陸 ~四~
少し二人で話したい。
紫緑にそう言われたので、天は皆から離れ、落ち着いて話せる松の木の木陰に来た。紫緑は天に向き直ると、厳しい面持ちでつぶやく。
「天、ここいらであの狸たちとは別れなよ」
「紫緑? お前、何言ってるんだ?」
鳴雪たちと離れてしまえば、封印をもとに戻すことはできない。だから天は紫緑の言い分に首をかしげた。
けれど、紫緑は真剣であった。
「おかしなことは言ってないよ。なあ、どうして君はあの狸の言ったことを鵜呑みにしてしまったんだ? おかしいじゃないか。あの狸は『封じられていた』はずだ。どうしてその封印を自らもと通りにしようとする?」
「それは……」
紫緑の言うことも的外れではない。そのことを天が突き詰めて考えていなかったのも事実だ。
天が言葉に詰まると、紫緑はさらに厳しい口調で言った。
「天、君がいなければ封印は施せない。君は騙されているんじゃないのか?」
瞠目した天は、それから陽だまりの鳴雪たちを見遣った。いつものように莉々にまとわりついて笑っている。その光景を紫緑も目にし、そうしてスッと目を細めた。
「あの狸が莉々を利用して君を繋ぎ止めている可能性を疑ってみるべきだ。莉々を手中に収めれば、君は莉々を見捨てては行かないから――」
紫緑がそこまで話したところで、天は自らの拳に向けてつぶやいた。
「――オン・マカシリ・エイ・ソワカ」
その途端、光輪が天の手から浮かび上がる。その輝きに紫緑は目を眩ませた。
「天!!」
神聖な光は、憎らしげに天の名を呼ぶ紫緑を照らす。そして、そんな幼なじみの影を見た時、天は悲痛に顔を歪めた。
違和感を覚えたのはいつからだったか。
今、決定的に疑うことになったのは、記憶を喪ったからといって、元来お人よしの紫緑が出会って間もない相手を憎らしげに言ったせいだ。性格そのものが紫緑とは違う気がしたのだ。
「お前は――紫緑じゃない」
決定的なひと言が発せられた瞬間に、紫緑はカッと目を見開いた。その眼は金色に輝く。
「おのれ小童が……!」
天は幼なじみの姿をした者を睨みつけた。親しい者の姿を模して誑かすなど、許せることではない。
紫緑の無事を喜んだ思いも、すべてが踏みにじられた。
「ナウマク・サマンダ・ボダナン・ボラカンマネイ・ソワカ」
光の錫杖がシャン、と鳴る。その錫杖に紫緑は一瞬怯んだ。それがあやかしである証拠だった。
錫杖を突きつけた時、天のもとに皆が駆け寄ってきた。
❖
突然、天が紫緑に錫杖を突きつけた。あまりのことに莉々は目を見張るばかりだった。
異変に気づいた砕花が船頭との話を切り上げて駆けつける。そのまま莉々たちも対峙する二人のもとへ急いだ。
「やはり、おぬしか」
驚くこともなく鳴雪が言った。
「どういうことだ?」
砕花が鋭く訊ねる。鳴雪は人差し指で頬をかいた。そんなのん気なしぐさに焦れ、砕花に鋭く睨まれる。
すると、鳴雪は言いにくそうに零した。
「いや、な、昨晩、莉々殿に化けた何者かが、私のもとへやってきたのだ。私の手下の者ではない。だとするならトモカズキか、もしくは――狐かと。天殿のおかげではっきりとした。おぬしのその影は狐だ」
天の光輪に照らされた紫緑の影には、尖った耳と毛を蓄えた尻尾がある。莉々はハッとして口元を押えた。
紫緑の冷たい眼差しに震えが止まらない。
錫杖を構えたまま、天は紫緑に化けた狐に言った。
「記憶がないなんて、当然だよな。お前は紫緑じゃなかったんだから。いつまでも紫緑の姿でいるな。さっさと正体を現せ」
すると、狐はクスリと笑った。
「まったく、狸の言うことをすぐに信ずるなと言うに。私が紫緑でないのは認めよう。けれど、だとするならこの姿をなんとする? いかに私でも、見たこともない人間の姿はとれぬ。さあ、これが意味することはなんだ? よぅく考えてみろ」
皆が狐の言葉に翻弄される。その言葉通りだとするのなら、本物の紫緑はこの世界のどこかにいるはずだ。
秀真がハッとして口を開いた。
「まさか、紫緑の体に憑いているのか?」
狐憑きという言葉が莉々の頭の中を巡った。狐が紫緑の体を操っているのなら、下手に攻撃すれば紫緑を傷つけることになる。莉々はとっさに前に出た。
「お兄ちゃん、やめて!!」
そう叫んだ莉々に、紫緑の姿をした狐は目にも留まらぬ動きで近づいた。
