玖 ~一~*
鳴雪の手下、百匹の妖狸を束ねる『百匹頭』も七匹がそろい、残すところは利玄ただ一匹となった。
利玄は先代隠神刑部の頃から仕える古狸だという話だ。その一匹をそろえて封印をもとに戻せば一件落着といえる。
けれど、それはそう簡単なことではなかった。
今、莉々は、幼なじみの紫緑の姿をした狐にかけられた暗示が眠っている。
その暗示は、今晩の子の刻に発動する。莉々が一人、皆のもとを離れて狐のところへ赴くという暗示だ。
普羅と青畝親子の再会を祝う一行に、そのことに気づいている者はいなかった。莉々自身、かけられた暗示を明確に思い出せずにいる。そこから時間が経つにつれ、さらに内容がぼやけて頭では認識できなくなった。
「わたし、青畝ちゃんの隣がいい」
皆で囲んだ食事の席で莉々はそんなことを言う。青畝は正座したままギクリと尻尾を棒のように伸ばした。
動物好きな莉々は、ヒトに化けても尻尾と耳の残る仔狸の青畝を可愛いと思っている。だが、あまりに可愛がるので鳴雪がやきもちを焼く。それが青畝にはいい迷惑なのかもしれなかった。
「ではその反対側に私が」
と、鳴雪はすかさず莉々の逆隣に腰を据える。
天は呆れたような目をしつつも何も言わなかった。
「まあ、これで後は利玄と合流すればいいだけだな。利玄のことなら伊の国の屋敷跡で鳴雪を待っている気がする。このまま伊の国を目指すべきだろう」
砕花がそう切り出した。鳴雪が最も頼りにする手下だけあっていつも落ち着いている。
「利玄なら鳴雪様を待ちながらのんびりと茶を飲んでると思うよ」
林火も艶やかに笑った。
「ああ。八百八の同胞がそろいさえすれば、我らに怖いものなどない」
水巴は凛とした眼でそう言った。
「この淡の国との国境を越えれば、伊の国はすぐそこです。伊の国は美しい国ですから、莉々様もきっと気に入られると思います」
秀真も故郷が近づいたせいか、どこか嬉しそうにしている。
「そう? 楽しみ」
莉々はにこりと微笑んでうなずく。
そのひと言に鳴雪はご機嫌だった。そんな鳴雪を天が複雑な面持ちでじっとりと見ていたけれど、以前のようには何も言わなかった。
食事の席でも青畝は箸を片手に、もう片手には発見した虫について記した帳面を持っている。行儀が悪いというのに、父親の普羅はそんな息子をニコニコと見守っているばかりだった。侍然とした精悍な顔立ちもどこかゆるくなった。
そんな普羅に冷ややかな視線を向けると、砕花は青畝を叱責する。
「青畝、いい加減にしないか」
「はひっ」
砕花に叱られ、青畝は姿勢を正した。そんな息子を普羅は心配そうに見遣る。
「ほんっとに普羅は青畝に甘いね」
林火にもそう指摘された。普羅は戸惑いがちに言う。
「いや、その、この子は母親がいないので――」
「駄目なことは駄目と叱って立派な狸に育て上げねば、それこそ奥方に顔向けできぬのでは?」
どこからともなくそんな声がした。姿は見えないけれど月斗の声だ。普羅はうぐっ、と言葉に詰まる。
「お、おいらが悪ぅございましたのです。トト様は悪くないのでございます」
慌てた青畝がそんなことを言うと、普羅は息子の成長に涙ぐんだ。皆が微妙に白けている。
青畝にとって、甘い父親の他に手厳しい大人が多くいることは救いだと莉々は苦笑した。興味の対象がいると周りが見えなくなりはするものの、青畝はまっすぐに育っている。
そんな和やかな空気の中で食事を終えた。
「さて、狐たちが何を目論んでいるのかも定かではない以上、我らが伊の国へ向かう道中に『何か』を仕掛けてくるやもしれぬ。皆、今宵はゆっくりと休んで力を蓄えてくれ」
そう言って締めた鳴雪に、皆それぞれに返事をする。
その『何か』はすでに始まっているのだが――
❖
莉々は林火と水巴と共に風呂に入り、紺地に朝顔柄の浴衣を着せてもらった。
それはいつも通りの光景で、三人の様子も普段と変わりないものであった。
けれど。
その晩、皆が眠りに着いた頃に莉々は目覚めた。それは子の刻が間近に迫った頃であった。
「……っ」
莉々は上半身を起こしたが、声が出なかった。そうして、自らの意志ではなく、まるで幽鬼さながらにユラリと立ち上がる。足音も立てず、滑るようにして部屋を出た。林火も水巴も疲れているのか目を覚まさなかった。
意識はあるけれど、夢の中にいるようにあやふやなものだった。莉々の足は裸足のまま土間に下りると、戸を開けて外へ出た。
涼やかな夜気の中、莉々は裸足で歩き続ける。地面のザラリとした感覚や小石を踏みつけた痛みははっきりとあった。五十歩ほど進んだ頃になってようやくひとつの影が現れた。
それは莉々の幼なじみ、紫緑の姿である。袴の裾を捌き、莉々へと歩み寄る。
ニヤリと笑った。
「子の刻だ。参ろうか」
差し出されたその手を、莉々は無言で取った――
そこからさらに少し進むと、どこからともなく現れた狐の若衆たちが二人を囲んだ。耳は紛れもなく狐のものだ。
「亜浪」
狐の若衆が呼んだそれが、紫緑に化けたこの狐の本当の名前なのだと莉々は察した。
「娘にかけた暗示はまだ効いているのか?」
すると、紫緑に化けた狐――亜浪はゆるくかぶりを振った。
