零 ~三~*
「莉々、起きろ!」
急いた天の声で莉々は飛び起きた。ガサガサガサ、と草の擦れる音がする。
莉々が振り向いた時、月明かりを背負った大きな影が、自分を目がけて襲いかかってきた。
「莉々!」
天がとっさに莉々を庇って抱きかかえ、横に転がる。その影から伸びた鋭い爪が、二人のいた場所に生えていた木をカンナのように削った。
二人は影と距離を保って立ち上がる。けれど、莉々は狸を抱えたままで呆然としてしまった。
その黒い影は、大きな三毛猫であった。莉々よりも大きい。長い舌で舌なめずりをし、シュウシュウと興奮気味に息をしている。尻尾を支えに二本足で立つ姿は、怪異そのものであった。その怪異は言う。
『おや、素早いねぇ。でも、久々の獲物だ。逃がしゃしないよ』
ゾクリと背筋が寒くなる、生臭く絡みつくような声だった。爛々と光を放つ眼が莉々と、その腕の中の狸に向けられた。
『ん? それは――まあ、よいか』
ふぁあ、と大きくあくびをすると、化け猫は再び構え直した。天は莉々を背に庇いながら化け猫と対峙する。莉々はその背中で震えることしかできない。
「莉々、逃げろ!」
「えっ? お、お兄ちゃんは……」
「あいつの気を逸らしてから追いかける。先に行け」
「でも!」
「早く!!」
莉々は恐ろしさから青ざめ、涙を浮かべながら狸を抱き締める。
先に行って、この先に助けがいるのならいい。けれど、助けを求められる相手が見つかるとは思えなかった。ここに莉々がいても足手まといでしかないのに、天を置いていくという判断ができない。
もし、天が追いかけてこなかったらと思うと、どうしたらいいのか考えられなかった。
そんな時、腕の中の狸が身じろぎした。そこで莉々は我に返る。
この狸はあんな化け猫につかまったらひと呑みだ。この狸を逃がしてあげなければ、と。
その小さな使命感が、臆病な莉々を突き動かした。
「お兄ちゃん、早く来てね!」
莉々は覚悟を決め、唇を強く結んで駆け出した。
『逃がさな――』
化け猫の声がぎゃん、という悲鳴に変わった。天が拾った石を素早く投げつけたのである。
「俺が相手をしてやる」
いくら天でも、ほぼ丸腰で化物の相手などできない。莉々は不安に思いながらも先を急ぐしかなかった。
月夜に、はぁはぁ、と自分の息遣いと足音だけが聞こえる。
夜道は真っ暗にはならなかった。月のおかげか、莉々の目が慣れてしまっただけかもしれない。
その間も、狸は輝く眼でじっと莉々を見上げていた。
ずっと歩き通しで疲れ果てていたところにこの疾走だ。莉々の脚は次第におぼつかなくなり、木の根につまずいてしまった。
「あっ!」
両手は狸を抱いているために塞がっていた。莉々は手をつくこともできず、狸を庇って肩を地面にぶつけた。鈍い衝撃が体に走る。
痛くて立てないわけではないけれど、突然の異変に心が疲弊しているせいか、すぐに反応できなかった。
うずくまっていると、不意に狸が莉々の腕から抜け出し、ザラリとした質感の舌で頬をなめる。狸の顔はどこか心配そうに見えた。
「うん、大丈夫。ごめんね」
莉々が再び狸を抱き締めると、背後から恐ろしい声が響いた。
『みぃつけたぁ』
ハッとして振り返った時にはすでに遅かった。莉々の足首に化け猫の爪がかかる。
化け猫の手は人のように指があり、その爪の長い四本指で莉々の足首をつかんだ。声もなく震える莉々と化け猫の目が合う。金色の月に似た眼はニヤリと笑った。
『お前の方が柔らかくて美味そうだ』
少し離れた草むらに、ここまで引きずってこられたのか、ズタズタになった天が倒れていた。かすかに動いていて息はあるようだが、立ち上がることもできない。
「お、おにい、ちゃん……」
切れ切れに呼びかけても天は答えない。もう駄目だ、と莉々は思った。
逃れられないと悟った時、莉々は化け猫に懇願した。
「この子は助けて。お願い……」
化け猫は莉々の腕の中の狸に視線を落とした。そして、カカカ、と笑い飛ばす。
『この子? その泥臭い狸のことかい? おお嫌だ、頼まれたって食べやしないよ、こんな不味そうなの』
莉々はほっとして狸を放した。
「ごめんね、お医者さんに連れていってあげるって言ったのに。無事に逃げてね……」
