捌 ~一~
奥深い山の中。
そこは神域ともされる御山であった。
高い頂には神が御座す。
けれど、その神聖な場所さえも、仔狸はどこ吹く風。大好きな虫の観察にならばどこへでも赴くのである。辺りが薄暗い闇に包まれようと、夜目の効く狸には昼夜など大した問題ではない。
「ここにいつかは来たいと思うていたのだ。父様もメイ様たちも駄目だと仰るのはわかっているけれど、このほとばしる胸の情熱に嘘はつけない」
と、仔狸の青畝は供の妖狸たちに幼い舌っ足らずな口調で零した。足取りは弾んでいる。
頭からピンと伸びた丸みのある獣の耳。そして、フサフサとした太い尻尾。それさえなければ青畝は幼い少年の姿である。ボサボサ頭にどんぐり眼。好奇心でその眼を輝かせ、夜の御山を小さな足で登る。
化け狸ではあるものの、それでもあどけない子供である。この青畝に出会った者は、彼があやかしだと気づいたとしても、そう恐れることはないだろう。
しかし、子供とはいえ、青畝は八百八の妖狸たちの長より手下の百匹を託されるほどの妖力の持ち主。並の妖怪ならば退けることもできるのである。
「これだけ素晴らしい御山ならば、きっと素晴らしい虫がたくさんいるはず! それに出会えた後なら、おいらも観念してメイ様のところに戻るよ。いい加減にしないと、世界がぐちゃぐちゃになってしまうし。……ただ、サイさんがものすごぉく怒っている気がしてならないので、できればトト様が先に合流していてくださるといいのに……」
青畝の父、普羅は立派な狸である。思えば長らく会っていない。虫に夢中になっていたけれど、そろそろ父も恋しくなってきた。母狸は青畝が顔もぬくもりも覚えていない幼少のみぎりに亡くなってしまった。父親だけが青畝にとっては親なのだ。
「トト様、お元気でお過ごしかなぁ」
ふぅ、と父恋しさに嘆息する。そばの妖狸たちはそんな青畝を心配そうに見遣っていた。どこへ行くにも百一匹は一身同体。総領の鳴雪を差し置いてでもつき従わねばならない。妖狸たちなりに青畝を補佐するべく奮闘しているのだが。
涼やかに鳴く虫の声がした途端、青畝はそんな憂いを綺麗に忘れ去り、パッと顔を輝かせた。
「ああ、やはりここにはよい虫がたくさんいる。こうしてはいられない! たくさんの虫と出会わなければ。トト様との再会はその後だ」
たくさん見て、知って、父に聞かせたい。きっと、褒めてくれると思うから。よく頑張ったな、とあの大きな手で頭を撫でてもらいたい。
青畝は夢中で御山を歩いた。半ば駆けるようにして先へと進む。
そうすると、虫の声に混ざってトーントーンと何かを打つような音がした。けれど、それも特には気にならなかった。
その音の正体を、青畝は知らない。
山人たちさえもその音を恐れて近寄らないことも。
足を踏み入れた神域で、青畝の頭上から優しい優しい声が降った。
「おや、仔狸かえ? それも強い妖力を持った――。珍しや」
ふわりとしたその声は、母を知らない青畝でさえも母性を感じるものであった。
思わず見上げると、そこには淡い光を放つ美しい女人がいた。長く艶やかな髪は腰よりもまださらに長く、肌は抜けるように白い。白いというよりも、薄青く光っている。
単衣の柄は控えめではあるものの、その布地自体が煌めき、彼女の美しさを引き立てていた。
彼女は、木の枝に腰をかけていた。青畝があんぐりと口を開けて見上げていると、女はそこから舞い降りた。けれど、その真っ白な足袋が地に落ちた時でさえ、彼女が薄汚れることなど青畝には考えられなかった。
そうしたものを超越した何か。神聖な存在。
幼い青畝にもそれだけはわかった。
妖狸たちは恐れをなして青畝の持つ、百匹頭として授かった力で保つ空間に逃げ込んだ。
害意は感じられない。ただ、清冽な気だけがひしひしと伝わる。
浮世離れした美しい微笑に、青畝は問う。
「お前様はどこのどなたでござりますですか?」
名乗るよりも先に。
女性は青畝を慈しむように見つめ、そっと手を伸ばした。
❖
その頃、青畝の主君、隠神刑部狸の鳴雪はというと――
「莉々殿、莉々殿、ほぅら、魚がいる」
船の縁で人間の娘に寄り添い、蕩けそうな顔をして海を眺めていた。
手下の百匹頭狸、月斗を迎えに離島へ赴いた帰りの船の上である。
「あ、ほんとだ。群れになってるね」
青光りする背を揺らめかせ、魚が泳ぐ。澄んだ水がそれらを美しく輝かせていた。
「キラキラして綺麗……」
莉々がうっとりとつぶやくと、鳴雪は大真面目に言うのだった。
「もちろん一番綺麗なのは莉々殿だがな」
