぶたを持ち上げて様子を見た。
憤怒の形相の天に、鳴雪はおろおろと手を振った。
「や、すでに気持ちは伝えてある。不意打ちではな――」
その言葉を最後まで待たず、天は拳に向けてつぶやいた。その途端、右手から輝く錫杖が現れる。
「ひぁ!」
バチン、とその錫杖でお仕置きをされたのだった。
莉々は鳴雪の悲鳴で起き上がる。そこで見たものは――
イライラとした様子の天に睨まれた鳴雪は、ただの狸の姿である。錫杖でのお仕置きに、人間の姿を保っていられなかったようだ。
天は莉々に向け、嘆息した。
「こいつはケダモノだ。気を抜くと寝込みを襲われるぞ。お前も今後は警戒しろ」
「う、うん……」
莉々が恥ずかしさでうつむくと、鳴雪狸はキュ~ン、と切ない鳴き声を上げて上目遣いで莉々を見上げた。そのしぐさは反省から来る謝罪であったのだろうか。ただ、その様子は捨て犬のように憐れだった。
グサ、と何かが莉々の心に突き刺さった。思わず鳴雪を抱き上げて頬ずりする。
「こんなに可愛いんだもん、怒れない!」
思わず天が脱力したのがわかったけれど、莉々は自分の気持ちに正直だった。鳴雪は可愛いのだ。フワフワとして、まるでヌイグルミだ。正直に言うと、ずっとこのままでいてほしい。
そんなことを思っていると、莉々の希望はすぐに破れた。
ポン、と音を立てて腕の中の鳴雪が青年になる。鳴雪は悲鳴を上げかけた莉々を嬉しそうに抱き締めた。
「莉々殿!」
その後、叫ぶだけ叫んだ莉々に鳴雪は突き飛ばされた。それが何故なのか、鳴雪にはよくわからなかっただろう。
❖
そんな夜が明け、ようやく朝になる。
青年の姿の鳴雪は朝日に向けて大きく伸びをすると、昨晩のことなどなかったかのように笑顔で二人を振り返った。
「さて、では町へ行こうか」
「町?」
天が眉根を寄せて問う。
「うむ。ここを下れば小さな町がある。匂いでわかるのだ。この近辺は私の世界が主体であるようだし、多少の差異はあれど、私の方が詳しかろう」
確かに、鳴雪の言うことはもっともだった。
ただし、と鳴雪は言う。
「猫又とは比べ物にならぬような物の怪もおるやもしれん。天殿はともかく、莉々殿は特に気をつけておかねばな」
「も、物の怪……」
「そう。ヒトのふりをしていても、ヒトではないこともある」
現に鳴雪がそれである。説得力があった。
天は少し考え込むような仕草をする。
「町に行けばお前の手下がいるんだな?」
鳴雪は小首をかしげた。
「いるかどうかはわからぬが、何か手がかりがあるのではないかな。まあ、勘のいい砕花なら駆けつけてくれる気もするが……」
「砕花、さん?」
莉々が訊ねると、鳴雪は柔らかく笑った。
「うむ。百匹頭のうちの一匹でな、手下とは言うてもそう畏まった間柄ではない。私の親友だ。あいつがいてくれると頼りになるのだが……」
名前からして女性|(雌)かと思ったけれど、もしかすると違うのかもしれない。
「ふぅん、早く会えるといいね」
「そうなのだ。早く莉々殿を紹介したい」
にこ、と笑ってそう返す鳴雪に、天が低く問う。
「なんて言って紹介するんだ?」
そんなのもちろん、と言いかけた鳴雪はその先を呑み込んだ。
「ま、まあ、急ごうではないか」
と、ごまかしつつ歩を進める。そんな鳴雪をギロリと睨み、天も莉々と並んでその後に続くのだった。
当たり前の日常が崩れて、非日常に迷い込んだ。
けれどこの時はまだ、この歪んだ世界の一端に触れただけであった。
【 零・混在世界 ―了― 】