陸 ~二~
一行が泊まった漁村には小さな雑貨屋があった。
寂れた店先に吊るされていたものに、一行の目は釘づけになる。干されたイカに似た、白い三角形をしたもの。紐がヒラヒラと風に揺れている。
旅立つ前になんとなくその店先を通り過ぎただけであったのだが、秀真は首をかしげてそれを指差した。
「店主、これはなんだ?」
すると、売り子の老婆は真顔で言った。
「何って、水着だよ。あんた、そんなことも知らんのかね?」
それは白いビキニである。莉々と天は無言で顔を見合わせた。
この混在世界には、現代日本のものがたまに流れ込んでいる。本来ならばあるはずのないそれを、世界が混ざったと気づかない者は違和感なく受け入れているのだ。
ただ、よりによって何故それがあるのだと言いたくなる。
老婆はよいしょ、というかけ声と共にそのビキニを皺の深い手で取った。そして、自分の胸と腰元に当てる。
「女はこれを着て泳ぐんだ」
再現してくれたのが親切心からであったとしても、皆言葉が出なかった。
数歩後ずさりし、ひそひそと輪になって話す。
「莉々様、あれは着物の上からつけるのですか?」
先の騒動の後、すっかり莉々に懐いた秀真は真面目な顔でそんなことを訊ねてくる。莉々は返答に困りつつも答えた。
「ううん、あれだけで着るんだよ」
ええっ、と大声を上げた秀真は、自分で口を押えた。
「あ、あんなものつけるくらいなら裸で泳いだ方がマシだ」
いつもは淡々としている水巴が顔を赤らめている様子は可愛らしかった。
「そうだね、狸型なら裸で泳ぐよ」
林火も目が据わっていた。
その時、じぃっと莉々を見る鳴雪の視線が気になったのか、天が莉々を背に庇う。
「嫌な想像をするな」
「え? わ、私は別に?」
鳴雪はそう言うけれど、声が上ずっていたので説得力がない。莉々は顔を真っ赤にして鳴雪から距離を取った。
「お兄ちゃん、シロちゃん、早く行こ」
「え? うん」
紫緑は莉々に手を引かれ、後ろを振り返りながら歩く。
「い、いや、莉々殿、誤解だ! 私は莉々殿が『みずぎ』を着用したところを想像してなど……」
鳴雪は一生懸命にフォローをしたけれど、誰の援護射撃もなかった。彼の潔白を証明できる気がしないのだろうか。――しないのだろう。
よく見ると、秀真も顔を押さえたまま固まっていた。
しかし、水着は泳ぐ時に着るものだという認識があるというのに、それを着て泳いでいる女性が一人もいない。それが混在世界のおかしなところである。
莉々たちが狸たちよりも先へ進んでいると、漁から戻ったのか、漁夫たちの荒々しい声がした。邪魔にならないようにそちらを避けて通ると、鳴雪と水巴が追いついてきた。
莉々はそれでも鳴雪から視線をそらす。嫌悪感というのではなく、ただ恥ずかしいだけなのだが。
すると、その先には白い着物を着た女性たちの集団がいた。年齢は若い者から老人まで六人ほどだ。彼女たちは岩場の方から次々と海に潜る。海を恐れない慣れた姿に、莉々は思わず感嘆の声を漏らした。
「うわぁ、もしかして、海女さんかな?」
「多分そうだろうな」
天も彼女たちが潜った海を眩しそうに眺めている。
そうして、その浜を少しだけ行くと、尼たちと同じ白い着物を着た少女が座り込んでいた。まだあどけなさの残る少女で、肩で切りそろえた髪を左右で分けている。莉々よりも年下で、中学生くらいだろうか。
少女は座り込んでせっせと手を動かしていた。通りかかった莉々はその手元を覗き込んだ。少女は針と貝紫色の糸を使って、海女の白い着物に何かを縫いつけている。
それは、星だった。五芒星の、一般的な星である。刺繍と言うには簡単なそれに何の意味があるのか、莉々は訊ねてみたくなった。