狸は一目散に逃げることはせず、心なし潤んだ眼で莉々を見上げた。出会って間もないけれど、別れを寂しく思ってくれているのだろうか。
これで狸は大丈夫だ。けれど、莉々が食べられたら、次は天の番なのだ。できることなら天にも助かってほしいけれど、逃げきれそうもない。
何故こんなことになったのかもわからないまま、二人は食われてしまう。こんな人生の幕引きを予測することはできなかった。祖父と母は帰らない二人を待ち続けるのかと思うと涙が滲む。
――その時、不思議なことが起こった。
隣にいた狸がプルプルと震えたかと思うと、急に破裂音のようなポン、という音を放った。同時に煙のようなもやを発する。狸を囲んで起こった風が周囲の草を巻き上げ、いっせいに散らす。サラサラサラ、と葉っぱが散る中、狸がいたはずの場所には人影があった。
月が妖しく照らし出すのは、端整な青年の姿であった。
二十歳くらいだろうか。花菱の紋様が織り込まれた白い着物と銀鼠の袴。白足袋と草履を履いた足。少し長い薄茶色の頭髪をうなじの辺りでゆるく束ねている。品のある立ち姿だが、莉々にはまったく見覚えがない。
明らかに莉々たちの世界の住人ではなさそうだ。
青年はふぅ、とどこから出したのか扇子で口を隠しながら嘆息した。
「泥臭いとは猫又風情がふざけたことを言う」
『あ、あんたは……』
化け猫はあんぐりと口を開けた。正面の莉々にはその真っ赤な喉の奥まで見える。
青年は莉々の足首をつかむ化け猫の手に扇子を投げつけた。
「さっさと離せ、汚らわしい」
ただの扇子だというのに、化け猫はぎゃん、と悲鳴を上げて仰け反った。自由になった莉々は足を引っ込め、青年を見上げる。青年は月を背に優しく微笑んだ。
「もう大丈夫だ。心配されるな、莉々殿」
と、青年は莉々の名を呼んだ。まさかとは思うけれど、この青年は先ほどの狸なのだろうか。馬鹿げた考えのようだが、状況からいってそれ以外は考えられなかった。
莉々が呆然としていると、化け猫は青年から距離を取りつつ、カッと彼を睨みつけた。
『ただの狸のフリなんぞして騙すとは卑劣な。隠神刑部狸め……』
すると青年はフン、と軽く笑った。
「騙してなんぞおらん。おぬしが勝手に勘違いしただけであろうが」
けれど、化け猫は甲高い声で狂ったように笑い出した。
『しかし、あんたはどうやら一匹のようだねぇ。あんたは八百八の手下を統べ、その力を発揮する化け狸。たった一匹では怖くもなんともないわ』
「猫又一匹で苦戦するほどに落ちぶれてはおらぬがな」
明らかにイラッとした様子で青年――狸は言う。
怖くないと言うわりに、化け猫は腰が引けていた。じりじりと睨み合ううちに化け猫は下がり、天のそばに来ていた。
化け猫は弱った天に目をやる。莉々がギクリとした瞬間に、化け猫は天の首をつかんで持ち上げた。足が地から離れる。
「お兄ちゃん!!」
目の下の擦り傷から血を滲ませた天が呻く。苦しげに顔を歪ませている天の様子に、莉々は心臓が止まりそうだった。
けれど、狸は落ち着いていた。吊るされた天に、狸はにこやかに言う。
「莉々殿の兄上、どうやらおぬしは稀なる霊力の持ち主らしい。その『右手』の力、振るってみるがよい」
「ちか……ら……?」
天は息も絶え絶えに漏らす。それでも、狸が言う力に心当たりがなかったのだろう。力任せに化け猫へ拳を叩きつけただけであった。
しかし、化け猫は驚いてとっさに天を放り投げた。そうしてシュウシュウと苛立たしげな声を立てた。
弱りながらも受身を取ってなんとか立ち上がった天は、自らの右手を見つめた。
あの変事の後から違和感を覚えてさすっていた右手。
莉々が不安げに天を見つめると、天は右手を握り締め、拳に向けてささやく。
「――ナウマク・サマンダ・ボダナン・ボラカンマネイ・ソワカ」
その耳慣れない呪文めいた言葉に莉々が呆然としていると、狸は満足げに笑った。
瞬く間に天の右手に長い棒状の光が現れ、それが形を成した時、化け猫はカタカタと震えた。
それは錫杖であった。シャン、と神聖な音が鳴る。
莉々は目にしたものが信じられなかった。天自身も未だ信じがたいことのようであった。
「お兄ちゃん?」
