漆 ~二~
戻って来た鳴雪は複雑な表情をしていた。何故そう難しい顔になってしまったのか気になって、莉々は鳴雪に問う。
「どうしたの? 月斗さんに会えなかった?」
百匹頭の月斗に会いに行ったはずだが、戻った鳴雪は単独である。
鳴雪は少し切ない眼で莉々を見た。莉々が戸惑うと、鳴雪はすぐにいつものように笑ってみせる。
「いや、会えた。また逃げられてしまったがな」
「青畝といい、お前の手下は自由すぎるな」
天がぼやきたくなるのも無理はなかった。砕花も厳しい面持ちである。
「月斗のやつ……。今度は俺が行こう」
線の細い面立ちで青筋を立てている砕花に、鳴雪はやんわりと言った。
「今日はとりあえずそっとしておこう。よくわからぬのだが、月斗には何やら考えがあるのやもしれぬ」
「考え?」
一同がきょとんとすると、鳴雪も苦笑した。
「私にも詳しくはわからぬが、そう感じたのだ」
「……まあ、ひと晩くらいなら」
と、砕花は嘆息した。
莉々としては、あまりこの不気味な島に長居をしたくはない。早く帰りたいのだが、今晩は仕方がないようだ。
林火も眼鏡を押し上げながら苦々しくつぶやく。
「虫が多そうだ。青畝ならまだしも、あたしは嬉しくないねぇ」
「月斗の考え、か。何故だろう。あまりいい予感がしない」
水巴がきっぱりと言い放つ。悪寒でもするのか、ブルリと体を震わせた。
「あいつは何かずれているからな」
秀真は毛に覆われた耳をぴくぴくと動かしながらそんなことを言った。月斗も、秀真には言われたくないかもしれないが。
「まあ、しばらくはのんびりするとしよう」
鳴雪が皆に告げる。何故かその声に元気がないように感じられたのは、莉々の気のせいだろうか。
そのことが、やはり気になった。
❖
そのまま浜で魚釣りをした。竿や糸などは鳴雪たちが出してくれた。
莉々は見ていただけだが、皆が糸を垂らすと、すぐに魚が食いつく。鳴雪たちの神通力による竿には、餌以上に魚を寄せつける力でもあるのだろうか。天は、こうもあっさり釣れるとかえって面白くないようだった。
「ははは、大漁なのだからよいではないか」
鳴雪は魚篭からはみ出すほどの青魚を抱えている。今も一見、楽しそうに見えるのだが、莉々はその笑顔のどこかに翳があるような気がしてならなかった。
ただ、どうしたのと今ここで訊ねても、鳴雪はごまかして何も言わないとも思う。
取れたての魚を林火と水巴が串に刺して焼いてくれた。刺身にもなる鮮度のよい魚は、焼いてもくさみがなくて美味しかった。
莉々もキャンプに来たような気分なのに、心の底から楽しめないのは、鳴雪の様子がおかしいからだ。
生涯の伴侶にと口では言うのに、悩みを打ち明けてくれない。そのことが、莉々は少し寂しかったのかもしれない。
――そうして、その晩のこと。
いつものように砕花が家を出してくれた。皆、男部屋と女部屋に別れてくつろいでいた時だ。
そわそわと落ち着かない莉々の様子に、林火と水巴は顔を見合わせてから言った。
「莉々ちゃん、何か心配事かい?」
「舟幽霊でも見たのか?」
「え? あ、うん、ちょっと鳴雪さんの様子がおかしくなかった?」
思いきって切り出すと、水巴は少し驚いたように言った。
「ああ、考え事をされておられるようだったが、よく気づいたな。鳴雪様はああした時、周りに勘づかれそうになるとすぐに笑ってごまかされるのだ」
やはり、何か心配事があるようだ。莉々の心にズシリと重みがかかる。
「そうそう。何か訊ねても笑ってかわされるからねぇ。鳴雪様はニコニコ笑って、うちに秘めてしまうこともしばしばさ。そういう時は触れずにおいてほしいって意味なんだって、あたしらは解釈してるんだよ」
そっとしておいてほしい時もある。そんな気持ちがわからなくもない。
けれど、そういう相手を元気づけたい、力になりたいと思う気持ちはどうしたらいいのだろう。
余計なお世話でしかないのかもしれないと思うと、気持ちのやり場がない。
そう感じた莉々に、林火は微笑む。
「そっとしておいてほしい――鳴雪様がそう感じるのなら、あたしらが踏み込むことはできないよ。でもね、莉々ちゃんは鳴雪様の手下じゃあない。気持ちでぶつかる覚悟があるなら訊ねてみたらいいさ」
水巴は、やや寂しげに首を揺らした。
「……鳴雪様のことを頼む」
莉々は一瞬、躊躇ってしまった自分を感じた。けれど、鳴雪に何か悩みがあるのならば話を聞きたいと思える。
それは、やはり自分にとって鳴雪の存在が少しずつ大きくなっている証拠なのだろう。それを認めるのは勇気が要るけれど。
「……少し、話してくるね」
部屋を出ていく莉々を、林火と水巴は優しく微笑んで見送ってくれた。
その直後、廊下で砕花に出くわした。砕花は訳知り顔で不敵に笑った。
「鳴雪なら外だ」
「う、うん、ありがとう」
鳴雪のことを一番理解しているのは、今のところ砕花だろう。莉々が気づくようなことなのだから、砕花が気づいていないはずもなかったのだ。
