捌 ~二~*
狸たちは船を走らせ、淡の国の港へと辿り着いた。
淡の国からは探すまでもなく美しい霊峰が見えた。数え切れない多くの緑色が折り合わさり、その山頂を刷毛ではいたような雲が薄く覆っている。
莉々は思わず感嘆のため息を漏らしていた。あの美しい山に棲まう神は、穏やかな存在なのではないだろうかと思えるほど、山は静かにそこにあった。
港に着いたからには船も不要である。砕花は船をあっさりと売却してしまった。
身軽になった一行は、港町を歩く。
山はどこにいても見えた。逆に言うのなら、あの山から山神がいつ何時もヒトの暮らしを見下ろしている。
莉々はふとそんなふうにも思った。
丹の国に比べると、淡の国はどちらかといえば田舎に思えた。洗練されておらず、泥臭さがある。言い換えるなら素朴な空気だ。それが好ましくもあった。
港を過ぎ、町中へ入ると、燈籠のそばに立つ男に目が行った。
男盛りで、落ち着いた空気をまとっている。背が高く、紺の着物と袴の上からでも鍛えた体をしていることがわかった。髷ではなく短髪だが、かもし出す気は侍のそれだ。事実、脇差が腰にある。
皆の足が一度止まった。そうして、鳴雪が大きくうなずく。侍風の男はすぐに鳴雪に目を留め、無駄のない足捌きでこちらに駆け寄ってきた。
「普羅、ようやく会えたな」
そう鳴雪が声をかけると、普羅は堂々とした体躯を折り、鳴雪にひざまずいた。耳はやや小振りだが、狸の耳だった。
「鳴雪様。長くおそばを離れましたこと、平にお詫び申し上げます」
「うむ。立ってくれてよいぞ」
鳴雪が声をかけると、普羅は背筋を伸ばした。莉々は恐る恐る普羅を見上げるが、彼は同胞たちの方に目を向けていた。砕花たちに表情をゆるめてみせる。
「合流が遅れてすまぬ」
砕花はそんな普羅に目を細めながら言った。
「それで、青畝はどうした?」
すると、普羅の顔が強張る。すかさず林火が間に入った。
「普羅にも行方がつかめていないのかい?」
苦しげに眉間に皺を寄せ、普羅はうなずいた。
「ああ。この辺りにいるとは感じたのだが……」
我が子ともなれば、心配で堪らないのだろう。本当は今すぐにでも探しに行きたいのではないかと思えた。
「単独で探すよりも鳴雪様にお願いした方が確実だ」
水巴も普羅を気遣いながら言った。グッと拳を握り締めると、普羅は血を吐くように苦しげに声を上げた。
「私どもは鳴雪様の手下にございます。その分際でありながら、勝手だとは重々承知しております。それでも、どうか青畝をお救いくださいますよう、お願い申し上げます」
幼い息子を案じる心に人間も狸もない。莉々は普羅の様子に胸が詰まった。
そんな普羅の心痛を和らげようとしたのだろう。鳴雪はその肩に手を載せた。
「青畝は私にとっても大切な手下だ。見捨てることなどない」
「ありがたきお言葉、誠に忝く――」
と、目尻に浮かんだ涙を袖で拭う。その仕草から、普羅がどれだけ青畝を大切に想っているのかが伝わった。
ほんのりとあたたかな気持ちで普羅を見守りつつ、莉々はずっと気になっていたことを後ろの秀真にこっそりと訊ねた。
「あの、月斗さんが見当たらないんだけど?」
「ちゃんとおりますよ。潜んでいる気配がありますから」
「そ、そうなの?」
どうあっても表には出たくないらしい。それでもついては来ているらしいが。
一度落ち着いて話すため、一行は茶店に行くことにした。
茅葺屋根の茶店の表には大きな日よけの傘が数本立てられており、遠目に傘の朱色が鮮やかだった。その下に毛氈を敷いた床几が置かれている。前掛けをした可愛らしいお運びの娘が、愛想よく皆を傘の下へ座らせた。そうして注文を聞くと、小首をかしげる。
人数よりも一人分多いのだ。もちろん、月斗の分である。普羅は甘味は要らないと茶だけを所望した。のん気に団子など食んでいる場合ではないと思うのかもしれない。
莉々はお品書きにあったキャラメル風味が気になったけれど、恐ろしくて頼めなかった。天も気づいていたようなのだが、やはりそこは頼まなかった。
そうして茶を待つ間、鳴雪は普羅に解けた封印のことと、それをもとに戻すことを話した。普羅は静かに受け入れていた。立ち居振る舞いのすべてが落ち着いた大人の男性だ。
