陸 ~三~
朝になり、一行は巳岐の町へ入った。港町はこんな時でも活気に満ち溢れている。
単純に船が行き来するだけの場所ではなく、交易の場でもあるのだ。露天市場に商人たちも多かった。船乗りたちは荒くれで、喧嘩も絶えない。賑わいは常であるようだ。
莉々たちは一見しただけでは優男と女子供の集団だ。
ゴロツキに絡まれたりはしないだろうかと心配していたのだが、それどころか――
「ああ、あなた様方は!」
見るからに羽振りの良さそうな商人風の男が鳴雪たちに声をかける。髪は白く、皺も深いが、眼だけは輝いていた。
「うむ、何か?」
鳴雪が鷹揚に答えると、奉公人を従えた商人は営業スマイルを貼りつけて近づいてきた。
「そのお耳は狸様ですな? それも、かなりの通力をお持ちのご様子――」
砕花、林火、秀真の耳を言うのだ。鳴雪や水巴の耳は完全な人型である。莉々たち三人も狸と思われたのだろう。
鳴雪はにこりと笑って返した。
「私は隠神刑部。八百八狸の総帥だ。おぬし、なかなかに目が高いな」
すると、商人はさらに目を輝かせて喜んだ。
「どうりで! ああ、これも何かのご縁でございます。どうかひと晩でも我が屋においでくださいませ。存分にお持て成しをさせて頂きます」
化け狸の長を気味悪がるどころか、喜んで接待すると言う。
莉々と天は顔を見合わせたが、他の狸は慣れたものだった。砕花がそっと説明してくれる。
「我々は並のヒトにはない通力を持つ。こうして崇められることも珍しくはないのだ。特に狸は金を運んでくると信じている商人は多いからな」
莉々の頭に狸の置物が思い起こされた。言われてみると、よく店先にある。
納得して、莉々たちもついていくのだった。
その男は薬種問屋を営んでいるらしく、店は結構な大店だった。奉公人たちにかしずかれ、主に案内されるがまま客間へ通される。上等な茶と練りきりの和菓子を出されたかと思うと、その晩には豪勢な山海尽くしの馳走、三味線に鼓、唄に踊り、目まぐるしいような歓待だった。
「ささ、もうご一献」
主自ら鳴雪に酌をする。鳴雪は顔色ひとつ変えずに酒を飲んだ。
天は未成年だからと断っていたけれど、この世界の成人は一体いくつなのだろうか。砕花も涼しい顔をして飲んでいた。秀真も飲んでいたのだが、こちらは真っ赤になっている。
莉々はそのどんちゃん騒ぎに少し疲れた。料理は美味しかったのだが、どうにも慣れない。
外の風に当たりたいと思い、席を立った。
立派な池のある庭園で夜空を見上げると、星が綺麗に瞬いていた。星――そこから、あの海女見習いの女の子の縫いつけていたセーマンを思い出し、そして、そのセーマンを莉々の手の平に描いて口づけた鳴雪のことを思い出した。
急に恥ずかしくなってかぶりを振ると、背後から声がかかった。
「莉々、どうした?」
紫緑だった。
「シロちゃん? ちょっと賑やか過ぎる場所に疲れて、外の空気が吸いたくなっただけだよ」
それも嘘ではない。あはは、と笑った莉々の隣に紫緑は立った。隣に来ると、久し振りに会ったせいか紫緑の背が以前よりも伸びているような気がした。
「……なあ、莉々」
ポツリと紫緑が莉々を呼ぶ。接待の賑わいが遠い。
「何?」
微笑んで返すと、紫緑は幼いながらに真剣な面持ちを莉々に向けた。
「天に聞いたんだけど、俺、莉々のこと好きだったんだって。知ってた?」
「ええ!!」
思わず大声を上げてしまった莉々に、紫緑は笑っている。記憶がないせいか、そんな表情は大人びて見えた。
「知らなかったんだ? なんにも伝えてないなんて、俺って意気地がなかったんだな」
「そ、え、え、と……」
動揺して上手く返せない莉々に、紫緑は平然と言う。
「残念ながら、その時の気持ちも何も覚えてないんだけど――」