「いや、もう切れかかっている」
そう言って、手を握ったまま莉々を見遣り、紫緑の顔で不敵に笑った。
「けれど、兄と違ってこの娘に特別な力はない。狸どもの縄張りを抜けて我らの手に落ちた以上、何かをなせるはずもない。それに、この『紫緑』の安否が気がかりであるのなら下手な動きはせぬよ」
縄張りというのはあの家のことだろうか。あの家には狐が寄りつけないような仕掛けが施してあったのかもしれない。だから狐は莉々に暗示をかけ、自ら出てくるように仕向けた。
こうなってしまったのなら、せめて心を強く毅然と接して紫緑の安否を問い質したい。莉々はそう思うけれど、体は正直に亜浪へ震えを伝えてしまう。それを亜浪は嘲笑った。
「怯えて声も出せぬか?」
「シ、シロちゃんは……」
やっとそれだけを言った莉々に、亜浪は紫緑の顔でスッと目を細めた。
「それを知りたければ来い」
そうして、莉々は狐たちが通力で出した輿に乗せられた。亜浪も共に乗った。
物見の小窓はあるけれど、そこは帳が下り、外の風景は一切見えなかった。カラカラと車輪の音だけが二人の間に響く。
亜浪は特に言葉を発することもなく、ただじっと座っているだけである。莉々もまた心細さでうずくまるばかりだった。
どれくらいそうしていたのか、次第に現実味が薄れて曖昧に感じられた。時間も時間であり、周囲はただ暗い。それでも狐たちは夜目が利くのだろう。歩みが止まることはなかった。無情に規則正しく輿は進む。
途中、よく揺れた。眠気は気が昂っているせいかほとんど感じなかった。
そうして、輿が止まった。亜浪は顔を上げ、物見の小窓から外を見遣る。莉々を振り返ると短く言った。
「着いたな。降りるぞ」
莉々はギュッと唇を強く結んでうつむいた。けれど、救いはない。
輿は二人が降りた途端に煙のように消えた。
そこは洞窟の入り口だった。
「……この先にシロちゃんがいるの?」
すると、亜浪はクスリと笑った。
「来ればわかるだろう」
そう言った亜浪はふと莉々の足元に目を留めた。莉々は履物を履いておらず、裸足のままなのだ。
そばにいた狐の若衆に声をかけると、その青年狐は莉々の体を軽々と抱え上げた。
「っ!!」
怯える莉々に、亜浪は言った。
「この先は岩肌ばかりで少々歩きづらい。お前の体を無闇に傷つけるわけにはいかぬのでな、大人しくしておれ」
莉々に傷をつけると鳴雪が逆上するからだろうか。莉々は暴れるでもなく、ただ運ばれるのみだった。
誘われた洞窟の中は薄暗かった。亜浪はすかさず狐火を出す。
狐も狸も怪火は同じなんだな、と莉々はぼんやり思った。それが発端になって、鳴雪のことを深く思い起こした。
いつだって、莉々の危機には助けに来てくれた。
莉々がいなくなったことに気づいたら、きっととても心配するだろう。それを申し訳なく思った。
洞窟の中は、ただの暗闇ではなかった。
奥へ行けば行くほどに広く明るくなった。
その光景に莉々はハッと目を見開いた。
そこには大きく立派な屋敷があったのだ。朱と苔色をあしらった屋敷の周りを、うっすらと発光する球体や植物が幻想的に照らし出す。例えるなら竜宮城にでもやってきたかのような印象だった。
呆然と屋敷を見上げた莉々を亜浪は中へと誘う。
綺麗に剪定された木々の門を抜け、屋敷の玄関先へ来て莉々はようやく下ろされた。莉々を担いでいた青年狐は亜浪の視線を受けて下がる。
「さあ、奥へ」
この先に紫緑がいるのだろうか。莉々は覚悟を決めた。
己の姿が映るほどに艶やかな廊下を抜け、奥の間へ通される。途中、多くの気配があって莉々を値踏みするような視線が突き刺さった。亜浪に気を許すわけではないけれど、幼なじみの紫緑の姿をしているだけに、今ここでかすかな安らぎを感じるのは亜浪だけだった。はぐれるわけにはいかない、と莉々は必死に歩む。
廊下を突き当りまで来ると、亜浪は襖をパンと左右に開いた。そこは莉々の自宅の道場ほどもある広間だった。
亜浪は莉々を振り返る。
「入れ」
莉々は小さくうなずくと、畳に足を踏み入れた。そうして部屋の中央まで進むと、亜浪も中に入って襖を閉めた。そうして、莉々のところまで歩み寄る。広い部屋にただ二人。本物の紫緑はいない。
莉々は胸の前で拳を握り締めて構えた。亜浪はそんな莉々に紫緑の顔で笑いかける。
「そう構えずともよい。お前には紫緑の安否を教えてやると約束しただろう?」
その約束を守ってくれると言う。
亜浪はすぅ、と息を吸うと莉々に背を向けた。そして――
ぶわん、と耳鳴りのような音がして、一瞬にして莉々の視界は鮮やかな錦に染まった。緋色のそれが亜浪の着物であると気づいたのは、妖艶に微笑む美しい女の顔がこちらに向いてからだった。
純白の絹糸と見紛うような長い髪。その頭部には白い狐の耳がピンと生えている。広がった着物の裾からも白い尻尾らしきものが見え隠れしていた。
亜浪は金色の眼と赤い唇で微笑む。
「耳も尾も隠すことはできるが、私にはこれが狐としての誇りだ」
亜浪が変化を解いた。それは、紫緑の体に取り憑いていたのではないという証明である。
莉々はドクリドクリと脈打つ胸を押えて亜浪の次の言葉を待った。
「さあ、話をしよう――」