そのうちに茶と団子が運ばれてきた。串に刺さったよもぎの団子に粒あんを盛ったものが長方形の角皿に載っている。一人分ずつを抹茶とセットにして運んできてくれた。鳴雪はそれを受け取ると、普羅に微笑む。
「そういうわけだ。わかったな、普羅?」
「承知致しました」
深くうなずく。ここでようやく、普羅は莉々と天に濃い色をした眼を向けた。そこに警戒の色はない。
「封印の霊力を宿す御仁、天殿と、その妹御の莉々殿でしたな。天殿はともかく、危険とわかっていて莉々殿を連れ回されるのはいかがなものでしょうか?」
すると、鳴雪は隣にいた莉々の肩をぐいっと引き寄せた。危うく茶をこぼすところだったけれど、なんとか堪えた。
「莉々殿は将来、私の伴侶となる。莉々殿のことは私が護るさ」
普羅は少しだけ驚いたようだったけれど、すぐに表情を和らげた。あまり物事に動じない性格のようだ。
「左様でございましたか。鳴雪様が奥方を娶られると。それはお祝い申し上げます」
「うむ。ありがとう」
気が早いと言いたかった莉々を置き去りに、二匹は穏やかにと会話を続ける。
「夫婦というのはよいものです。鳴雪様が愛するお方を見つけられたことを先代もお喜びでしょう」
天は団子を茶で流し込むと、その会話の腰を折るようにして口を挟んだ。
「普羅さんは青畝の父親なんだろう? じゃあ、母親はどこにいるんだ?」
一応外見は目上の男性だ。初対面で呼び捨てにもしにくかったのだろう。
天がそう問うと、狸たちはそろって顔に緊張を走らせた。普羅はくしゃりと顔を歪める。
「妻は病で亡くなりました」
訊ねた天の方が言葉に詰まった。そんな兄をフォローしようと莉々は慌てて言う。
「うちとは逆だね。うちはお父さんを事故で亡くしてるから。でも、青畝ちゃんはまだ小さいし、お気の毒――」
そのひと言に皆が顔を引きつらせたことに気づいたけれど、すでに遅かった。
「そうなのです!!!」
突然大声を出して立ち上がった普羅に、莉々はヒッと声を上げた。天も唖然と普羅を見上げている。鳴雪は、驚いた莉々を慰めるように頭をヨシヨシと撫でた。その間中、普羅は熱く語るのである。
「あの幼い子が母の顔もろくに覚えていないなんて不憫で不憫で!! 妻はそれはそれは美しく、気立て優しく、夫を立て、子を慈しんでくれる某には勿体ないほどの女でした。そもそもの出会いは――」
先ほどまでの落ち着きはどこへやら。滔々ととはこのことかというほどに、普羅は馴れ初めから別れまでを涙ながらに語り出した。店員や他の客の視線も気にならないらしい。
莉々と天は遮ることもできず、時折相槌を打つばかりである。
とにかく、普羅がどれだけ亡き妻を想い、忘れ形見の青畝を大切に想っているのかだけは伝わった。
狸たちは、もしかすると何百回と聞かされているのかもしれない。普羅が泣こうが叫ぼうが落ち着いて茶をすすっている。秀真だけが少し心配してくれていたけれど、他の皆の顔には我関せずと書いてあるかのようだった。
ただ、その間、鳴雪は莉々の傍らで切ない瞳をしていた。最愛の伴侶と引き裂かれた普羅の苦悩が、今になって身に染みてわかるのだろうか。そうして、いつか来る、死が二人を分かつ瞬間を憂えているのかもしれない。
そう思うと、莉々も切なくなって鳴雪の着物の裾をぎゅっと握り締めていた。
遮りがたい空気をどうにかして破ったのは砕花だった。
「時に普羅、こうしている間にもその青畝が心細い思いをしておるやもしれぬぞ」
普羅は頭を殴られたようにハッとした。慌てて居住まいを直すと、鼻をすすりながら大きくうなずく。
「そ、そうだな。うむ、早く駆けつけてやらねば」
莉々と天は終わりが見えたことに安堵した。けれど、最後には苦笑した。
普羅は優しい狸だ。早く普羅と青畝を会わせてあげたい。そんなふうに思った。
「ところで、普羅さんは刀を差してるけど、剣術をするのか? 鳴雪たちみたいに神通力があれば十分だろ?」
なんとなく天が訊ねると、普羅は刀の柄に手を当てて苦笑した。
「剣術が好きなのです。身も心も引き締まります故」
莉々には普羅の力量のほどはわからないけれど、強そうには見える。天も思うところがあったのか、意外なことを言った。
「手が空いた時でいいから、一度手合わせをしてほしい」
「まあ、構いませぬが」