記憶を失っているのだからそれは仕方がない。むしろ、紫緑がそんな気持ちを抱いていたなんて、青天の霹靂だ。
姉弟のような間柄だと思っていたのは莉々だけだった。
覚えてないはずなんだけど――と紫緑は繰り返した。
「でも、莉々が鳴雪さんと一緒にいると嫌な気分になる」
思わず目を瞬かせた莉々の顔を紫緑は覗き込む。顔が近かった。
「覚えてないのに、穏やかでいられないんだ」
「シロちゃ――っ」
抱きすくめられ、呆然とする莉々の耳元で紫緑は言った。
「天が言ってたよ。他のやつよりも気心の知れた俺になら莉々を任せてもいいと思ってたって」
「お、覚えてないのにそんなこと言われても!」
紫緑は小柄で華奢ではあるけれど、莉々の力では振り解けなかった。この時に初めて、紫緑も男性なのだと意識した。
「じゃあ、思い出すまで待っててよ。それまでに鳴雪さんの気持ちに答えたりしないで待っててくれる?」
「え……」
莉々が困惑していると、その時、縁側で鳴雪がカタリと音を立てた。莉々は心臓をギュッとつかまれたような痛みを感じた。
けれど、紫緑は平然と、むしろ不敵に笑っている。
「覗き見なんていい趣味だね」
そのひと言に、鳴雪は今にも紫緑をくびり殺しそうな目つきになる。あまりの剣呑さに、ようやく解放された莉々は紫緑を庇うしかなかった。
とっさに二人の間に立つと、そんな莉々を鳴雪は悲しげに見遣る。
「莉々殿はやはり同じヒトの方がよいのか?」
「え……」
あまりに傷ついた顔をするので、莉々は言葉が出なかった。鳴雪はそんな莉々に背を向け、宴席の場に戻った。
「……なんだ、あんな程度の反応しかしないんだ?」
紫緑は呆れたように言ったけれど、莉々にはあんな程度とは思えなかった。それ以上何も言えないほどに思い詰めている気がした。
❖
夜は更け、闇が濃くなる頃――
皆が寝静まった中、鳴雪は独り庭園に立っていた。
自らの手をじっと見つめ、物思いにふけっている。そんな背中に、莉々は声をかけた。
「鳴雪さん」
鳴雪はおもむろに振り返る。浴衣に羽織姿の莉々が胸の前に手を押し当てて佇んでいる。
莉々はおずおずと鳴雪の前に歩み寄ると、潤んだ瞳を鳴雪に向けた。
「鳴雪さん、あの、シロちゃんのことは――」
「何も言わずともよい」
鳴雪が言うと、莉々は涙を零した。鳴雪はその涙を冷静に眺める。
「怒っているの?」
涙声を絞り出す莉々に、鳴雪はかぶりを振る。
「そうではない」
「じゃあ、まだわたしのことを好きでいてくれる?」
鳴雪の胸に飛び込んだ莉々の羽織がはらりと地面に落ちる。髪の甘い香りが鼻腔をくすぐった。
あたたかく柔らかな体を摺り寄せ、莉々は鳴雪の唇に自らの唇を近づけた。吐息がかかるその距離で、鳴雪ははっきりと言った。
「水巴でもないな。お前は――何者だ?」
その途端に、莉々は鳴雪の胸板を突き飛ばす。二人の間に距離が開いた。莉々は悲しげな目をしてからうつむき、髪を耳にかけた。
「何者って、どういうこと? やっぱり、怒ってるからそんな意地悪を言うの?」
すると、鳴雪はそんな莉々にクッと小さく笑った。冷え冷えとした口調で告げる。
「それで上手く化けたつもりか? 少しも似ておらぬ。莉々殿への冒涜だな。お前は――トモカヅキか?」
そのひと言に、莉々は嗤った。演技を続けずに馬脚を現してしまったのは、鳴雪の指摘のせいだろう。
思わず嗤ってしまったと印象だった。『莉々』は声高に、嘲り嗤う。
「私がトモカズキならば、お前の描いたセーマンごときでも避けることができたかもしれぬがな」
トモカズキ。
鏡写しのような姿をした海の怪異。
海女たちはセーマンドーマンでこの魔を払う。
けれど、この莉々はトモカズキではないと言う。