今から莉々が鳴雪に会いに行こうとしていることも見通されているのかと思うと、恥ずかしくなって莉々は逃れるようにして家の外へ飛び出した。
外は満天の星空で、薄気味悪い樹海の存在さえ薄らいでいた。穏やかな漣の音が藍色の闇に優しい。
サクリ、と砂を踏み締めると、浜で孤独に海を見つめる鳴雪が座り込んでいた。膝を抱え、ただぼんやりと海を見ているけれど、心はどこかに馳せている。
莉々が近づいても鳴雪はそちらに顔を向けなかった。恐る恐る莉々は声をかける。
「鳴雪さん?」
すると、鳴雪は弾かれたように莉々を見上げた。そうして、いつものように笑う。
「莉々殿、どうしたのだ? 莉々殿も星を眺めに来たのか?」
星なんて少しも目に入っていなかったくせに、鳴雪はそんなことを言う。莉々はその隣に腰を下ろした。そうして、躊躇いがちに訊ねる。
「……どうかしたの?」
「うん?」
「少し悩んでるみたいに見えたから」
何気ないふうを装いながらも、莉々の心臓は早鐘のごとく鳴り響いていた。自らの心音をごまかすように、莉々も膝を抱えた。
莉々は膝に額を寄せ、鳴雪を盗み見ると、鳴雪は困惑しているようだった。
「確かに、悩んでは……いるのやもしれぬな」
月斗と会った後で鳴雪の様子がおかしくなった。仲違いでもしたのだろうか。
「月斗さんのこと?」
「いいや、そうではない。けれど、月斗に言われた言葉が頭から離れぬのは事実だ」
仲違いをしたわけではないようで、そのことに莉々はほっとした。けれど、それならば月斗は鳴雪に何を言ったのだろう。莉々がさらに言葉を重ねる前に、鳴雪に釘を刺された。
「莉々殿、気にしてくれるのは嬉しいのだが、この先を訊くのならばそれ相応の覚悟は必要になるのだよ」
その前置きに莉々は思わず怯んだ。すると、鳴雪はクスリと笑った。
「私自身、答えを知るのが怖くもある。何、少々気持ちを落ち着けてから戻る。大丈夫だ」
ここで、それじゃあ、と立ち上がって背を向ければいいのか。莉々は迷った挙句、それができなかった。
戸惑いながらも告げる。
「わたしが話してって言ったら、鳴雪さんは話してくれるの?」
目を見て言えなかった。波に揺れる暗い海を眺め、正面に顔を向けていた。
だから、鳴雪がどんな表情をしていたのかがわからない。
「ああ、話そう。ただし、そうしたら莉々殿は答えねばならなくなる」
そう言うのなら、鳴雪が悩んでいたのは莉々のことである。
ハッとして莉々が鳴雪に顔を向けると、鳴雪は寂しそうな眼をしていた。
ここで会話を打ち切るのは、雨の日に捨て犬を見捨てるような気分だった。情けで触れてはいけないと思うのに、見捨てられない。こうしたところは、莉々の長所などではない。これは短所だと、自分が思う。
「……うん、わかったよ」
答えると、鳴雪も覚悟を決めた様子だった。静かにうなずくと、苦しげな声音で言った。
「月斗に、莉々殿は私をどう思っているのかと訊ねられた」
「え……」
「気持ちを返してくれるような言葉を言われたことはあるのかと。……私の気持ちは伝えているけれど、莉々殿はどうなのだ? 莉々殿は相手を気遣ってはっきりと断ることが苦手なのだとわかっている。だからこそ、本当は心底迷惑だと思うておるのに言い出せないだけだというならば、さすがに私も滅入るのだ」
莉々の曖昧な態度に、まさか鳴雪が真剣に悩んでいるとは思わなかった。莉々は焦って言う。
「そ、そんな、心底迷惑とまでは……」
その言葉を、鳴雪は間に受けなかった。慰めにしか聞こえなかったのだろう。どこか拗ねているようにも見える。
「では、好かれていると思うてよいのか? この場合の好きは、友たちに向けるものとは意味が違うのだが」
出会ってからというもの、鳴雪は明確な好意を示してくれた。嫌いなわけではないからこそ、はっきりと断ることで鳴雪を傷つけるのは嫌だと思った。困惑しながら、答えを曖昧にして逃げた。そうしていれば、少なくとも傷つけることはないと思っていた。
けれどそれは誤りで、曖昧さこそが鳴雪を傷つけていた。
今、答える覚悟を持って訊ねろと言われたのだ。
力になりたい、悩みを話してほしい、そう感じたのは嘘ではない。
踏み込んだのは莉々だ。
様子がおかしいと感じたのは、目で追っていたから。以前、鳴雪に忘れられた時はただ苦しかった。
なんでもない存在なら、こうした気持ちにはならない。莉々は一度強くまぶたを閉じ、心を落ち着けてから口を開いた。
「あの――」
鳴雪が真剣な眼差しで莉々を見つめていた。砂浜に手をつき、あぐらを掻いて言葉の先を待っている。
その時、突如莉々の体に電流が走ったような衝撃があった。
ビリ、と痺れて体の力が抜ける。立っていられず、その場に崩れ落ちるかと思った体は、それでも倒れることはなかった。それどころか、莉々の体は立ち上がった。そのことに、莉々は愕然とした。自らの意志ではないのに、体が動く。
どうやって今、立ち上がっているのか、莉々にはわからなかった。
鳴雪に言わなければいけない言葉も出なかった。声が出ない。
(あれ?)
