漆 ~一~*
傀儡子と読みます。くぐつこじゃないです(笑)
丹の国の船着場から出航した船は、途中で海の怪異に遭遇した。海はあやかしの住処なのだ。
海から覗く黄色の大きな眼は、海坊主だった。急に海面が盛り上がり、水が山ほどもある人型になると、船が大きく揺れた。けれど、海坊主は鳴雪の存在に気づき、鳴雪とひと言ふた言言葉を交わすと、そのまま立ち去った。
鳴雪の性格はのん気だが、一目置かれている大妖なのだ。
潮風を受けながら、一行は島を目指す。この船に漕ぎ手はおらず、鳴雪たちの神通力で動かしている。
最初、神通力で船そのものを出すということも考えたらしいが、もし何かあった時、途中で力が途切れてしまえば船が脆くなる恐れがある。大きなものを出すという行為は、それなりにリスクもあるようだ。海の真っ只中で船が消えるなどとは考えたくもない。
莉々は船べりから島を見遣った。
――鬱蒼としていて気味が悪い。
樹海だとは聞いていたけれど、それにしても薄暗さが漂う。少しもよい印象は持てなかった。
「そろそろ上陸だな」
砕花が気を引き締めるよう促しているのか、そう言った。
船に乗っていたのは、精々二時間くらいだった。酔わずに済んでよかったと莉々はほっと胸を撫で下ろした。そばにいた天を見上げると、潮風に黒髪と袴の裾をなびかせ、いつも以上の厳しい面持ちで島を睨みつけている。
幼なじみの紫緑もこの世界に迷い込んでいると判明し、心配事も多いのだ。
浜に誰かがいるわけでもない。船はそのまま浜へ突っ込む形で乗り上げた。多少の衝撃はあったものの、莉々も心構えをして船べりにしがみついていたので、転がることはなかった。
「さて、降りようか」
林火はこの薄暗い島に臆した様子もなく、着物の裾ひとつ乱さず軽やかに島に降りた。それに水巴と秀真も続く。砕花はちらりと鳴雪を見遣り、それから降りる。皆、船べりから飛び降りている。
少しの高さがあった。天はともかく、莉々には少しつらい。
「莉々、行けるか?」
「う、うん」
天にはそう返事をしたものの、不安はある。下は砂浜だから、着地に失敗しても大怪我はしないだろう。ここは思いきって――
「俺が先に降りて受け止める」
そう言うと、天は船べりを飛び越え、砂浜に降りた。振り返る天を莉々が見下ろしていると、莉々の上に影が落ちた。鳴雪が急に莉々を横抱きに抱える。莉々が悲鳴を上げてもお構いなしであった。
「莉々殿は私が運ぼう」
「あ、そ、その――」
重たくない? という言葉が出るより先に、鳴雪は上機嫌で莉々を抱き上げたままふわりと跳んだ。それは重力など感じさせない緩慢な落下だった。そっと、莉々を気遣いながら着地すると、鳴雪は再び微笑みながら莉々を下ろした。
「あ、ありがとう」
「礼には及ばぬよ」
そんな鳴雪をギロリと睨む天の方を向かず、鳴雪は慌てて話題を変えた。
「し、しかし、ここへ着いて確信した。私の妖力が増しておる」
そのひと言に、天は表情をゆるめた。
「それって、お前の手下の誰かがいるってことだな?」
「そうだ。この気配はやはり月斗だ」
それを聞き、莉々は安堵した。
この不気味な島に長居はしたくないというのが本音である。すぐに月斗が見つかったのは幸いだった。
「すぐに出てくるといいんだけどな」
何故か砕花がそんなことをぼやいたけれど。
鳴雪もなんとなく困った顔をして、それでも深く息を吸い込んで声を発した。
「月斗、私だ。出てこい」
張り上げているわけではないけれど、よく通る声だ。拡張機でも使ったかのような音の広がりは、神通力のなせる技だろうか。
けれど――
シーン、と静まり返った場に、潮騒と鳥の声だけがある。
天が疑わしげな目を鳴雪に向けた。
「おい」
「い、いや、いるにはいるのだ」
と、鳴雪は慌てた。水巴が深いため息をつく。
「月斗は――人見知りなのだ」
「へ?」
「要するに、天と莉々、見ず知らずのお前たちがいると出てこない」
二人は呆然と立ち尽くした。
「そんなこと言われてもな……」
天と共に困惑する莉々に、秀真が健気にフォローする。
「私も最初はそうでしたが、莉々様ならば大丈夫。月斗もすぐにわかってくれるはずです」
「ありがとう、秀真くん」
莉々に笑顔を向けられ照れる秀真を放置し、天は不機嫌な顔で言った。
「で、どうするんだ?」
「うむ、とりあえず私だけ離れて接触してくる」
ため息交じりに言った鳴雪を皆は見送り、浜で待つ。
❖
「月斗、こら、出てこーい」
鳴雪は密林に足を踏み入れながら手下の一匹に呼びかける。
あまり深く入り込むつもりはないのだが、月斗は莉々と天から姿を視認できるような位置では寄ってこない。それがわかるから、少しばかり踏み込むしかなかった。
すると、近くでザッと音が鳴り、気配がした。獣の立てる音だ。
「月斗、ここにいるのは私だけだ。いい加減に姿を見せろ」
鳴雪が嘆息すると、苔の生えた湿った木の根辺りから、一匹の狸が顔を見せた。小さな熊かと思うほど黒に近い、濃い毛色をした雄狸だ。
「うむ、無事だな? 姿を見て安心したぞ」
狸はキューンと鳴く。
「狸型では話せぬだろう? 早く人型になってくれ」