「莉々ちゃん!!」
林火の叫びがどこか遠く感じられた。莉々の喉に狐の鋭い爪がある。
軽く締められ、莉々は声も出なかった。狐は嘲るように莉々の耳元で言う。
「愚かなヒトの娘よ。お前には我らの役に立ってもらおう」
莉々が捕まったことで、鳴雪と天は身動きが取れなくなった。狐はそこに勝機を見出したのだろう。
けれどその時、後方にいた砕花がまぶたを閉じ、通力を使った。濃い霧が辺りに立ち込める。莉々が呆然としていると、狐の手に爪を立てる『莉々』の姿が見えた。
どうやって入れ替わったものか、莉々が目にしている莉々は――水巴だろう。化け上手の水巴と幻覚を見せる砕花の霧は、狐を翻弄する。
「おのれ……!」
憎々しげに莉々に化けた水巴に牙を剥く狐に、莉々に化けた水巴は不敵に笑ってみせた。
「ただの一匹で何をしようと言うのだ? 身の程を知れ」
霧の中で佇んでいた莉々の肩を誰かが抱いた。
顔は見えなくてもすぐにわかる。鳴雪だ。
「私の手下は頼りになるだろう? さて、では逆に訊ねよう。こうしておぬしたち狐に見えるのは久方振りだが――狐はおぬしだけではないはずだ。おぬしたちは何を企む?」
そんな言葉を狐は笑い飛ばした。
「狸に答えてやる道理はない」
「ならば、その身に訊くとするか?」
砕花が冷ややかにそんなことを言った。それを遮ったのは天だった。
「その体は本当に紫緑のものなのか、それともお前が化けているだけなのか、どっちなんだっ? 化けているなら、本物の紫緑はどこだ!」
この狐が紫緑に化けているのだとしても、この狐を狩ってしまえば、紫緑の居所がわからなくなる。天はそれを恐れたのだ。それは莉々も同じである。
紫緑が狐に囚われている可能性もある。
莉々には常に天がいてくれた。けれど、紫緑はこの世界に独りで放り出されたのだ。不安で恐ろしくて堪らないだろう。
そう思うと、鳴雪の着物を握り締めながら涙が零れた。
「鳴雪さん、シロちゃんを助けて」
莉々の涙に鳴雪は僅かに動揺を見せた。それを狐は笑う。濃霧の中で敵に囲まれているというのに余裕を持っているのは、紫緑の命を握っているという強みがあるからだろうか。
「返してほしくば、この術を解け」
「狐の言葉なんざあてになるかい!」
林火が言い放つも、狐は強気だった。
「ならば、紫緑の行方は永遠にわからぬだろう。お前たちに探し当てることはできぬ」
確かな口調で断言する。何かを知らなければこうした態度は取れないはずだ。
鳴雪が目で合図をし、砕花は渋々、術を解く。
そうして霧が晴れた時、狐の姿は消え失せていた。
大声で泣く莉々を鳴雪は抱き締めて涙を受け止めた。天は拳を握り締め、やり場のない感情を近くの松の木に叩きつけた。
そんな二人を、狸たちはただ黙って見守っていた。
❖
「――莉々殿、落ち着いたか?」
労わりながら鳴雪が声をかけてきた。目元をほんのりと赤く腫らし、莉々はくすんと鼻を鳴らす。
今回は鳴雪も不謹慎なことは言わず、ただ心配そうに莉々を見つめていた。天も動揺しており、口を開こうとはせずに押し黙ってる。
そんな空気を払拭するように砕花が切り出す。
「紫緑が狐に囚われている可能性があるのなら、尚さら我らの同胞を早く集めねばならぬな。敵はあの狐だけではないとなると、万全に備えておかねば」
砕花自身も自らの頭を整理しながら話している印象だった。
そうしていると、天がようやく顔を上げた。
「……なあ、結局のところ、封印ってなんなんだ?」
「うん?」
鳴雪が小首をかしげる。そんな鳴雪を、天が厳しく見据えた。
「どうして封印は施された? 俺たちの先祖がって言うけど、俺たちには何もわからない。お前が俺たちに与えた情報しか俺たちは知らない。封じられてたお前が、どうして封印をもと通りにしようとする? もう一度封じられることになるのにか?」
百匹頭狸たちは顔を見合わせた。そんな中、鳴雪は苦笑する。
「どうして、か。あの封印は、こちらの世界を護るためのものとでも言うべきだろうか」
「護る? お前たち妖怪を? 俺たちの世界は、ただの非力な人間の世界だ。どう考えても逆だろう?」
訝しげな天の言葉と莉々の疑問は同じであった。ふたつの世界が混ざり合った時、危機に瀕するのは莉々たちの世界の方ではないのだろうか。