鳴雪は無言で座ったまま莉々を見上げていた。莉々の変化には気づいていない様子だ。
ただ、莉々の言葉が切れたことに不安げな様子ではある。
莉々の体はそんな鳴雪の方へ傾いた。何かに引っ張られるような感覚だった。
莉々自身が驚いていると、莉々の体は鳴雪の膝の上に腰を下ろした。
「莉々殿?」
(体が勝手に――)
さすがに鳴雪も少し戸惑った様子だったけれど、莉々の体はまたしても勝手に動き出す。腕が鳴雪の首に絡まる。
(え、ちょっと!!)
最初は不思議そうにしていた鳴雪も、それ以上深く考えることをやめたのか、膝の上で自分の首に手を回す莉々の体を抱き締めた。
「莉々殿……」
触れる手が、いつも以上に体をなぞる。
(っ!!)
鳴雪は莉々の顎に指を添え、唇を寄せた。けれど、その直前でぴたりと動きを止めた。そうして、やや顔を引くと、じっと莉々の顔を見た。疑わげな目だった。
そこでうっすらと莉々の目尻に浮かぶ涙に気づいたらしい。鳴雪は深々と嘆息した。
「……月斗、お前の仕業か」
低く押し殺した声を鳴雪が発すると、遠くでガサリと音がした。その後、慌てて逃げ出したような、獣の足音が響く。
鳴雪はかるくまぶたを閉じ、それから耳鳴りのような音を響かせ、何かの力を使った。その瞬間に、莉々の体の自由が戻った。
「あ、動く!」
鳴雪の膝の上で莉々は自分の手を見つめ、指を動かした。鳴雪は心底疲れた様子で肩を落とした。
「すまぬ。どうやら月斗が莉々殿の体を操っていたようだ」
「びっくりした!」
それが本音だ。本当に驚いた。
「心を操るようなことはするなと言っておいたのだが、まさか体を操るとは……」
体も困るけれど、心も嫌だ。莉々は引きつった笑いを見せた。鳴雪は心配そうにつぶやく。
「月斗なりに私を案じてくれてのことだが、莉々殿にはすまぬことをした。私が代わって詫びよう」
しょんぼりとした鳴雪に、莉々は強くは言えなかった。
「鳴雪さん」
「うん?」
「わたしがもし、いつかは鳴雪さんの奥さんになってもいいって言ったら、いつまで待つの?」
「その時が来るまで、いつまでも待つよ」
「お兄ちゃんや家族が認めてくれなかったら?」
「認めてもらえるように努力は惜しまぬ」
「ただの人間のわたしの方が早く死んじゃう気がするんだけど?」
「莉々殿がそれを許してくれるのならば、私の気を分けてなるべく永い時を共に生きたいと思うておる。……もしそれが嫌ならば、天寿を全うする莉々殿を私が最後まで見取る覚悟だ」
ズキリ、と心が痛む。それは、心からの言葉だと思えたからだ。
「……住む世界はどうなるの? 封印が直ったら、離れ離れでしょ?」
気になっていたことをようやく訊けた。鳴雪はふわりと柔らかく微笑む。
「いや、離れぬよ。莉々殿のそばに、常に共にある」
強張った体から力が抜けるような安心感があった。封印の修復が別れの時ではない。その言葉を信じていたい。素直にそう思った。
コトリ、と鳴雪の肩に額を預ける。
「わかった。じゃあ、前向きに検討するね」
嬉しそうに力いっぱい抱き締められるかと思った。けれど、鳴雪は莉々の顔を自分に向け、口づけた。そうして、そっと微笑む。
「莉々殿に出会えたことに心から感謝する――」
恥ずかしさよりも、この時は莉々も幸福感を覚えていた。
星空の下、それは確かなことであった。