戸惑う莉々に、天も困惑気味に返す。
「俺にもよくわからない。でも、頭の中に言葉が浮かんで――」
すると、訳知り顔で狸が言う。
「それは血のなせる業。先祖に霊力の強い御仁がいたのであろうな」
化け猫は前方の天と後方の狸に挟まれて背を丸め、ひと回り縮んだように見えた。天の力は未知であるけれど、あの化け猫の怯え方からして怪異を蹴散らすだけの効果はあるのだろう。
狸はさて、と言った。
「莉々殿を食おうとした報いだ。少々こらしめてやろう」
「……そうだな」
天も錫杖を手にうなずく。莉々は先ほどまでの恐怖も忘れて、怯える化け猫が憐れになった。
「あ、あの、あんまり苛めないでね? 実際に食べられたわけじゃないから」
莉々は小さい頃から動物が大好きである。狸にも猫にもわけ隔てない慈愛を持って接するのだった。
すると何故か狸が感動していた。
「なんと優しい……」
天は狸に一瞬白い目を向けたけれど、再び化け猫に錫杖を突きつける。
「おい、猫」
『にゃー』
「いきなり普通の猫のフリをするな」
この体格では無理がある。可愛くもない。
『クッ。なんだぃ?』
諦めて開き直った化け猫が答える。
「次に顔を合わせたら三枚におろすぞ」
『ヒッ!』
そんなやり取りを狸は楽しげに眺めていた。
「いやぁ、本当になんと優しい兄妹だろうか」
自分なら見逃さないで即、三枚におろすと言うのかもしれない。
「莉々の前で動物虐待はできない。それだけだ」
動物かどうかは怪しいが、化け猫はおかげで命拾いしたのである。腹はすいただろうが、そこは頑張って魚でも獲ってほしい。莉々たちは素早く木に登って逃走した化け猫を見送った。
ほっとしてへたり込みそうになると、莉々のそばにいた狸が莉々の手を取って支えてくれた。
「おや、大丈夫か?」
「あ、うん、ありがとう」
この狸もあの化け猫と同じ妖怪の類であるというのに、不思議と恐ろしさはなかった。むしろ、その笑顔には愛嬌と親しみやすさがある。
莉々が自らの足でしっかりと立っても、狸は莉々の手を離さなかった。ただニコニコと微笑んで莉々を見ている。
そうして、もう片方の手をそっと自分の胸に添え、恭しく名乗った。
「私は篁鳴雪と申す。か弱きヒトでありながらも身を挺して私を護ろうとしてくれた莉々殿の優しさには心打たれた」
狸にしては大仰な名前だ。そういえば、あの化け猫が何か言っていた気もする。ナントカ狸、と。
莉々がぼんやりとそんなことを考えていると、狸――鳴雪は天の存在など忘れてしまったらしく、熱っぽく莉々を見つめてもじもじと言った。
「出会って間もないのだが、莉々殿には運命を感じる。どうか、私の生涯の伴侶になってもらいたい」
「は?」
あまりに唐突過ぎて莉々は愕然としてしまった。鳴雪は、それでもめげなかった。
「ええと、まずはお互いを知ることから――」
その会話に割って入ったのは天である。莉々の手を取る鳴雪の手を叩いて引き剥がした。
「うちの妹を狸の嫁になんてできるか!」
目に見えてショックを受けた鳴雪は、とりあえずおろおろとしながら苦し紛れに言った。
「え、その、私は、狸ではない」
「じゃあなんだ?」
ギロリと天が睨むと、鳴雪は冷や汗を流しながらつぶやく。
「た、狸に化けられるニンゲン?」
「そんなのすでに人間じゃねぇよ!!」
こんなに感情をあらわにする兄を見たのは初めてだった。莉々は困ったものの、とりあえず天を宥める。
「ねえお兄ちゃん、わたしたち鳴雪さんに助けてもらったんだよ。まずはそのお礼を言わなきゃ」
鳴雪は嬉しそうに、人懐っこく笑った。
そうした顔をすると、狸の時の面影があるような気がする。天は痛いところを突かれたというように目を細め、つぶやく。
「そのことに関しては礼を言う。莉々のこともとりあえずは横に置いておく」
「あ、それは置かずとも――」
「お・い・て・お・く」
「――うむ」
しょんぼりと項垂れた鳴雪に、天は問う。
「一体、ここはなんだ? 俺たちの世界とは微妙に何かが違う気がする。俺たちの方が迷い込んだのか?」
何が違うのか、それがはっきりとは言えない。
地形が変わってしまったように、抜け出せないこの場所。
この地の鍵は、やはり目の前の狸のような気がした。