捌 ~四~
「青畝!!」
子を呼ぶ父の声が切なく響き渡った。けれど、狸型の青畝は天女のような女性の腕に抱かれ、深い眠りの中だ。
その女性は火傷を負った狗賓と鳴雪、そして最後に普羅に目を留める。その眼から感情は読み取れなかった。女性は、頭の中に直接語りかけるような響きのある声でつぶやく。
「おぬしがこの子の父親か?」
「いかにも。どうか息子をお返しくださりませ」
普羅は痛ましく表情を歪めて懇願した。普羅にも彼女が何やら神聖なものに思えたのだろう。礼節を弁えた対応だった。
けれど、彼女はそれでも冷めた目をしていた。
「母はおらぬのか?」
ハッと目を剥き、普羅は言葉を失った。そこへ彼女は重ねる。
「幼子に必要なのは父親ではなく母親であろう? のう、この子に母がおらぬのならば、吾がこの子の母となって慈しんで進ぜよう。吾は山の神。この子に十分な恵みを与えることができようぞ」
薄青い光を放つ指が、眠る青畝の頭を撫でる。
それは大切に思われている。少なくとも、莉々にはそう感じられた。
けれど、普羅がそれで納得するはずもなかった。浮かび上がる山神と青畝を愕然と見上げ、傷ついた精悍な顔に苦悩を浮かべた。
「お戯れを。その子は我が子。例え相手が誰であろうと、そう易々と譲れるものではございませぬ」
その途端に、山神は不愉快そうに眉根を寄せた。
「吾はこの子が気に入ったのじゃ。『母』として大切にすると申しておる」
美しい、優しげな姿に見合わぬ言葉だった。外見とは裏腹に、まるで子供のようだ。
子供の純粋さ、残酷さを兼ねた心――
普羅は拳を強く握り締め、そうして声を絞った。
「この子の母親は死んだ我が妻だけでござります! 無念ながらに幼子を残して逝かねばならなかった妻に、それでは申し訳も立ちませぬ!」
ボロボロと惜しげもなく涙を流す普羅に、莉々も胸が詰まった。
大切に、妻との思い出を語った普羅。もう届けることのできない妻への想いを込め、男手ひとつで青畝を育て上げようと奮闘してきたのだろう。
そんな想いを踏みにじられたようで、鳴雪の表情も次第に強張っていた。
「山神の姫、それくらいにして頂かねば、私にも限度がある」
寒々とした声音に、山神はハッとして表情を曇らせた。鳴雪は続けて言う。
「その者は私の手下でもある。それを奪うのであれば、我が眷属のすべてをもってこの山を消し去るが、それでも返さぬと申すのか?」
「隠神刑部……っ」
山神はギリ、とわななく唇を噛んだ。そんな時、山神を見上げながら押し殺した声を上げたのは天だった。
「可愛がるだけで親になれるなんて、大した思い上がりだ。子供を残して死ぬ親の気持ちも、片親で子供を育てる苦労も、あんたはなんにも知らないからそんなことが言えるんだ」
その時、火傷に苦しみながら喘鳴を漏らしていた狗賓が割って入った。
『ヒトの分際で、山神様に無礼な……っ』
狗賓は、山神に仕える存在なのだ。狗賓には彼女を軽んじる存在が許せぬのだろう。
けれど、天は怯まなかった。鳴雪たちの陰に隠れるでもなく、はっきりと言い放つ。
「人間も妖怪も神様も、そんな区切りはこの際なんだっていい。子を想う親の気持ちも、親を慕う子の気持ちも踏みにじって、それでも気づいてないところに腹が立つだけだ」
莉々と天も、祖父はいるが、父がおらず、片親である。母の苦労と普羅とを重ねたのだろう。いつもにこやかな母ではあるけれど、時折は隠れて泣いていたのを莉々も知っている。
天の言葉に激昂し、山神は荒れ狂うかに思われた。けれど、山神は青畝を抱き締め、その場に浮かんでいるだけであった。
莉々が恐る恐る見上げると、山神は美しい顔に苦悶の色を浮かべていた。それは怒りではなく、純粋な戸惑いであった。
彼女は悪ではない。けれど、こうして叱ってくる相手がいなかったのだろう。