そこで、砕花も嘆息した。
「封印が解けたことで、俺たちの世界の方が侵食されている。このまま行けば、なくなるのはこちらの世界だ」
小さな世界の方が消える。そういうことか。
ただ、天の目には戸惑いが強くあった。狸たちの言葉には本当に嘘がないのかと疑っているように見えた。
一度根づいた不信感を消し去るのは難しいのだろう。
「でも、狐は封印を戻したいとは思っていないみたいだった。狐にとって、ここは居心地のいい世界じゃないってことか?」
「さて? 狐の考えることは私たちにはわからぬよ。随分と永い間なりを潜めておったのでな。どこでどうしておったのやら」
莉々はふと、あることに気づいて鳴雪を見上げた。
すると、鳴雪は嬉しそうに笑った。
「どうしたのだ、莉々殿?」
「あ、うん……なんでもないよ」
「ないのか!? まあよいのだ。存分に見つめ合お――」
スパン、と天の手刀が鳴雪の後頭部に入る。これはもう、条件反射と言っていいのかもしれない。
天はそれでも真面目な顔をして言った。
「まあいい。とりあえずはお前たちを信じていいんだな?」
殴られた後頭部を摩りつつ、鳴雪はうなずく。
「もちろんだ。莉々殿と天殿を騙すようなことはせぬよ」
狐狸妖怪、騙す化かすはお手のものだ。
けれど、それでも真はあると、信じていいと言う。
莉々は、鳴雪たちを疑うつもりはなかった。この世界に来て知り合い、今ではとても身近に感じられる存在なのだから。
だからこそ――
だからこそ、ふと気づいてしまったのに訊ねることができなかった。
封印が再度張り直された時、こうして彼らの隣にいることはできないのではないだろうか、と。
もしくは、彼らのそばにいるためにはどちらの世界で生きるべきかを選ばなくてはならないのではないだろうか。
莉々を生涯の伴侶にと願う鳴雪は、封印を戻す時に莉々をどうするつもりなのだろうか。
そのことが、恐ろしくて訊けない。
ただ、騙すことはしないという言葉を信じる。
一番に考えなければいけないのは、今となっては紫緑の身の安全だ。自分の気持ちやその後のことはそれがはっきりしてからでいい。莉々はそう心のうちで結論づけた。
❖
「――さて、船の手筈は整った。離島へ渡るか?」
いつも砕花は冷静である。そうした存在がいてくれて助かる。鳴雪はうなずいた。
「うむ。誰かがいてくれるとよいのだが」
そこで砕花は莉々と天に向けて言う。
「あの離島、かなり珍しい植物が溢れている。奥へ迷い込むと樹海のような地だ。心して行け」
「じゅ、樹海!? そんなところに誰か行きそうなの?」
好んで行く理由がわからない。けれど、水巴が答える。
「青畝と普羅と月斗だな」
「候補多いな」
天も呆れた。四分の三である。
「青畝はなんとなくわかる。珍しい虫がいるかもって言うんだろ?」
その言葉に秀真は顔をしかめた。真面目な秀真には青畝の寄り道が腹立たしいのだろう。
「普羅は青畝を探して赴くかもしれない。月斗は人混みが嫌いなのでな、そうした場に引きこもりそうな気がする」
「……」
なかなかに個性的と言うべきか、変なのばっかりと言うべきか。
「では、誰がおるか賭けるか?」
鳴雪はウキウキとそんなことを言う。不謹慎だとは思わなかった。少しでも空気を明るくしようとしてくれている気がした。
だから、莉々はにこりと微笑んだ。
「青畝ちゃんがいるといいな」
仔狸の青畝はやっぱり可愛い。鳴雪はヤキモチを焼いたけれど、それは呑み込んでくれたようだ。
「普羅がいてくれると助かるけれどな」
「そうだね。あたしも普羅がいい」
林火も砕花に乗っかる。普羅は頼りになる存在なのかもしれない。
「私は樹海が月斗の好みである気がしてならない……」
「私もだ」
水巴と秀真は同意見だった。
「まあ、利玄ではないだろうな。私も月斗の気がするよ」
鳴雪がそう言って笑った。少数派になってしまった莉々はちろりと天を見る。天は苦笑した。
「誰もいないって可能性もあるだろ?」
「天、そんな不吉なことを言うな」
水巴にぼやかれた。船まで出して空振りだったら悲しすぎる。
皆、顔を見合わせて笑うと、船着場に向かって歩み出した。
それぞれの胸に抱える思いはあれど、前へは進まずにいられないのである。
【 陸・セーマンドーマン ―了― 】