「結局のところ、お前は何をしたいのだ?」
鳴雪が素直にそう訊ねると、莉々の姿をした者はクスクスと声を立てた。
「力の半減した隠神刑部が人間の娘に骨抜きにされているのだから、そこにつけ入らぬ理由もないだろうに」
青筋を立てた鳴雪から、莉々の姿をした者は距離を取った。
「まあよい。これは挨拶だ」
「なんと悪趣味な挨拶か」
狸火が、鳴雪の感情に呼応して辺りに灯る。しかし、莉々の姿をした者はそんなものに臆することもなく、狸火の間をすり抜けた。
軽やかな身のこなしで屋敷の塀に上る。着物の裾が乱れて闇に白い肌がさらされても、莉々の姿をしただけの者に羞恥心はないようだ。
「挨拶だと言うておるのに、そういきり立つな。近いうちに我らが眷属と見えることは避けられぬ――」
そんな不穏な言葉を残して、莉々の姿をした者は塀の外に消えた。
しばらくの間、鳴雪は牙を剥き、その方角を見据えていた。
❖
朝になり、莉々たち女性陣が身支度を整えて合流する。
昨晩のことがあり、莉々はあまりよく眠れなかったけれど、紫緑はどこ吹く風だった。
そうして、鳴雪は――
莉々が鳴雪を見遣ると、彼はふにゃりと気の抜けるような笑みを莉々に見せた。莉々の方が気にしすぎただけで、鳴雪はそこまで深刻に受け止めていなかったのだろうか。
そう思って莉々は少しだけほっとした。
「大したお持て成しもできませんで……」
そう言った店主に、鳴雪は扇子で優雅に扇ぎながら偉そうに言った。
「そんなことはない。十分だ。おぬしに幸あらんことを私も祈らせてもらおう」
「ありがとうございます。ではお達者で」
そんなやり取りの後、一行は船に乗るために港へ行く。
薬種問屋の主は、交易にも精通しており、船の船頭たちにもよく顔が利くらしい。ついでに紹介状をしたためてもらった。ここで出会えたのはお互いにとって有益なことだった。
活気づいた港の中、厳つい船頭に交渉するのは砕花だった。
鳴雪はというと――莉々から離れようとしなかった。暑苦しいほどにべったりとそばにいる。
他の狸たちはそれを平然と見守っていたけれど、紫緑は面白くなさそうに目を細め、それから天に何かをささやいた。
天は苦笑して紫緑と共にその場を離れる。とはいっても、目で確認できる範囲にはいるのだけれど。
二人の背をながめながら、莉々は不安になった。
紫緑はどうしても鳴雪が気に入らないらしい。鳴雪も同じだ。
間にいると、互いがけん制するような空気を感じる。
天が離れると、鳴雪はそのまま莉々を抱き締めた。狸たちはそんな光景をやはりじっと見ている。
「ちょっ……」
莉々が慌ててもがくと、鳴雪は嬉しそうに髪に頬ずりした。
「やはり本物の莉々殿だ。間違いないとは思うたが、安心した」
「なんですか、鳴雪様ったら。まだ寝ぼけてるんですか?」
林火がコロコロと笑ながらそんなことを言った。
「それにしても、あの紫緑とかいう子供は我らに敵意剥き出しですね。このまま連れてゆくのですか?」
秀真が遠目に、木陰にいる二人に目を向けた。水巴は呆れていた。
「秀真、お前がそれを言うのか。紫緑は莉々と天の知己だ。記憶もない状態で放り出せるわけもないだろうに」
そんなやり取りを訊いていた鳴雪は、莉々を抱き締めたままであっさりと言った。
「いや、置いてゆく」
「え?」
莉々が耳を疑って声を上げると、鳴雪は笑って繰り返した。
「置いてゆくよ、あの者は」
「鳴雪様、あんまりにも嫉妬すると莉々ちゃんに嫌われますよぅ」
林火の忠告に、鳴雪は慌てた。
そう受け取られたのが心外だとでも言いたげだ。
「ち、違う。嫉妬で言っておるわけではなくてだな――」
そんな時、話し込んでいた天と紫緑の様子が変わった。