毎日祖父の弦と手合わせをしてきた天だからこそ、このところ鍛錬が十分でないと感じているのだろう。
鳴雪は莉々の肩から手を放すと、皆の視線を自分に集めるように立ち上がった。そうして真剣な面持ちで口を開く。
「青畝は十中八九あの山の中だ。まずはあの山を目指すとしよう」
「はい!」
狸たちが神妙にうなずいた。莉々と天も青畝の捜索に向けて気を引き締める。
そこでふと莉々が目をやると、一皿余分に見えた皿の団子が串だけになっており、茶もなくなっていた。いつの間にと言いたいところだが、月斗はちゃんといるのだということを認識できた。どこからともなく、ゲフッという音が聞こえたような気がした。
❖
一行はそのまま町を抜け、山へと続く道を歩む。すでに大所帯である莉々たちに、道行く人々はチラチラと視線を投げかけた。しかし、気にしている暇はない。
一刻も早く辿り着きたいところではあるけれど、近くに感じられた山は思いのほか遠かった。あと少しというところで日が暮れる。
「夜目の利く我らは夜道も歩けるが、莉々殿や天殿には危険だ。今日は早く休んで早朝に山に入るとしよう」
鳴雪の言葉に皆が従う。いつものごとく砕花が家を出してくれた。栗おこわのおにぎりと鳥の串焼き、茄子の辛子あえ、ハマグリのお吸い物など、皆が一品ずつ出してくれた。
――なんとも言えない味つけのものが混ざっていたけれど、そこは何も突っ込めなかった。きっと、出してくれた相手の好みであり、料理のセンスなのだと思う。莉々と同じものを食べて育った天も同じように感じていたはずだ。
ただ、砕花だけはきっぱり、マズイ、とぼやいていた。
食後、女性たちが先に風呂を使わせてもらって、その間に天は普羅と剣術の手合わせをすることにしたらしい。風呂から上がって浴衣に着替えた莉々と水巴、林火がそこへ通りかかった。
二人は木刀を使っている。天の動きは悪くはないものの、普羅の気迫に押されがちであった。ぶつかる木刀の音が重い。最後にカン、と甲高い音を立てて天の木刀が弾かれた。天は息を弾ませながら手首を押える。衝撃に手が痺れたのかもしれない。
飛ばされた木刀が草の上に落ちた時、天は言った。
「強いな、普羅さんは」
普羅は息も乱さずににこりと笑う。
「皆のように普羅と呼んでくだされ。天殿は鳴雪様の兄上になられる御仁でございますので」
天は返事の代わりに唇を一文字に結んだ。そこでようやく莉々たちに気づく。
普羅も莉々たちに微笑むと、妖力で作った木刀をポン、と消した。
「さて、某も休ませて頂きます」
「ああ、ありがとう。勉強になった」
「いえ」
普羅が去った後、静かに佇む天に莉々は物言いたげな視線を向けた。それを察した林火が言う。
「じゃあ、あたしたちは先に部屋に戻るよ」
と、水巴を伴って場を離れた。
「う、うん」
二人を見送った莉々は、緊張した足取りで天に近づく。天も何かを感じたのか、いつものようには笑わなかった。
「お兄ちゃん」
声をかけると、天は苦笑した。
「うん」
「話があるの」
「鳴雪のことか?」
先に言われてしまうと莉々は決心が鈍りそうだった。頬を染めて困惑しつつも、顔を傾けてつぶやく。
「うん、わたしも、鳴雪さんのことが多分、その……好きなんだと思う」
はっきりとした言葉にしてみると、胸の奥にじわりと熱く滲む。けれど、これを言えたことでどこか心が軽くなったような気がした。天の反応は怖かったけれど。
恐る恐る顔を上げると、天は再び苦笑した。
「そんな気がした。よかったとは言えないけど、こればっかりはどうにもならないな」
そんな答えが来ること事態が少し意外だった。天の持つ空気が、どこか以前よりも柔らかく感じられる。
「人間じゃないのにって思う?」
そう莉々が訊ねると、天はわからないと答えた。
「俺にももう、種族だとかそういうことはよくわからない。同じ人間同士だって上手く行かないこともあるんだ。大事なのはなんなのか、俺が訊きたい。だから、わからないのにお前の気持ちを否定するのはやめておく」
その言葉だけで今は十分だった。
「ありがとう、お兄ちゃん」
と、莉々は天に寄り添った。この世界に紛れ込んでから、莉々だけでなく、天にとっても色々なことがあった。
いつまでも変わらないものなどないのだ――