狗賓はそばに仕えているのであり、主である山神にとって耳の痛い言葉など口にするはずもない。
『山神様はこの御山を守護してこられた。生き物の暮らしを護り、恩恵を与えてくださっているのだ。その山神様が自ら望むささやかなものさえも奪うと言うのか』
狗賓の言葉に普羅がかぶりを振った。
「ささやかではない! 某の命よりも大切な我が子だ!」
山神は腕の中の青畝に視線を落とした。
「……所詮、この世は滅するのであろう? 吾はもう、この山と共に消え去るのみ。残された時を好きに過ごしたいだけなのじゃ」
狗賓が目を見張っていた。山神の諦観を、今ここで初めて知ったのだろうか。
山神は世界の異変に気づいている。けれど、神とはいえ、山から離れることのできない彼女になす術はないのだ。
そんな時、不意に背後から声がする。
「あなた様が欲するものを手に入れるお手伝いを致しましょうか?」
その声の冷たさに、一同は同時に振り返った。
そこで目にした姿は、よりによって何故ここでと言いたくなるものだった。莉々は思わず口元を押える。
「シロちゃん!」
六人のほっそりとした若衆を従えているのは、莉々と天の幼なじみの少年紫緑である。幼さを残しながらも冷たい眼差しをして、山の中に立っている。
その表情を見れば、それが本物の紫緑でないことは容易に知れた。
「狐が!」
砕花の牙を剥くような声がした。
狐は紫緑の体に取り憑いているのか、それとも化けているのか、未だにそれが判別できない。こうして顔を合わせても、表情以外は紫緑そのものなのだ。
鳴雪が莉々を気遣って視線を向けた。そんな中、紫緑の姿をした狐は山神を見上げて言った。
「ここはあなた様の御山。我らすべてが侵入者だ。ここへ足を踏み入れた以上、あなた様の流儀には従うべきでしょう」
山神を援護する狐に、それでも狗賓は警戒心を解かなかった。
『おぬしたち眷属は山を去り、省みることなどなかったではないか。今さらどの面下げてやってきたというのだ。おぬしたちの抗争に巻き込むな。手助けをしたとしてもおぬしたち狐の側に御山がつくとは限らぬ』
すると、狐はクスクスと笑った。
「ええ、結構ですとも。御山を離れることのできないお方の力をあてにしているわけではございません。ただ私は、永きに渡り御山を護ってこられた山神様のお心が、あまりにも蔑ろにされていると胸を痛めただけでございます」
「ふざけるな! 紫緑を返せ!!」
天が叫ぶと、狐はスッと目を細めた。
「お前は虚しく喚いているがいい。今はお前と話しているのではない」
幼なじみの顔で、狐は冷たく言い放つ。そのことが莉々にはひどい苦痛だった。
鳴雪は莉々を背に庇い、皆をそばに寄せ、狐に対するべく陣を固める。その隙に林火が普羅の傷をしっかりと塞いだ。
狐はそれを不敵に眺めている。狐の手勢は微動だにしなかった。まるで戦意が感じられない。
そんな時、キュウという声が降った。それは山神の腕の中の青畝が目覚めた声だった。
小さな仔狸は、ポンという音と共に人型に変化した。それに驚いて山神は青畝を取り落とした。けれど、青畝はクルクルと器用に回転して普羅のそばに着地する。
「トト様! トト様ではござりませぬか!」
パッと、輝くような笑顔で父親に飛びつく。太い尻尾がパタパタと揺れた。
「青畝!!」
普羅は我が子を抱き締め、声を殺して泣いていた。眠っていた青畝は、父と山神のやり取りも知らぬのだろう。大袈裟な再会の挨拶にくすぐったそうに笑っている。
「トト様、たぁくさん虫を見て参りましたでございます。後でゆっくりと聞いてほしいのでございます。それからそれから、母様の夢を見ましたです。顔はおぼろげですが、とっても優しかったのでございますです。……あれ? トト様、どうしてそんなにも泣いているのでございますですか?」