同乗する手下たち一同が白けたのにも気づかず、鳴雪は上機嫌である。以前から莉々を溺愛している鳴雪だが、ここのところは特にひどい。
「あ、ありがと」
莉々は照れてつぶやく。さらにニコニコと言葉を重ねようとする鳴雪に、彼の一の手下であり友である砕花が切れた。見て見ぬ振りも限界であったようだ。
「うっとうしいわ!!」
背中に跡がつくほどの蹴りが入り、鳴雪はぐえ、と鈍い声を漏らした。
砕花は嘆息すると束ねた長い髪をサッと肩から払う。儚げな容姿をしているけれど、総帥相手であろうと言いたいことははっきりと言う、雄々しい狸である。
「そういうことは二人の時にしろ。それよりも、普羅と青畝の様子はどうだ? どちらに移動している?」
言われて初めて思い出したかのように、鳴雪は頭を軽く振った。
「うぅん、おや――?」
「なんだ?」
砕花が問うと、先ほどまでとは打って変わって、鳴雪は眉間に軽く皺を寄せて小首をかしげた。
「青畝の気配が――消えた」
「えっ!!」
莉々は思わず声を上げた。
消えたということは、青畝の身に何かが起こったのかもしれない。
ことがことなだけに、鳴雪もふざけてはいられないようだ。
「青畝に危害が加えられたというのとは違う。本当に『消えた』のだ。言うなれば、神隠しのように……」
神隠しとは、どういうことだろうか。
本当に忽然と消えてしまったということだ。青畝に再び会えるのだろうかと、莉々は恐ろしくなった。
すると、ほつれ毛を海風に遊ばせながら、林火が神妙な面持ちでつぶやいた。
「鳴雪様、最後に気配を感じたのはどの辺りでございました?」
「淡の国の山裾だ……」
鳴雪は先ほどの上機嫌が嘘のように消沈していた。早く気づいてやれなかったことに責任を感じているのだろう。
莉々はそんな鳴雪を心配しつつ見上げる。秀真も躊躇いがちに言った。
「山裾ですか――山へ入ったということならば少々厄介でございますな。こちらも誠意を見せて対応せねば……」
その言葉に、天が眉を顰めた。
「誠意を? 誰に対してだ?」
すると、鳴雪はどこか緊張感のある声で答える。
「山の神だ」
「神様?」
莉々が呆然と返すと、鳴雪はうなずいた。
「山には神の棲まう神域がある。そこに許しもなく足を踏み入れたとなると、山の神の怒りを買うことになるのだ。神といっても、自らの縄張りを犯すものには容赦ないが、他の地にまで影響を及ぼすほどではない。私の神通力があと少し戻れば力で解決できぬこともないのだが、それでは山がひとつ潰れてしまう」
軽く、恐ろしいことを言う。
言葉を失った莉々の代わりに水巴がつぶやく。
「まだ神域に入ったと決まったわけではありません。青畝もそこまで愚かではないはず……」
そう思いたい。莉々は一縷の希望にすがりかけた。
けれど、砕花がそれをため息交じりに、いとも容易く吹き消すのだった。
「いや、虫がいたら入るだろう」
誰も、そんなことはないと弁護してやれなかった。あり得る、と誰もが心のうちで思ったことだろう。
妙な沈黙が続く中、砕花はさらに言った。
「普羅はどうだ? そちらの気配も辿れないのか?」
「いや、普羅は無事だ。山から近いところにいるが、動き回っている」
「普羅がどこまで事情を呑み込んでいるかはわからぬが、合流を急いだ方がよさそうだな」
「ああ。無事ならばよいのだが……」
沈んだ声音に、莉々は青畝はもちろんのこと、鳴雪のことも心配した。気遣うように顔を覗き込み、声をかける。
「青畝ちゃん、きっと無事だよ。いくらなんでも、あんな小さい子に神様もひどいことしないよ」
鳴雪はそのままギュッと莉々を抱き締めた。
「うむ。莉々殿の言う通りだ」
誰が見ていようとお構いなしである。
ただし、鳴雪の着物越しに見た天の複雑な面持ちに莉々は焦る。天は何も言わない。
以前のように目の色変えて引き離すことをしないのは、天が多少なりとも莉々の心のうちを察してくれたからなのかもしれない。
上手く言える自信はないけれど、天には早く莉々なりの言葉で伝えなければならないと思う。
砕花もそんな天の変化に目を留めた。
「なんだ、やけに静かじゃないか。鳴雪のことを認める気になったのか?」
すると、天は不機嫌に無言を貫いた。
ちなみに、離島から離れたがらない月斗のことも何とか乗せたのだが、姿が見えなかった。鳴雪が言うにはちゃんと乗っているとのことなのだが、用もないのに姿を見せてくれるつもりはないらしい。
狸の神通力で動く船は、まっすぐに淡の国を目指して突き進む。