大まかな意思の疎通はできても、細かな状況の説明まではできない。そのため、人型である方が融通は利くのだが、月斗は人型が嫌いなのである。
けれど、総帥である鳴雪の言いつけとあらば渋々ながらにポン、と音を立てて変化する。
その姿は、黒い衣に覆われていた。頭の先からつま先までを覆い隠し、その暗い中に眼だけがキラリと光る。細身ながらに、シャンとすれば背は高いのだが、背中を丸めて立っている。
「鳴雪様、お久しゅう」
ボソ、と低く細い声で言う。鳴雪は苦笑した。
「ここで落ち着いている場合か。封印が破られた衝撃で散り散りになったからといって、私を捜す気はなかったのか?」
「ここはよいところです。ヒトも厄介な妖怪もおりませぬ。心が落ち着きまする」
もともとつき合いのよい方ではないのだが、何か引きこもりに拍車がかかった気がしないでもない。
「砕花たち同胞もおるのだ。そう警戒せずともよかろうに」
鳴雪が呆れて言うと、月斗はブルブルとかぶりを振りながら震えた。
「ヒ、ヒトがおるではないですか。ワ、ワタシは化けるのが苦手なのです。ヒトの前なんぞに出てしまったら――」
と、ただ震える。
月斗は百匹頭の中で一番、変化が苦手なのだ。上手く化けられず、醜い姿をさらしたくない、とこうして黒い衣をまとっている。青畝も耳や尻尾は上手く隠せていないのだが、月斗はもっと中途半端だと自分で感じるらしい。
それは、月斗がしっかりと人間を観察し、特徴を知らずに化けようとするからだ。月斗の妖力そのものは決して弱くはない。百匹頭になるほどなのだから、むしろ強い。
けれど、苦手意識を一度持ってしまうとなかなか克服はできないらしい。
「そも、あのヒトたちはなんなのですか? あの二人がいては、ワタシもオチオチ近づけませぬ」
ボソボソとぼやく月斗に、鳴雪はその質問を待っていたかのように満面の笑顔で言う。
「莉々殿とその兄の天殿だ。莉々殿には私の生涯の伴侶となってもらいたいと思うておる」
いつかの秀真のように、拒否反応を示すだろうと鳴雪は思った。けれど今は、秀真も必要以上に莉々に懐いたことだし、月斗もそのうちに馴染むだろうと鳴雪は楽観的に考えた。
ただ、月斗は小首をかしげるような仕草をした。鳴雪は苦笑する。
「なんだ、彼女は人間だとでも言いたいのか?」
「はい。それからもうひとつ」
「ん?」
「なってもらいたい、なのですか? 伴侶にすると断言されませぬのは、あの娘がそれを承諾していないかのように聞こえるのですが」
グッ、と鳴雪は言葉に詰まった。月斗はおかしなところで鋭い。
黒衣の奥からじぃっと探るような目をする月斗に、鳴雪は仕方なく言うのだった。
「ま、まあ、そうだな、まだ確約はない。種族の隔たりもある。それを超えて私の伴侶になってもよいとは簡単に言えぬのだろう」
「あの娘の気持ちはどうなのです? 鳴雪様をお慕いしていると言われたことはあるのですか?」
痛いところを突いてくる月斗に、鳴雪の方が落ち込みそうだった。
「あ、いや……それは……」
「ないのですね?」
心がえぐられるひと言である。
「う……うむ」
重たい空気を背負い出した鳴雪に、月斗はあっさりと言うのだった。
「でしたら、何もあの娘でなくともよいではござりませぬか。鳴雪様の伴侶となりたい娘は掃いて捨てるほどおりますよ」
「や、それは駄目だ。莉々殿と出会ってしまった以上、他など考えられぬ」
そんな鳴雪の熱弁を、月斗はゆっくりとうなずいて聞いていた。
「そうですか。では仕方がありませぬ。惚れ薬でもお作り致しましょうか?」
どうして会話がこうなったのか。鳴雪は月斗を連れに来ただけである。
疲れを感じて鳴雪はかぶりを振った。
「そうしたもので莉々殿の心を操っても虚しいだけだ」
「左様ですか?」
月斗なりに鳴雪を思ってのことなのだが、そんなことを頼めるはずもない。
ふと、そこで月斗は言った。
「時に、あの兄はどうなのですか? 妹を鳴雪様の伴侶にするつもりはあるのですか?」
それもまた痛い質問である。
「いや……」
「でしょうな」
その木々の隙間から、月斗は莉々や天のいる方向に体を向ける。木々に阻まれ、見えてはいないのだろうけれど、何かを感じ取っているようだ。
「しかし、あの兄、尋常ならざる霊力を宿しておりますな。我らと相性がよいとは申せませぬ」
月斗の声には怯えが混ざり、棘を持っていた。鳴雪は取り成すようにささやく。
「天殿はあの封印を施した彼の末裔だ。今は封印の霊力をその身に宿している。再び封印を張り直すためには協力が不可欠だ」
「張り直す――そうでしたか。では、あの兄も繋ぎ止めておかねばなりませぬな」
ザワ、と枝葉が揺れる。どこか含みのある声だった。
「……月斗、とりあえず戻るぞ。まだ利玄と普羅と青畝を探さねばならないのだ。狐の横槍もある。早く力を取り戻さねば」
という鳴雪の言葉をすでに聞いていなかったのか、月斗はふたたび音を立てて狸の姿に戻った。
そうして、手を振るように前足を高く上げて密林の奥へ消えた。
「こら! 月斗!!」
鳴雪が叫んでも、月斗は振り返らなかった。
最後に見せたあの仕草は、『畏まりました』ということであったように思われるだが。
仕方がないので、また間を置いてから探すかと鳴雪は嘆息した。