はしゃぐ青畝はのん気なものだが、そんな姿が微笑ましい。莉々もほっとして涙が滲んだ。
けれど――
腕をすり抜けていかれた山神は、美しい顔を歪めて唇から音を漏らした。
「……して」
「え?」
莉々はその声を聞き取れなかったけれど、それでも不穏な空気だけは感じ取れた。
山神は、癇癪を起こすように叫んだ。
「どうして! 吾はただ寂しいだけなのじゃ。何故それを誰もわかろうとしてくれぬ!!」
その叫びに呼応するように山が揺れた。
ガン、と大きな縦揺れに莉々はよろめいた。しかし、それは莉々だけではなく、ほとんどの者が立っていることすらままならなかった。石の礫に葉の刃が皆を襲う。とっさに天が覆いかぶさって庇ってくれたけれど、それでは天が傷ついてしまう。
「お兄ちゃん!」
その声に鳴雪は一度だけ振り向くと、彼だけは荒れた御山の影響をものともせず、しっかりとその場に立って山神を落ち着かせるために声をかけた。
「御山を自ら壊す気か? 落ち着かれよ!」
『どうかお気持ちをお静めください!!』
狗賓の声さえも虚しく風に掻き消される。
鳴雪は軽く舌打ちすると、それから手に光をまとう。神通力の灯りが漏れた。
皆がその場に這い、木や草にしがみつく中、その光だけが変わらず灯っている。莉々はすがるような気持ちで光を見つめていた。
ただ、その時に天の腕につかまっていた莉々の手首を何者かがつかんだ。とっさのことに声が出なかった。
驚いたからばかりではない。本当に、声が出なかった。それは月斗にかけられた傀儡子の術の時と同じような感覚だった。
完全に気配を消し、その姿は誰にも認識できない。莉々と密着している天でさえもその異変に気づいていなかった。莉々とその者の間にだけ静寂が訪れた感覚だった。
『紫緑に会わせて欲しいか?』
ゾクリとするような凄みを帯びた、聞いたこともない女性の声だった。けれど、莉々はそれが紫緑に化けた狐の声である気がした。
『この地は山神の支配する場所。ああして猛り狂う山神のおかげで気が混ざり、狸たちも気配を消した私を完全に察知することはできぬ。――さあ、お前の答えを聞こう』
そんなことは訊かれるまでもない。
『シロちゃんを返してください!』
莉々は心の声でそう答えた。狐が満足げに笑ったように思えた。
『よかろう。では、子の刻に狸たちとも兄とも離れて一人で抜け出してくるがいい。そうしたならば会わせてやろう』
罠だと、誰もが言うだろう。
まずいと思った時にはすでに遅かった。
これは暗示だ。莉々の奥深くに狐の言葉が浸透する。
天のように特殊な能力もない莉々には抗うことなどできない。
狐の狙いは最初からこれであったのだ。山神とのいざこざに介入するつもりがあったわけでもなく、混乱に乗じて莉々に近づくためにやってきたのだ。
暗示が成功したと確信したのか、狐の気配は消えた。その途端に莉々の意識は山神が激昂した山の只中へと引き戻される。
誰が何を叫んでも、山神は耳を貸さない。そんな中、青畝を護ろうと抱き締めていた普羅の腕から青畝がするりと抜け出した。暴風の中、眼を光らせているのは通力によるものだろうか。風の影響を受けずになんとか立っている。
「青畝!」
普羅の声に振り向かず、青畝はそのまま歩み、鳴雪のそばに立った。そうして、鳴雪を見上げる。
「メイ様、ここはおいらにお任せくださいなのです」
幼く舌ったらずながらに、はっきりとした口調だった。鳴雪はうなずく。
「わかった、任せる」
「はい!」
青畝はそばにあった木に登り始める。危なげであったけれど、心臓が破れそうなほどに狼狽える普羅を皆が宥めた。
そうして、青畝は木の枝に立つ。暴風の影響を受けずにいられるのかと思えば、完全には無理なようだ。集中力がいるのか、次第にあおられているように見えた。
鳴雪も手を出すべきか迷っていたのかもしれない。心配そうにしている。