「ねえ、その星は何?」
少女は集中を途切れさせ、肩を跳ね上げた。けれど、莉々が笑顔を向けると怪しさを感じなかったのか、ひとつ息をついてから答えてくれた。
「これはセーマンだよ。魔除けなの。もうひとつのドーマンとふたつを襦袢に縫いつけて、海女たちは身を護るんだ」
と、少女は指で砂浜の上に縦四本、横五本の格子を描いた。それがドーマンらしい。
「ドーマンは格子の多くの目で魔を見張る」
それから、少女はドーマンの横にセーマンを描きながら言う。
「セーマンは、一筆で最初と最後が繋がるから、魔の張り込む隙間がない。終わりが始まりに戻るから、無事に戻ってこられるって意味もあるんだよ」
そうした祈りを込め、ふたつの紋を縫い込むらしい。
「海は怖いんだ。魔がたくさんいるから。でも、セーマンドーマンがあればトモカヅキに船幽霊、海の亡者霊からも身を護れる」
『トモカヅキ』など、馴染みのない言葉が飛び出すけれど、それらは海の怪異の名前だろう。莉々は納得した。
「そっか。そうやって皆の海の安全を祈願してるんだね。偉いね」
莉々がそう言うと、少女は照れてかぶりを振る。
「あたしはまだ見習いだから、こんなことしかできないだけ。なんにも偉くないよ」
「こんなことしか、じゃないよ。すごく大事なことだよ。頑張ってね」
にこやかに莉々は少女に手を振って別れた。
莉々たち三人と鳴雪、水巴は砂浜をサクサクと歩く。砕花たちはそれよりも遅れていた。
莉々は極力鳴雪からは距離を取っていた。そんな中、鳴雪が考え込みながらつぶやく。
「無事に戻れるように、か……」
すると、突然に莉々のそばに駆け寄り、手を引いた。
「ひゃ!」
驚いた莉々の手の平に、鳴雪は人差し指で星を描いた。そうして、その中央に口づける。皆が唖然としていてもお構いなしに笑っていた。
「莉々殿は疑うことを知らず、危なっかしいところがあるのでな。それが魅力ではあるのだが、不安にならないかといえば限りなく不安なのだ。そこで、これは莉々殿が必ず私のもとへ戻ってきてくれるまじないだ」
つかまれた手から耳の先まで赤くなった莉々のそばで、天が低い声を出した。
「うちの妹を呪うな」
水巴がそばにいなければ、錫杖で打ち据えていたかもしれない形相である。それでも鳴雪は顔だけ真面目に保って言い返す。
「呪ってなどない。願っただけだ」
当事者の莉々は恥ずかしさが勝って喚いた。
「こ、こういうことを人前でするのってどうかと思うよ!」
すると、その隣にいた紫緑がつぶやく。少し難しい表情だった。
「人前でって、二人きりならよかったのか?」
「そ、そんなこと――」
言ってない。そう言う前に鳴雪は顔を輝かせた。
「それはすまなかった! そこまで待てなかったものでな」
「い、言ってな――」
もう、聞いていない。めでたい狸だ。
嬉しそうに笑っている。莉々はもう、諦めた。
嘆息した莉々をじっと見つめ、紫緑は不意に莉々の手を取った。そうして、無言で歩き出す。
「シロちゃん?」
まるで鳴雪から引き離そうとするように足を速める。莉々が振り返ると、鳴雪は悔しそうに騒いでいたけれど、それを天が押さえ込んでいた。
思えば、紫緑は昔から天と一緒になって莉々の世話を焼いてくれた。小さな頃から身についたそれは、記憶を失っていても変わらないのだろうか。
思い出しかけてくれているのだといい。莉々は微笑んで紫緑に従った。
背を向けたままの紫緑は、ポツリと言った。
「莉々」
「何?」
「莉々は鳴雪さんが好きなのか?」
「ええ!!」
直球で訊ねられた莉々は、大声で叫んだだけだった。
「そ、そんなの、わからないよ」
わからないと答えた。その答えに誰よりも違和感を覚えたのは莉々自身だった。