その時、枝の上で揺らめく青畝を支えたのは狗賓だった。傷ついた翼で飛び、青畝を庇いながら木に寄りかかる。青畝はそんな狗賓に驚きながらもうなずくと、山神に声をかけた。
「どうしてそんなに悲しまれるのでございますですか?」
荒れた山神もそんな青畝の声には耳を傾けた。
「どうして、と? 吾はこの地に縛られ孤独に過ごした。後は消えてゆくだけ。それを悲しむのはおかしなことかえ?」
そんな慟哭に、青畝は小首をかしげた。
「山神様には狼天狗さんがいらっしゃいますのです。それに、山を崇めるヒト、山に住まう虫やあやかし、動物は多いのでございます。皆、山神様が大好きでございますですよ」
と、青畝は人懐っこく笑った。すると、山神は先ほどよりは幾分冷静に言った。
「大好きなら、何故吾はこうも孤独なのだ? おぬしも吾を残して去るのだろう?」
「おいらにはこれから、やらねばならないことがあるのでございます。この世界を護るための封印を、メイ様たちと一緒に張り直してくるのでございます。そうすれば、この御山も今までのように平穏にすごせるのでございますです」
「それは……」
半信半疑といったふうな山神に、青畝は続けて言った。
「封印を戻したら、おいらはまたここを訪れます。ここにはよい虫がたくさんなのでございます。土産話を持って遊びに参りますのです」
こんな時でも虫なのか、と莉々は思ったが、成り行きを黙って見守る。
「山の皆は山神様に一生懸命声を届けようとしておりますのです。どうか耳をお傾けくださいなのです」
山神は、逆立てていた髪とつり上がっていたまなじりをゆっくりと落ち着けた。その悄然とした面持ちは、先ほどまでの荒々しさとは結びつかないたおやかな女性のものだった。
「それでも寂しいのぅ」
「その寂しさがあるのなら、次にお会いする時には倍の喜びがあるのでございますです」
笑顔でそう語る青畝に、山神は毒気を抜かれた様子だった。
「そうか。そうだな……」
荒ぶる山神を鎮めた息子の成長に、普羅は一人で隠れてむせび泣いていた。鳴雪も微笑んで見守っている。
林火は鳴雪の命で狗賓の傷を癒した。その間、狗賓はムッとした面持ちであったけれど、それは怒りからではなく、どう接してよいものかわからないのだと見て取れた。
鳴雪は一時の憤怒が嘘のように穏やかに狗賓に詫びた。
「互いに譲れぬものがある故の衝突だ。おぬしが憎かったわけではない。山神の姫も理解を示してくれたようだ。私も今回のことで禍根を残したいとは思わぬのでな、おぬしにはしかと詫びよう」
『……こちらも貴殿の手下を痛めつけたのでな。こちらこそ詫びねばなるまい』
「うむ、ではこれにて一件落着だな」
柔らかく微笑み、鳴雪は胸を撫で下ろす。いつの間にやら狐がいなくなっていることなど、誰も気に留めていなかった。
「では、また!」
そう言って手を振る青畝と、その横で頭を下げた普羅を最後尾に下山する。山神と狗賓は上空からそんな一行を見守っていた。
そこでふと、天は疑問を口にする。
「あの音って結局なんだったんだ?」
あの音、とはトーントーンと山に響いていた音のことだろう。それについて普羅が説明してくれた。
「あれは天狗が木を切り落とす音。ああした音で人々に山を恐れさせるのです。山はヒトにとって親しみつつも畏怖の対象でなければならぬのでございます。あれも神域を護るあの狗賓の仕業かと」
「なるほどな。青畝にはまるで効果がなかったけどな」
そのひと言に皆がクスリと笑った。当の青畝はきょとんとしている。
残る手下は利玄ただ一匹。
ことは順調に運んでいるように思われた。けれど――
莉々の中には狐にかけられた暗示が眠る。
そうして、子の刻は迫りくるのであった。
【 捌・古杣 ―了― 】
古杣というのはこの音のことです。
天狗以外にも狸が立てる音とも言われます(笑)