違う、と断言しなかったのは何故だろうか――
紫緑は莉々を振り返ると、少しだけ呆れた顔をした。
「ふぅん」
その表情の意味がわからず、言葉に詰まる。
そうしていると、鳴雪たちが追いついたので、会話はそこまでになった。
❖
丹の国の端、港のある巳岐の町を目前にして、日が暮れた。一行は町に入るのは明日にして、適当な場所に屋敷を出す。文字通り、何もない場所に通力で出現させた。
いつもは砕花が単独で出していたのだが、今は八人もの大所帯だ。小屋程度では手狭である。かといって大きな屋敷を一匹で出すのは負担が大きい。最近では秀真も手伝うのだった。
地主の屋敷とまでは行かないけど、そこそこに立派な屋敷になった。障子も襖も真新しく、縁側の板敷も艶やかだ。こうした細やかさは二匹の性格の表れだろう。
紫緑は目の当たりにした怪異にあまり驚いているふうではなかった。
皆が狸だと知ったのだ。何が起こっても不思議はないと腹をくくったのかもしれない。
食事も通力で具現化したものだ。今日は白いご飯とアサリの味噌汁、鶏つくねと菜の花の甘酢あんかけ、こんにゃくの田楽。味つけは出現させた相手の好みになる。今日は林火が出したので優しい味だった。
腹も膨れ、風呂にも入り、こざっぱりとした浴衣姿で布団の上に転がっていた莉々に、水巴も同じように転がって視線を合わせてきた。
「なあ、莉々」
「うん?」
「あの紫緑とかいう子供に忘れられてしまって、悲しくはないか?」
同い年なのに子供と言われてしまったのは、背が低いからか、童顔だからか。莉々は苦笑した。
「悲しくないわけじゃないんだけど……」
紫緑が落ち着いているせいか、莉々も不安には思わなかった。すぐにまた思い出してくれるのではないかと楽観的なくらいだ。
すると、水巴はじっと莉々を見つめた。そこに林火も加わる。
「あたしも気になってたんだよ」
「何を?」
莉々だけがわからない。素直に訊ねると、林火は笑顔で言った。
「鳴雪様に忘れられた時はあんなに悲しそうだったのに、あの『シロちゃん』が記憶喪失でも案外平然としてるよねぇ」
「え……」
指摘され、莉々は初めて考えた。
そんな中、水巴も続けて言う。
「幼なじみだというのなら、鳴雪様よりもつき合いは長いだろうに。天のこともそろって覚えていないから、自分だけ忘れられるよりはマシなのか?」
「あ、うん、そうかも……」
耳に髪をかけながら、莉々はとりあえずそれだけを言った。
けれど、心臓がバクバクと鳴っていた。その答えに自分が納得していないと騒いでいる気がした。
鳴雪に忘れられてしまったあの時は、本当に心が痛くて、つらかった。今みたいに恥ずかしいことを平然とする鳴雪に、本当はどこかほっとしている。
そんな莉々の心を見透かすように、透明感のある眼を向けて水巴は言った。
「莉々の気持ちが多少なりともご自分に傾いていると知れば、鳴雪様はとても喜ばれるはずだ。大切にしてくださるのはわかるだろう?」
「お、お兄ちゃんがなんて言うかな?」
ごまかすようにして言うと、水巴は厳しい顔をした。
「天は関係ない。重要なのは莉々の心だ」
最終的に決めるのは莉々である。周りに左右されるなと言うのだ。
惹かれている自分を感じていないわけではない。けれど、飛び込むには勇気の要る存在だ。
引くことも進むこともしない今の莉々の現状は、水巴たちにしてみればもどかしいのかもしれない。
今くらいの関係が心地よくて、それが甘えだと思わなくはない。
莉々は小さくうなずいた。
「うん……気持ちの整理がついたら……」
そのひと言に、水巴は微笑んだ。どこか寂しそうな笑顔に見えたのは気のせいだろうか。
トクリ、と胸が熱くなった。